麻美ちゃん。泣いてたな…。
電話とかした方がいいのかな……。でも電話して、何て言えばいいんだろう…。
あの後1人家に帰った僕は自室に向かい勉強机に座って今日のことを考えていた。
さっきまでの本当のことを言ってやろうなんて勢いも無くなり、テンションは落ちていくばかりであった。そして思い出す麻美ちゃん。
彼女のこと悲しませてばっかりだ…。
僕がもっとちゃんとしてれば、こんなことにはならなかったのに…。
携帯を取る。そして僕は電話をかけた。
「もしもし、あの。今から会えないかな…」
いつもの公園ではない、小さな公園のベンチに僕は今いる。麻美ちゃんの家から近くの公園だ。
16時。自分よりも小さな子供たちが遊んでいる。みんな楽しそう。
もう20分くらい待っているのだが、麻美ちゃんは現れない。やっぱり…、今日会うのは嫌になったのだろうか。電話ではいいよ…と、小さな声で言っていたのだが…。
「はぁ…」ため息が出る。
付き合うって難しいな……。
「渉くん…」
顔を上げると麻美ちゃんが立っていた。
「麻美ちゃん…、もう来ないかと思ったよ。」
彼女は僕の隣に座った。「ごめんね、時間かかっちゃって。」
麻美ちゃんの目、ちょっと腫れてる…。
「全然いいよ、飲み物でもいる?」
「ううん。大丈夫…」
「そっか……」
子供たちの楽しそうな声。あの子達と変わりたい……。あぁ。黙っててもダメだ…。ちゃんと話さないと。
「あ、あの…、今日はごめんね…」
「ううん…」
麻美ちゃんはずっと俯いている。そして口を開いた。
「話って…、なに?」
「え、あ。うん…話っていうのは…」
ちゃんと、言わないと……。ハッキリさせないと………。
「まだ、僕達付き合って1ヶ月くらいだね」
「うん…」
「その…、今日考えてたんだ。いっつも麻美ちゃん悲しませてばっかりだなって…」
彼女は黙って聞いている。
「正直さ、付き合うとかって全然良く分からない…。意外と難しい…、恋人って。」
やはり彼女は何も言わず、僕は続けた。
「それでさ、今日はちゃんと言おうと思って…」
麻美ちゃんは顔を上げなかったが、泣いているのがわかった。
「うん…」
「こんなんだけど…もう麻美ちゃんのこと悲しませないよう、不安にさせないように頑張っていきたい…」
麻美ちゃんの顔が僕に向く。
「だから…、これからも、よろしくお願いします…、それから今日は本当にごめんなさい…」
彼女は僕に抱きついた。細い腕が僕の身体を強く包む。
「バカ…、渉くんのクソバカ……」
「ごめん……」
公園にいた子供達は僕達のことを見ていたけど、そんなこと関係なかった。僕は彼女を抱きしめる。そして静かに泣きながら彼女が言った。
「振られるんだろうなって思ってた…もう終わっちゃうのかな……って……。良かった……」
僕の胸に顔をうずめる。シャツが麻美ちゃんの涙で濡れていく。
「天野さんとは…」
「いい。何も言わないで。何も無かったでしょ?何かあったとしても、無かったよね?」
「う、うん……」
「いいじゃんそれで…、私は渉くんのこと信じてるから……」
「ごめん……」
僕達はその後、手を繋ぎ近くを散歩した。
会話は相変わらず日常のことばかりだったけど、こういうのがカップルなのかな。そう思った。
彼女を家まで送ると、僕も帰路についた。
途中携帯を取り出す。まだやる事があった。
天野さんの連絡先を開く。
終わりにしよう…。もうどう思われたって…。
そんなこと、いいわけ無かった。
僕は麻美ちゃんも、天野さんも一緒にいたかった。麻美ちゃんと一緒にいる時だって楽しいし、天野さんと居る時も同様。
だから、天野さんに別れを告げるなんてことしたく無かった。
でも今僕が付き合っているのは麻美ちゃんで、優先しないといけないのも彼女だと。それが僕なりに考えた結果だった。
惜しみながらゆっくりと、携帯のボタンを押す。そして意を決し、電話をかけた。
コールが3回ほど続く。そして受話器を取る音。
「はい、もしもし。」
天野さんの声。
「天野さん、飛永だけど…」
「飛永くん…?」
「突然電話かけてごめん。ちょっと話したいことがあって。」
正直ちょっと泣きそうになった。
付き合ってもないのに、まるで恋人と別れるみたいな。気持ち悪いと自分でも思う。
「え、あ…、えと、明日じゃダメかな?」
「…いま、言わないと…、明日になったら言えなくなりそうで……」
「でも、今は……」
その時だった。電話越しに男の怒声が聞こえた。
「お前、誰と喋ってるんだ!?」
「あ……違うの…これは…」
何だ、何が起こってるんだ。もしもし?と声をかけても返答はない。
この男の声は誰だ…?心拍数は早まり、何が起こっているのか全然把握出来なかった。
「前電話してきた男か!!貸せ!!」
電話を奪い合っているのか、雑音と叫び声が響く。
「ちょっと…!待って!お父さん…!!」
え…、お父さん……?
「もしもし。またお前か!?」
またお前…?何のことだ……。
「な、何のことかわからないです…」
「なんだと?他にも男がいたのか里奈」
ちがうちがうと大声で言ってるのが聞こえる。そして父親と思わしき男は舌打ちをして言った。
「おいお前。次うちに電話かけてみろ、ぶっ殺すからな!」
そう言い捨て、ブツっと電話は切られた。
何なんだ今の…、天野さんは大丈夫だろうか…。お父さんって言ってたよな……。あれは、天野さんの父親だったのか…?
前電話してきたのは、多分………。
近くの電柱に寄りかかる。
あの怒声…、それに天野さんの恐怖している声……。
………虐待?
もしそうだとしたら…、僕はなんてことを…。
僕はなんだか怖くなって、走って家まで帰った。
家に帰り、お風呂に入って晩御飯を済ませる。携帯には麻美ちゃんからのメール。
だけど頭にあるのはやはり天野さんのことだった。ただ今回は天野さんへの想いというよりは、今日の電話の内容についてだった。
布団に潜る。
違う。もう天野さんは忘れるって決めたんだ…。彼女のことは、僕には関係ない…。
夢。僕はどこかの扉の前に立っていた。どうやらマンションのようだ。空は鉛色で雨もぱらついている…、ような気がする。
昼なのに薄暗く、視界がぼやけたみたいでハッキリと前が見えない…。
扉の向こうから男の怒鳴り声が聞こえる。僕はそこが天野さんの家なのだと悟る。
ドアノブに手をかける。扉は、ゆっくりと開いた……。
目が覚める。だらしなく涎が垂れ、枕についていた。
「うぁ…やっべ……」
身体がだるい。昨夜はいまいち寝付けなかった。何だか今日は学校に行きたくない…。
携帯にはやはり麻美ちゃんからのおはようとのメール。こればっかりは直してもらいたい。いや、直してもらおう。ちゃんと言えばやめてくれるはず。
僕は重い身体を起こし、勉強机に座った。
そして少しボーッとして、ため息をつく。
行こう…。天野さんは来てるだろうか。
歯磨きと洗顔を終え、着替えた後、5個入りのチョコクリームパンを2つ食べて僕はそそくさと家を出た。
しかしながら、今日はほんとに身体もだるければ気分も上がらない。
憂鬱な気分のまま、学校の校門前に着く。
またため息を1つした時だった。
ランドセルを後ろからクイッと軽く引っ張られた。
「よう渉」
「慎二…」
「なんだよ元気ないじゃん。麻美ちゃんと別れたか?」
茶化すように言ってくる慎二にムッとする。
「別れてないよ。」
「ふーん。そうか」
ナーバスな為、僕は全然話す気にならなかった。2人無言のまま、教室へ向かう。
教室に入る直前に、慎二が口を開いた。
「渉、浮気したのか?しかも相手天野さんって聞いたんだけど」
僕は何も無かったように、表情一つ変えず応えた。
「美咲ちゃん…、達にも言われたけど、それ勘違いだよ。僕は何もしてない。」
美咲ちゃんなんて名前出したくなかった。あいつは佐藤だ。
慎二はあまり信用もしてなさそうに、ふ〜ん。と呟く。
そして一言、僕を見ないで言った。
「お前、立場考えろよ。」
冷く重い声だった。背筋がビリビリと感じた。それを言い捨てると、慎二は別の友達を見つけて、そっちへと駆けていった。
もう何年かの付き合いだが、慎二のあの声には聞き覚えがあった。
あれは、僕たちが4年生の頃。
公園で5年生3人組に絡まれて慎二が大喧嘩した日。慎二が殴りかかる直前に言った「ぶっ殺すぞ」という一言。あの時も今と同じような口調だった。それを言った時の慎二の目は据わっていた。
3人組の中で1人血の気の多そうな男子がいて、その男子と間もなく殴り合いが始まった。慎二も傷ついていたけど、それよりも相手がまるでボロ雑巾のようになっていた。
他の2人は慎二の容赦ない暴行にとてもじゃないが対抗しようと思わなかったようだった。それは僕たちも同じ、慎二はどう思っていたのかわからないけど、少なくとも僕はそこに慎二の「闇」を見た気がした。
倒れ込む5年生の顔面を、サッカーボールを蹴り飛ばすように思い切り蹴り飛ばした。2発目を入れようとした時、佳祐が「も、もういいだろ、慎二。やめとけよ」と慎二を抑えた。慎二は不満足そうな表情で舌打ちをして、人形みたいにぐったり倒れている相手に唾を吐きかけた。
基本的に、慎二は気の利く優しい少年だった。だけどその日、もう一つの慎二を、なにか見てはいけないものを見てしまった。そんな気持ちになった。
僕もあの時の5年生みたいになってしまうだろうか。
まさかな。
そうは思うものの、僕の腕には鳥肌が立っていた。
一人教室に入る。
教室内を見渡したが、天野さんの姿は見当たらなかった。
もうすぐ朝のホームルームが始まるっていうのに。
自分の席に座ると佐藤たちといる麻美ちゃんが僕に小さく手を振った。今日は笑っている。楽しそうだ。
この日。天野さんは学校に来なかった。
悪い胸騒ぎが、ずっとする。
僕は授業に集中することも、友達との話にも集中できず、ただ頭の中は天野さんのことでいっぱいだった。あんな電話の後だ。やはり気になるし、心配になる。
あっという間に、1日は過ぎた。
終わりのホームルーム。1日を天野さんのことを考えることで潰してしまった。
僕なんかが気にすることじゃないのに。
教卓の前先生が連絡を話している。親に見せるプリントを配っている。
早く帰りたい…。
その時。思い出したように先生が言った。
「あ〜、誰か。天野の家までプリント届けてくれないか?」
クラスがざわつく。家を知らないとか、話したことないとか。僕は下を向き、手を上げることは出来なかった。
行きたいのと、行きたくない気持ちがゆらゆらとしていた。正直行くのは怖い。あんな電話があったのだから、もし父親に出くわしたらどうしようと思う。そしてなにより、もう僕は麻美ちゃんを心配させたくなかった。
でも、様子がおかしい天野さんのこともとても心配だ…。
立場、考えろよ
立場…か。麻美ちゃんと付き合っているから僕は天野さんと何をするのも駄目なのか。
慎二は誰とも関係を持っていないから、天野さんに近づこうとしてもいいのか。
僕は少し考えたが、普通に考えてそうだろうと、思った。
でも僕は…。
ホームルームが終わり、皆が教室を出ていく。慎二が僕の方を見ることはなかった。
その日、僕は麻美ちゃんと帰路についた。
彼女は今日楽しそうだった。天野さんが登校しなかったから余計なストレスを抱えずにいられたのだろうか。無邪気な笑顔。いつもの他愛の無い話。麻美ちゃんはふと言った。
「渉くんと一緒にいれるの、すごい幸せ。ずっと続けばいいなぁ…」
僕はその時もまだ天野さんのことを少し考えていたが、それを言われて申し訳ないと感じた。
自分が別の人を考えている間も、麻美ちゃんは僕のことを考えてくれていた。
「うん…。そうだね。」
彼女の手を握る。はにかむ麻美ちゃん。
もうこれでいいんじゃないか?
今の幸せをわざわざ壊す必要がどこにあるのか。
愛してくれる人がいる。それもこんなに可愛くて良い子が。
僕は麻美ちゃんを家に送り届けると、どこにも寄り道することなく、自分の家まで歩いた。天野さんの家も、あの公園も。どこにも寄らず。
家に帰り、携帯を確認する。麻美ちゃん以外からは連絡は来ていない。
そういえば麻美ちゃんにメールの頻度を下げてもらうことを言うのを忘れていた。まあ、また今度でいいか…。
慎二は今何を思っているのだろう。
今日全然慎二と話さなかったな…
壊れていく。全部、壊れる気がした。
漠然とした不安感が胸の中を覆い尽くす。
全部、失って………怖い…。
僕はリビングへ逃げるように行くとおもむろにTVゲームの電源をつけた。
次の日も、その次の日も天野さんは学校に来ることはなく、彼女の来ない日が1週間ほど続いた。
ついでに佳祐や慎二とも日が進むにつれて会話をしなくなっていっていた。
最初は佳祐たちとのところにいたのだが、慎二が僕を輪に入れないように露骨に避けているのがわかった。佳祐はその度、慎二に何でそんなことをするんだ。と言ってくれていた。
そんな佳祐を見ている内に、僕は申し訳ない気持ちになり、自分からあの輪から距離を離していった。
そして、ついに学校にいる間はひとりの時間がほとんどになっていた。
麻美ちゃんも佐藤たちとの付き合いがある訳で、僕とずっと一緒にいれるということもないし。麻美ちゃんといる時間は次第に減っていき、メールばかりの関係になっていたが、そのメールも僕が返信を返す頻度を減らしたため、今となってはほとんど関わっていなかった。
誰と話すわけでもない。ただ学校が終わるのを待つだけ。別にいい…、僕は1人だって、別に。
家に帰ったらゲームをしよう…。
昨日はあのボスの所で詰まったんだっけ。全然勝てなかった。もう少しレベルを上げないとダメかな。
僕は最近、佳祐や慎二たちとあまり話さなくなったので、ひとり机で絵を描きながらクラスメイトたちの話し声に聞き耳をたてている。
どうやらみんなの噂では、天野さんは海外旅行に行ってるとかなんとか。でも、そんなの絶対嘘だ。
慎二は笑って普通にしてるけど、きっと彼も天野さんのことを考えてるに違いない。もし、本当に天野さんの家に電話したのが慎二だったとしたらあの父親のことも知ってるはずだ。
今日も何も起こることなく、学校が終わった。
麻美ちゃんが佐藤たちと帰ったので今日は僕ひとりで家に帰ることになった。携帯には、やはり麻美ちゃん以外からの連絡はなかった。
その内容も相変わらずで、日常に関する、所謂どうでもいい話だった。
ため息が出る。「ゲームしよ…」
明日もどうせ何も起こらない。学校で1日ひとりで過ごして、家に帰ってゲームして、お風呂入って、ご飯食べて。寝る。それの、繰り返し。
憂鬱な朝だった。学校に行っても何も楽しいことがないから。体調が悪いとかなんとか言って、休んでしまいたい気分。
そんなこと言って僕の親が許してくれる訳もなく、その分かりきった答えをわざわざ聞くなんて無意味だと思うし、重い身体に鞭打って僕はまた学校へ向かった。
9月。まだ全然暑い。アスファルトから熱気が上がる。頭が働かない。ただ、怠い。
いつか先生が言ったことを思い出す。
「学校は勉強するためだけの場所じゃない。友達や、色んな人とのコミュニケーションを育む場所なんだよ」みたいな。
友達との交流が無くなりつつある僕が学校に行く意味は勉強以外残っていないのだろうか…。
ため息が出た。何だかしんどくなって俯く。
もはや僕は誰かに話しかけるのが怖くなっていた。
僕と天野さんに関する噂、佳祐たちのグループから外されていることはすぐにクラス中に広まって、みんなもそんな僕を何処と無く避けるようになっていた。
そうして自信は無くなっていき、話しかけても相手に迷惑がられる気がしてならい。といった状況が今現在の僕だった。
学校に近くづくにつれ、生徒達が増える。みんな楽しそうに笑ってる。そんな声がすごく怖く感じた。みんなの声を遮断したかった。みんなには友達がいるのに、僕にはいない。
一人……
息が詰まる。身体のどこも悪くないはずなのに、何故か息苦しい。
メールなんかじゃなくて、僕自身と…、僕と一緒に……。
麻美ちゃんにそれを直接言えばいいじゃないか。言わないと始まらないぞ。なんて、思われるかもしれないけど、それこそ面倒がられるだろうし、何より僕が伝えないと来てくれないのならもう来てほしいとも思わなかった所詮その程度の付き合いなのだ。
僕がずっと1人でいても、彼女は特に気にかけてくれない。
なんて、わがままだろうか。
もう何も考えたくない。
校門をくぐり、校庭を通り、下駄箱を抜け、気づいた時には僕は教室に入っていた。
今日も、1日が始まる。
自分の机に座る。ガヤガヤとした、僕なんていないみたいな、教室。
天野さんの席を少し見た。天野さん、何してるんだろう。
丁度その時だった、優しく肩を叩かれた。
僕は驚き、久々に人と話すため、緊張したようなぎこちない笑顔で振り返った。
「飛永くん、久しぶり」
忘れよう、もう終わろうと思っても、全然忘れることができない、あの日からずっと僕の頭の中から離れない女の子。
「あ…天野さん…」
僕はあまりに突然の事で言葉が出なくて、とりあえず落ち着こうとした。彼女は僕の斜め後ろから正面へとゆっくり移動して、机の前に腰を屈めた。その時気づいたのだけど、クラスのさっきまでのガヤガヤとしてい
た話し声が少し収まり、何人かがこちらを見てコソコソと何かを話していたのがわかった。もちろん佐藤たちや、麻美ちゃんも。
「調子どう?」
天野さんの声だ…。本当に、久しぶり…。
「うん、すごい良い感じだよ」
本当はそんなことなかったけど、天野さんが話しかけてくれて少し元気が出た。これは多分、久しぶりに誰かと話せた喜びもあったのだと思う。
すると天野さんは微笑を浮かべて言った。
「嘘だ。しんどそうな顔してるよ」
顔が緩むのが分かって、焦って目を伏せる。
「天野さんは、何してたの…」
緊張して、声が震えた。
天野さんは何も答えなかった。
う〜ん…と唸って困ったような顔を見せる。
「今は、言えないけど…」
上目遣いに僕を見る。長い睫毛、潤った唇。
夏祭りの日のことがフラッシュバックする。
「飛永くんに会いたいって、ずっと思ってたよ…」
「え…」
心臓が高鳴る。天野さんは僕に、会いたいって思ってくれてたんだ。
「あの……」
僕は…。
口を開こうとした瞬間。
天野さんの頭に何か飛んできて、彼女の頭に当たった。僕も天野さんも呆然とする。
何が飛んできたんだ。机の下を見る。
そこにはクシャクシャにした紙の塊が落ちていた。
飛んできた方向を見ると、佐藤を囲むように麻美ちゃん達が居て、机の上にはページがちぎられたノートがあった。
教室が静まり返っている。さっきまでと同じ場所とは思えないほど、静寂に包まれていた。
僕は、何も声を出せなかった。一体今どういう状況なのか、整理することでいっぱいだった。
天野さんも佐藤の方をじっと見ている。
「また浮気かよ」
佳祐たちのいる後ろの方から、そう聞こえた。
この声は、多分。慎二。
天野さんがゆっくりと僕の後ろを見やった。
僕も振り返ると、佳祐がキョトンとしたような顔で慎二を見ていた。そして口を開く。
「やめとけよ、慎二…」
「黙ってろよ佳祐。悪いのは渉だろ。」
「でもみんなの前で言う事ないだろ…」
「黙れよ!!」
慎二のあの目…。僕と佳祐だけが知っているあの時の目。佳祐は思わず黙ってしまった。
そしてクラスがざわつき始めた。
「浮気…?」「え、飛永くんって誰かと付き合ってたの…?」「飛永くんってやっぱり浮気してたの?」「やばくない?」「麻美ちゃんかわいそう……」
何だよこれ…、こんなの、いじめみたいじゃないか…漫画やドラマの中だけのものだと思ってたのに…、まさか…こんな…。
天野さんの方に顔を向ける。すると、僕がこんなに恐怖してしまっているというのに、天野さんは特に恐れているような感じでもない表情だった。そして天野さんは僕に優しく言った。
「何か、私のせいでごめんね。じゃあね」
自分の席に向かう天野さん。
天野さんは悪くないって言いたかったけど、僕は彼女を引き止めることが出来なかった。
今、自分がどんな立場になってしまったのかということを考えると、とても怖くて。
クラスはまだみんながざわついている。何も、聞きたくなかった。
そして間もなくして、チャイムが鳴り先生が入ってきた。
その日の2時間目。体育の時間。
男女別の場所で着替えている時だった。
僕達男子は自分たちのクラス。女子は隣のクラスだった。
1時間目の授業なんてまるで集中出来なかった僕は、皆を恐れながら体操服に着替えていた。
体操服のシャツにささっと着替えて、ズボンを脱ぎ、体操ズボンに着替えようとした時僕は誰かに後ろから蹴りを入れられた。大きく倒れる。驚いて声も出ない。その誰かが僕のズボンと体操ズボンを奪い取った。目の前にいたのは慎二だった。
そして慎二はイラつきをいつもみたいに隠すのではなく、誰が見てもわかるような口調で言った。
「お前、何なんだよ」
僕はパンツ姿で、慎二の僕を睨む目に圧倒されていた。同じくらいの体格なのに。物凄い恐怖を感じている。
「な、何って…」
「渉、お前いい加減にしろよ」
頭を掻きながら、僕の席の後ろの机に座った。僕は佳祐を探した。いない…。そういえば佳祐は体育係で、みんなより先に行って準備をしないといけなかったんだっけ…。
「そんなこと…言われても……」
「あ?」
「体操服…、返してよ……」
「あ〜、これ?」
浮気なんてしてないとは、とても言いきれなかった。何を言っても慎二の怒りをさらに強める気がして。
「か、返して…」
僕の声も虚しく、慎二は持っていたズボンと体操ズボンを廊下に投げ出した。外から女子の驚いた声が上がる。
「ほら、取りにいけよ。」
こんなパンツ姿なのに、女子のいる廊下になんてとても行けない…。でもこのままじゃ…。
僕はゆっくり歩き出した。みんな僕を見ている。怖い。誰も、助けてくれない。
ドアの近くまで来た時、耳に響く大きな音が背後から聞こえた。
振り返る。僕の机が倒れ、教科書やノートが辺りに散乱していた。慎二が机に座り足をプラプラとさせている。周りでくすくすとみんなが笑っている。
多分。蹴り飛ばされたのだろう…。
慎二は机から離れると、みんなに、行こーぜと言った。そして僕を真っ黒な瞳で一瞥すると廊下へと出ていった。
もう体育なんて行きたくはなかったけど、僕はとにかく体操服に着替えないといけない思い、ドアに手をかけた。
そうだそうだ、プールの時間は男子ほぼ裸じゃないか…。大丈夫。大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせ、ドアを少し開けると目の前に天野さんがいた。
「あ、これ。飛永くんの…」
天野さんの手には僕のズボンがあった。
パンツ姿で立ち尽くす僕は実に情けなかった。
特に恥ずかしがる様子もなく、天野さんは、僕にズボンを渡した。その場でさっと着替える。
「ありがと………」
廊下を見ると慎二たちや、佐藤たちもいた。
麻美ちゃんもこちらを見つめていた。
「服、外に出されたの?」
「い、いやぁ。ちょっと遊んでて…」
僕は苦笑いを見せた。天野さんに、弱い所をあんまり見せたくなかった。でも多分、察したんだろう。
天野さんは僕をじっと見て「楽しくなさそうな遊びだね」と言った。
僕は自分の情けなさに恥ずかしくなる。
「一緒に、行こうよ」
天野さんが言ってくれた。教室にいたみんなも続々と外に出て行って、廊下にも誰もいなくなっていた。
教室の中を覗く天野さん。
「あっ…」
自分の机がひっくり返されてるなんて、知られたくなかった。でももう遅かった。天野さんは僕の机を見て、罪悪感を感じたような、少し沈んだ表情になった。
彼女が教室の中に入り僕の机に向かう。散乱している教科書類。天野さんは黙ってそれを片付け始めた。僕もそこに行き、黙々と教科書やノートを拾う。
「ごめんね」
いつもの微笑はそこに無かった。後悔してるような、そんな表情。
「いや…。天野さんが、謝ることじゃ…」
彼女は苦笑いを見せた。
「優しいんだね…」
優しいだなんて、そんな訳無かった。
何も優しいことなんかしちゃいない。僕がこうされるのは、わがままな僕が欲張ってみんなに嘘をついた当然の報いだったのだろう。
「全然…、優しくなんかないよ。」
ノートや教科書を拾い集めていくうちに、いよいよ授業に行くのが嫌になっていく。
慎二たちや、佐藤たちの顔なんて見たくなかった。今は麻美ちゃんにだって…、会いたくなかった。
僕は手を止めた。座り込み、深くため息をつく。天野さんは僕の机を立てると、僕の正面に座った。沈黙が流れる。
彼女は黙って、僕を見つめていた。
「天野さんは…、大丈夫だった?」
「え?」
「何か、酷いことされなかった?佐藤…、いや美咲ちゃん達に。」
首を振る天野さん。
「大丈夫だよ。陰口は、言われてたけど…。あんまり、そういうの気にならないし。」
「へえ…、天野さん、強いんだね」
「別に強くなんてないよ。」
「強いよ、僕なんてビビっちゃってまるでダメなんだ。みんながどう思ってるのか、何を言ってるのか、すごく気になる。」
僕は弱い所を見せたくないと思っていたのに、この時無意識のうちに自分の弱い所をさらけ出していた。
弱い所を見せて、天野さんに面倒臭いと思われたくなかったのだけど、今のこの気持ちを抑えることが出来なかった。誰かに聞いて欲しかった。
「飛永くんは、みんなにどう思われてるか気になるんだ」
「うん…すごく。」
「そっか…、まあ、そうだよね…」
小さく笑って、そして続けた。
「みんなに嫌われたくないってことは、多少なりとも関心があるっていうことだよね…」
「関心っていうのは…、また違う気がするけど…。」
「まあ確かに、ちょっと違うかも…。とにかくさ、二兎追うものは一兎も得ずって言葉があるのに、色んな兎を捕まえようとするなんて、絶対無理だと思わない?」
そう言うと急に天野さんはキョトンとして「あれ?」と言った。
僕も黙ったまま天野さんを見つめていた。
そして天野さんは吹き出し、クスクスと笑いながら言った。
「ごめん。私、何言ってるかわからないね」
「なんとなく、わかるよ」
僕は何も言わず彼女と一緒に笑った。誰かと自然に笑うのは久しぶりな気がする。
誰もいない教室で、ふたりの笑い声だけが響く。
笑いが収まってきた頃、僕は「やっぱり、天野さんといると楽しい」とつい言ってしまった。すると天野さんも笑顔で「私も、楽しいよ」と答えた。
その時僕はふいに思い出した。
「そういえば、天野さん。家、大丈夫だった…?」
天野さんは微笑を浮かべたままだったが、暗さが混ざったような表情になった。
「飛永くんなら…言ってもいいかな……」
心臓が大きく鳴っている。
「うん…」
「嫌わないでね。」
「嫌いになんかならないよ。絶対」
ゆっくり俯く天野さん。
「私…」
僕はそれを聞いて、ショックを受けた。
さらに天野さんのことが頭の中にこびりついて、もう二度と忘れることは出来なくなってしまったと、そう思った。
"第3話"へのコメント 0件