私はこの部屋の中で産まれた。いや、正確には、私の意識がはっきりする前にも、この部屋に散りばめられていたように思える。それは部屋中を漂い、ある時には、蛇のように這っていたように思える。温かい湯のような、流動するそれに包まれ、静かに息をひそめていたようだった。
後ろからドンと押され、その勢いで、目前に流れる一瞬の中に放り込まれた。
(母の膣から押し出される感覚、ズルリズルリと擦れる膣癖の感触を、その一身で受け止めたんだ)
それは、ついさっきのことだろうか、それともずいぶん前のことだろうか。もう、正確には覚えていない。
遠い過去の自分を、思い出すことができる。
電柱の傍を通り抜け、備え付けの階段を登り、手前から三つ目のドアを開いた。
カバンを置き、服を脱ぎ、風呂に入ることにした。僕はそのとき酷く疲れていたから、風呂桶にお湯を入れ忘れていたことに気が付いた。もう一度服を着るのが億劫だったので、蛇口をひねり、裸のまま、身体を縮こまらせて、全身が浸かるまでじっと待っていた。ここからプツリと記憶が途切れている。
(君は僕の家を想像するとき、どんなイメージを持つだろうか。)
こうして私は私に語りかけていた。
私が私である理由を考えはじめたときから、私の意識と呼べるモノが、私の中で爆発的に広がった。それと同時に、目の前に広がる虚空の前に、丸裸のまま放り出された。
あたり一面は薄暗い闇に包まれている。しかし、ぼんやりとした意識の中で、微かにではあるが、この部屋にある何者かを意識し始めた。
右目の端には、錐台の光が差し込んでいることが分かる。白月の光が、きらきらと映りこんでいる。床には、立方体だか、三角柱だか、糸だか、幾何的な形状をした積み木のような何かが散らばっている。左面には、いぶした銀のように鈍く光るドアがべっとりと張り付けてある。
私の一部削り去るように、一瞬が過ぎてゆく。
次第に、現実に直面している自身に気が付いた。先ほどまで無関係のはずだった、流れ去る一瞬が、カチリと音をたてて、自分のものに感じられた。一抹の不安がよぎった。統合されていなかった、途切れ途切れであった私の残骸が初めて、私という存在を認識した。今ここで顕現し、強く、何かへの漠然とした恐怖を抱いた。無と離反するが如く産まれた私は、ただ一人、この世界に取り残されているということに、気が付いた。
隅から隅までが青白く燻ぶった煙のような闇が、部屋の隅が蠢いている。私はなんだか焦燥にかられ、体を動かすように努力した。鉛のような身体はゴツリと床に転がり、そのままドロリと肢体が垂れ落ちた。一体どうしたんだろう。
少なくともはじめは、僕はこの境遇に抗おうと努めていた。そういう記憶がある。今更、どうしようということもないが、エンターテイメントが無いとはいえど、初めての世界は新鮮であったことは確かだ。困惑と不安に境はなく、落ち着かない気分ではあったが、それを感じ取るだけの情動は残されていた。
(例えば君が延々と苦しみの渦中に放り込まれ、その不条理を感じたとき、それを死だとか、悲哀で解消するのかもしれない。しかし、僕はここに来る前から、死をたいして恐れていなかった。幼少期の頃に、醜い母の肉体を慰めなければならないとき、僕は既に乖離しはじめていた。死とは自身の肉体を滅ぼす事であり、私の精神を現世から切り離す一つの手段でしかなかったのだから。)
"お前を虚無へと貶めてやりたい"へのコメント 0件