黄泉比良坂

合評会2024年03月応募作品

諏訪靖彦

小説

4,154文字

2024年3月合評会参加作品。お題は「二回目の臨死体験」

気が付くと洞窟の中にいた。洞窟内は緩やかな下り坂になっており、前方に微かな光が見える。私は岩壁に手を付きながら光源に向かって坂を下って行った。

 

妻、靖子は三か月前に自ら命を絶った。二年付き合い結婚し、家庭に入った靖子に妊娠を告げられたのが半年前、産まれてくる子供の名前を考え仕事に身に入らない二か月を過ごしたのち靖子は自殺した。会社から帰ると、いつも玄関で出迎えてくれるはずの靖子がいなかった。帰宅時間に合わせて用意してくれている料理の匂いもしない。出かける予定など聞いてなかった私は不審に思い靖子のスマホに電話を掛ける。遠くで微かにバイブレーションの震える音が聞こえた。その音を頼りに浴室に向かうと、着衣のまま浴室の床にだらしなく座り、右腕を浴槽の中に漬けた靖子を見つけた。浴槽に張られた水はそのすべてが血液であるかのように赤く染まり、スマホは床の上で細かく震えていた。

靖子は私の全てだった。靖子と靖子の中に宿った命が私の全てだった。上司の理不尽な叱責も、顧客の無理な注文も、靖子と産れてくる子供のことを考えれば耐えることが出来た。しかし、靖子がいなくなってから、その支えが無くなった。なぜ靖子は産まれてくる子供と共に逝ってしまったのか? 靖子は何に悩んでいたのか? 悩んでいたのなら、なぜ私に相談せずに死を選んでしまったのか?

私の心が壊れていくのは早かった。事情を知った上司は私を気遣い大きな仕事を振らないようにしてくれたが、誰にでも出来ると考え任した仕事で私はミスを連発した。不眠に悩まされ、働く意欲を失った人間はどんな仕事であってもまともにこなすことはできない。小さなミスを積み重ね、次第に社内で煙たがれる存在になっていき、私は会社に行くことが出来なくなった。

これが心の病だということは自分でも気づいた。私は会社に休職届けを出し家の近くにあるメンタルクリニックを受診することにした。初診受付を済ませ混雑した待合室で自分の順番が呼ばれるのを待つ。世の中にはこれほど心を病んだ人間がいるのかと思いながら待合室にいる人たちの顔を眺めるが、そのほとんどに悲壮感や絶望感は感じられない。スマホでゲームをしている人、酒を呑んでいるのか顔を赤くしている人、何人かで談笑しているグループすらいる。それらの人間を観察していると自分の名前が呼ばれた。医師は私に起こった出来事に興味はない様子で、夜眠れない、仕事に行く意欲がないといった言葉だけを切り取り電子カルテに書き込んだあと、ジェネリック医薬品不可の項目にチェックを入れた処方箋をプリンタで出力して私の前に置いた。私はメンタルクリニックに併設された薬局で抗うつ薬と抗不安薬、睡眠薬を受け取り家に帰ると、靖子に会いたい一心で処方された薬全てを口に含みウィスキーで飲み下した。

 

坂を下って行くうちに、前方で朧げな光を放つものを視認することが出来るようになった。それは私が住んでいる部屋のドアだった。私と靖子が三か月前まで住んでいた部屋のドアだ。子供が出来たなら広い部屋がいいからと三十五年ローンで買った3LDKのマンションの部屋のドアだ。そのドアの隙間から光が漏れている。私は速足で坂を下っていきドアの前で足を止める。そしてゆっくりとノブを回しドアを開いた。

ドアを開けた瞬間カレーライスの良い匂いが漂ってきた。靖子がいた頃、会社から帰って玄関を開けると決まって香ってくる様々な料理の匂いを思い出しながら、音を立てないように玄関で靴を脱いで部屋に上がる。そして足音を殺してキッチンへ向かって歩いて行った。突然会いに来た私を見て靖子は何て言うだろうか。喜びのあまり涙を流すかもしれない。そんな靖子を抱きしめてやろう。今まで一人にさせたしまったことを詫びて思いっきり抱きしめてやろう。それから靖子を悩ませていた問題を聞いてあげて、「これからは一緒に靖子の悲しみを共有するから」と言ってあげよう。そう考えながらキッチンに向かうと、鍋からカレーを器によそう靖子の後ろ姿が見えた。私は深呼吸をして靖子の名前を呼んだ。

靖子は私に背を向けたまま「そっちに持って行くからテーブルに座って待っててね」と言ってカレーライスをトレーの上に置き、サラダボウルにドレッシングを掛ける。それを見て私はもう一度靖子の名前を呼んでから「今まで寂しい思いをさせてごめんね」と続けた。靖子は「なに、どうしたの?」と言いながら振り返った。笑顔で振り返った靖子の顔が私を見て驚きの表情に変わる。

「え、あなた、なにしにきたの……」

「なにって、靖子に会いに来たんだよ」

驚きから喜びに変わると思っていた靖子の表情が見る見るうちに曇っていった。

「こんなところにまで私を追ってきたの?」

「追ってきたというか、会いに来たんだよ。一人寂しい思いをしている靖子に会いに来たんだ。ごめんね、靖子の悩みに気付いてあげられなくて」

靖子は私に向けた視線を外し、私が立っている後ろに目を向ける。つられて私も振り返った。そこに知らない男がいた。リビングの中心に置いたソファーの上に、靖子と一緒にIKEAで選んだコーナーソファーの中心に、知らない男が座っていた。男は私を見て小さなため息を付く。

「あの男は?」

再び靖子と向かい合うと、靖子は震えながら両手に包丁を握っていた。私は尋常ならざる状況を察し、靖子から包丁を奪い取ると切っ先を男に向けて叫んだ。

「お前が何者か知らないが、今すぐこの部屋から出て行け!」

男はソファーから立ち上がり「お前は大きな勘違いをしている」と言いながらこちらに向かって歩いてきた。これはこの世界で靖子と暮らすための試練だ。私は靖子に「後ろに下がっていろ」と言って包丁を突き出し男に向かって突進した。男の腹に包丁をめり込ませ、半回転ひねる。そして包丁を突き上げると、男はうめき声を発し、大量の血を流して倒れた。私は男の腹から包丁を引き抜きキッチンに向かって「もう大丈夫だからね」と声を掛けるが靖子の姿が見えない。私は包丁を握ったままキッチンに戻る。するとキッチンの端で床に腰を下ろしている靖子がいた。私は屈み込んで笑顔でもう一度「もう大丈夫だからね」と言った。

私を見つめる靖子の表情は恐怖に染まっている。

「大丈夫じゃないよ……」

「まだ靖子を危険にさらす人間がいるってことか?」

周囲を見渡すが、刺した男以外に人のいる気配はない。再び靖子に目を合わせると、靖子の口から信じられない言葉が返ってきた。

「それはあなたよ。あなたから逃れるために私はここに来たの」

私は驚き聞き返す。

「ごめん、靖子が何を言っているのか分からないよ。生前、靖子の悩みを聞いてあげられなかった責任は感じている。でもこれからはその悩みを共有してあげられるし、俗世の理の外にあるこの場所で、いつまでも一緒に幸せに暮らしていけるんだよ」

靖子はうつむきながら視線を上げた。

「それが私を苦しめていたの。あなたにとっての幸せが私を苦しめていたのよ。あなたは結婚して私が家庭に入ることを望んだ。私は結婚しても仕事を続けたかったの」

「だったらそう言えばよかったじゃないか」

「あなたに言ったところで変わらないと思った。あなたは私が家庭に入ることが当然だと思っていたし、あなたの両親はあなた以上に古い価値観を私に押し付ける人たちだった。とても「結婚しても仕事を続けたい」なんて言える状況じゃなかったのよ。そんな中、毎日毎日あなたの帰りを待つだけの生活を想像できる?」

私が口ごもっていると、靖子は言葉を続ける。

「そんな私にあなたは一時間おきにメッセージを送ってきた」

「それは靖子が寂しい思いをしてるんじゃないかと思って……」

靖子は私の返事に言葉をかぶせてくる。

「毎日毎日、「何してるの?」とか「今日の夕飯は何かな?」なんて繰り返し送ってきたよね。もう気が狂いそうだったわ。だから私はあなたのメッセージに適当な返事をして自分の時間を過ごすことにしたの。あなたに知られないように外に出て遊ぶことにしたのよ」

「靖子の気持ちに気付いてあげられなくてごめんね。でもさ、靖子が息苦しいと感じていた結婚生活の気晴らしが出来たならよかったじゃないか」

「そうね、結婚生活の息苦しさからは解放された。あなたが仕事に行っている間、働いていた頃の友達を誘って遊びに行ったり、あなたの帰りが遅いときや出張に行っているときは飲みにも行ったわ」

靖子はいったん言葉を区切って、私から目をそらして言った。

「そこであの人と出会ったの」

「あの人って?」

「さっきあなたが刺した人よ」

靖子の口から思いもよらない言葉が出てきた。あの男はこの世界で靖子との生活を取り戻す試練として課された存在ではなかったのか? 私は男の返り血を浴びた顔を拭いながら靖子に聞き返す。

「あの男が靖子の死に何の関係があるんだ?」

靖子は再び私に視線を合わせる。その瞳からは憐みが読み取れた。

「飲み会で知り合ったあの人は、私が置かれている状況を理解してくれた。束縛する夫に悩む私の話を親身になって聞いてくれたの」

「もしかして……」

「ええ、そんな彼と深い関係になるのに時間はかからなかったわ。私はあなたの目を盗んで彼と頻繁に会っていた。そして」

後に続く言葉が何であるか想像がついた。靖子が死を選んだ理由も理解できた。すべてが繋がったのだ。しかし、その言葉を靖子の口から聞きたくはなかった。

「もういい、何も言わなくていい。何も言わないでくれ靖子!」

靖子は私を見据えボソリと言った。

「私は彼の子を身ごもったの」

私は右手持った包丁を首にあてがい思いきり引いた。頸動脈から血が噴き出し仰向けにキッチンの床に倒れる。大量に出血したことにより狭窄を始めた視野の隅で靖子と知らない男が私をのぞき込んでいた。

 

テーブルには中身を取り出し空となったピルシートとウィスキーのボトルが置かれている。スマホで日時を確認すると、あれから半日ほど経過していた。私は空腹を感じてコンビニに行くために玄関に向かった。

サンダルをつっかけ玄関のドアを引く。ドアの外には洞窟が広がっていた。下り坂の先には朧げな光が見える。

 

 

――了

 

2024年3月17日公開

© 2024 諏訪靖彦

これはの応募作品です。
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"黄泉比良坂"へのコメント 8

  • 投稿者 | 2024-03-19 16:39

    自分は必死で愛してきたのに、それ愛として受け取ってもらえない。これってとっても悲しいことですよね。誤解なく分かり合える世界が来ればいいのになって思います。ニュータイプ思想が強めなんです……すみません。コメント欄で趣味を丸出しに……。

    生きているうちに互いの気持ちと気持ちが融和する瞬間を体験するのって、絶対に必要です。まだないけど……。

  • 投稿者 | 2024-03-23 20:43

    「二度の臨死体験」をどう実現するんだろうと思いましたら、このラスト。面白い仕掛けですね。
    イザナギとイザナミの神話をモチーフにしているのでしょうけど、私はアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を思い起こしました。心の奥底で本当は分かっていたけれど、認めたくなかったことが、臨死体験でようやく表に引っ張り出されたのかなと思いました。
    二度目の黄泉比良坂は何が待ち受けているのか、続きを読みたい気持ちにさせられました。

  • 投稿者 | 2024-03-24 06:14

    靖子さんと男はあの世で一緒になろうとそれぞれ命を絶ったのでしょうか。主人公はそちら側に行き切ることも、もはや現実を生きることもできず、洞窟を下り続けているように思えました。二回目、ですけど本当は何回目なのか、繰り返し繰り返し……みたいな。
    知らない男が家にいることをまず「この世界で靖子と暮らすための試練」と勝手に解釈する主人公が怖かったです。妻の幸せも勝手に解釈して追い詰めたのがよくわかります。

  • 編集者 | 2024-03-24 13:51

    わかりやすく昭和的価値観を語る語り手が、妻の告白のような憂き目にあうのは納得でした。最後の死に際の描写が迫真で良かったです。無限に続く感じは、ノーランの『インセプション』を思い出しました。

  • 投稿者 | 2024-03-25 12:50

    自分の話を書く前に、もしも友成空さんの鬼の宴を聞いていたとしたら、知っていたとしたら、私もこういう話書きたいってなっただろうなって思いました。こういうのが書きたかったんだよなー私も。鬼の宴のどっかで、シアタースクリーンに映し出してみんなで楽しむ系の話。

  • 投稿者 | 2024-03-25 13:42

    わあ! 嫌な話ですね! 褒めてます。
    靖彦さんの話はいつもちゃんとオチが付いていてまとまってますね。すごいです。
    ただの夢であって欲しい……。でもきっと違う。
    無限ループって怖いですね。嫌すぎる無限ループです。二人はなんで結婚しちゃったんだろ……。

  • ゲスト | 2024-03-25 18:31

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  • 編集者 | 2024-03-25 19:11

    感動したり尊厳に向き合う作品も多い中で、死の暗い側面に向き合う作品。色々なしに向き合えるお題で、諏訪さんはじめそれぞれの特色が引き出されている。神話なら伊弉諾は生還するのだが、はたして。

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