第4話

マニア(第4話)

じゃじゃ馬ぴえろすたー

小説

10,665文字

非現実的な彼女の事情。そして少女達の対立。

天野さんは俯きながら口を開いた。

「もう気付いてるかもしれないけど…」

唾を飲み込む。一体何を、告白するんだろう。

「お父さんに、虐待されてる」

僕はそのあまりにも現実味のない言葉の意味を、少し考えた。

「でも、天野さんどこも怪我して…」

目を伏せる天野さん。

「殴られたりっていうのじゃなくて…」

すぐに気付く。僕の中で虐待というのは「暴力を振るわれるもの」とばかり考えていた。しかし、今回はそれではないらしい。天野さんは俯いたまま黙っている。

そして小さく弱々しい声で、話し始めた。

「初めはね…」

天野さんが話すその事細かな内容は、物凄くリアルで、僕には全然受け入れられないショックなものだった。僕と同年代である彼女が、こんな経験をしていたなんて。全く持って理解出来なかった。

始まりはまだ幼稚園児の頃らしい。ある日天野さんの父親は、彼女の服を脱がせて自分の陰部に天野さんの手を当てた。そしてオナニーを始めたらしい。それがどういう行為かわからなかったが、ただ気持ち悪いという感情だけが彼女の中にあったという。

抵抗したこともあったらしい。しかしそれをすると父親は暴力に走り、事を強制させたそうだ。幼少期から身体を求めだし、中に入れることはなかったらしいが、多分もうすぐ「それ」はくると思うとの事だった。

流石に僕も男だ。セックスに興味もあれば、友達と下ネタだって話す。そういうことに耐性が無いわけではなかった。

しかしこれは全く話が違う。僕らが普段話す馬鹿みたいな下ネタではなく、深刻で、深い闇を抱えた問題だった。

同級生、しかも天野さんが性的虐待を受けているという衝撃的な事実を知った僕はすっかりキャパオーバーしてしまって、呆然としていた。

「だからね…」

天野さんを見つめる。

「あの日、夏休み前にあの公園で飛永くんと会った日…私…」

天野さんは相変わらず俯いたままだったが、ゆっくりと顔を上げた。僕は黙って彼女の言葉を聞いた。

「どうせあんな気色悪い奴に犯されるくらいなら……」

彼女の目には少しの涙が見えた。

「じ、自分の好きな人と…」

心臓が、大きく脈を打った。

「あ…天野さん……」

「おい、何してるんだ〜」

そう言ったのは担任の先生だった。困った顔で頭をポリポリと掻いている。

「あの、グラウンドシューズを探してて、天野さんが一緒に探してくれてたんです」

僕は焦って立ちた上がり、説明した。

「ん〜?飛永の机の下にあるじゃないか〜。サボってたんだろ〜。もう20分以上経ってるぞ〜?お前ら2人、放課後反省文書けな〜」

ええ…反省文だなんて……。すると天野さんがスッと立ち上がり「すみませんでした。」と笑って言った。

僕ら2人はグラウンドに向かった。

もちろん周りの目は痛いものだった。耳をすませばすぐに陰口が聞こえる。

でも、それよりも僕はさっき聞いた天野さんの話の方が衝撃で、ボーッとしていた。

あの夏の日。天野さんが蝉を殺した理由。僕をセックスに誘った理由。焼き付けるような太陽。天野さんの僕への気待ち…。

あの日のことが鮮明に頭の中でぐるぐると回想されていった。

まるで集中出来ないまま二時間目は終わりを迎えた。

二時間目の後の20分休み。

自分の席でさっきの話を思い出しながら教科書の端に落書きをしていた。

天野さんの方をちらりと見る。漫画を読んでいる。相変わらず怖い絵の描かれた漫画を読んでいた。

「ねえ、何描いてるの?」

「麻美ちゃん」

僕の机の前に立つ麻美ちゃん。咄嗟に佐藤たちを探した。教室右端の佐藤の席にいつものメンバーが集まっているのが確認できた。別にこちらを見ている様子はない。

「別に、何でもないよ。らくがきしてた」

僕は乾いた笑いをして言った。そうなんだ。と一言。

さっき廊下に僕のズボンが放り出された時の事が思い出される。あの時、麻美ちゃんは何を思っていただろうか。僕と天野さんが話しているのを見て、また嫌な気分になっていただろうか。はたまた、僕の情けない姿を見てうんざりしただろうか。

麻美ちゃんは黙って突っ立ったままだ。

「どうしたの?前の席座ったら?」

机に身を乗り出し、前の人の椅子を引っぱる。麻美ちゃんは、うん。と言って静かに椅子に座った。

「絵、上手なんだね…」

「そうかな、ありがとう。」謙虚気味に言う。何だか気まずそうな感じだ。麻美ちゃんは僕の落書きに視線を落としている。

軽いため息と同時に教科書を閉じた。

「元気ないね。麻美ちゃん。」

彼女は困ったふうな顔をしてみせた。

何も話さない時間が少し続いた。ものすごく長く感じる。何か言いたげな麻美ちゃん。僕は彼女が話し出すのを待った。ボーッと床のタイルの線を目で追う。

「あの……」

麻美ちゃんがようやく口を開いた。

落としていた視線を麻美ちゃんに向ける。

「あの、さっきは、ごめんね…」

さっき…というのは廊下での事だろう。

「ん、ううん。別にいいよ」

「私、何もしてあげられなくて…」

「仕方ないよあんなの。」

罪悪感の混じった表情。

「ていうか、僕もごめんね。また、天野さんと話しちゃって。麻美ちゃん、嫌だったよね。」

麻美ちゃんは机の角に目線をやっている。

「私、渉くん助けてあげられなかった。自分の、彼氏なのに。」

静かな口調で言った。僕はまた困った表情を見せる。

「気にしなくて大丈夫だって。」

「でも、天野さんは…渉くんのこと…たった1人で…」

小さなため息を一つした。

「分かんないけど、それは天野さんが1人だからじゃないかな。彼女、1人だから失うものがないんだよ。きっと。」

麻美ちゃんなだめる為とはいえ、まるで天野さんが何も持っていない人間かのように言ってしまったことを僕は後悔した。

「でも、麻美ちゃんには友達がいるでしょ。美咲ちゃんとか。失いたくないものが、僕の他にも。」

「もちろん僕だってそうだし、それが普通だと思う。だから大丈夫。麻美ちゃんがしたことは、とても当たり前の行動なんだよ。何も気にすること無いよ」

もし麻美ちゃんが、僕と同じ状況だったとしたら、僕は麻美ちゃんを助けられただろうか。少し考えたが、やはり自信を持って、できる。と言えるはずもなかった。

だから僕が彼女を責めたりすることなんて勿論出来ないし、彼女のこのネガティブな発言も、僕は肯定しなければならない。

本当は助けて欲しかったなんて、そんな都合のいいことは絶対に言えない。

「じゃあ、何も無い天野さんが渉くんを助けたってことは、天野さんは渉くんだけが大事ってこと…?」

麻美ちゃんは僕の目をじっと見た。僕の今言った理論でいくと、そういうことになってしまう…のだろうか。

さっきの天野さんの言葉を思い出す。

あんな気色悪い奴に犯されるくらいなら…、自分の好きな人と……

自分の好きな人…

「それは…知らないけど…」

麻美ちゃんは口をつぐみ、黙り込んだ。

そして意を決したように声を絞り出した。

「私は、渉くんの為に、他の大切なものをなかなか捨てられない…」

「うん。」

それが、普通のことだとは自分で言ったし、やはりそうだと思う。しかし、その本当の気持ちを実際に言われて、気分が良いわけなかった。

麻美ちゃんは続けた。

「でも、渉くんのことが好きなのは…本当なんだよ…」

涙の気配は無いが、彼女の表情は多分誰が見ても悲しそうなものだった。

麻美ちゃんはうなだれて、僕の机にズルズルと沈んでいった。机に伏せる麻美ちゃんの頭を撫でようとしたが、その手を止めた。

「天野さん…、強いなあ…」

麻美ちゃんが弱い口調で言った。

確かに。強い…。

チャイムが鳴った。麻美ちゃんは、ゆっくり起き上がり「席、戻るね。」と一言言うと自分の席へ向かって行った。

その日の終わりのホームルームの時間まで、僕が許されたわけでは無いのだが、慎二や、佐藤たちからの嫌がらせもなく時間は過ぎていった。

分からないけど多分、佳祐が庇ってくれたんだと思う。

ランドセルに教科書を直しながら、居残りのことを考える。反省文なんて、何を書けって言うのか。それに、天野さんと一緒か。

また慎二や佐藤の恨みを買って、麻美ちゃんは悲しむんだろうな。

天野さんのあの話を聞いて、未だに現実味を感じられずにいた。その事実を知った僕は今まで通り天野さんと話せるだろうか。いや、嫌いになったとか、引いたとか。そういう事ではないのだが…。

こういう時、どう接するのが一番正解なのだろうか。

「渉くん」

後ろから肩を叩かれる。

麻美ちゃんが立っている。

「今日、一緒に帰ろ?」

困った。天野さんと居残りなんて、言えない。

「ごめん今日居残りなんだ…」

とりあえず居残りがあることだけ麻美ちゃんに伝える。麻美ちゃんは微笑を浮かべて「いいよ、待ってる」と言った。

「あ〜、でもね…その…」僕は困ってボソボソ言っていると先生が入ってきた。「は〜い席着いて〜〜」

麻美ちゃんはそそくさと自分の席へ戻ってしまった。

先生が教卓の前で話をしている。

まずい。天野さんが一緒に居残りするなんて知ったらきっと病んでしまう。どうにかしないと。

僕が頭を抱えていると「飛永と天野は今日残れよ〜」と先生の抜けた声が聞こえた。

またクラスが少しざわつく。もう、勘弁して欲しかった。 周りを見ないように、下を向いた。

日直の挨拶で、皆が教室から出ていく。慎二からの嫌がらせ等も無く、僕は先生の元に向かった。もう天野さんは先生の元にいた。先に戻る天野さんを横目に歩く。先生にプリントを渡される。

「あれ、反省文じゃないんですか」

渡されたのは漢字のプリントだった。夏休みの宿題で出たのと同じものだ。

「うん、そのプリント2枚終わったら職員室まで来てくれ〜」

反省文じゃなくて、漢字の書き取りだけで帰れるのか…。ラッキーだ。力なく頬が緩んだ。

自分の席へ戻る時、天野さんがこちらを見ていた。天野さんはニッコリと微笑んだ。釣られて僕も笑顔になる。

先生が職員室に向かうと、僕と天野さんの2人だけになった。麻美ちゃんの姿はなく、夕方のオレンジ色の光が教室全体に広がり、僕達を包んだ。外から聞こえる少年少女の声。

麻美ちゃんは、居残りのことを聞いて、帰ってしまったのだろうか。

「飛永くん。こっちで一緒にやらない?」

天野さんが、手招きをする。

体育前に告白した、彼女のセリフが頭をよぎった。

「あ…、うん。そうしようかな」

荷物を持ち、窓際にある天野さんの席まで移動する。

向かい合わせになり、一つの机に天野さんと僕の課題のプリントを置いた。

「めんどくさいね。課題」

僕は当たり障りのない発言をした。

天野さんはサラサラと漢字を書きながら口を開いた。

「うん、でも。1人じゃないから。」

僕はドキッとして、「う、うん」と書き取りを始めた。ちらっと天野さんの漢字プリントを見る。

彼女の細い手から書かれるその文字はあまり綺麗とは言えないような字で、また彼女の意外な一面を見つけた。と、嬉しくなる。

暖色の光で照らされる彼女は、すごく綺麗だった。細い黒髪に光が透き通り、艶っぽくなっている。

「居残りも、案外悪くないかも」

僕がそう言うと、天野さんは穏やかな表情で、うん。と答えた。

沈黙が流れる。虫の声も、もう少なくなっていることに気付く。

落ち着いた、静かな声で天野さんが話を切り出した。

「ねえ、飛永くん。今日の私の話。やっぱり引いた?」

天野さんが、虐待を受けている話。

今もショックは残っている。

「そういう人、今まで周りにいたことなかったから…、凄いびっくりした…」

そうだよね。と呟く天野さん。

僕は漢字を書く手を止めた。そして、天野さんの方を見ながら言った。

「でも、天野さんに対して、引いたとか、そんなことは全然ないよ。本当に。」

「本当に?」

天野さんが顔を上げ、僕の目を見つめた。僕はハッキリと答えた。

「本当だよ。」

すると天野さんは心底ホッとしたように、「よかったぁ…」と身体の力を抜いて椅子にもたれかかった。

「どうにか、天野さんのこと助けてあげたい」

そう言うと天野さんは哀愁漂う表情で、いいの。と言った。

「飛永くんが居てくれたら、それだけで。」

本当に、それでいいのだろうか。天野さんが虐待されているという事実は変わらないのに。かといって、今の僕が何を出来るわけでもないのもまた事実だった。

「情けないな……」消えてしまいそうなほど小さな声で呟いた。

「ん?」

「いや、何でもないよ。さっさと課題終わらせちゃお」

「ん?うん」天野さんはきょとんとして、僕たちは書き取りを再開した。

その時。僕のペンが止まった。

廊下の方から足音が聞こえる。

ゆっくり教室のドアの方を見る。

足音はこちらに近づいてきていた。

「飛永くん?」

天野さんが不思議そうにこちらを見やった。

「誰か来てる。」

「え?」

「ごめ〜ん、ちょっとトイレ行ってた」

現れたのは麻美ちゃんだった。手をパタパタとさせながら教室に入る。

「麻美ちゃん」

「もう課題終わった?」

僕も天野さんも麻美ちゃんを見ていた。心拍数が上がる。

麻美ちゃんの表情は意外にも笑顔だった。

しかし、いつもならきっと不機嫌な顔をするはずなのにと思うと、その笑みが不気味に感じた。

「ううん…、まだだよ。」

佐藤たちはどこにいるのか。僕は教室のドア付近に目をやったが、誰の気配もなかった。

「麻美ちゃん…先に帰ったのかと思った」

苦笑いを浮かべ麻美ちゃんに言った。

天野さんは僕と麻美ちゃんを交互に見ている。

「待ってるって。言ったじゃん?」

笑ってそう言うと、麻美ちゃんは近くの椅子を取って、僕達の課題が置かれている机の横に座った。

修羅場というのはこういう状況のことを言うのかと、実感している。

いま麻美ちゃんは何を考えているのか。

「これ夏休みの宿題と同じプリントだ。面倒くさそうだね」

麻美ちゃんがプリントを覗き込む。

「地味に面倒臭いよね」

僕がそう言うと、麻美ちゃんは、ホントにね〜。と答えた。

天野さんは黙って漢字の書き取りをしている。

「ねえ、天野さん」

麻美ちゃんが天野さんの名前を呼んだ。

心臓は早まるばかりだ。背中にじっとりとした汗を感じた。

「なに?」

天野さんはペンを止めず、口角を上げ自然に答えた。

「天野さんっていつも本読んでるけど、何読んでるの?」

「多分江川さん知らないよ」

「ふーん、どんな漫画なの?」

「う〜ん、小学校が校舎ごと突然砂漠に飛ばされて…、学校に残ってる生徒と先生達でサバイバルする話」

2人の会話はまるで普段から普通に話している友達のようだった。僕が入る間もなく、2人の話は続いた。

「それ面白そうだね」

「うん、面白いよ。」

「もしもそんな状況になったら、天野さんどうする?」

「え〜、小学校ごと砂漠に飛ばされたら?」

天野さんは微笑を浮かべ、僕をちらりと見たが、すぐに視線をプリントに戻した。

「私……」

無言になり、漢字の書き取りを続けている。

「あ、あは。現実的じゃないよね〜。」

麻美ちゃんがそう言うと天野さんも笑顔で答えた。

沈黙がまたやってきた。教室には外から聞こえる子供たちの声だけが聞こえる。

麻美ちゃんは上靴を半分脱いで、足をブラブラさせながら地面を見つめている。

天野さんがペンを置いたのを見て、漢字を書き終えたことを確認した。僕はまだあと少し残っている。

お疲れ。と、一言言ってあげたい所だったが、声が喉で詰まり、いよいよ口にすることは出来なかった。

天野さんが席から立ち上がり、筆箱にペンを直し始めた時、顔を上げずに麻美ちゃんが口を開いた。

「天野さんって」

天野さんは黙って聞いている。

僕は麻美ちゃんが何を訊くのか、ドキドキしたままだった。

「渉くんのこと、好きなの?」

低く、少し震えた声。

天野さんの動きが止まる。

僕も唖然として、目を丸くした。

麻美ちゃんの突然の発言に驚きを隠せなかった。いつものか弱い女の子と思っていた麻美ちゃんとは別の雰囲気に包まれていた。

「ちょ、麻美ちゃん…」

僕は麻美ちゃんに声をかけたが、下を向いたままだった。

黙り込む天野さん。俯く麻美ちゃん。

うろたえていたのは、僕1人だけだった。

5秒ほどの沈黙。短いようで長い時間。

「うん。」

天野さんは落ち着いたトーンで応えた。

心臓がバクバクと大きな音を立てる。

「やっぱり…、そうなんだ。」

最早、何を話せばいいのか。僕は2人を見るばかりで、何一つ声をかけられなかった。

天野さんがぼんやり外を見ながら言った。

「さっきの答え、教えてあげる。」

「え?」

ゆっくり顔を上げる麻美ちゃん。

「もしも、私が読んでる漫画みたいに、この学校が何処かへ飛ばされちゃったらどうするってやつ…」

18時前。日は、落ちてきていた。

「飛永くんと、ずっと一緒にいる。」

薄暗くなっていく教室。麻美ちゃんは何も言わず天野さんをただ呆然と見ている。

「私の願いは、ただそれだけ。飛永くんと、一緒にいたい…ずっと。元の世界なんて、それが叶うなら私は帰れなくていい。」

黙り込む麻美ちゃんに「ごめんなさい。あんまり遅くなると、お父さんに怒られるから。」と静かに言ってランドセルに荷物をつめた。

お父さんに怒られる。天野さん。大丈夫だろうか…。しかし今は人のことよりも自分のことを心配すべきだと、さすがに思った。

「天野さん…」

ランドセルを背負い、課題のプリントを持ち「じゃあ、また明日」と、僕と麻美ちゃんを見ることなく教室のドアの方に向かった。

「ねえ!」

麻美ちゃんが立ち上がり声を荒らげた。天野さんが立ち止まる。

「もう、こ、これで最後にしてよね…」

「どういう意味?」

「もう渉くんに近づかないでって事!」

そこには物静かで大人しいかった少女はもういなかった。

戦闘態勢に入った少女は、天野さんという 敵 に牙をむいた。

麻美ちゃんからこんなセリフが出てくるなんて、思ってもみなかった。

「渉くんは、私の彼氏なの!」

目が血走っている。声はさっきよりも大きくなっていた。

天野さんが少し身体をこちらに向ける。そしてやはり落ち着いた態度を見せた。

「じゃあ何で、あの時飛永くんに駆け寄ってあげなかったの?」

「え?」

天野さんの目が黒い…。麻美ちゃんは焦りを見せ、服の裾をぎゅっと握った。天野さんが冷たい声で続けた。

「今日の、体育の時間。」

「あ、あれは…」

麻美ちゃんは声を詰まらせた。あれは…と小さな声でもう一度呟いた。

「江川さん。見てたよね」

天野さんの静かな声。体育の時間。佐藤たちの後ろで僕を申し訳なさそうに見る麻美ちゃん。仕方の無いこと。彼女にも、大事な友達がいる。他に変えられない大切な人が。

「天野さん…、もういいよ…」

僕が言い終わる前に麻美ちゃんがまた声を荒らげた。

「あ…、あんたには!友達とかいないからいいかもしれないけど、私は友達とか色々あるんだよ!!」

大きい声を出すというのは余裕の無い証拠だったのかもしれない。彼女も、天野さんに責められ、頭の中がごちゃごちゃになってしまっているのだろう。

「飛永くんは江川さんを許したかもしれないけど、すごく悲しそうだったよ」

麻美ちゃんは押し黙り、拳を握りしめていた。

「天野さんに何がわかるの…」

「江川さんのことは知らないけど、私なら…

少し視線を落として、そのまま静かに言った。

「私なら、絶対に飛永くんを守った。」

麻美ちゃんは何も声を出すことなく、立ち尽くしている。

天野さんは時計をチラッと見て「ごめん、時間が。じゃあね」と背を向けて言った。ドアを抜ける天野さん。

「ふざけんな……」

麻美ちゃんは机に手をかけ、その場に座り込んだ。

「麻美ちゃん…」

「大っ嫌い…、天野さんなんて……」

麻美ちゃんの目から涙がこぼれ落ちている。なんと言っていいのか分からずに、彼女の小さな背中を見ていた。今僕が何かを言ったところで火に油を注ぐだけになりそうな、そんな気がした。

「ムカつく…。何なのあいつ……死んじゃえ…天野さんなんて……死ねばいいのに……」

麻美ちゃんが机の足を力強く握った。嗚咽をしながら声をしゃくりあげてる。

「渉くん…、ごめん…今日やっぱり1人で帰るね」

「え、」

荷物を持って立ち上がる。

「バイバイ…」

彼女は僕の方を見ることなく教室を出ていった。日が沈み、薄暗い教室にただ1人僕は残された。

僕は麻美ちゃんに、なんて言えばよかったのだろう。あんな状況で…。

「わかんないって……」

残りの漢字を書き取り、職員室に向かうと先生が「飛永〜。遅かったなぁ〜。お疲れ。これ、みんなには内緒な」と言って、レモン味の飴玉をくれた。

飴玉を口に含み、下足箱に向かう。誰もいない電気の消えた暗い下足箱。

「あれ…」

下足箱の棚に僕の靴がなかった。近くの棚や、ゴミ箱の中などを探したが見つからない。

マジかよ…と呟き、すのこの上に座り込み頭を抱えた。

「僕が何したって言うんだよ……」

さっきの教室での一連の流れが頭の中に浮かぶ。

僕はさっき、彼氏として麻美ちゃんを庇うべきだったのか。いや、常識的に考えてそうだろう。結局僕も麻美ちゃんと同じで、彼女を助けることが出来なかったのだ。

なぜ、助けられなかったかと言うと天野さんが言っている事に、同意…というか、僕の言ってほしいこと言ってくれたし、麻美ちゃんに「僕を助けられなかったのは当たり前のこと」と言ったのに、やはり心のどこかで腹が立っていたからだ。

麻美ちゃんも、僕を助けなかったのはやっぱり僕に腹を立てていたのだろう。天野さんと話した僕が、許せなかったのかもしれない。

無意識のうちに深いため息が出た。

こうなったきっかけは何だっただろう。

記憶を巡らせる。

そうか。あの日までは普通だったんだな。

あの炎天下の日。公園で天野さんと出会うまで。あの日から僕の頭の中には、まるで取り憑いたみたいに天野さんがいた。

天野さんに会ってから。なんだか全部おかしくなったんだ。

いや………、夏祭りに僕が麻美ちゃんに告白した時に、おかしくなったのだろうか。

どうして僕は麻美ちゃんに告白なんてしたんだろう。

祭りの日の帰りに見せた麻美ちゃんの儚げな表情を思い出す。

麻美ちゃんにあんな「同情」みたいな気持ちで告白したのが悪かったんだ。恋人の付き合いなんて、なんにも分かってないのに。

付き合えば僕の気持ちも彼女にちゃんと向くなんて、そんな半端な気持ちでやれるはず…なかったのに。

夏休み明けの始業式の日も、麻美ちゃんを大事にするって言ったのに。大事にしようって、思ったはずなのに……。

今だって僕は……。

僕は……?

そうじゃないか。最初から答えは出ていたのに…。

僕は、周りに合わせることばっかりを考えて、自分の意見を言わないで、みんなの顔色伺って。自分だけは傷つきたくないから、とりあえず流されて…。

本当は、あの公園で出会った時から、僕の心は決まっていたのに…。

「まだ間に合うかな…」

間に合うもなにも、むしろここからが始まり。

「うん…うんうん、そうだよ……ここからだ……」

僕は立ち上がり、上履きのまま帰路を全力疾走した。

ちゃんと自分を持って生きていく。今度こそ、ちゃんと。きっと自分に素直になるんだ。

走って僕は家まで向かった。

家に着き、上履きをバレないように自室に持っていく。

「おかえり、遅かったわね」

そんなお母さんの言葉を「居残りしてた〜」の一言で片付け自分の部屋に入る。

僕はランドセルや上履きを放り投げ、すぐにリビングに向かった。

ご飯を食べて、お風呂に入った後、部屋に戻ってベッドに寝転んだ。

「ふぅ…」

顔を横に向けると、携帯があるのが見えた。

メールが届いているという合図の緑のランプが光っている。

正直、見たくなかった。でも、僕は変わったのだ。意を決して携帯を手に取り開いた。

着信履歴が1件とメールが1件。

ゴクリと唾を飲み込んで、メールの受信ボックスを見る。

メールの相手は佳祐だった。

渉、今日何履いて帰った?

その短い文だけがメールに書かれていた。

僕は、上履きで帰った。と返信した。するとすぐにメールが返ってきて、「今電話できるか」と訊かれた。僕は佳祐に電話をかけた。

「もしもし渉。」

「もしもし」

「今日、上履きで帰らせちゃってごめんな」

少し黙って、重い口を開く。

「佳祐が取ったの?僕の靴」

「いや…、俺じゃない」

「じゃあ誰が取ったの?美咲ちゃんたち?」

「ん…いや……」

佳祐は何故か言いたくなさげな感じだった。

「誰?佳祐、知ってるんでしょ?」

「まあ…」

「慎二…?」

「うん…」

「やっぱり、そうなんだ…。それで、何で佳祐が連絡くれたの?」

「俺も、やられた…」

「え?」

やられた?僕はその意味が分からず、佳祐に何があったのかを訊くと、物凄く言いづらそうに、佳祐は話し始めた。

「あいつさ。なんか今日ホームルーム終わったあと最近つるんでる奴らとすぐに出ていってさ…」

「うん」

「まあその時は普通に遊びにでも行くのかなとか思ってたんだよ。んで、俺が下足箱んとこ行ったら渉の靴が無くて。」

「なら、僕に言ってくれたら良かったのに」

「靴取り返してから渉に返そうと思ってたんだ…」

僕は少し黙って、「それで、どうしたの…?」と言った。

「それでさ、俺慎二たちを探しに行ったんだよ。そしたら駄菓子屋近くの小さい公園で見つかってさ。あいつらの側に渉の靴落ちてたから、返してやれって言ったんだ」

「うん」

「したら…、慎二と言い合いになって…喧嘩になったんだ」

「え…?」

小学4年生の頃、慎二が喧嘩した時のあの顔が頭に浮かんだ。

「あいつ、やべぇよ。あんな顔見たの、あの時以来だ」

あの時というのは、恐らく僕が今思い出している小学4年生の頃の話だろう。

「佳祐…、怪我は…?」

「情けない話だけど、負けたわ。結構ボロボロ」

佳祐は笑いながら言っていたが、その声からは悔しさや、悲しさが感じられた。

「やっぱつえーな。あいつ……」

「うん…」

「でもさ、靴は取り返したから。明日の朝、渉の家まで届けてやるよ」

「ありがとう…」

「おう、じゃあ明日な」

佳祐が電話を切りそうになった時、僕は、あっと言って佳祐を止めた。

「あの、佳祐…」

「どうした?」

「もしかしてなんだけど、体育の時間、慎二たちに何か言ってくれた…?」

「まあ…言ったけど、そりゃ…友達がいじめられて何も言わないやつはいないだろ。恥ずかしいからこんなこと言いたくなかったけど」

僕はすごく嬉しくなって、目頭が熱くなるのを感じた。

「ありがとう…佳祐…」

「いいって別に、んじゃまた明日な〜」

佳祐は笑って答えた。また明日と言って電話を切る。

僕はいい友達を持った…としみじみ実感した。

佳祐の怪我はどれくらいのものなんだろう。

重症じゃないといいんだけど…。

僕はその日、色々あって疲れたからか、早々に眠りについてしまった。

2019年4月22日公開

作品集『マニア』第4話 (全5話)

© 2019 じゃじゃ馬ぴえろすたー

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