卵胎生の子

水羽見

小説

3,159文字

2018-09-13 | 物語

独りで僕は、この教室で湧き上がる怒りをぶちまけている。
クラスメイト達に、辺り構わず怒鳴り、咆哮し、机や椅子を思いきり投げ付け、何かを必死に訴えている。
でも誰も聴いていない。
僕の絶叫が、彼等には少しも、届かない。
机の上に、小さな水槽、その中に、たくさんのメダカ。
それを、窓際に投げ付ける。
何故か無事だ。その水槽は机の上で。
メダカたちは、気持ち良さそうに泳いでいる。
可愛いな…でも僕は、お前たちが苦しむなら…

 

高校生活最後の秋、修学旅行の帰りに、僕たちの乗ったバスは事故に合う。
山道を走っていると、目の前で、土砂崩れが起きて、ハンドルを切り、運転手はブレーキを踏んだはずが、踏んだのはアクセルだった。
バスは山の中を突っ切った。そして崖の前の折れて倒れた大木の上で回転して、バスの後部座席半分が、宙ぶらりんの状態となった。
みんなは急いで、悲鳴をあげながら前部座席に移動し、一番後ろの座席に座ったままの僕を、脅えて見つめている。
担任の先生が、手を差し出しながら言う。
「おい…何してんだ、早く、こっちに来るんだ。そっと、静かに、早くこっちへ…」
僕は、ゆっくり立ち上がると、座席の間の通路の真ん中に突っ立って、笑う。
「なんで助けなくちゃいけないんですか。あなたたちを。」
先生は穏やかに、目を見開いて答える。
「何を言っているんだ。みんなを助けるために、お前がこっちに来るんじゃないだろ。お前が助かるために、こっちに歩いてくるんだ。」
僕は、力なく、声を出して笑う。
「助からなくていいですよ。僕が死んでも、誰も哀しまないですから。あの時だって…誰も僕の言葉を、声を、叫びを、訴えを、聴こうともしなかった。みんな僕を、馬鹿にして、笑ってた。僕、独りで苦しんで、哭き喚いて、みんなは平気だった。なぜ僕が、そっちに歩いてかなくちゃならないんですか?そうだ、僕が休んだあの日の放課後、みんなは修学旅行のもしもの緊急避難時の行動と心掛けについて、先生から大事な話を聴いていましたね。でも僕には誰もその話を、教えてくれなかった。廊下でこっそり、僕は聴いていたんです。僕には知らせる必要なんてなかったんですよね。僕だけは、生き残る必要なんてない。みんなそう想ってるんだって、僕知ってますよ。あなたたちと同じところになんて行きたくない。僕だけは別々の場所に行く。あなたたちとは此処で御別れです。さっさとドアを開けて、車外に避難してください。あとはこのバスと、僕が下に、墜ちるだけです。」

 

目をそっと開ける。重心はまだ、傾いていない。
いや重心は、傾くことはない。
みんなは、避難した。でも一人だけ、まだいる。
誰だろう。運転席の後ろの座席に静かに座っている。
声を一番後ろから掛ける。
「早くバスの外へ避難してください。誰かと一緒に墜ちるのは、嫌なんだ。」
その人間は静かに立ち上がると、通路の真ん中に立ち、俯いた顔をあげる。
笑みを湛えて、僕を見つめる。
もう一人の、僕…
声を発する。
「一体お前の人生はなんだったんだ。たった十七年、何一つ、学んでこなかったんじゃないか。何か面白かったことはあったか?誰かを真剣に、愛したことはあったか?」
僕は静かに答える。
「憶えてないのか…?僕にだって、色んなことがあった。愛と呼べるかは…わからないけれど、とても好きな女性がいたんだ…彼女の為なら、人を殺すことだってできた。」
もう一人の僕は、笑いながら言う。
「父親を今でも恨んでいるんだろう?あいつから、彼女を奪えなかった。お前は腰抜けの糞野郎だ。」
目を瞑ると、目の前に実家のキッチンがある。
彼女はそこに立って、何か作ってる。
僕はいつも、その様子を後ろからそっと覗いて、眺めている。
十四歳の夏から、彼女は僕の、母になり、母を知らない僕は、彼女のすべてだけが、知りたいすべてだった。
親父が帰るのが遅い日はいつも、先に二人で夕食を食べる。
彼女はあまり、話さない人で、僕も無口で、本当にいつも静かな、静寂の食卓だった。
でも何も、彼女の作った料理の味を、想いだせない。
味なんて、何でも良かったんだ。
親父が彼女を妻として愛する日は決まって、金曜の夜と、土曜の夜だけだった。
それ以外の日、彼女は自分の夫に、愛されていなかった。
僕にはわかるんだ。彼女はまるで、金曜の夜と土曜の夜だけ女として必要とされ愛される僕のうちに住んでる父親の愛人みたいな存在。
キッチンから振り返る目の前の彼女を、見つめて言う。
「此処を出て、僕と二人で暮らしませんか。高校は退学して、何処かで正社員として雇われたら、何とか二人で生活して行けるはずです。最初は安くて古いアパートにしか住めないけれど、すぐに良い部屋を借りられるように頑張ります。貴女を愛しているのは、父親よりも、僕のほうです。」

 

重心が少しずつ傾く。いや、傾いているのは重心じゃない。
何が傾いているんだ…?
少しずつ、少しずつ、後部座席の方が、下に傾いている。
前部座席の方には、もう一人の僕。
目を瞑る。
僕は下半身を露出して、彼女の髪を思い切り引っ張り上げ、彼女に迫っている。
顔面を殴られたくなかったら、舐めろ。しゃぶれ…
僕は、泣き叫んでいる。
彼女はその日から、大人しく僕の言うことを聴くようになる。
彼女を脅し続けた。僕の言いなりにならないなら、僕は死ぬと言って。
親父は知っていた。知っていたんだ。すべて…
だからそれからは、父親は彼女を二度と、必要とはしなくなった。
僕は憶えている。
彼女は本当に、僕を愛したことはなかった。

 

目を開けると、教室はメダカの水槽の中に沈んでゆく。
バットで水槽を殴る。
水槽は割れて、水滴と共に、メダカがバスの天井から落ちてくる。
バスの床に、一匹のお腹の大きなメダカが跳ねている。

 

妊娠しているらしい。
彼女は何者かの、子どもを。
産婦人科から出てきた彼女の後を着ける。
薄暗い雑木林の間を縫うように、彼女は足早に、何かに追われるように行き急ぐ。
胸に手を当て、地面にしゃがみこむ彼女の前に、錫杖を左に、赤子を右に抱いた小さな水子地蔵が、寂しくぽつんと一つ建っている。
一体、何を拝んでいるのだろう。

 

目をそっと開ける。
さっきより、傾いている。
床に、跳ねたメダカは、卵胎生メダカで、腹から一匹の、稚魚が産まれ、苦しそうに独りで跳ねている。母親は既に息絶えている。
バスの天井から僅かに滴る水滴だけで、この赤く半透明な稚魚は泳ごうともがいている。
もう一人の僕が、哀愁たっぷりな顔で、囁く。
「殺してやれよ。苦しそうだろう。お前の割った水槽の、その中の教室の、その中の水槽の、その中のメダカの、その中の胎内にいた稚魚の、その中の、このバスの中にいる、お前。」
僕の視界に、バットが映る。
このバスは今、僕を産み落とそうとしている。
穴を、穴を、開けないと。
僕が無事に、生まれ墜ちる穴を。
バスの後ろのガラス窓をバットで叩き割る。
破片がいくつも、僕の身体に突き刺さる。
血が流れる。血が流れる。血が、羊水となって、バスの中を赤い水で満たす。
バスは大きく傾く。
僕を産み墜とす準備をしている。
もうすぐ、もうすぐ、僕は産まれる。
下に、墜ちて、鉄の器具で、頭をトマトのように潰される。
そのあと、そのあと、そのあと、僕は赤い海を漂い、そして生まれ変わる。
今度は、彼女と血の繋がらない、母と息子として。
バスは静かに落下してゆく。
四十二年前に、僕を堕ろして崖から身を投げた、彼女(母)のように。
美しく、静寂な、夕暮れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年2月13日公開 (初出 https://blog.goo.ne.jp/amanenonikki/e/2dfe2538ab868dfd642e2aef79bc7a2f

© 2019 水羽見

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