「かあさんでかけるから知らないひとが訪ねてきてもカギ開けちゃだめよ。」
ドアの向こうから母親の声が聞こえたような気がしたがまたすぐにぬるま湯のような眠りのなかに沈んでいった。
最近よく見る夢がめいじにはある。頑丈な柵に守られた羊の群れを狙っているコヨーテの夢だ。まだ若いコヨーテは何か策がある様子でもなくただ柵の周りをぐるぐると廻っている。コヨーテはいつもひとりぼっちで仲間の姿は見当たらない。
コヨーテはいつも腹ぺこだった。
いつものように遅い朝食を摂りながらスマホをいじっているとSNS のタイムラインではあい変わらず「新型ウイルス」や「新型ワクチン」の話題で賑わっていた。めいじはSNS に自分のつぶやきを書き込んだりはしない。フォローしてるひとの書き込みをだらだらと眺め、たまに気が向くといいね!するくらいだ。
まだ学校に通っていたころもそんなふうだった。めいじは自分の意見などまったく価値がないかのように友人たちの会話をほとんどなんのリアクションを挟むこともなく聞いているだけだった。いまと違うのは学校から帰ってくると陸に打ち上げられた魚が水を強く求めるように激しく音楽を求めたことだった。暴力的で破壊的な類いの音楽を。
彼は幼いころから少し変わったところのある子どもでなにかに興味を惹かれたり心が動かされたとき、まるで動物や虫が生殖本能で見せる求愛ダンスのような、または呪術師がおこなう印を結ぶような動作をある規則性を保ちながらその行為がもっている完結に辿り着くまで続けられた。
学校に行かなくなってからのめいじは散歩ばかりしていた。春には水が張られた田んぼの蛙の合唱を聴きながら、夏には父といっしょにビーチに向かい波とあそぶサーファーたちを眺めながら、秋になると高くなった空と虫の音色に人恋しさを感じながら。
そして初霜とともに3回目の冬を迎えた朝、コヨーテは体に星の模様をもつ羊を群れのなかに見つけた。他の羊たちと比べるとずいぶん立派な体躯をもつ星の模様の羊になぜいままで目がいかなかったのだろう。しかしいったん気が付いてしまうとそいつから目が離せなくなり夢を見るたびに観察していると、星の模様の羊のまわりではいつも争いが起こっていた。しかしなぜかそいつはいつも争いには参加せずもくもくと草を食んでいた。ぼくは腹を減らしながらも争いを見つけては柵の周りを移動して星の模様をもつ羊を追いかけることに執着していた。そして自分のなかに「暴力」が育っていくのをはっきりと感じることができた。きっぱりとした倫理のような実存的な「暴力」だ。
めいじはいつのまにか自分がコヨーテになってしまっていることをなんの違和感もなく受け入れていた。
ある朝、めいじは左の肩甲骨あたりの肉のなかに得体の知れない生物が蠢いているような感覚で目を覚ました。いつもと同じはずの部屋になにか違和感を感じる。空気の肌触りがいつもよりよそよそしく内臓たちはその気配をいちはやく察知したかのようになにやら落ち着きがない。
スマホが鳴った。
「おはようございます、めいじさん。わたくし全国狩猟協会の湯田と申します。このような突然のご連絡になってしまい大変申し訳ごさいません。しかしわたくしどもも“ある事情”で少々急いでおりましていたしかたなかったのでございます。それで今回お電話させていただいた件についてでございますが、電話で話すにはいささか都合のよくない内容でこさいまして少々お時間をいただけたら幸いでございます。いまからわたくしどもの協会の事務所の住所をそちらのスマートホンにお送りいたしますのでご足労願えればと存じます。それではのちほど。」
湯田と名乗る男は一方的にしゃべり、しゃべり終えるとめいじの返事も聞かずに電話を切ってしまった。しばらくすると湯田が伝えてきたように協会の住所を示したグーグルマップのスクリーンショットがLINEに添付されて送られてきた。いつのまに湯田とLINEのおともだち登録をしたのだろう。
やれやれ、、、
全国狩猟協会の事務所は繁華街のあるメイン通りから一本奥にはいったバーや風俗店の立ち並ぶ裏通りにあるJ’sビルの2F「昭和サロン1968」の前どなりになにかから身を隠すかのように存在していた。
「これはこれはめいじさん、このようなところまでお呼び立てして申し訳ございませんでした。わたくしが全国狩猟協会徳島支部長の湯田でございます。」
湯田は大柄な赤ら顔でめいじに近付いてくると名刺を差し出し握手を求めた。事務所には湯田ひとりきりだった。スナックかなにかの店舗のあとをそのまま使っている様子で部屋のなかにはカウンター席とひとり座りのソファーの並んだテーブル席があり、めいじは湯田に案内されてテーブル席のほうに座った。湯田は向かいのソファーに腰を下ろすとタバコに火をつけうまそうに煙を燻らせた。
めいじは男がしゃべり出すのを待った。
「わたくしども全狩協の活動を最初にご説明させていただきますと、一般的な銃や罠を用いて野生動物を狩るようなものとは少々異なりまして、ある特定の動物を生け捕りにするというミッションのもと活動いたしております。その動物とは単刀直入に申しあげまして羊でございます。その羊は特別な羊でこざいまして、この日本には明治維新の少し前にやってきました。代々引き継がれる時代の権力者の魂に憑いて活躍してまいりましたが、3年ほど前から突然ぷっつりと姿を消してしまいこのような活動が始まったというわけでございます。」
左の肩甲骨の肉のなかでなにかが激しく意志をもったように暴れまわった。
男は続けた。
「そしてこのたびようやく件の羊をあなたの夢のなかに見つけることができましたので突然の電話をさしあげる次第にいたったわけでございます。驚かれるのも無理はございません、ご自分の夢を盗み見られたのでございますから。」
湯田はそこまでしゃべるとカウンターのほうに向かい酒棚からジャックダニエルのボトルとグラスをふたつ手に持ちテーブル席に戻ってきた。
「めいじさんもいかがですか。」
男はめいじの返事など期待していないかのようにふたつのグラスに琥珀色の液体を注ぐと片方のグラスを手に持ち軽くウィンクすると一気に飲み干した。鯨がプランクトンの束を飲み込むような飲みっぷりだった。
「少し種明かしいたしますとわたくしどもの協会にはある協力者がおりまして、そちらのほうで開発されているテクノロジーであなたの夢を拝見させていただきました。もちろん世間には公表されていない類いのテクノロジーでありますし、協力者も世間に公表されていない類いのグループでございます。早い話がその協力者のグループが件の羊を探している張本人でごさいまして、私たち全狩協のメンバーは現場仕事をもくもくとこなす働きアリのような役割りでございます。めいじさん、ここまでのはなしでなにかご質問はございますか。わたくしにお答えできることでございましたら包み隠さずなんなりと大盤振る舞いいたしますです。」
男はジャックダニエルをもう一杯グラスに注いでまた一気に飲み干した。
「湯田さん、おおよそのはなしの流れはつかめましたがいったいぼくはなにをすればいいのでしょう。」
「さすがめいじさん、ご察しがいい。そこなんです。わたくしどもはあなたの協力を必要としているのです。なにしろあなたの夢のなかに羊はいるのですから。」
湯田はまたカウンターのほうに向かって歩きだし、酒棚の奥にある冷凍庫のなかから発泡スチロール製の箱を取り出し両手で抱えて戻ってきた。箱の蓋を慎重に持ち上げるとなかには大仰なクッションに守られた小瓶がはいっていた。
「ワクチンです。」
左肩甲骨の肉のなかではあい変わらず激しく明確な意志が暴れまわっていた。
「このワクチンはウイルスベクターワクチンと呼ばれているものです。人間の身体のなかにはいると血液によって目的の細胞まで運ばれ、細胞の核に入り込み遺伝子の組み換えを行います。設計図を書き換えられた遺伝子は変更を必要とする役割りの細胞に命令を出します。今回は精子をつくる細胞です。めいじさんへのわたくしどもからのお願いはこのワクチンを接種してもらうことと、もうひとつはある女性と性交していただくことです。」
めいじはジャックダニエルを一口だけ啜り一口分だけ勃起した。
「めいじさんの新しく役割りを与えられた精子は夢のなかの羊を乗せて、ある女性と性交することにより卵子に感染し受精卵となります。生まれてくる子供は星の模様をもつ羊憑きになるという寸法でございます。」
湯田はそれだけいうといつものようにめいじの返事を待つまでもなく恭しく通過儀礼を司るシャーマンのような所作で小瓶から液体を注射器に吸いとらせ、めいじの左肩甲骨にワクチンを接種した。
時を同じくしていまではもうすっかり明確な意志へと育った「暴れんぼう」とワクチンとの対決がはじまろうとしていた。そしてコヨーテもまた自分に与えられた役割りを受け入れはじめていた。
「めいじさん、女性はこのビルの道を挟んで真ん前にある『ソープランド・ネーブル』にて待たせておりますです。」
湯田の声を朦朧としたいまにも消え入りそうな意識のなかで聞きながら、あのときのきっぱりとした倫理のような実存的「暴力」がいまワクチンと対決していることをコヨーテであるめいじははっきりと感じることができた。
ネーブルで待っていた女性はどこか懐かしい感じのするひとだった。スラリと細身ながら立派なおしりをもつ彼女は情事に慣れた娼婦のような手際の良さでめいじをベッドまで誘導し、肉厚で艶を載せた唇がやさしくペニスを咥えた。ペニスはいままで見たことがないほど大きく腫れ上がり、彼女の喉の深いところまで塞いだ。粘りの強い唾液に覆われたペニスを几帳面に確認すると、こんどは自分のヴァギナをやさしく撫でながらペニスをあてがいゆっくりと湯舟に浸かるように腰を沈めた。
「ああ、あったかい。」
めいじの身体の上で立派なおしりにまで届く栗色のカーリーヘアが規則正しく揺さぶられるのを眺めながら、コヨーテは幌の付いた荷車らしき存在が彼らのせかいのなかに入り込んできたことに気付いた。
荷車が羊たちの群れを囲んでいる頑丈な柵に近付くと荷車が通れるだけのスペースが生まれた。コヨーテは迷うことなく幌のなかに飛び込んだ。荷車はまるで戦場を潜り抜けてきたかのようにボロボロだった。荷台に揺られながら羊たちの群れのなかを進んでいくと煙突のある一軒家がぽつんと建っているのが見えてきた。まるでおとぎばなしにでてくるようなのんきな一軒家だった。
もりのなかのいっけんやに7ひきのこひつじとおかあさんひつじがなかよくくらしていました。そこにあるときからからだにほしのもようのあるおおきなひつじがやってきていっしょにくらすことになりました。さいしょはこわがっていたこひつじたちもほしのもようのあるおおきなひつじがいままでたべたことがないようなすてきなおかしをたくさんくれるので、すぐになついていつのまにかこのひつじのことをおとうさんとよぶようになっていました。
おとうさんひつじはこひつじたちにたくさんのことをおしえました。おかげでこひつじたちはかしこくなり、それをみていたきんじょのこひつじやおとなのひつじまでまねをしてどんどんかしこくなっていきました。しかしあるころからいままでなかったことがおこるようになってきました。おとなのひつじたちのけんかです。まえはいちねんにいちどおまつりのひにだけみられたけんかが、いまではまいにちのようにあちらでもこちらでもみられるようになりました。でもおとうさんひつじはけんかにはさんかしません。おとなたちがけんかするほどふしぎとふえるくさをもくもくとたべてはますますおおきなからだになっていきます。
そんなあるひ、おかあさんひつじがようじででかけるためいえをるすにすることになりました。おかあさんひつじはこひつじたちに
「しらないひとがたずねてきてもカギをあけちゃだめよ。」
となんどもいいきかせてでかけていきました。
こひつじたちがなかよくあそんでいるとだんろにだれかがおっこちてきました。こひつじたちはびっくりしておとうさんひつじをさがしますが、くさをたべすぎたのかぐうぐういびきをかいてゆさぶってもおきてくれません。
だんろからでてきたのはおはなのながあいサンタクロースでした。
「みんながおりこうさんだからプレゼントをたくさんもってきたよ。」
こひつじたちはおかあさんひつじとのやくそくもわすれておおよろこび。もらったプレゼントでおおはしゃぎしてあそんでいると、サンタクロースのおじさんがからになっていたはずのふくろをまたぱんぱんにふくらませて
「ほかのこどもたちにもプレゼントをくばりにいくからカギをあけておくれ。」
とこひつじたちにおねがいしました。こひつじたちはこころよくひきうけました。
コヨーテは星の模様をもつ羊のはいった袋をまる飲みにしてしまうとまた荷車に乗り込んだ。
しばらくするとうねりのようなおおきな快感の波に襲われた。あらがいようのない快感の波にもみくちゃにされながらいつのまにかぴかぴかのロケットに変異している荷車もろとも虚構のせかいへと発射された。
完
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