プロローグ
屋上が朝日に照らされる。
私が少し前まで住んでいた古いマンションの屋上。落下防止の白い手すりも錆びている。
久しぶりに見る早朝の街は寂しい雰囲気に包まれて、私の感情も静かにゆったり落ちていく。
今まであったこと、そしてこれからのことを考えたら胸の中に漠然とした不安が広がった。
君は黙って座り込んで、目を細くして眩しい光を見つめている。少し伸びた黒い髪が風に煽られてふわふわと揺れている。
「髪…、ちょっと伸びたんじゃない」
ゆっくりと俯いて君は応えた。
「そうだね。目にかかってちょっと邪魔かも。後で前髪切ろ…」
「私も、短く切ろうかな…」
沈黙。車と、バイクの音。鳥の声。
君はやはり、朝を迎えた街の方をぼーっと眺めながら言った。
「きっとよく似合うよ。」
私たち、これからどうなるんだろう。 まだ、子供で世の中のことなんて全然わかんないのに。
第1話
小学6年生の7月下旬。
僕は一人で公園にいた。昨日23時に寝ないといけない約束を破った罰としてゲームソフトを父親に壊されてしまったのだ。今日は土曜日で父親は休み。家にいるのも気分が悪かった。
没収とかならまだ分かるけど…、壊すことないのに…。
蝉が大声で鳴いている。この蝉たち、何をそんなに叫んでいるんだろう。耳が痛い。太陽が僕の影を地面に焼き付け、汗が滴り落ちる。
日陰のベンチに移動した。さすがにこんな猛暑日は全然人がいない。誰もいない公園はまるで夢の中のようだった。変な感じ。そして感じる虚無感。でもそれが少し心地良いとも思った。
僕の隣に誰か座った。こんな日に外に出るなんて、馬鹿だ……、僕もだけど…。
横を見やると、そこには実に見覚えのある女の子がいた。
「天野さん」
天野 里菜。僕と同じ小学校に通う女の子。1年の頃から何度か同じクラスになったこともあれば、隣の席になったこともあるが、たまに話す程度の中で、深く関わったことは無かった。
「飛永くん。こんな暑い日になんで公園なんて来てるの?」
「別に。何でもないよ。ただ、何となく家に居づらくて」
天野さんはふ〜ん。とだけ言った。
「天野さんは?どうしたの?」
「うん。まあ、それはそれとしてさ。」
僕の質問は呆気なく流された。なんだこいつと思ったけど、天野さんは続けて話した。
「このギャーギャー、ギャーギャー元気に鳴いている蝉たちって、何でこんなに鳴いてるか。飛永くん知ってる?」
僕は黙って首を振る。
「求愛行動らしいよ。蝉は皆叫んでるんだって」
なんとも不気味で、それでもどこか惹かれてしまうような笑み。
「セックスしよう、セックスしようって。夏は性欲まみれの叫びで街中溢れかえるんだね。」
僕は顔を真っ赤にした。何を言い出すんだ天野さんは。僕達まだ小学生なのに…
「そ、そうなんだ。知らなかったよ」
「ホント。気色悪い…」
虚ろ。天野さんは目を伏せた。地面に目をやり、ボーッとしている。そして、ふと立ち上がり、歩き出した。
少し距離を置いて、僕の方を振り返り小さく手招きをした。
僕も何もすることがなかったし、退屈だったので天野さんに付いていくことにした。
彼女の3歩後ろ辺りを歩く。公園の木々が並ぶ散歩道に入っていく。
蝉の声はますます大きくなる。この蝉たちが皆「セックスをさせてくれ」と叫んでいると思うと、また恥ずかしくなった。
天野さん。華奢なスタイル。汗ばんだ首筋に細いロングの髪がペタッと引っ付いている。綺麗な白い肌。
鼓動が早くなり、僕は唾を飲み込んだ。
「ねえ。」
天野さんが突然立ち止まった。
「ん?な、なに?」
「虫取りしようよ」
笑顔で振り向き言う。僕も、いいよ。と笑って頷いた。
僕達は2人で大きな木に登った。少し斜めに傾いた木で天野さんも僕も、簡単に登れる。
「虫、女子なのに大丈夫なの?」
「うん。別に平気…」
珍しい。男子も勿論嫌いな人はいるが、クラスの女子は大体みんな虫が嫌いだ。前にクラスに大きなアブが入ってきた時、クラスは大パニックになって、泣き出す女子も何人かいた。
そういえば…、天野さんあの時も落ち着いてたっけ…。
「取れた!」
天野さんが声を上げる。右手には1匹の蝉。ジワジワと鳴いている。彼女は得意げな顔を見せた。胸が大きく脈打ち、締め付けられるような感覚。
同じクラスにも、隣の席にもなったことがある天野さんだけど、こんな近くで顔をしっかり見たのは初めてで、僕はその今まで知らなかった可愛い顔に心を高ぶらせた。
「早っ、僕も早く捕まえなきゃ」若干目をそらしながら言ってしまう。ここに来て、少し緊張してきた。
「頑張って。飛永くん」
僕もなんとか蝉を取って、2人で下に降りた。
「蝉なんか取ってどうするの」
ふっふっふっ。と彼女は笑ったかと思うと、木に思い切り蝉をぶつけた。そして地面に落下する。
「虫、命取り〜」天野さん近くのは石を持って蝉を叩き潰した。何度も、何度も。
「ちょ、天野さん!やめなよ!可哀想だよ!」
僕は彼女の腕を掴む。彼女は息を切らしていて、石を離し、座り込んだ。蝉はグチャグチャになって原型を留めず、内蔵も飛び出してペシャンコになっていた。僕も持っている蝉を逃がし、彼女の前に腰を下ろした。
「天野さん…」
「だって、気持ち悪いじゃん。コイツら…」
「で、でも…」
天野さんはゆっくり立ち上がり、水道のある場所まで歩いていった。僕も後を追う。
公園の水道で、喉を潤し、顔を濡らすと彼女は「ごめん」と一言詫びた。
「僕はいいけど、天野さん…大丈夫?」
微笑を浮かべると、肩をすくめて僕に歩み寄った。
「飛永くんって好きな人とかいるの?」
彼女の突然の質問に、思わずたじろぐ。
「あ、ええと…いやぁ…」
妖しい笑みを浮かべる天野さん。
「私と。してみたい…?」
「し、してみたいって…」
彼女の目線は木々のある方へ向けられた。
聞こえるのは蝉の大きな鳴き声…。
僕は恥ずかしのあまり顔を真っ赤にして、少し後退した。しかしすぐに距離を詰められる。
「飛永くんならいいよ。」
誘惑してくる。頭がゴチャゴチャになる。緊張のあまり声が震えた。
「い、いや、遠慮しとくよ…!僕、どうすればいいのか分からないし、それに…」
「それに?」
「そ、そういうのって、ちゃんとお互い好き同士じゃないと…ダメな気が……」
彼女の表情が固まる。じっと僕を見つめた後、ケラケラと笑い出した。
そっか…まあ、そうだよね。とかなんとかブツブツ言いながら辺りをうろうろしている。
つまらない奴と思われただろうか。
正直、そういうことに興味が無いわけではもちろん無い。むしろ普通にあるし、セックスもしてみたい。でも、あのまま流されるのは何か違う気がして…。
「ねぇ、夏休み暇?」
「あ、うん、まあ暇だけど…」
「じゃあ夏休みも遊ぼうよ」
さっきまで性行為を誘ってきていたとは思えないほど可憐で、純粋そうな女の子。
つくづく女の子というものは分からない生き物だと感じた。
僕は頷き、「携帯の連絡先でも交換しようか」と言った。すると彼女は困ったふうに「ごめん、私携帯持ってないの」そう答えた。
「飛永くんに私が電話かけるよ。」
「僕は連絡どうしたらいい?」
「私が連絡するから飛永くんは待ってて。」
天野さんは少し困ったような表情を見せてそう言った。「そう…?」一言呟いて、彼女に僕の携帯番号を教える。すると天野さんはそれを何度も復唱した。
どういう事なんだろうか。電話をしてほしくないのだろうか。しかし僕は特に掘り下げることもなくその日は夕方まで公園で過ごした。
空が綺麗な朱色に染まった頃僕達は別れた。
「バイバイ天野さん」
「うん、また学校でね。」
家に着いた僕はクラスの連絡網を出して彼女の名を探した。
「天野里菜……」
あった。住所も電話番号も載っている。
別に家に電話がないわけじゃないのか。
僕は何をしているんだろう…。何か恥ずかしくなって、そそくさと連絡網を片付ける。
暑い中公園でずっと過ごしたせいで身体は疲労感で一杯になり、眠気もかなりあったため、夕飯を済ませてお風呂に入った後はもうすぐに自分の部屋で布団に入った。
頭の中は天野さんで埋め尽くされていた。今日あったことは僕には衝撃的なことばかりだった。
一体どんな人なんだろう。天野さん。
知りたい、彼女のこと。
胸がキュッと締め付けられる。彼女の笑顔が瞼の裏にはっきりと映る。これは。恋なんだろうか。
夢を見た。
天野さんと僕はどこかわからない公園の木の上で話していた。木が夕日に照らされて赤くなっている。白いワンピースを着た天野さんがにじり寄ってくる。腕を僕に絡めてきつく抱いた。
彼女は何も言わない。僕も何も言わず抱き返した。
着信音。僕はパッと目を覚まし、天野さんからだと思って電話を取った。
「はい、もしもし…!」
「おー。渉〜、今日暇〜?」
「なんだ佳祐か。」
「起きるの遅ぇな。今から慎二と遊ぶんだけど渉も来るだろ?」
谷川佳祐は僕の友人で小学3年からの付き合いだ。
さわやかな少年で、特にスポーツをやってる訳でもないのだが、何故か足が早かったり、運動に長けてたり。あとコミュニケーション力があったりで、男女問わずそこそこの人気があり、佳祐のことを好きな女子を僕は3人は知っている。
そして福本慎二。もともと佳祐と一緒にいた男子で、おっとりした顔立ちをしているが、実は負けず嫌いなところがあり、体育でサッカーとかした時も全力で点を取りに行くタイプ。
そして慎二は、僕が今いろんな意味で1番気になっている天野さんに好意を寄せていた。
「うん。準備したら行く」
さっと支度を済ませ、僕は佳祐の家に向かった。
インターフォンを押すと「ちと待っとれ〜」と佳祐の気の抜けた声が聞こえた。
ドアが開き、圭介が出てくる。
「よっす」
家に入って2人でTVゲームをしていると慎二もやって来て3人でいつもの様に遊んだ。
ある程度ゲームも飽きてきた頃、佳祐が面白い話題を切り出した。
「そういやさ、8月の夏祭り、美咲たちが一緒に行こうって言ってるんだけどいい?」僕と慎二は顔を見合わせ笑みを浮かべた。
「マジ?他誰来るの?」慎二が興味ありげに訊く。
「え〜と、美咲と、香織と、麻美、あと風ちゃん。」
「渉〜、良かったなぁ、麻美ちゃん来るって〜」
「な、なんだよ別になんもないよ」
佳祐と慎二がニヤニヤと笑ってる。
江川麻美。同じクラスの女の子だ。
何故2人がこんなに茶化すようなことをしてるかというと、どうやら麻美ちゃんは僕のことが好きらしい。何となくそんな気はする事もあったのだが、確信への決定打となったのは、以前佳祐が僕に「麻美ってどう思う?」と訊いてきた時だった。教室の美咲ちゃんの席の周りにいつもの女子のメンバーが集まって、こっちをチラチラ見てるのが分かったし。
タレ目で可愛らしい顔立ち、そして女の子らしい麻美ちゃんの事を僕も普通に好きだったので、「可愛いし、いい子なんじゃないかな」と、そう応えた。するとそれを佳祐が麻美ちゃんたちにバラした結果、僕も麻美ちゃんのことを恋愛対象として見てるものと解釈されたらしい。
この後これといって何かあるわけでもなかったし、ハッキリ告白されたわけでもないので、今まで通り友達としての付き合いを続けていた。
ただ、やはり僕に好意を持っているのかと思うと、麻美ちゃんを意識してしまう自分が確かにいた。
「あ〜あ、天野さん。来ないのかな〜」
慎二がそう言って僕はドキッとした。慎二は小学5年生の頃、突然天野さんのことを好きになったと僕達に告げた。
理由はわからないが、今まで話したとこも全然なかったのに、突然好きになったらしい。
「天野さんは来ないだろ、美咲たちといるとこ見たことないし、てかずっと1人じゃね?何考えてるのかよく分かんねぇよな〜」
「確かに」僕と慎二は2人頷いた。「でもそこがいいんだよなぁ。ミステリアスっていうか。なんというか。」慎二は笑顔で言った。昨日の天野さんのことを話そうかと思ったけど、話すと慎二がご機嫌斜めになることを知っていたので、僕は黙っておくことにした。
次の日。学校で天野さんを見たけど、いつも通り1人机で何か本を読んでいた。彼女が読んでいたのは小説ではなく漫画だった。
何を読んでいるのか、じっと目を凝らす。ホラー漫画…?怖そうな絵が描いてある。なんてタイトルの漫画なんだろう。
天野さんには滅多に誰も話しかけないし僕も何も話さなかった。
いつも通りの日常。
家に帰ると携帯に電話がかかってきた。携帯の液晶にはこの前連絡網を見て登録したばかりの「天野さん」の文字があった。
「天野さん…!」
僕はランドセルを放り投げて、電話に出る。
「も、もしもし?」
「あ、飛永くん?これ、番号合ってる?大丈夫?」
「うんうん、合ってるよ!どうしたの?」
彼女でもなんでもないのに気分が舞い上がっているのが自分でもわかる。
「よかった、あのね夏休みの話なんだけど」
「うんうん」
「夏祭り、一緒に行かない?」
夏祭りに誘われた!生まれて初めて、女の子に誘われてしまった!
僕は嬉しくて顔が思い切りニヤけてしまう。
だけどすぐに佳祐たちとの約束を思い出して落胆した。
「ごめん…、一緒に行きたいんだけど、佳祐が美咲ちゃんたちと行くって言ってて…」
「えっ、そうなんだ、そっかぁ…」
「もしよかったら、天野さんも一緒に行く?僕から佳祐に言うよ?」
「いや、私いいやっ。楽しんできて」最後にじゃあまたね。と、言って電話を切った。
心底ガッカリする。深くため息をついた。
「天野さんと、行きたかったな………」
やけになってソファに飛び込み、クッションに顔をうずめた。
終業式も終わり、夏休みに入った。天野さんからの連絡も無く夏休み最初の何日かは佳祐の家で遊んだり、家族で出かけたりして過ごした。
この数日間。誰と遊んでも、まるで心にすごく濃い靄がかかったかのように、文字通りモヤモヤしていた。誰と遊びたいのか、誰に会いたいのか。考えた結果はいつも同じだった。
そして8月4日。夏祭りの日。
僕は用意をして待ち合わせ場所の公園に向かう。
楽しみじゃないわけじゃないけど、ほんの少しだけ足取りが重い。しかし祭りは祭りだ。佳祐たちもいる事だし、楽しもう。
そう考えていると、いつの間にか公園に着いた。公園には慎二と麻美ちゃんと風ちゃんの3人が見えた。僕の姿を確認した慎二は手を振った。僕も小走りで3人のもとに向かう。
「おっす、渉」
「早いね慎二たち」
僕は麻美ちゃんをチラッと見た。沢山の花が描かれた薄ピンクの浴衣姿。髪をサイドアップにセットしてる。麻美ちゃんはニコッと笑って、こんばんは。渉くんと言った。
「今日は浴衣なんだね」
笑って言う。
「うん、祭りだから。これ、どうかな。変じゃない?」麻美ちゃんは浴衣の裾を掴み、ヒラヒラとさせてみる。
少し頬が熱くなるのを感じる。素直に可愛いと思った。
「う、うん、いいね。いい浴衣だよ、可愛い…」
照れくさそうに返答すると慎二と風ちゃんは笑った。「いい浴衣ってなんだよ」
僕がモジモジと困っていると、少し遅れて佳祐たちもやって来た。
「おーーっす、みんな揃ってるな〜」
「おっそいわ、佳祐」慎二は佳祐の肩に手をやって言った。
「悪い悪い、コンビニ寄ってた。んじゃ、行こうか」佳祐がそう言うと、僕達は祭りやっている河川敷まで歩き出した。美咲ちゃんたちは麻美ちゃんを僕のところに行かせようと、「早く行きなよー」なんてやっている。佳祐と慎二も僕に「話せよ話せよ」とニヤニヤ笑いながら言ってくる。
そうしてみんなの仕組まれた並びになった結果、麻美ちゃんと隣になった。
いつもと違う麻美ちゃんの姿に、僕はドキドキしていた。麻美ちゃんもどこか緊張してるような、そんな表情だ。
「あ、あっち着いたら、何買おうか。」
「え〜、どうしよう。りんご飴食べたいな〜」
「いいねりんご飴、美味しい。僕焼きそば食べたいな。お腹減っちゃった」ヘラヘラとしながら言う。
麻美ちゃんは地面を見ながら歩いている。そして彼女は振り絞ったような小さい声で言った。
「い、一緒に食べようね」
ドキッとする。麻美ちゃん、顔赤い。
「うん…」
夏の夜空の下をみんなで歩く。いい雰囲気だ。祭りの屋台の匂いと人のざわざわとした声、ウキウキする。
「天野さんいねーかなぁ〜」
僕はひっそりと聞き耳を立てた。慎二が急に天野さんの名前を出した。
「まだ言ってたのかお前」佳祐が笑って言った。
「え、慎二くん天野さんのこと好きなの?」
「めっちゃ意外なんだけど、慎二くんって天野さんと何か接点あったっけ?」
佳祐たちの会話を盗み聞きしながら歩く。
「そういや美咲たちって、天野さんと話したことあんの?」
「ん〜、あたしない〜。てか何気ちゃんと声聞いたことないかも!」美咲ちゃんがゲラゲラと笑う。
「私あるよ〜」
そう言ったのは、香織ちゃんだった。
「あの子家が近くてさ、なんかひかりマンションっていうとこ住んでて」
「ひかりマンションってボロい雑貨ビルみたいなとこ?」
「そうだよ、全然【ひかり】なんて感じじゃない」
香織ちゃんがそう言うとみんなもそうだそうだと笑った。僕もそれに合わせて笑ってた。
連絡網はこの前見たけど、ちゃんとした場所は全然把握してなかった。
香織ちゃんの家には以前みんなで行ったことがある。あの周辺に、天野さんが住んでいるのか…。
「俺、今度行こうかな〜」慎二がニヤニヤした顔で言う。
「まじか、ストーカーきっも〜」
圭介と美咲ちゃんが声を揃えて言った。
「いいじゃん別に!恋してるんだよ、俺は。」
慎二は本当に天野さんが好きなのだろうか。
一体、慎二と天野さんの間に何があったのだろう。
胸にモヤっとしたものを感じる。
そうこうしてる間に僕達は河川敷へとやって来た。どこを見ても人人人。物凄く賑わっている。
入口付近で各々あれがしたい、これがしたいと言い出し、何組かに分かれることになった。
メンバーは、僕、麻美ちゃん、風ちゃん、香織ちゃんの4人。佳祐、慎二、美咲ちゃんの3人。
自意識過剰すぎかもしれないけど、予想では多分、この後風ちゃんと香織ちゃんもいなくなるような気がした。
20分ほどして、……2人はいなくなった。案の定。
もしかしたら少し離れたところから見られてたりするかも。
「2人、はぐれちゃったみたいだね…」
僕のすぐ後ろから麻美ちゃんが言う。
「人多いし、仕方ないね」
笑って応える。仕方ない。僕は少し振り向き、麻美ちゃんに言った。
「一緒に、まわろうか」
「う、うん…!」
その時気づいたけど、麻美ちゃんはずっと僕のシャツの裾を掴んでいたようで、持ってた部分にシワが寄っていた。この子は、なんでこんなに僕のことを好きなんだろう。別にこれといって特徴なんて無いような奴なのに。僕は目をそらして、手を差し出した。
「え?」
「服だと、シワになっちゃうし…。はぐれないように…」
恥ずかしい、僕はなんて恥ずかしい事を言ってるんだ。赤面して、麻美ちゃんを見ることが出来ない。
手に柔らかい感触を感じた。女の子の、自分より小さな手。
手を繋いで、僕達は屋台を回った。
「あ、見て!ヨーヨーすくいしようよ!」
屋台のおじさんにお金を渡し、水ヨーヨーをすくう道具を貰う。
「僕、これ得意なんだ〜」
「ヨーヨーすくいに得意とかあるの?」
笑顔だ。麻美ちゃん楽しそうだな。良かった。楽しそうに振舞ってくれるのは、こちらも嬉しくなる。2つ取って麻美ちゃんに一つあげよう…。よ〜し……。
ゆっくりと、水ヨーヨーに糸を通す。ゆっくり…慎重に……。その時、視界が真っ暗になった。柔らかい手。誰かに目を手で覆われた。
「えっ、ちょ!麻美ちゃん?」
あまりにも突然で水ヨーヨーを落としてしまった。
「も〜ダメじゃん、麻美ちゃ…」
振り返る。僕は固まってしまった。
「麻美ちゃんじゃなくてゴメンね?」
さっきの目隠しなんかよりずっと驚いて、目を丸くした。麻美ちゃんも、驚いたようで黙って見ている。
「あ、天野さん……」
天野さんが立っていた。彼女はまた妖しい笑顔で、こちらを見下ろしている。と思うと座り込み、僕らに目線を合わせた。オフショルダーの白いトップス。ブルージーンズ。とろんとした艶のある長い髪。
「飛永くん、お久しぶり。2人って仲良かったの?」
心臓がバクバクする。声が上手く出せない。
「え、うん…まあ…、てか天野さん、来てたんだね…言ってくれたら良かったのに」
「サプライズで〜す」
ニコニコと笑ってる。
「サプライズって?」
麻美ちゃんが首をかしげてこちらを見る。
くすっと僕の反応を楽しむように天野さんは微笑んだ。
返答に困る。あぁ…屋台のおじさん、笑って見てないで助けてくれ…。
僕も困って曖昧な反応をとるばかりだった。
「あれ?天野さんじゃ〜ん!」
慎二だ!僕は少し離れたところに慎二と、他のみんながいるのを確認した。
「あ…福本くん……」天野さんの表情が曇った。
みんなが集まってくる。
「どうしたの?1人?」機嫌よく慎二が話しかける。
美咲ちゃんたちは、何でいるんだ?と声に出さなくても分かるような目で天野さんを見ていた。
「うん〜、まあ1人だよ。」
「じゃあ俺たちと一緒にまわろうよ!」
「え、でも。いいの?」
僕達の中で気持ちが高ぶっていたのは、慎二と……、僕だけだった。美咲ちゃんたちは全然良く思ってなさそうな顔。圭介はニコニコ笑ってる。多分なんでもいいんだろうな。
麻美ちゃんは目を伏せていた。
「まあ。いいんじゃないかな。1人みたいだし。」
美咲ちゃんが気だるげに言った。
「いいじゃん。いいじゃん。」 美咲ちゃんの声の後にみんなも口を揃えて言った。
「じゃあ、お邪魔しようかな」僕を見る天野さん。不敵に微笑む。
「あ、もうすぐ花火じゃね?河原の方行こうぜ」
佳祐がそう言うと僕達は花火を見るポイントのところまで歩いた。
僕の前を慎二と天野さんが話しながら歩いている。何を話してるのか。人のガヤガヤした声でよく聞き取れない。天野さんは笑ってる。だけど、その笑いはどこか冷めていて、僕といる時みたいな笑顔じゃなかった。と、思う。多分。もし違ってたらめちゃくちゃ恥ずかしい。
隣にいる麻美ちゃんをチラッと見やる。なんだか元気が無さそうだった。
「疲れてない?大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。元気元気」
どう見てもさっきとテンションが違う。さっきの僕の曖昧な反応がいけなかっただろうか。
河原の方に着くと、辺りはやはり人で賑わっていた。花火をより綺麗に見るためか、電気も最小限に抑えられている。この暗い空間はみんなをウキウキさせていた。花火が始まる。
細い光がゆらゆらと空に向かい、爆発。
綺麗な爆発とともに歓声もあがる。みんな花火に見とれていた。
花火の閃光によって次が打ち上がるまでの数秒はただでさえ辺りは暗いのに、目の前はさらに真っ暗になっていた。そんな時、麻美ちゃんが手を握ってきた。ぎゅっと強く握ってくる。少し麻美ちゃんの方に顔を向ける。閃光。一瞬見えた麻美ちゃんの顔は空を見上げていた。何を思っているのだろう。
僕はこれからどうすればいいのだろう。
麻美ちゃんの気持ちに応えてあげるべきなのだろつか。一体、どうするのが正解なのか。
天野さんは。僕のことが好きなのだろうか…。
そして僕自身、どうしたいのだろう。
その時、肩をトントン叩かれた。天野さんだ。耳元で囁いてきた。
「飛永くんっ、靴紐ほどけてるよ」
えっ、と声を出し麻美ちゃんに「ごめん靴紐ほどけたみたいだからちょっと手離すね」と断りをいれ、その場にしゃがみこむ。
「あれ…靴紐ほどけてないじゃん……」
花火が打ち上がり、次の弾までの一瞬。
「嘘だよ…」
しゃがんでいる僕の目の前で声がした。天野さんの声だ。暗がりの中目を凝らすと、僕と同じくしゃがんでいる天野さんの姿がうっすらと見えた。
すると彼女は僕の顔を両手で優しく包むように上げ、唇を奪った。柔らかく、暖かい。みんなにバレるかも。そんなこと考える間もないほど素早く、僕を導いた。
そのキスが終わるとすぐに天野さんは立ち上がった。
僕も立ち上がると麻美ちゃんが、大丈夫?と声をかけた。僕も大丈夫だよ。そう返すと、再び手を握った。
ホントは何も大丈夫じゃなかった。心臓はもう飛び出そうなほどバクバクしていて、麻美ちゃんの手を握る力が少し強まる。
ファーストキスを僕は天野さんに奪われたのだ。
しかもこんな周りに人がいる中で………。
花火がすべて終わった。あっという間だ。途中から全然覚えてないけど……。
「綺麗だったね」麻美ちゃんが笑顔で言っている。
「うん…、すごく良かった…」
まるで僕は違うことに関しての感想を言っているような気分になってひとりで勝手に恥ずかしくなった。天野さんもニコニコしてるばかりで、特にキスに触れるようなことは言わなかった。
祭りの入口付近に戻る。
「んじゃ!今日はお疲れ〜。解散〜!帰ろう〜!」
佳祐はそう言うと僕のそばにやってきて「麻美、渉が送っていってやれよ〜」と肩をポンと叩いて言った。僕は頷いて、天野さんの方をチラッと見る。
こっちを見ている。目が合うと、天野さんは微笑を浮かべた。僕は慌てて目をそらしてしまう。
「天野さんっ、一緒に帰ろうよ」慎二が言った。
天野さんはう〜んと言うと僕の方をじっと見た。
そんなに見られても、僕は麻美ちゃんと帰るんだ…。そんな見つめないでくれ……。
彼女は察してくれたのか、最初から別に何も無かったのかわからないけど、とにかく慎二に「いいよ」と言った。
天野さんが了承すると慎二はさぞ嬉しそうな表情を見せた。やはり僕の胸にはモヤッとしたものがあって、その慎二の表情に何故か腹が立った。
そして僕達は帰路についた。
暗い路地。僕は麻美ちゃんと2人きり、歩いていた。
最初のうちこそ、今日の感想とか言い合っていたけど、途中から会話が途絶え始めて、今は沈黙が流れていた。手は繋いでいる。
僕はダメなやつだ。さっき違う女の子にキスをされたのに、今は別の女の子と手を繋いで帰路についている。
麻美ちゃんの家の近くに来た時、麻美ちゃんは突然手を離し、口を開いた。
「ねえ。渉くん。」
「ん?なに?」
「天野さんと、どういう関係なの?」
背筋が冷やっとする。
「え?」
「なんか。仲良さそうだったから…」
麻美ちゃんは少し悲しそうだった。
「別に何でもないよ。この前たまたま公園であって、ちょっと話したくらい…」
「ふ〜ん、そっか…」
沈黙が流れる。虫の音色がBGMになってるのが唯一の救いだった。これが本当に無音であったらなかなか辛かったと思う。
「天野さんのこと好き?」
天野さんのこと好き?
正直わからない。確かに天野さんのことは気になるし、今日の祭りだって2人で行きたいなんてことも思った。でも、好き…というよりは。何か違うような。彼女といて楽しいし、一緒に祭りだって行きたかったけど…、これは好きというんだろうか。わからない…。
しかし、たとえ好きだったとしても、今麻美ちゃんに天野さんのことを好きだと言うと絶対傷付けてしまう。
「いや、まあ。嫌いでは…」
また、曖昧な返答。
「そっか…、うん…、あ〜…、ごめんね!こんなこと、彼女でもないのに、聞いちゃって…、ウザいね」苦笑いで言った。
「そんなことないよ…」
すごい罪悪感を感じる。
「優しいね、渉くん」
全然優しくなんてない。ただ誰にも嫌われたくないだけの保守的な奴だった。
「私、今日ね、渉くんに可愛いって思ってもらいたくて、浴衣着てみたり、髪も巻いてみたりしたの…」
慎二はちゃんと天野さんの事を恋愛対象として好きだと言っていた。
「だからね、最初可愛いって言ってくれた時とか、渉くんが手を繋いでくれた時、もうすっごく嬉しかった。」
そして、僕の事をこんなにも好きでいてくれる麻美ちゃん。
「私、渉くんのこと。好きなの…」
夜風が涼しく靡いた。麻美ちゃんの瞳が潤んでるような気がする。
「…なんて……ダラダラとごめんね!送ってくれてありがとう!今日は楽しかった。また遊ぼうね」
その笑顔はあまりにも切なく、心が痛くなった。
カランコロンと下駄風のサンダルの音を立てながら家の方へ走り出した。
麻美ちゃんが走っていく。
行ってしまう…。
「待って!!!」
麻美ちゃんはピタッと止まった。麻美ちゃんの近くまで歩み寄る。
「あ、あの。僕も…、麻美ちゃんのこと…」
天野さん…
「麻美ちゃんのこと、好き…」
「え…」
かすれた声。
「だから、僕でよかったら…」
その瞬間、麻美ちゃんは振り返って僕に飛びついた。
「いいよ…!渉くんがいい!!」
女の子の力で強く僕を締め付ける。僕も彼女を優しく包んだ。
「これから…よろしくね…」
「こちらこそ…!よろしくお願いします」
麻美ちゃんは僕の胸に顔をうずめた。
何をやっているのか。僕は、一体。
でも麻美ちゃんのあんな顔見てしまったら、放っておく事なんて誰ができるだろうか。
少なくとも僕には出来るはずもなかった。
偽善…。最悪だ。
私と、してみたい?
天野さん。君はどういうつもりでそんなセリフを言ったのか。誰にでも言っているんだろうか。もしかしたら慎二とも今…。一体、彼女は何を考えてるんだろう。
僕には何もわからない…。
ただ今は、目の前にいる女の子を抱きしめることしか出来なかった。何を考えても答えなんて出るわけもないんだから。
黙って抱きしめればいいんだ…。
また明日。考えればいい。
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