その日、Oは濡れた着物を脱いで熱い石の上で乾かしていた。「裸で川に入ってはいけない」と、両親からよく言い聞かせられていたに違いない、彼女は足の先だけを水に浸してお弁当の包みをあけた。あずきと一緒に炊いたご飯がおにぎりになっている。落とした豆が一粒、彼女の鎖骨のつくるくぼみにあたり、バウンドして消えた。豆の行き先はぼくだけが知ってる。
またある日、そのときは快晴ではなかったが、雲がある分かえって水面は空を産湯につけたようになっていた。Oは街路樹からもいできた銀杏の葉を川に流しては追いかけ、また流しては追いかけしていた。葉っぱはみるみる淀みにたまり、つっかえてくるくる回った。Oが帰ったら掃除しよう、とぼくは思った。
またある日、精神科から脱走してきたOは、少し風邪をひいているようだった。鼻声の鼻息だけで歌詞のない子守唄を歌っていたかと思えば、川の水で勢いよく鼻をかんでいた。迷い人のお知らせを鳴らす防災無線はひどくビルにこだましてまったく聞き取れなかったが、あれはきっとOのことを探していたに違いない。
またある日、Oはお歯黒をべったり塗られていた。Oの町では河童は若い女に憑くがお歯黒を嫌がると信じられている。河童が憑いた女はひどく淫乱になるという。他愛もない噂である。Oはぼくのことを見たこともない。ぼくはOに指一本触れたこともない。
またある日、Oは川に来た。ぼくは川にいた。
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