くらやみの中に、声音の振動として床板に染みいってつたわる祖母の言葉には、めいかくな形があってそれはわたしの視覚に姿をあらわす。
「上海」
「A」
「B」
「C」
「D」
「Ⅹ」
「工場」
「焼け跡」
「骨」
一九四三年、日本軍戦艦が、駐留していたイギリス軍戦艦ウェーク号とペトレル号をそれぞれ撃沈、拿捕すると、上海の都市のありさまは一変した。ウェーク号、ペトレル号を退けると、日本軍は上海に侵入し、それまでの中国・上海の関係図は更新されることになった。上海租界のイギリス人、フランス人。アメリカ人と日本人の趨勢は転変する。その中にちいさな祖母は、わたしの曽祖父にあたる人物といたのだ。祖母は上海の、都市の中におさない眼を埋めこませ、それを写しやる。
都市の趨勢は言語の趨勢だ。国際都市・上海の経済規模がどのくらいかはわからないけど、さまざまな由来を持った資本が流通するのと同じく、さまざまな由来を持った言語も流通していた。英語、フランス語、ロシア語、そして日本語。日本軍の進駐によって、この言語の流通量における日本語の比率は増すことになった。それは欧米諸国の言語を進駐軍が統制したからだ。祖母の、おさない眼の記憶。日本上海進駐軍の中枢は、対立国である連合諸国の国籍を持った上海居住者、主に租界に住んでいた外国人に赤色の腕章を付けさせた。
「A」…アメリカ人、
「B」…イギリス人、
「C」…フランス人、
「D」…オランダ人、
「X」…ギリシャ人。
祖母はその赤色腕章を付けた外国人の減少を見ている。
上海市郊外に建設された収容所にアルファベットの腕章を付けた外国人が軍用トラックで運ばれていく
それぞれのアルファベットが市中から消えていく。
祖母は言葉の真空地帯に立っていた。
「あ」。
ちいさな祖母はさまざな足や手が汚していった上海市中でひとり、そうつぶやいた。
祖母の記憶はまた場面を変える。工場から黒い煙があがっている。標準服を着た男性が祖母に箱を手渡す。祖母は箱を開ける。その中には骨が入っている。砂糖菓子のような骨で、祖母はそれが曽祖父のものだと知っている。彼女は蓋にちからを込めて箱を閉めた。
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