太い眉毛が流行りであるということはたまに見るテレビやら雑誌やらから何となくは知っていたのだが、それにしても今茹で時間七分のパスタを手に取りバーコードをピッとやって次に四分の一のキャベツを掴もうとしているレジ打ちのこの若い女子、恐らく高校生くらいだが、彼女の眉毛ときたら地毛は真っ黒だというのに描いているのが茶色のペンか何かで全体的に焦げ茶色、よくよく見ると無理して太くしましたと毛根が叫ばんばかりの荒々しさで、左右の眉頭がビッと存在感を、何の主張かは分からないけどとにかくアピールしているから、もういっそ一本につないでリアム・ギャラガーにでもなったらどうだ、別にノエルでもいいけど。レジ袋? 結構です。
食品の入った緑のバスケットを左手に、右手はエコバッグを鞄から探り出し、主に女性、主に中高年の女性で構成されるこのスーパーの出口付近の台まで行って中身をエコバッグにざざざと入れる。ほとんど毎日来てるから店内放送で流れるこのチェーンのテーマソングみたいな音楽を頭が完全に記憶してしまった。太眉のレジ打ち女子に彼氏は居るのだろうか、居たらメイクが落ちた後どんな顔をするのだろうか、などと思いながら暖房が荒れ狂う店を出て、寒波が荒れ狂う通りに戻る。一応駅から続く目抜き通りだが暗黙の了解で車は滅多に通らず、通れてもせいぜい一台、しかも常時歩行者や自転車やバイクがうようよと居るから何も知らない奴が誤って車で侵入しようものなら通行人らは冷ややかな視線を投げかけることとなる。そんな蛇行した道を駅に向かって歩き、ちょっとした商店街、古き良き時代からの人情味ある下町風のこの一角、に、場違いなやかましさとけばけばしさで君臨するパチンコ屋の角を曲がって歩けば二軒先が俺のアパート、二階、角部屋。
ドアを開けて、よっこら、と言わんばかりの体でエコバッグと我が身を室内にねじ込み、冷蔵庫を開けて牛乳や漬け物や生野菜を放り込む。パスタは冷蔵庫の脇の棚に射す。ぐちゃぐちゃのままシンクの横で萎えるエコバッグは放置して引き戸を開けるとエアコンを稼働させたままの部屋、俺の部屋、正面のテレビは真っ黒。静かだ。あと平和だ。ベッドに腰掛け、枕元に散乱している本本本、文庫本が主なんだけど、それらに視線を落としてゆっくり揺らす。色んな色と色んな文字が視界を泳ぐ。泳がせる。しばらくそうやって過ごそうかと思ったのだけど、この部屋は結構静かで、それが結構耐えがたい感じの静寂を形作ってきていたので、鞄からウォークマンを取り出して窓際のスピーカーに射し込み、再生ボタンを押した。俺は音楽を聞くけど、音を聞くんじゃない。音楽と共に頭のどこやらに焼き付いた記憶、記憶っていうと大義だけど、例えばこのアルバムを聞きながら通っていた高校、快速電車の混雑具合、その窓からかろうじて見えた雲の形、といった具合に、自分の中に蓄積された自分の痕跡みたいなもの、拾ってきたもの、意図せずして頭に残っているもの、それらを一個一個確認する、その作業が昔から大好き。っていうかそうしないと俺は、俺自身をきちんと認識出来ない。記憶や痕跡それ自体は俺の中のどこにあるか、そんなのは分からないけど、音楽は、音楽だけは、その音が焼き付いた感情や情景やいわゆる思い出を正確且つ即座に俺に教えてくれる。
さっきのスーパーのレジ打ち女子に敬意を表してオアシスを聞くことにする。「The Masterplan」を再生。ノエル・ギャラガーがオアシスの再結成は金目当て以外有り得ないとか言ったらしいけどどうだろな。ノエルといえば来日して日本の音楽番組に出演した後、それに対する大いなるディスを展開して妙に話題になったが、アレはテレビでも取り上げられたんだろうか。
テレビ。テレビが世界を作るというか、テレビが世界の全てみたいな風潮は衰えつつあるけど地域や年齢層によっては未だもって全く有効、健在。確かにネットは広まった。でもアレだ、テレビの方がメディアとしてちょいとばかり先輩だからなのか、ネットの情報や媒体を軽視する向きというか、テレビが表でネットが裏みたいな、そんな空気はまだまだあって、ウチの親なんかネットの情報は全部デマか信憑性のないものだと思い込んでいる典型例。俺は正直テレビが恐いんだ。編集っつーのか、作り方っつーのか、撮り方っつーのか、そういうものが総じて暴力的だと思う。みんな同じことを言ってる、或いは有り得ねーよコイツみたいなキャラなり言葉なりをテレビという枠内だけで成立させて自己完結、その閉じっぷりが俺は恐い。テレビが映さない所にも光はあって人が居て生きていて生活していて各々の暮らしを展開していてそれら六十億だか七十億だかの大半はカメラに無視されるのに大衆とか視聴者とか呼ばれる。俺はテレビの素材よりもエディターでありたい。仮に俺がどんなイケメンでも顔をパッと写されてモラルに反した台詞のテロップでも付けられたらもう即死だ。だから俺は料理される側である素材にはなりたくない。
そんなことを考えながらキッチン、つまりエアコンの温風が届かない極寒地帯に赴きパスタを茹でる。この空間は日当たりが悪くて湯が沸くまで待つのも厳しい寒さを誇るから、俺は引き戸を少しだけ開けたまま部屋で文庫本を手に取りそれを読む訳でもなく待つ。沸騰の気配。引き戸を開けてキッチンへ再び、その時、俺はなんでここの空気はこんなにも液体的なのだろうと思い、まるでこの空間が異様に透き通った冷たい液体に浸っているように感じられて、それは冷たい液状の冷気で、俺の毛穴という毛穴、皮膚という皮膚から体内に侵入して熱を奪ってしまう。パスタを鍋に放り込む。
仕事帰りに駅前の本屋に寄った。こじんまりとした、昔からこの近辺で唯一の本屋ですと言いたげな店舗だが、最近駅の反対側に比較的大きなチェーンの本屋が出来たから景気は悪いかもしれない。その本屋は火村書店といって入口が狭く奥行きが長くて棚も多いし窓もないからなんか本の洞窟か鍾乳洞って感じがする。レジは一番奥にあって、大抵中年の小太りなおっさんが水色のエプロンをして座っている。本の陳列は古本屋みたいにいい加減で、作者順に並んではいるが五十音順を著しく乱しているから探すのが困難、難儀する。でも新刊ならレジのおっさんに聞けばいい。入荷しているか否か、してないなら予定はあるのか、おっさんは曇った眼鏡を中指で上下させながら懇切丁寧に教えてくれるのだった。あああれはね、版元が次を刷ってくれないんですよ、こっちも何度か催促してるんですがねぇ。あ、それはコミック扱いじゃなくて書籍扱いになってるかもしれませんね、出版社は分かりますか? はい、それなら文庫新刊のコーナーになければ売り切れだと思います。といった具合に。
力仕事ではないけどそれなりに疲れている時、それでも目当ての本を探すのは心が躍る、騒ぐ、スキップなどしたくなる。例えば今。文庫本の海外モノの棚の前で注意深く背表紙の群れを精察し、自分の脳内にある筆者名、片仮名の何文字か、それと実際目にしている背表紙ら、そこに脳内の片仮名と合致するものを見付けるとガッツポーズ、脳内で。でも喜ぶのはまだ早くて、作品タイトルを見てがっかりすることもあるから、冷静さを保ってまた背表紙を見る。あった。人差し指を背表紙の上にすと引っかけてゆっくりと取り出し急ぎ足で奥のレジに向かう。すると先客が居て、五才くらいの幼女、ピンク色の派手なダウンジャケットを着た幼女と、恐らくは父親と思われる若い男、俺より若いってことも有り得るけど、合皮のジャケットを羽織った男がレジ前に立っていた。四本の足を見ながら後ろに並ぶ。
「今日はパパと一緒なんだね、珍しい」
水色エプロンのおっさんが幼女に声をかけて子供向けの雑誌を袋に入れる。
「いつもママとだもんね」
幼女は人見知りなのかおっさんがキモいのか黙って左手の指をくわえ、右手で若い男の指三本をぎゅっと握った。
「千二百十円になります」
若い男は大きな財布を取り出して会計を済ませる。彼が袋を手に振り返り、幼女もそれに倣ったので俺は文庫本をカウンターの端に置く。
「結構、来てますよ」
レシートを財布にねじ込みながら、男が低い声で言った。
「俺も結構来てるんですけどね、一緒に」
「ああ」
おっさんはいつも通り曇った眼鏡を押し上げて笑った。
「昼間が多いのかな? すみませんね、またいらしてください」
男は幼女の手を引いてそのまま歩き出し、幼女はちらりとおっさんの方を向いたがすぐに商品の袋を取ろうと背伸びをした。俺は文庫本を水色のおっさんに差し出し、財布を取り出した。
「カバーは要らないんでしたっけ」
にこにこしながらおっさんがレジを打つ。安っぽい、青ざめた蛍光灯の光が、彼の曇った眼鏡のフレームを異様に輝かせていた。俺は無言で首肯して本を鞄に入れ、本の洞窟から抜け出した。先ほどの親子の姿はどこにも見えず、乾いた人と人と人が群れを成して発光するように流れていた。
休みは大抵早く起きて本を読んで、昼前には買い出しを済ませて、少し昼寝とかしながら、夕方になったら読みかけの本を持って馴染みの喫茶店に行く。読書は環境を変えると捗ったり滞ったりするのが楽しくて、少し前までは駅の反対側にある広い公園まで行っていたのだけど、流石にこの季節になると公園のベンチは寒いから、金はかかるけど店に入るようにしている。駅の改札の正面にはこれまたチェーンの安価な喫茶店があって俺もたまに利用するが、休みの日にゆっくり本を読みたい時はパチンコ屋の並び、三軒先にある個人経営の珈琲店がいい。全面喫煙可だし、ソファは柔らかいし、BGMもうるさくない。俺はこの店の、えらく古くて見た目は荒いのに触るとすべすべの木製テーブルが好きだ。適当に飲み物をオーダーすると、おばちゃんがはいはいと大声で復唱し、旦那と思われる店主がゆっくりと準備を始める。広い店ではない。カウンターが十席くらい、四人掛けテーブルが二つと二人掛けテーブルが三つだけだが、いつも空いていて俺としては助かる。先月、窓際の四人掛けテーブルで女子会と呼ぶには年を取りすぎた女性の会合が開催されていて、その声ときたら店内の他の客の声やカウンターの奥でコーヒーカップが鳴らす音や店の低い位置をずっと流れるBGMをも貫通して俺の所までやってきて大変耳障りであって、仕方なく俺は常備アイテムであるイヤホンを常備アイテムであるウォークマンに挿して比較的ハードな曲を選んで再生したのだが、彼女たちの声、誰々さんの息子さんだってもう立派な大学生よだとか温泉だったらまた三人で行きましょうよ去年みたいにだとか、それら声声声は一丸となって空中で弾け、その破片はイヤホンもハードロックも無効だと嘲笑うかのように俺の鼓膜に届いて、いや、あれは殺意すら抱くほどの騒音だったな。
午後四時半、俺はいつもの鞄に文庫本を突っ込んだバッグを持って入店し、窓際ではなくトイレの横にある二人掛けの席についてカフェラテを頼んだ。おばちゃんはいつも通りそれを大声で復唱して灰皿を寄越してくれる。煙草に火をつけてバッグから本を取り出し、挟んだ栞が落ちないよう注意して開く。カフェラテがやってくる頃には煙草は大抵三本目くらいで、これは俺も減らしたいっていうか身体のためとかではなくて金銭的な問題、つまり死活問題であるんだけどこればかりは致し方ない、食費を削る方がマシだとか思いながらカフェラテを摘むように啜る。今日のBGMはジャズで、俺はジャズに詳しくないしヴォーカル入りのものよりピアノメインの方が好きだったりするのだけど、今日はサックスと女性ヴォーカルの絡みがいい感じだなと頭の横の方で感じながら目は忙しなく文字を追っている。本を読む時俺は俺という仕事を休めるから俺は読書をする。小説世界・物語・登場人物たちに全てを委ねて俺は俺であることを放棄し、俺という存在が希薄になってこのソファから浮いて店内を浮遊するようになるまで活字・文字列・物語に集中する。休息としての読書。俺が純文学もミステリもSFもファンタジーもラノベも節操なく読むのは目的が物語や小説世界自体ではなく読む過程で我を忘れるためだからだ。それくらい引き込んでくれるならジャンルなんて何だって構わない。その意味で、俺は言葉が持つ力というもの信仰している。
小一時間かけてカフェラテをちびちび減らしながら本を読んでいたのだが、ふと、本当に自然な感じで、赤信号が青に変わるのを目視する程度の自然体で、俺は自分を見失う。視界が狭くなる。木製のテーブルの上には二本の腕と文庫本、その先に白い灰皿とカップ。白熱灯に照らされたそれらは暖色系の光を放つ。他に客は少なくて、さっきからずっと流れているジャズがまるで今鳴り始めたような新鮮さを俺に与える。右手の人差し指でテーブルをそっと撫でる。指先が触れたテーブル、というかこの指、この腕そしてこの俺、の、居場所が分からなくなる。いや、事実としては分かりきったことであって、自宅近所の喫茶店の片隅に居る、ということは自覚しているのだ。でも何だろう、こういうことは日常茶飯事なんだけど、俺はよく俺自身を手放してしまう。そうじゃなくて俺自身が俺を見捨てているのかもしれないな。しかし嗚呼、これはこれは、と思って視線を少し上げてみたが、カウンターの奥に居るおばちゃんが見えると同時に、トイレ脇の席に文庫本を持って座っている黒髪の男の俯瞰図が見えた気がした。俺はなんで自分が自分の身体の外側から自分を見ているのか分からなくなる。この感じが来ると自分を奪還するのに物凄く時間がかかるということは経験上分かっているので、俺は文庫本を仕舞って立ち上がり、レシートを持ってレジに向かった。一歩一歩足を進めているのに乗り物に乗って移動しているようで、それは俺の足場の不安定さを表していて、財布から小銭を取り出して会計をする、その手、おばちゃんが挨拶する相手、つまり俺自身が、物凄く色を失っていて半透明になったような。
アパートの階段を昇りながら息の白さを確認する。その白は俺が確かに生きている生物だということを簡潔に証明していたけれど、今はそれだけでは足りなかった。問題は俺の生死ではなく、俺が俺であるか否か。それだけなんだ。
俺のように妙な感覚に襲われている人間は少なくないらしく、最近若者の中で増えていると聞いた。それでも動けるから、働けるから、笑えるから、といった理由で、この現象はさして問題視されていなくて、むしろネットやスマホへのバッシングの理由として利用されているように俺は思う。SNSに熱中した結果だとか、他者と相対して話す機会が減っているからだとか、ネットとリアルの区別が付かなくなってるからだとか、色々言われているけども、俺は、そう俺は、この感覚は、物心ついた時からあって、不便だとは思うし心許なくもなるけど何というか、人間ってそういうもんじゃないのかと呑気に思う。
この駅前の目抜き通りには八百屋や果物屋、肉屋や魚屋が並んでいるんだけど、俺はどうしてもスーパーで買い物を済ませてしまう。最たる理由はその利便性で、多分八百屋とかを利用した方が経済的なんだろうけど、俺はそんなに食べる方ではないのでキャベツ丸ごととか大根一本とかで売られてしまうと食べ切る前にだめにしてしまう気がする。というか過去にあった。あと嫌というほど人目に晒されたもの、しかも恐らくは何名かが手にとっているものを食うという行為が単純に嫌だったりする。まあそれはスーパーでも同じなんだろうけど、スーパーの方が殺菌・除菌されている印象があるというか、人間味が少ないじゃないか。人間が作ったものを食う人間のくせに俺は、食料に無機質さを求めがちだ。匿名性を求めがちだ。理由は分からないけど。今日も仕事帰りにスーパーに足を運ぶ。
夕飯前のピークを過ぎた店内ではあの音楽が鳴っていて、俺と同じように疲れた顔で牛肉の安いパックを探す女性や、総菜を袋に突っ込むスーツ姿の男が居て、品物の在庫はどこかいつもより少なめで、空間を照らす蛍光灯のけばけばしい光が矢のように客を貫いていた。そういえば眉毛の太い女子はあの時しか見かけていない。緑のかごを手にレジに並ぶ。五十代くらいの白髪交じりの女性店員がせかせかと商品を処理していて、でもその顔にはあまり馴染みがなくて、よくよくネームプレートを見ると『実習生』とあった。前の客が釣り銭を受け取ってレジの向こうに解放され、俺は一歩前に進む。額に深い筋が三本走っていてほうれい線も目立つおばさんは、品物を一つ一つ丁寧に手に取り、機械にかざしてピッピとやって、その目は結構必死、値段を告げる声は少し固かった。会計を済ませてかごを持つと、隣のレジから三十前後の別の店員がやってきて、実習生のおばさんに何やら指示を出し、おばさんはこくこく頷きながら、はい、やりました、次はこっちですよね、サービスカウンターに確認、ええ分かりました、と応じる。それを尻目に品物をレジ袋に入れ、店の外に出た途端寒さに意識のほとんどを奪われた。
アパートに戻って簡単に夕食を作ってそれを食い、ベッドの枕元には相変わらず本、文庫本が山積していて、そろそろ新しい本棚を買ってもいいかなと思いながら洗い物を済ませる。窓際のスピーカーからはミューズの古いアルバムが流れていて、その時俺は、今、というものがまた途切れたような気がして、このアルバムを再生したのはいつだったっけと首を捻る。
よく、人生を道に喩えることがあるけど、俺にはいまいちぴんとこないのだ。俺の足跡、俺の記憶、それらは断片的であって断続的であって点のようであって、そう易々と一本につなぐことは出来ないように思う。今俺は、この部屋のベッドの横に座っていて、満腹で、音楽を聞いていて、でもどうしてその姿を真横から眺めているような、これ、この違和感。俺は、記憶とか思い出とか、人類の大多数が大事に抱えて生きているものを、案外落としているのかもしれない。
友人の中原宏一がこっちに来るというので、土曜の午後二時、駅の改札前で待ち合わせた。宏一とは中学からの腐れ縁で、俺が奴に音楽を教え、奴は俺に文学を教えてくれた仲で、今は地元で働いているから会うのは久しぶりだった。
俺が改札に着くと宏一は既に改札の脇に立っていた。背は低く、栗色の髪はそれを補うかのように上にはねている。俺に気づくと小さな目を見開いて笑顔を見せた。
「よう篤史」
背が低いくせにこいつは声が良いんだった、ということを思い出し、最近如何に文字だけのやりとりばかりだったかを実感する。鉄製の棒を溶かすような低音は中学の頃から不変。
「元気そうだな、宏一」
「まあな」
俺らは駅の階段を下りて正面にあるパスタ屋に入った。幸いランチタイムがちょうど終わったところで、明るい店内は分煙になっていた。最近出来た、割と洒落た店だからか、このご老体ばかりの街のどこに潜んでいたのか分からないくらい若者が多かった。学生風の連中やカップル、女子会っぽい集団、そんな中に時折じいさんばあさんら。折衷、という言葉が頭に浮かんですぐに消えた。テラス席にも客が居て、十二月だというのによく平気だな、と妙に感心する。
「彼女さんは元気か?」
喫煙席のテーブルに落ち着いてから俺が聞くと、宏一がくっと頭を引いて俯いたので、あ、別れたか、地雷だったか、と思ったのだが、次の瞬間宏一は顔面の筋肉が弛緩して流れ出しそうな笑みを浮かべた。
「元気だよ、超元気。入籍決めてから特に元気」
あー俺ゴルゴンゾーラにするわーと続ける宏一だったが、俺は一瞬、あっさりと発射されたミサイルをぼけっと見上げるような顔をしてしまった。
「え、何だよ、おまえ結婚すんの」
「うん、先週プロポーズした。今日東京まで来たのも、式場の下見もあって。まあ式は俺が勝手に考えてるだけだけど」
ふむふむと頷いて、色々と納得しながら祝辞を言っていないことに気付き、改めておめでとうと言ってお冷やで軽く乾杯をした。結婚、入籍か。この宏一が。
「何、おまえはそういう話ねえの」
宏一が、一歩先を行く者の余裕みたいなものを滲ませながら聞いてきた。相手の反応が楽しくてしつこく悪戯をするガキみたいな顔だ。
「ないね。別に俺は独りでいいよ」
「まあ、おまえ昔から、何、そっちにはあっさりってか淡泊だったもんな」
店員が来たのでオーダーし、パスタが来るのを待つ間、宏一は結婚を決めてから如何に自分が変容しているか、みたいな話を始めた。こいつとずっと一緒に居たいっつーか、こいつを守りたいみたいな、なんか使命感? そんな気持ちがすげえ強くなってさぁ。今までも半同棲状態だったけどさ、正式に社会に夫婦だって認められるって考えると気合い入るよ、かなり。その弁舌は昔文学がどれほど自分の人格形成に影響を与えたかを語った時と同じ熱量・同じ質感で、俺は少しそれを懐かしく思って、それから、宏一は人生における大きな決断を下したんだな、と腹の底の方で実感した。宏一があんまり熱を持って話し続けるから、その熱が俺の方にまで飛び火して胸の辺りがちりちり焼かれるようだった。
頼んだパスタが来たので俺らは食べ始め、俺はバジルのむせかえるような匂いの中で、あ、また今が途切れそうだ、と直感してしまう。トマトソースの赤、銀色のフォークとスプーン、真っ白の紙ナプキン、黒い正方形の灰皿、それらがベルトコンベアで運ばれるように遠のき、宏一が遠のき、俺は自分が独りでパスタを食いながらスクリーンを見ているような気分になる。その白いスクリーンには古い映写機で写されるように宏一とその背後の絵が浮かび、宏一は口許の薄い笑みを絶やさず、たまにカメラ目線で同意を求めたりこちらに笑いかけたりする。俺はそれをずっと見ていないといけなくて、パスタを食べ終えて煙草に手を伸ばしてもスクリーンの映像は途絶えなくて、試しに煙をそっちに吐き出してみたけど宏一は意に介さず話し続けた。
『婚約指輪は無理だったけど、結婚指輪はあいつの好きなブランドで作るんだ』
『まあ子供はまだ分かんねえけどな、あいつ若いから』
『向こうの親とも上手くやってるよ。親が増えるって変な感じだよ』
こちらに語りかける宏一に、俺は頷いたり相槌を打ったりして、嗚呼こいつは今きっと幸せなんだなと強く思わされて、この映像はずっと保存しておきたいな、と思って。でもどうやらそこで映像は終わったみたいで、気付いたら俺は駅の改札に戻っていて、宏一が軽く手を振って中に入っていってて、あれ、と思ったら俺も右手を挙げていて、宏一の姿が見えなくなってから俺は、俺はどうも俺の生活だか人生だかは連続してないぞ、と思ったんだけど、その思いすら遠くて。
駅の反対側はクリスマスムード一色になっていた。火村書店に目当ての本がなかったので久々に行ってみたらもう、赤白緑の三色、そればかりが強調されていて他の色彩が哀れなほどであった。俺が住んでる南口側にもクリスマスっぽい装飾はされているんだけど、こちらほど大々的ではない。ロータリーの向かいにあるビル、一階の書店ですらクリスマスギフトがどうとかいうポスターやクリスマスツリーやその他赤白緑で溢れていた。俺はイベントごとにはそんなにはしゃがない方だけど、自分へのクリスマスプレゼントにハードカバーの本を買ってもいいかもな、と何となく考えた。店に入ってすぐの所にはベストセラーとかブックランキングのコーナーがあったけど俺はスルーして文庫ブースに行く。師走、クリスマス、年の瀬、繁忙期、年忘れ、といった複合的な要因で、店の中に居る全ての人間が三センチくらい宙に浮いているように見えた。探していた本があっさり見付かったので、俺は長い列に並んで会計を待った。新しいこの店にはレジが四つあって、対応する店員も全員ぴしっと制服を着ていてきびきびと客を流していた。彼ら店員達も、俺と同じように並んでいる客も、店内をうろうろする他の連中も、どこか他に帰る場所があって、ここは通過する場所であって、ここに留まる人間は多分居ない。なんてことを考えている内に俺の番が来たので、カバーはいりませんと言って会計を済ませた。
駅を越えて南口に出ると、何というか、ふうと息をつきたくなるような感覚が上から降ってきた。ここに住むようになってから四年くらい経つけど、なんだかんだ言って慣れみたいな、そういうものが俺の中に芽生えていたとしても不思議はない。でもまあ、この街に友人知人は居ないし、この街で生活するってのは俺にとって徹底的に独りになるってことで、見慣れはするけど、別によそに引っ越してそこに長く暮らせば同じような感情を抱くことになるのだろう。俺はどこにだって行ける。
パチンコ屋の角を曲がって暗い路地を二軒分歩く間、急に誰かに呼ばれたような気がして俺は振り返った。顔を赤くしたじいさんが危うげな足取りで通過していって、その向こうには目抜き通りを行き交う人々が見えていて、誰も俺のことを気にしない。独り肩をすくめてからアパートに戻った。
あるもので夕食を作って、買ってきた本をぺらぺらとめくりながら食べた。洗い物は明日の朝でいい、と思ってベッドに転がり、横を向いて文庫本を最初から読み始めた。二十ページくらい読み進めてから音楽がかかっていないことに気付いて、文庫本片手にウォークマンの再生ボタンを押す。またミューズの古いアルバムが流れてきた。本に集中していたからすぐには気付かなかったんだけど、おかしいな、勘違いか記憶違いか、さっきまでは同じミューズの最新アルバムを聞いていなかったっけ、と首を傾げたけど、まあいいやと思ってまた本の世界に浸った。俺は英語を理解しないけど、気に入った曲のタイトルや歌詞は調べることがある。シャッフル再生していたミューズのセカンドアルバム「Origin of Symmetry」、その中の俺的ベストソングのイントロが聞こえてきた。『Space Dementia』という曲で、意味は確か、宇宙に行った人間があまりの壮大さに圧倒されて精神に異常を来す現象じゃなかったか。このアルバムを初めて聞いた時は本当に衝撃を受けて最後の曲が終わる頃には俺は何故か半泣きになっていて、そうアレは確か高校に入りたてくらいの時で、これを聞きたいがために午後の授業をサボってCD屋で買って自宅でヘッドホンをして聞いたのだ。夏だったのを覚えていて、ベッド脇にアイスミルクティーをスタンバってたけど口にする余裕すらなかった。それくらい圧倒的にどうかしている作品だった。そう思ったら俺はもう、本の世界から一歩引いていて、栞を挟んで文庫本を閉じ、枕元に投げて曲に集中した。歌詞は分からないけど曲のイカレっぷりが最高だ。でもまた、そこであの感じが、現実が遠のく気がしてきて、俺は音の空間に拉致される。ギターやピアノ、ベースやドラムの音が一つずつ光になって俺を照らす、でも俺はまた色を失ってしまっていて、光は半透明の俺の中で変色する。きらきらと眩しくて俺は目を閉じるんだけどそもそも音の世界の俺には目がなくて、いつしか物質としての肉体も失っていて、多分意識、俺の脳みその何かしらの部分だけになっていて、クライマックスに差し掛かった曲が洪水みたいに音を噴射してくるのを、俺は眼球ではない器官で知覚していた。爆発するみたいに最後の轟音が鳴り響いて、音の世界は白い光でいっぱいになって、六分二十秒の曲が終わると俺は自分の部屋のベッドに胎児のような格好で横になっている自分を発見する。カーテンを閉める。
朝、スマホのアラームが鳴るより早く目覚めて、この不快感は何だろうと寝ぼけ眼で考えたらそれは吐き気で、しかも割と強烈なやつで、俺は慌ててベッドから出てユニットバスに駆け込んだ。灯りをつける間もなく、そのまま便器を抱くような形で嘔吐した。目が熱くて、じんわりと涙が浮かぶのが分かった。吐き気は波のように訪れて、俺はそのリズムに乗ってスムーズに吐くことに集中した。それは段々ゲームのようになってきて、如何にタイミング良く口を開くかとか、顔をどれくらい傾けるかとか、試行錯誤が段々おかしくなってきた。ほどなくして吐くものがなくなったのか呼吸は落ち着いてきて、乳白色の泡みたいなものが便器の水面に浮かんでいるのをぼんやりと眺めた。何か悪いものでも食っただろうかと考えたが寝起きの頭は混乱していて胃袋がおかしいというのに両足の先が鎖に繋がれている、という変な思い込みをしてしまい、歩かないとと思ってトイレを出て、例によって液状的な冷気を孕んだキッチンを通過しベッドに戻った。スマホを手に取って時間を確認すると、アラームより三十分も前だ。それだけあれば落ち着くだろうし仕事には行けるだろう、でも足の鎖を、繋がれているこの足を何とかしたい。頭を枕の上に置いて両手で布団を引っ張って、どうやらそのまま眠ったらしく、アラームの音で再び目を覚ました。
一瞬嘔吐の事実も足の鎖のことも忘れていて、ベッドから出て朝食を用意していたらようやく今食欲がないのだと気付いた。水だけ飲んで、ウォークマンの再生ボタンを押して、パジャマを脱いで、着替えて、パソコンを起動してメールとニュースだけチェックして、家を出る時間になったのでいつも通り出発した。でもどこかで足を鎖で繋がれているという脳内設定が生きていたのか、その日は妙に歩きにくかった。街を行く連中の、浮かれながらも着実な、すたすたした歩みを見て、俺は終日、足が思うように動かないことを内心不思議に思っていた。
来年三十になるこの俺のこれまでに、つまり生まれ落ちた瞬間から今これを思いこれを憂う今この瞬間に至るまでに、何か一つでも確かな、確実なことなんて、果たして本当にあっただろうか。
会社都合で二十四日が休みになった。連休になるのは嬉しいがクリスマスイブ、特にすることもないし誰かと会う予定もないし街はやかましく赤白緑を叫ぶので買い出し以外はアパートで読書でもして過ごそうかと最初は思っていて、二十三日の夜は遅くまで本を読んで、果たしてクリスマスイブ、起きたら九時前で、カーテンを開けると空は濃い灰色で雲が幾重にも重なっていて、嗚呼これは憂鬱だな。誰か友人に声でもかけようかと思ってスマホを手にしたものの一般的には今日は平日であって水曜日であって空いてる奴は多分居ない。シャワーを浴びて軽く朝飯を食ってメールとニュースをチェックして、もう一度窓の外を見たけどやはり全てが灰色であって、世のカップル共はこの空の色も気にせず赤白緑を謳歌するのだろうかとか思いながらウォークマンを鞄に突っ込んだ。ベッドに投げてあったモッズコートを羽織って目的地は決めずに部屋を出る。
目抜き通りの商店はどこもクリスマスセールを開催していて、わらわらと通りを歩く連中、主にご老体はその一つ一つを精察するように緩慢に流れていた。ジングルベル。電柱に設置されたスピーカーからクリスマスソングが聞こえていて、ちょっと変な感じがする。頭上でジングルベル、降ってくる感じ、上から目線な感じ、空から舞い降りてアスファルトに墜落するクリスマスソング。とりあえず駅に入る。改札前はいつも通りの混雑具合で、スーツを着た若い男が券売機の横でスマホ相手に何やら語っていた。
改札の向かいの喫茶店に入ってみる。ブレンドだけ頼んで喫煙席の二人がけテーブルに落ち着く。本は持っていないし今は読書の気分じゃない。つまり、俺は俺という仕事を休まずに居る必要があるような気がした。目の前の、ガラスに面した横並びの席には中年のサラリーマンと学生風の女の子が居て、前者は肘をついてタブレットを眺めていて、後者は教材か何か、サイズの大きい本を開いて俯いていた。一番奥の席に視線を投げると化粧が濃くて露出の激しい女性が異国語で電話していた。黄色に近い色の髪はぼさぼさで、眉毛は昨今の流行りに反して線みたいに細かった。横顔だけ見ても日本人じゃないことは明らかで、肌は浅黒く、言葉は分からないが多分英語ではなくて、彼女は一体どういった理由でこんな所に、東京の片隅の駅のカフェに、しかもクリスマスイブに、一体どんな心情で居るのだろう、と思いを馳せる。出稼ぎにでも来ているのか、日本で生まれ育ったのか、或いは旅行か何かとか。異国の地でクリスマスイブを迎える気分はどうだろう、果たしてメリーなものだろうか。
スマホが一瞬震えてメール着信を告げた。母親からで、年末年始は地元に帰らないのか、帰るなら事前に連絡しろという旨だった。俺はのんびりと返信する。悪いけど帰る気はないから親父と二人でゆっくり過ごして下さい、最近冷えるので身体には気をつけて。送信。もうだいぶ地元には戻っていない。最後に帰ったのはいつだったか、叔父が亡くなった時だったか、あれは何年前だったか、確か夏場だったはずだが。じめじめした空気の中で地元の駅に降り立った時、俺は確かにそこがもはや自分にとって何の意味も持たない土地だと悟った、駅前の小さなロータリーも、自宅がある住宅地も、自宅も、自室も、古い机も、その上の灰皿も、磨りガラスの小窓も、色褪せたカーテンも、窓から見える景色も、古いクローゼットも、目に映る全てが俺に属するものではなかった。かつて、そうかつてそれらは俺を構築する要素だった、それは明らかなことだった、幾つもの朝を幾つもの夜をこの部屋この家で迎えて見送ってそれは確かなこと、揺るがない事実であって、それでも湿度の高い部屋で煙草に火をつけるとその事実は実は俺自身から物凄く離れたところに在ることが肌で分かった。俺は生まれてから高校卒業までを確かにここで過ごした、それはもはやデータだった。蝉が、恐らくは複数の種類の蝉が、わんわんと鳴いていて、窓からは入道雲が見えて、俺はそういったデータから独り取り残された。
「だってマリの彼氏超イケメンじゃん」
「いやいや中身伴ってないから。クリスマスに放置とか有り得ないから」
灰皿をそれぞれ持ったギャル系の女子二名がやってきて、俺の隣のテーブルに陣取った。俺はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲みながら煙草を一本取り出して、この寒いのに二人ともショートパンツ、ここまで貫くとギャル道も大したもんだなと感心しながら煙を吸い込む。彼女達がうるさくなる前にと思って鞄からイヤホンとウォークマンを引っ張り出して装着、ニルヴァーナの「Nevermind」を再生。ビートルズを除けば、これが俺のロックへの入り口だったなぁ。最初に聞いたのは中学二年の冬で、テレビでたまたま『Smells Like Teen Spirit』のライブ映像を見た時は衝撃を受けるとか気に入るとかじゃなくて訳が分からなくて、でもその訳の分からなさに猛烈に惹かれて、そこからずるずると洋楽ロックの沼に沈んでいったんだ。だから「Nevermind」は、俺が最初にロックに触れた頃の高揚感、イヤホンをして寒い中チャリで丘の上の中学に通う道、乾いた風を思い出させる。俺は心持ち音量を上げたが、カート・コバーンのしゃがれた声の合間からも、ギャル二名の会話は断続的に聞こえていた。
『……それマジイミフ……』
『……だからつけまよりも……』
『……ちょっと鏡、こっちに……』
『……なんか取れそう……』
『……今年がもう終わるとか……』
『……年取りたくねー……』
ニルヴァーナも今やすっかり古典、クラシック扱い。俺はカートが自殺した二十七才になった時よりもそれを追い越した二十八才になった時の方が、上手く言えないけど無言の重圧みたいなものを感じた。社会的なものでも世間的なものでもなくて俺が俺自身に与える内的なプレッシャー、自分で自分の首を絞める自分の手を、俺は振り解くことが出来なかった。右隣では色味がいまいち冴えない髪の毛をいじり続けるギャル二名、化粧直しに飽きたのか今は各々自分のスマホに夢中で、おかげで静かになった。奥に居た、化粧の濃い外国人女性が灰皿片手に出口へと消える。コーヒーを飲み切って、はてさてこれからどうしたもんかと考える。クリスマス、クリスマスイブ、プレゼント、そうだハードカバーの本を買ってやろう、そう思って立ち上がり、喫茶店を出た。
ロータリーがある北口の階段を降りて、寒空の下ティッシュを配る若い男女を尻目に本屋へ向かった。空は大晦日に窓を拭いた後の雑巾みたいな色で、いつ汚水が垂れるか分からないような質感だった。本屋に入り、いつもは見向きもしないブックランキングをゆっくりと眺め、話題作を見て、文庫ブースには行かず、国内外の小説、単行本のコーナーへと足を踏み入れた。店内はそれなりに賑わっていて、レジ周辺にはクリスマシーなデコレーションが施されていて、サンタの帽子をかぶった店員も居た。サイズの一定しない、壁一面にずらりと並ぶ本の群れを見遣る。大きな文字、派手な色の文字、小さな文字、様々なフォントスタイル、カラフルな装丁、一冊一冊の本は全て一人か複数人かで書かれたもので、これを書くのに命を削るほどの努力した著者も居るはずで、小説、小説なら一冊ごとに作品世界と無数の登場人物が存在して、帯には絶賛絶賛絶賛の嵐なコメントがつけられていて、ここの店員が作ったポップも同様に賛辞の嵐、文字の嵐が一面の壁にへばりついていた。その嵐はどうしてか俺が立っている場所を不安定なものにしてしまう。本は好きだし本屋にはよく来るけどたまに俺は凍り付く。世界に溢れる言葉・文字・活字、この本屋に何冊蔵書があるかは分からないけど、端的に言うと俺には多すぎるのだ。文字数は無限大で、俺は自分の知らない世界、フィクションも含めた世界がまだこんなにもあることに恐怖する。夜道を独りで歩いている時には感じない恐怖、誰かと楽しく歓談している時には気付かない恐怖、仕事に集中している時には遠くにある恐怖。それはきっと、想像の域を出ないけど、子供が生まれてその成長を目の当たりにすることに似ているかもしれない。確実に自分自身が関わっているのに、自分の価値観や世界観とは違うものを展開していくこと。
気付くと俺は単行本の群れの前から一歩後ずさっていた。誰かが大声で泣いている気がして、でもそれは俺の足下に居るサイズの小さな俺自身で、そのちっこい俺は子供のようにわあわあと泣いているから、何だか俺まで落ち着かなくなってくる。ちっこい俺は俺の足の周りを泣きながら走り回り、俺はそれを目で追おうとするんだけど、当然ながら足下にそんな生物は見当たらない。それでもちっこい俺の泣き声がやまないので、俺は何も買わずに本屋を出た。
ロータリーを回って駅の入り口まで歩いて、ちっこい俺は俺の肩の辺りでまだぐずっていた。何とかこいつを泣き止ませないと、俺は自由に動けない。どういう訳か、俺はちっこい俺を無視出来ないし、ちっこい俺もまた俺自身であって、それは何となく察していて、じゃあ俺は泣いているのか、と自問もしたが、考えている間にまたちっこい俺が泣き始める。
人通りが多くなってきた目抜き通りを歩く。手を繋いだ若いカップルや学生の集団、そしていつも通りのご老体、彼らを追い抜いたりまたは追い抜かれたりして進む。パチンコ屋の前まで来たもののアパートに帰っても仕方がない気がして、ちっこい俺は静かになっていたけど俺は、俺自身を落ち着かせる必要があると考えた。ジングルベルの音を撒き散らすスーパーを通過して、寿司屋の角を左に曲がった。車も通れない狭い路地を少し歩けば右手に公園とも呼べない広場があって、遊具の類はないがベンチと水飲み場、あとは背の高い木が一本あるだけで、よく見ると隅にはゴミが不法投棄されていて、周囲は古い一軒家に囲まれている空間だが、俺はマフラーを少し締めてそこに立ち入り、ベンチに腰掛けて、駅の喫茶店から挿しっぱなしだったウォークマンの音量をほんの少し下げた。ちっこい俺はどこかに消えたのか、帰るべき場所に帰ったのか、もう気配も感じられなかった。木製のベンチは冷えていて尻にまで冷気が届いていた。正面の樹木を根から枝の先までなめるように見上げる。こいつには根っこがある。何十年だか何百年だか前、ここに生命を受けたこの木はこの大地に根を張り、成長を続け、今や二階建ての一軒家を追い越すくらいの高さにまで到達しているが、それを可能にしているのはこいつに根っこがあるからだ。もしかしたら俺が座っているベンチの下、土の中にもこの木の根が這いずり回っているかもしれない。根っこがあるっていうのは、確実な、確固たることだな、と思った。今は一枚の葉もぶら下げてないけど、年が明けて寒い季節を過ぎればこの木はまた、緑色とかそういう系の色に染まる、それを支えるのも根っこなんだな。
腹が減ったので広場を出て目抜き通りに戻り、駅とは反対方面に歩を進め、十字路を斜めに渡ってカレー屋に入った。カレー屋までクリスマス、赤白緑、ちょっとは節度というものに気を配って欲しいものだ。店内は薄暗く、客は上下ジャージのカップルが一組向かい合って座っているだけだった。カウンター席に着き、やってきた女性店員をちらりと見てぎょっとする。太い眉毛はそんなに流行ってるのか、もう女子は皆一様に眉に育毛剤でも塗り込んだらどうだ、と言いたくなりながらチーズカレーを頼んだ。煙草を取り出してから店内が禁煙だということを思い出す。目の前のカウンター、グラスやら水差しやら食器やらが並ぶその奥では若い店員が三名、銘々に仕事をしていた。銀色の大きな鍋のようなものが、少し開いた正方形の小窓が、鼻孔に届くカレーの匂いが、積み重なった白く平たい皿が、深緑色のエプロンをした店員が、光を反射する数多のスプーンが、今の俺の目には何故か突き刺さるように痛かった。やがて眉毛の太い女性店員がチーズカレーを運んでくる、俺はスプーンを手に皿を見下ろす、立ち上る湯気、薄茶色のカレールウ、そこに浮かぶ細かいチーズ、白い米、に、飲み込まれそうになる。俺がカレーを飲み込むんであって俺自身が飲み込まれるなんてのは話が逆だ。スプーンを握り直す。食べながら、もしカレーが俺を飲み込んだらそれを食べる俺は俺自身をも飲み込むことになる、でもそれをもカレーが飲み込んで、またそれを俺が飲み込む、と延々考えてきりがない。
千鶴の眉毛は太くない。少なくとも、先日のスーパーの女子やカレー屋の店員ほど異様ではない。元が薄いからちゃんと描かないと顔の印象が弱くなるのだ、と昔言っていた。俺は目の前の千鶴が毎朝鏡に向かって眉毛を丁寧に描く様子を想像する。きっと少し目を細めて顔を傾けて、ペンか何かで慎重に描くのだろう。
「アンタが暇で助かったよ。イブなんて誰も捕まらないからさ」
そう言う千鶴は赤みがかった髪をさっと掻き上げる。昔からの癖だ。髪なんか乱れてないのに三十秒に一回はこの仕草をする。
「俺も退屈してたからおまえが声かけてくれてよかったよ」
「よくねーよ、私フラレたんだから」
「まだ分からないだろ」
「じゃあいいよ、私がフる」
「拓夫にだって事情があるんだろ」
「どんなマザコン事情だよ、クリスマスイブに私よりママを優先するようなクソ男」
「家族を大事にしてるってことだろ」
俺が千鶴を好きなのは、こんなことを言いながら実は恋人の拓夫のことは今微塵も考えていなくて、本心はどこか別の場所、こんな廃れたファミレスになんかない、みたいな雰囲気を常に持っているからだ。こいつは何をしててもそうだ。いつも心ここにあらずで、俺には千鶴がいつも異次元でも見透かしているように感じられる。
店内は騒がしかった。時刻は午後六時過ぎ、ましてクリスマスイブ、家族連れもカップルも学生集団も各々の理由ではしゃぎ回っている。だが千鶴は違う。右肘を突いて左手でセミロングの毛先を弄ぶ様子を見るに、こいつはイブだとか彼氏だとかそんなことは考えてなくて、もっと重要な何かについて思考を巡らせている、俺にはそう見える、勿論俺のことだって見てない。
カレー屋を出てすぐ、千鶴からメールが入ったのだ。暇だったら一駅先の店で会いたいと言われ、他に予定もなかった俺は素直にそのまま東へ歩いた。街道を直進すればすぐに隣の駅に出るのだ。寒かったが、待ち合わせたファミレスに着く頃には身体が良い感じに温まっていた。
千鶴、大崎千鶴とは上京してすぐの頃にバイトをしていた書店で知り合った。千鶴は俺より二つ年上で、大学に通いながら夜だけそこで働いていた。中学の頃から付き合っている拓夫も足繁く店に来ていたので俺も顔を覚え、俺が店を辞めた後になって交流が深まった。同じ学校だとか同じ会社だとか、そういう箱みたいなものの外で親しくなったから、千鶴は他の友人らとはどこか違っていて、それは千鶴の心ここにあらず感に起因するものかもしれないし、俺の捉え方が違うからかもしれない。特に趣味が合う訳でもない。一緒に居ると気が抜ける。何しろこいつの心はここにない。俺を見ているようで実際は何も見ていない。千鶴と居ると俺は、俺を演じる必要がなくなる。読書とは別の意味で俺は俺という仕事を投げることが出来る。こういう友人が居るというのは、なかなか幸運なことだと思っている。
対して拓夫は、呑気という漢字がそのまま人型になったような奴で、話しやすいのですぐ打ち解けたが、千鶴の心とか考えが自分に向けられてなくても平気で余裕すらあって、千鶴も千鶴の心も丸ごと好きだ、みたいにいつもニコニコしている。ある意味で鈍感なのだが、そんな奴だからこそ千鶴と長く付き合えるのかな、と俺は考えている。
ハンバーグセットを食べ終えた千鶴がフォークとナイフを脇に置いて、また髪を掻き上げて、窓の外を眺め始めた。外はすっかり暗くなっていて、街道を走る車、多くの車、そのランプ、オレンジや赤、或いは白が、動くネオンのように見えた。
「アンタ女作らないの」
流れる光を見ながら、千鶴が言う。
「俺は独りで居るのが性に合う」
そう答えてから、宏一が言っていたことを思い出して、
「誰か他の人間と生きていくなんてたいそうな覚悟は出来ないな」
と続けた。
「あー、だーよーねー」
細長い煙草を取り出した千鶴がテーブルに突っ伏すようにして言った、間延びした声に反してその目はきつく虚空を睨むようだった。
「自分を保つだけでいっぱいいっぱいなのに、更にもう一人もケアするって、ねぇ、まあ支え合うっていうことも出来るしそれはそれでいいことなんだけど、たまに重くなるよね」
「俺は支え合った経験はないけど、おまえは拓夫が重いの?」
「んー、普段は平気。でもねぇ、ふとした瞬間に考えちゃうんだよね、私もしかして未来に生きてるんじゃないかなとかって」
「未来」
「未来でも夢の中でもいいんだけどさ。なんかね、今は拓夫と二人で暮らしてる訳じゃん、親同士も古い付き合いだからあとは籍さえ入れれば文句も言わないし。でも中学三年のさ、付き合いだした頃の私が、拓夫と自分の将来とか妄想しててさ、今の私はその妄想の中の登場人物にすぎないのかもなーとか思う」
「それは俺も、何となく分かる」
千鶴は俺の相槌もやっぱりどうでもいいみたいでバッグからスマホを取り出して、けだるげに何度かタップした。
俺が一番最初に、今のこの俺は夢の中に居るんじゃないかと思ったのはいつだったか。幼稚園か小学校か、それすら覚えてないけど、もしかしたら現実の俺はとっくに死んでいて、俺は幽霊が夢想する世界に住んでいるんじゃないか、そんな風に考えるようになったのは、そしてそれが日常茶飯事になってそのまんま三十路一歩手前まで生きているこの俺は。
「篤史」
「何」
「アンタやっぱ彼女作った方がいいよ」
「何だよ、それ」
「アンタにはしっかり掴んでくれる人が必要だと思う」
相変わらず、千鶴は俺の目を見据えていながらその遙か彼方を見詰めているようだったが、俺、そう俺は、千鶴の指摘が具体的に何を意味しているのか分からなかった。
「掴む?」
「そう。アンタってなんか、ふよふよ浮いててどっかに飛んでいきそうだから」
それきり千鶴は何も言わなかったし俺も深く問い詰めなかった。ただ経験上、千鶴の言葉は後になってからその正しさが分かるのだ。痛いほどに。
ほどなくして俺達は言葉少なに解散した。街道の広い歩道、オレンジと白の灯りの下を歩きながら、夜が明ければクリスマスだな、とぼんやり気付いた。結局自分へのクリスマスプレゼントは買わないまま、イブは終わりを告げた。
仮に千鶴が言うように、俺がふよふよと浮遊でもしているとしてどこかに飛んで行きかねないような状態だとして、でもそれが何だって言うんだ。
俺はどこにも属していない、かもしれない。世間的・社会的には今の会社の一員だけど、俺は働けて稼げればいいだけであって、それはどこか別の会社でも多分同じ程度の意識であって、帰属すべき場所や人間も居ない俺は、俺は、俺は?
テレビみたいなんだ。俺はいつもいつもいつも傍観者で視聴者で第三者で、俺は俺の生活、もっと言えば人生、を、チャンネルを変えることなくただ眺めているだけだ。
でも、俺はちゃんと俺だろうか。俺を演じ切れているだろうか。そのジャッジは誰が下すんだろうか。そもそも自分というものは演じるものなのだろうか。よく素という言葉が使われるけど、俺は自分の素というのがいまいち分からない。
世界は、世界っていう広大なやつは、俺なんかが浮遊していようがいまいが構わずそのままだ、あるがまま、地球の自転も止まらないし太陽も変わらずに燃えるのだろう。でも他ならぬ俺もこの世界に居る訳で、俺は世界に属していることになるのか。では俺が俺であることを辞めた時、一体、どこの誰が気付くのだろう。この俺以外の誰が。
仕事を終えて下り電車に揺られている時、電車内はそれなりに混み合っていたのだけど俺はドアの脇に立っていて、ふと窓ガラスに映った自分と目が合った。外はすっかり暗くなっていて景色など見えず、たまに店舗や民家が今日この日のために準備したイルミネーションが次々流れて行っていた。その合間の闇に浮かぶように、俺の顔があった。血色が悪く、朝より髭がほんの少し目立っていて、痩けた頬骨が気持ち悪い。俺ってこんなに景気の悪い顔をしてたっけ、と思ったけど別に景気は良くもないからどうでもよかった。とはいえ最近鏡を見ることが減った。若い頃はよく宏一と一緒に原宿とかに行って流行りの服を買ったりしていたけど、今でもこだわっているのは靴の履き心地くらいであって、仕事着は不潔でなければいいやというくらい。昔好きだったブランドもなくなったり系統が変わったりしていて、更にアラサーでこの格好はどうなの、みたいな変な意識も芽生えていて、要するに最近ほとんどファッションに、見た目に気を遣ってない。こんなことを考えるのは年を取った証拠か、などと思いながら下車して駅から出て、火村書店の前を通過してパチンコ屋まで直進する間、でも一般的な二十九才がどんな格好をするかなんて知らないな、と思った。会社の人らとは会社でしか会わないし飲み会なんかも私服じゃない。同級生で今も実際に会うのは宏一くらいで、他の奴らとは最近はメールとか各種SNSやメッセンジャーでやりとりしてるし、年に二回くらい地元の連中は同窓会の類をやってるらしいけど、俺は帰るのが面倒で行っていない。都内でやるから来いよと言われたこともあったし実際東京に出てる奴も居るんだけど何だろう、俺は多対一の付き合いが得意ではないのかもしれない。向いてない。一対一で話せば気が合うと思っても、集団の中に入ると顔つきも声音も何もかもが変わる奴が多い、というかそれが普通なのだろうか。とにかく俺は同窓会には行かないし、同世代の友人とリアルで会わないから同世代で流行りの格好も知らない、雑誌も買わなくなって久しい。最近街で見かける連中も、ぱっと見ただけじゃ年齢が全然読めない。良いジャケット着てるな、と目を惹く奴がよく見ると学生風だったり、あのバッグかっこいいな、と思ってよく見たらおじさまだったり、もう訳が分からない。何が分からないって、自分のセンスが。昨今の女子の眉毛だってそうだし、リバイバルとかいうやつも俺には理解出来ない。個人的に女子高生のルーズソックスは好きだったからアレはリバイバルしても構わないが。
今でもきっと、学校では如何にして教師に叱られない程度に、校則違反ギリギリのところでオシャレに気を遣って周囲の目をひくのに必死な奴は多いのだろう。隠れて酒を飲んだり煙草を吸ったりしてる奴は居るのだろう。俺の世代とは流行りの格好も聞いてる音楽もコミュニケーションツールも全く別物だけど、根底にある暗黙のルール、クラスの調和とグループ意識、いわゆるスクールカースト、アレは良くてコレはダメ、あいつは良くてこいつはダメ、みたいな意識はあんまり変わってないんじゃないかと推測する。俺はどちらかというと調和ってのがいまいち理解出来なくて、今の言葉で言えばかなり浮いていて、音楽と本にのめり込んで周りを見る余裕もなかったし、そういう状態が苦ではなかった。誰に何を言われようが気にしない代わりに、自分自身を見失っても誰も教えてくれなかった。そう思うと俺は、何だ、三十路一歩手前にしてティーンの頃と何一つ変わってないんじゃないかと思えてそれはそれで滑稽。
パチンコ屋の電飾が視界に入ったところで、何か映画でも見ようか、という気持ちが湧いてきた。スーパーの斜め向かいに小規模なレンタルショップがあるので足を伸ばすことにする。このレンタル屋は個人経営なのか何なのか、とにかく狭くて薄暗くて、どこか火村書店にも通じるものがあるんだけど、あそこが洞窟ならここは岩場の隙間って感じで立ち寄る人間は少ない。店の前にはぼろぼろの棚が並んでいて、古いVHSを一本百円で売っていた。特にクリスマスらしいセールや装飾もなく、店に入る時くたびれた様子の中年男性と入れ違いになって、他に客は居なかった。ラジオと思われる音声が、奥のレジの方から聞こえていた。煙草の匂いもする。
さて映画、俺はたまにしか見ないのだけど今日は何を借りようか。クリスマスにちなんだものなんて絶対にダメだ、ただでさえ安っぽい一日がタダ同然になってしまう。じゃあ鑑賞後に暗澹たる気分になるか、死ぬほど胸くそ悪くなるものにしようか、とも思ったが、明日も仕事なのでなるべく後に尾を引かないものがいい。埃っぽい店内をのんびり徘徊しながら薄いディスクの大群を一つずつ精察した。結局どれくらい悩んだかは分からないが、邦画の気分ではなかったので洋画コーナーをうろつき、何となく目に付いた「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」という映画のDVDを借りることにした。いつだったか予告編を見て気になっていたし、キャストも豪華だし、確かエリオット・スミスとかルー・リードの曲が使われてなかったっけ。とまれカウンターに向かうと、こちらに背を向けて煙草を吸っていた若い男性店員が振り返り、煙草の火は消さないまま、会員カード、とだけ言ったので俺は財布から小銭とカードを取り出して差し出した。一週間です、とぼそぼそ言いながらディスクを青い袋に入れるその男の口許には殴られたような青痣があって、よく見ると唇の端が切れているようだった。ひょろひょろした体型の彼は自ら喧嘩を仕掛けるタイプには見えなかったが、どうだろう、急に自分の目があてにならないような気がしてきて、袋と釣り銭を受け取ると俺は足早に店を出た。ひょろひょろというか、悪意なく言えばなよっとした男だった。彼は誰かに暴力を振るわれたのだろうか。痣の色からして恐らくは最近だ。俺はパチンコ屋の赤いネオンを遠目に、勝手に妄想を始めた。もしかしてあの店の店主が殴ったんだろうか、彼が仕事で何らかのミスをしたとかそういった理由で。もしくは家族かもしれない。父とか兄とか弟とかと揉めたとか、或いは恋人か友人にやられたという可能性だってある。あの痣の位置は、どこかにぶつけましたとかどこかで転びましたといった言い訳は一切通用しない、まごうことなき、暴力の証し。人為的な。彼は被害者だろうか。表面上はそうだ。でも実は彼は空手をやっていて相手を病院送りにして自分はちょっと痣が出来ただけで済んだ、なんていうことだって有り得る。だが本当のところは彼自身に聞いてみないと分からない話だ。暴力がいつも一方的だなんてことはないし殴られたり蹴られたりした方がいつも哀れむべき被害者とも限らない。唇が切れていたけど、煙草を吸って痛くはないのだろうか。俺は、あのひょろっとしたなよっとした若い男が、痛みに耐えながら喫煙する、その行為に何か美しさみたいなものすら覚えて、おかげで帰宅した時には借りてきたDVDのことなんて忘却の彼方で、パスタを茹でて食べてから早々に眠ってしまった。俺のクリスマスなんてそんなもんだ。
珍しく残業があった。いつもより二時間半遅い帰路、電車はほんの少し空いていて、駅に降り立つとその辺を歩く連中は映像の早送りみたいにせかせかと歩いていた。火村書店のシャッターは当然ながら閉まっていて、隣の美容室も同様、というか目抜き通りのほとんどの商店はとっくに店仕舞いをしていて、嗚呼、夜だな、と俺は思って、こんなにも完璧な夜にあの人工的な光の溢れるスーパーには行きたくなくて、自炊をする気にもなれなかったのでラーメン屋に入ることにした。パチンコ屋の二軒手前に古い店があって、そこは深夜遅くまで営業しているのだ。
店の前に立つと、赤いのれんに『らーめん』とだけ白い文字、筆で書いたような書体で書かれていて、ガラスの引き戸の脇に『小梅』と店の名前が書かれたパネルみたいなものが無造作に置いてあって、おかげで何度も来てるのに俺はここの名前を覚えられない。とはいえ越してきた当初や繁忙期で自炊出来ない時にはかなり世話になっている店だ。がらがらと引き戸を開けると麺の匂いにむわっと全身を包まれた。カウンター席のみ、U字型になっていて、左奥で禿げたおっさんが何やら食べていて、右側にはこんな時間なのに子供連れが居た。客はそれだけだったので、俺はU字の一番突き出た席に座る。とんこつラーメンと餃子のセットを頼んだ。注文を取りに来たのは初めて見る若い女で、幸か不幸か彼女の眉毛は太くなかった。とんこつセット入ります、と言う彼女の発音からして、日本人ではないのかもしれない。
自分でお冷やを注ぎ足してから俺は適度な明るさの店内を眺めた。二面の壁にはメニューの他に古い演歌歌手のポスターが貼ってあって、俺はその誰も知らない。ラジオが流れていて、NHKなのか何なのか、ニュースを読み上げる男の声はえらく味気なく感情というものをマイクに吹き込まないよう腐心しているかのようだった。
先ほどの女性が四角いプレートを両手に奥から出てきて、子連れ客の前に置いた。若作りした化粧の濃い女と、これまた若作りの白髪交じりの男、子供は小学校低学年くらい、大人しいなと思っていたら何てことはない、ゲーム機を両手で掴むようにして遊んでいるのだった。
ほどなくしてありついたとんこつラーメンは食べ慣れた味で美味かった。ここの餃子は小さいんだけどジューシーでなかなか良い。麺を食い終えスープをすすっていると、左手の奥に居た禿のおっさんがカウンターに小銭を置いて立ち上がった。壁のハンガーに掛かっているコートをのそのそと着込み、無言で店を出る。真後ろのドアが開くと、背中に冷気が襲ってきて、うなじなんかはダイレクトにそれを食らってしまって、俺は何かの埋め合わせのようにスープを飲み続けた。
帰宅して着替えもせずにベッドに横になり、枕元の文庫本を見もせずに一冊手に取って開いた。栞がはらりと顔に落ちてきた。静かだった。でもそれは心地よい静けさで、俺はそのまま本の世界に入り込む。その内満腹感が眠気を呼んで、嗚呼これは動ける内に着替えた方が良いなと思って、栞を挟み直してフリースのパジャマに着替えて、再びベッドに潜り込むともうそこは俺の知ってる部屋ではなかった。ヤニで黄ばんだ天井は確かにいつも見るものだった、左手の壁紙の剥がれかけた壁も、右側に見える低いテーブルもその上の灰皿やノートパソコンもスマホも、文庫本ばかりが並んだ白い本棚も、圧迫感、俺に向かって四方八方から迫り来るようで、嗚呼またか、俺は俺自身を奪還するためにゆっくりと呼吸をする。少し、恐れていた。それはつまり、この部屋、今現在俺が暮らしている部屋すら実家のように単なるデータになってしまうこと、それは何だか本当に居場所がなくなる気がして、いやでも、ここは俺の部屋であって俺はここの主なのだった。ただ、それが実感としてあるかというと、今の俺にはよく分からないのだ。
ふと、クリスマスイブに行った広場の、背の高い木のことを思い出す。あの木には根っこがあって、その根は物理的に存在するもので確固たるもので、でも人間には目に見える根っこなんてないじゃないか。帰属だとか根を張るだとか居場所だとか故郷だとか、そんな安易な言葉で人の生き方に、生き様に、枷を設けて一体何が楽しいのだろう。でも人間は群れる生物だ。そういう生き物だ。俺は俺自身だけと群れている。換言すれば、他の誰とも群れてはいない。俺自身がそれを望んでいない。本当に? 千鶴だって言っていた、自分を保つだけで手一杯なのに他の誰かとだなんて、と。俺は俺で手一杯なんだ。本当に、それだけなんだ。なんて、俺は一体誰に言い訳をしてるんだろう?
昼休憩の時、給湯室でコーヒーを煎れていたら前田さんがマグカップ片手にやってきて、また誘われたら嫌だなと思ったのだが案の定誘われた。彼女とは過去に一度寝たことがあって、俺は酔ってたし前田さんにも彼氏が居たからそれきりだろうと思いそんな一夜のことは忘れていたのに、どういう訳か彼女はちょくちょく俺を誘うのだった。彼氏とは別れたから、だとか、河村君も寂しいでしょ、だとか、一晩くらいいいじゃない、だとか、他の社員やアルバイトにばれない場所・タイミング・声の音量・年上の女の余裕を見せびらかす感じのお誘い、まあまあアレだね、世に言う肉食系女子なのかね、この人は。どう断ろうかと思っていたら課長に呼ばれたのでそれを理由に給湯室から逃げ出した。
なんで誘いを断るかというと単純に俺はセックスが苦手だからだ。行為そのものは可能だしEDとかそういうのじゃない、ただ高校の時、当時付き合っていた女子との最中に、見えてしまった。彼女に覆い被さる自分、へこへこと腰を振る自分、から、意識だけがするっと抜け出してしまって、愛の営みはあっという間に他人事になって、それでもうダメになった。自分の下であへあへ言う女の身体も自分自身の身体も、もはや俺のものではなかった。以来、誰と寝ようとしても自分が自分でなくなる気がして、そりゃ性欲は人並みにあるのだけど、その辺の男共のようにセックスに飢えることはなくなった。断絶される気がするんだ。動いているのは確かに俺の身体であって、でもその身体は何というか自動操縦みたいな感じ、或いは性欲が肉体を乗っ取って動いていて俺自身が身体から追い出される、俺はあの感覚が死ぬほど嫌いだ。しかしセックスに限らず最近そういうのが増えているような気がしてならない。終業まで前田さんを視界に入れないようにして、でも彼女の身体を全く覚えていない自分は、でもそのラブホのブラックライトだけは妙に覚えている自分は無責任なのか何なのか、自問したが答えは出ないままタイムカードを押した。
異変を異変だと気付くのはいつも即座にという訳ではないが、その朝、俺はシャワーを浴びていつも通りウォークマンの再生ボタンを押して、ベーコンエッグを作って平皿によそって居間のテーブルの上に置いて、半分くらい食べたところであれ? と首を捻った。
窓際のスピーカーは日光を浴びながら音楽を流していて、ビートルズの「Magical Mystery Tour」をシャッフル再生していて、ジョン・レノンが『ぼくはセイウチなんだ』と歌っていて、でもおかしい、俺の中には何も浮かばないのだった。このアルバムは中学に上がる前に買って中学一年くらいの時に物凄く聞き込んだ作品で、いつもは音に呼び起こされた情景や感覚や出来事や記憶が自動的に浮かんでくるのに、俺はそうやってしか自分の足跡・痕跡を確認出来ないというのに、何でだろう、分からない、何も、何一つ出てこない。
半分になったベーコンエッグを放置して窓辺まで歩き、ウォークマン本体を操作する。試しに別のアーティストをと思ってヴェルヴェット・アンダーグラウンドのベスト盤を再生してみた。これも中学から高校にかけてよく聞いていたものだったが、俺の頭の中は真っ暗の空白のままだった。ルー・リードの声は聞き慣れていたけど、それだけだった。これを聞いていた頃の景色や感情、端的に言うところの思い出は、どういう訳か微塵も浮かばなかった。すがるような思いでウォークマンを全曲シャッフル再生にするが、どのアーティストのどの曲も、それらは単なる音にすぎなかった。激しい音、優しい音、ノイズのような音、美しい音、色んなシンガーの色んな歌声、それらは全て音以上のものではなくて、いつものように俺の中に眠っている俺を構成する過去の要素を呼んではくれなかった。
確認出来ない。
自分のことが。自分のことなのに。
それに気付くと俺は震え上がりそうになったけど実際身体はぴくりとも動かなかった。目眩がする。ベッドに座り込んで頭を抱える。髪の毛が指に絡んだがそれは単なる違和感で、自分に触れている気がしなかった。
空っぽだ。
俺は空っぽになってしまった。
自分の中に何も持たない俺は、もはや会社なんてどうでもよくなって、というか自分に手が届かないような状態で仕事なんて出来るかかなり怪しいし、とにかく今の俺には分からないことが多すぎて、いや、データとしては残ってるんだ。
氏名 河村篤史
生年月日 19○○年2日20日
年齢 満二十九才
現住所 東京都○○区○○○ 2-14 アールハイツ204
職業 会社員(株式会社リスピー勤務)
うん、分かる、出身地も家族構成も、親の誕生日だって覚えてる。でもなんでそういった情報がこんなにも他人事なんだろう、なんでまるで知らない奴の履歴書でも眺めているような気分になるなんだろう。もしかして俺はいよいよ、俺自身に見捨てられたかのような、そういう嫌な予感。
外はこれでもかというほど晴れていて空には雲一つなかったが、風が冷たかったので俺はモッズコートではなく黒いダウンジャケットを着ていた。俺はパチンコ屋の前に突っ立っていた。背後からはジャカジャカというBGMやその他ノイズが聞こえていて、自動ドアが開く度にその音は塊となって俺の背中を叩き、ドアが閉まると中の他の人間に向けて鳴っているようだった。このパチンコ屋がチーターズという名前だったことを、俺は店先の看板を見て思い出した。建物は刺々しい赤に塗られていて、バルーンやのぼりが北風にはためいていた。目抜き通りを、俺から見て左から右に、多くの人間が、主にスーツを着た男女が、様々な種類の足音を響かせながら行進するみたいに歩いていた。出勤ラッシュ。こっこっこという革靴の音、かつんかつんというパンプスの音、しゅんしゅんというスニーカーの音、きんきんと耳障りなピンヒールの音、それら足音は異様と言って差し支えない音量で、全てが駅に向かいながら、冬の空の高いところまで届いていて、俺も普段はこの足音の一部なのかと思って、そうすると今自分がそれに参加していないことが妙な優越感を呼んだ。スマホは一応持っていたが、腕時計を忘れてきた。ほどなくすると出勤の行進は散り散りになって、親や保育士らに手を引かれた幼稚園児達が黄色い帽子をかぶって危うげに歩いて行き、制服の上にコートを着た中学生達が自転車で駅とは反対方向に走り、ズボンの裾を引きずった男子高校生らがだらだらと歩き始める頃には通りのほとんどの商店が店開きを始めていた。パチンコ屋の隣の果物屋の老いた店主がビニール製の屋根のようなものを店先にセットする、いつも名前を忘れるラーメン屋はまだ人気すらなくて、向かいの八百屋では若い男がレタス100円と書かれた段ボールを次々と重ねる、その隣の美容院の前ではこんな早朝から客引きの若い男がクーポン券を配り始める。右に視線を投げるとおばさま向けの洋服店のシャッターが開いて、白髪染めをしすぎて不自然な中年女性が真っ赤なコートを着たトルソーを運び出していて、その上の歯医者はまだ開いていなかったが、窓のブラインドは上がっていて時折歯科医か歯科衛生士と思われる人間が垣間見えて、左を見るとシャッターの前に老婆と呼ぶには少々若い女性が低い椅子に腰掛けて和菓子の類を台の上に並べていて、俺の馴染みの喫茶店はその隣だが、まだ開店準備も始まっていないようだった。そしてその間にも目抜き通りには人間が、生きている人間が様々な形で行き来していた。徒歩・自転車・原付・バイク・乗用車・軽トラ・ベビーカー、等々。
俺はパチンコ屋の前から一歩も動かなかった。自動ドアの脇に小さな灰皿があったので、気が向いたらそこでタバコを吸うだけだった。
太陽の位置が高くなった気がして、その頃には通りはすっかり商店街として機能し賑わっていた。様々な店の様々な店員が声を張り上げていた。風は徐々に強くなり、果物屋の店主は品物を透明のビニールシートで覆った。
いい加減通りを眺めるのに飽きた俺は、例の喫茶店のドアが開きあのおばちゃんが『営業中』と書かれたプレートをドアにセットしたタイミングで歩き出した。何か暖かいものが飲みたかった。店に入る時、普段は目に入らない入り口のドアの脇に、『美味しい珈琲・すずらん』という立て看板があるのに気がついた。入店して窓際の席に、窓に背を向けて座って、カフェラテを頼んだ。おばちゃんははいはいと言ってカフェラテ入りますと復唱したが、それはどうしてか、あまり馴染みのある光景ではなかった。他に客は居なかった。灰皿を引き寄せ煙草を取り出す。店の内装は見慣れているはずなのに、久しぶりに来たかのようなよそよそしさがあった。木製の低いカウンターも、見た目は荒いがすべすべのテーブルも、壁に掛けてある写真も、奥で白いカップを取り出す店主も、トイレのドアも、年季の入った壁時計も。最後に来たのはいつだったか、一週間も経ってないはずだが、何も変わっていないはずのこの店、雰囲気が変わったとか空気が違うとか、俺にはそれすら分からなかった。過去に写真で見た店に初めて来ているような気がしていて、おばちゃんがカフェラテを持ってきてくれた時初めて、俺は煙草に火を付け忘れていたことに気がついた。ラテを口に含む。飲み込む。馴染みのある味、飲み慣れている味、だがそれもまた、自分の舌やのどの記憶ではないような違和感。しばらくカフェラテを飲んで身体を温め、煙草を吸い、それでも自分がどこかアウェイな場所に居るような心細さは消えなくて、俺はスマホを取り出して宏一にメールした。その頃になってようやくBGMが流れ始めた。
宏一は昨日が仕事納めだったらしく、俺が頼むと一時間以上かけてやってきてくれた。その間俺は、改札前のカフェ、クリスマスイブに外国人女性と二人のギャルを見かけたの喫煙席の一番奥に座って、煙草を吸ったり吸わなかったりしながら、でも何も考えられず、頭の中でずっと『俺は、俺は、俺は』という声が響いていて、でも『俺は』の後に続く言葉、名詞も形容詞も動詞も聞こえず、俺は自分に言い聞かせるかのように心の中で色々付け足していた。
俺は、河村篤史。
俺は、パスタが好き。
俺は、読書が趣味。
俺は、二十九才。
俺は、東京生まれではない。
俺は、いつも音楽を聞いている。
俺は、
俺は、
俺は、
「篤史」
気付いたらグレーのコートを着た宏一が飲み物と灰皿を持って目の前に立っていた。
「どうしたんだよ、大丈夫か?」
宏一はコートとマフラーを取って椅子の背に掛け、俺の真正面に座った。
「ああ、悪かったな、折角の休みなのに」
「そんなこと言う余裕はあるのか。何事かと思ったよ、おまえの方から急に会いたいなんて言ってくるなんて珍しいからな」
「まあ、何つーか、ちょっと変なことになってるんだ」
何本目か分からない煙草に火を付けて、俺は今朝からの異変を説明した。勿論上手く説明なんて出来なかった。音楽を聞いて自分のことを確認するってことから説明しないといけなかったし、宏一がそれを理解してくれたかも分からない。それから自分が空っぽになってしまったこと。それに気付いてしまったこと。それを言った時、もしかして俺は元から空っぽで、たまたまそれに気付いたのが今朝だったんじゃないかと思った。
「でも俺のことは覚えてるんだろ?」
「覚えてるよ。でも、本人に言うのは失礼かもしれないけど、なんか他人事っていうか、手が届かない気がするんだ。おまえは俺の友達だけど、その俺自身がどっかに消えたみたいな違和感があって」
俺がそう言うと宏一は俯いて煙を吐き出し、
「おまえ、疲れてるんだよ。最近テレビとかでもそういう病気っつーか異変みたいなのが増えてるって言ってるだろ? 何か大事なことを忘れてる訳でもないし、たとえおまえが俺のことを忘れても俺はおまえのダチだよ」
その目には心底俺のことを案じてくれているような光が宿っていて、でも、嗚呼、無理だった。通じなかった。これが、この違和感、自分自身から断絶されてしまった恐怖、俺は俺なのに俺自身じゃないという実感、それらは通じなかった。疲れてる? かもな。最近多い? そうかもな。でもそれが何だ?
俺は、俺は、今こんなにも辛いのに俺は。
千鶴と連絡が取れたのは夕方になってからだった。それまで俺は主にアパートのベッドで独り頭を抱えていたのだが、三時頃ふと思い立って火村書店に行ってみた。洞窟の入り口は狭く、内部は薄暗く、レジに居たのは見たことのない白髪の男性だった。特に買いたい本もなかったが、俺は、もしかして本を読めば少しは楽になるかもしれないという希望的観測で以て店内をうろついた。馴染みの文庫本コーナーでは国内外の小説を吟味し、単行本が並んでいる壁も見た。一冊、文庫で面白そうな本を見つけたので手に取ってレジに向かったのだけど、対応しようとする白髪の老人、彼の緩慢な動き、動作、開いているのか閉じているのか分からないような目、それらに何故だか怖じ気づいてしまい、さっと踵を返して逃げた。持っていた本も俺の知らないものだった。作者も作品名も知らない。単に粗筋と帯の謳い文句に惹かれただけであって、俺は普段からそういう本の買い方をするにも関わらず、今日は、その時は、それがえらく常軌を逸した行為のように思えて、俺は本を棚に戻し、出口に向かった。店内入り口に敷いてある汚い緑色のマットを踏んだ瞬間、俺の中からまた色彩が消え失せた。俺はここに居ない。それは確実な事実だった。でもだからといって自分が本当はどこに居るか、それだって分からなかった。俺はアパートに戻った。
『私が先にそうなると思ってたんだけどね』
パソコンの画面越しに千鶴が言った。スマホの充電がないとかいう理由で、俺らはスカイプの音声通話で話していたが、俺には言いながら髪を掻き上げる千鶴の手が見えた気がした。
「どういう意味だよ」
『アンタは、自分の記憶とか自分自身がどっか行っちゃったように感じてるんでしょ? 私もそのけがあるから、私がそうなると思ってたんだけど、まあ、アンタがなるとはね』
「なんか、えらくすんなり受け入れてくれるんだな」
『そりゃ自分がそう思うことがあるし、今多いらしいからね』
「何なんだろうな、これ」
俺がぽつりと言うと、千鶴はしばらく黙った。煙草に火を付ける音が、ノートパソコンのスピーカーからかすかに聞こえた。
『今から相談所の電話番号と、PDFで地図送るよ。街道沿いだからすぐ行けると思う』
「相談所?」
『最近ウチらみたいなのが凄く増えてるから、色んな団体がそういう相談所を作ってんの。医療法人とかじゃないけど、これから教えるのは割とまともなNPOがやってる所だから、行って損はないと思う』
そんなものがあるのか、と思っている間に千鶴がデータを送ってくれた。俺は礼を言って通話を終わらせようとしたんだけど、最後に千鶴は言った。
『申し訳ないよ、私が掴んであげられなくて』
千鶴の言葉はいつも当たるのだ。痛いほどに。
○○区若者の居場所探しセンター、というのが、千鶴の教えてくれた相談所だった。クリスマスイブに千鶴と会ったファミレスとは逆方向に街道を行き、百均の入っているビルを右折した所にあるらしく、翌朝俺は身支度をしてすぐに行ってみることにした。歯磨きと髭剃りをしようとユニットバスの鏡を見た俺は軽く驚いてしまった。俺、こんな顔してたっけ。細い眉毛、奥二重の目、低くも高くもない鼻、その脇にある昔のニキビ跡、頬は別人みたいに痩けていて、そう、別人、鏡に映っているのが俺だという実感も確証も保証もないように感じられた。とにかく身支度を済ませ、俺はモッズコートを着込みいつもの鞄にウォークマンとイヤホンを一応入れてから家を出た。
風の強い日だった。商店街を街道に向かって歩く。ひしめき合う店舗はどこも賑わっていて、嗚呼そうだ、もう年末なのだ、今年が終わるのだ、と今更気が付いた。目抜き通りはごった返していたが、誰も俺を見ていない、目も向けない、という当然の事実が、今日は何故か異常事態かのように思われた。
街道に出る。片側三車線の道には車がびゅるんびゅるんと猛スピードで走りに走っていて、年末なんだからもっとのんびり走れよと俺は思ったんだけど、年末だから皆急いでいるのか。風は冷たく、それは俺のアパートのキッチンの液状的な冷気とは真逆の、湿度の低い寒さで、その上向かい風だった。俺は心持ち身体を前に傾けて十五分ほど歩いた。やがて千鶴が送ってくれた地図にあった目印、ガソリンスタンドと百均を見つけたので、その角を折れた。路地に入ると風は幾分かマシになったが、顔面は凍り付くようだった。
道は薄暗く、百均の隣は駐車場で居場所探しセンターとやらはその隣の古いビルの一階と二階のようだった。やはり最近出来たばかりなのだろう、建物の割に看板だけは新しかった。
正面入り口の前に立つと自動ドアがゆっくりと左右に開いて、先ず目に飛び込んできたのは正面の受付、正確にはその壁紙と床の色だった。壁はパステルカラー、白っぽい水色で、床は薄いピンクだった。右に目を遣ると、パステルグリーンの長椅子が幾つか置いてあって、そこには十代と思われる女子や、スーツを着た俺と同年代の男、金髪でピアスをじゃらじゃらさせた若い男などが押し黙って座っていた。彼らの顔は総じて仮面のようで、表情筋を失ったかのようで、更に彼らの視線はおしなべて下方四十五度、自分の足下を見ているようだった。俺もこんな様子なんだろうか、と思うとちょっとした嫌悪感が湧いた。カーテンは濃い黄色で、もうここのインテリアが理解出来ない。目がちかちかする。
「ご相談ですか?」
受付から出てきた若い女性に声をかけられ、俺は頷いた。
「ご本人様ですか?」
「ええ」
「ではこちらの問診票にご記入をお願いします」
A4サイズの紙とペンを渡されたので、俺はパステルグリーンの椅子の隅に座り、問診票を眺めた。
◎氏名(覚えている方のみ)
◎性別(自分が認識している性)
◎生年月日(断片でも結構です)
◎住所(分かる範囲内で)
◎どのような辛さがありますか?(自分が遠い・居ない気がする、など)
◎その辛さはいつ頃からですか?(覚えている方のみ)
◎その辛さが原因でお仕事や学業に支障が出ていますか?
◎心療内科や精神科に通院されていますか?(該当する方は病院名も)
◎現在飲んでいるお薬はありますか?(覚えている方のみ)
◎女性の方は、妊娠の可能性はありますか?
俺は氏名、性別、生年月日、住所を正確に書き、少し迷ってから『自分自身に手が届かない、空っぽになった気がする、自分はどこにも居ない』と続けて、それは幼少期からだと書いた。仕事は休んでしまったので、支障は出ていることになる。心療内科や精神科には通っていないし、薬も飲んでいないし、勿論妊娠もしていない。
受付に問診票を持って行くと、二十四番と書かれた札を渡された。
「番号でお呼びしますので、しばらくお待ち下さい」
女性はそう言うと優しく笑い、次の瞬間にはその笑顔をすとんと落としたように無表情に戻った。俺はパステルグリーンの椅子の列に舞い戻る。病院なんかでは壁にテレビがあったり暇潰し用の雑誌が置いてあったりするものだが、ここにそういった類はなかった。待ち時間が短いのかもしれないし、或いはここに来る人間にそういったものは不要であるか、有害なのかもしれなかった。
その時、奥の扉の一つが開き、高校生くらいの男子が出てきた。ニキビが可哀想なくらい多くて、でもやっぱり顔は仮面か能面のようで、俯いていた。その時俺は初めて、椅子の前に四つのドアが並んでいることに気が付いた。それぞれに『相談室』という札が下げられていて、一番右、窓側のドアだけは『処置室』とあった。十八番が呼ばれ、金髪にピアスの青年が真ん中の部屋に入って行った。俺の後にもセンターにやってくる人間は多少居て、しかし察するにほとんどが再診、再診っていうと病院みたいだけど、とにかく初めてではなさそうだった。中には親しげに挨拶を交わし、受付に声をかけて二階に上がっていく連中も居た。グループカウンセリングとか、集団での何かしらの療法とか、そういう類をやっているのかもしれない。四、五人の集団が階段から下りてきて、彼らの顔はこっちの椅子に座ってる連中より少しは晴れやかで、何やら話しながら出て行った。
二十二番が呼ばれる。スーツ姿の男が一番左のドアを開けて中に入り、ほどなくしてもう一人の少女は若いスタッフに呼ばれて二階に消え、パステルグリーンの椅子の列には俺一人になった。外はまだ風が強いようで、びょうびょうという音がここまで聞こえてきていた。
しかしここの人間は今の俺の状態をちゃんと把握してくれるのだろうか、千鶴はまともな団体だと言っていたが、団体としてまともでも俺の痛みを理解してくれるとは限らない。何をどこから話せばいいのだろう、俺はもういつから自分が空っぽだったかすら、いや、昨日からだ、でも自分がリアルじゃないように、そう、自分自身や世界がアンリアルに感じられているのは小さい頃からずっとで、最近増えてる連中とは違うかもしれない、ここでまで拒絶されたら俺は、俺は、俺は。
「二十四番の方」
真ん中の扉が開いて、若い男がこちらの様子を伺っていた、というか俺を見ていた。待ってるのは俺だけだから俺が二十四番であることは明らかだ。二十四番。俺は、二十四番。
「中にどうぞ」
にこやかな感じで、少し語尾を伸ばす感じで、カジュアルなシャツを着た男は俺を招き入れた。相談室、は、カラフルな穴蔵みたいな空間だった。壁の色はやっぱりパステルっぽくて紫、椅子は漂白したみたいな白、テーブルも同様。狭い。窓はなく、一番奥に背の高い本棚があって、手前に相談員が座ると思われる椅子、テーブルを挟んで俺が今腰掛けた椅子、脇に荷物を置くかご、それだけだった。こんな閉鎖的な場所で自分の居場所探しか、何だか皮肉に思えてくる。
相談員の男は坂本と名乗り、笑みを絶やさずに俺の問診票に視線を落とした。
「河村さん、免許証か何かお持ちですか?」
俺が頷いて免許証を提示すると、坂本は問診票と見比べ、ふむふむと頷いた。
「お名前も年齢なども正確に覚えてらっしゃいますね。忘れてしまう方もいらっしゃるんですよ、ウチに来る方の中には。当センターではそういった、同じ辛さを解り合える仲間と一緒にグループワークをしたり、カウンセリングをしたりして、自分の居場所を取り戻す、もしくはここを新たな自分の居場所にする、といったことを主目的にしています。河村さん、『自分が空っぽになった』とありますが、もう少し具体的にお話し頂けますか?」
俺は先ず、音楽を聞いて自分の足跡、痕跡、記憶といったものを確認する習慣があると説明し、それが昨日の朝から何も想起されなくなってしまった、と簡潔に述べた。坂本は案外優秀なのかもしれない。俺から上手く話を引き出しながら、時折メモを取り、しかし俺の目をしっかりと見て俺に自発的に話をさせた。
「成る程。空っぽになるまで、河村さんの居場所はどこだと感じていましたか?」
居場所。俺は少し黙り、実家のことから話した。つまり、過去に住んでいたことは覚えていてもそれはデータでしかなく、今住んでいるアパートが住処だが、そこは生活の場であって、そこに属しているとは思えない、そういう意味で居場所はないし、過去に居場所があったこともない、と。
「そうですか。それはずいぶんお若い頃、小さな頃からずっとそうだったんですか?」
無言で首肯。
「心療内科などには通ってらっしゃらないとのことですが、居場所がないですとか、自分が居ない感じ、そういった苦しみとはこれまでどうやって折り合っていたんでしょうか」
俺は苦しくなかった。居場所がない、とか以前に俺は俺であればそれでよかった。自分を手放してしまうことはあったけど時間が経てばまた戻ってきた。それでいいと思っていたし、人間誰しもそうなんだろうと思っていた。
「では今日お越しになったのは、今まで問題視されていなかったそういう感覚が苦痛に転化されたから、ということですね?」
そう、俺は今、凄く、痛い。どこがとかじゃなくて俺は俺自身が痛い、俺が痛みそれ自体になったような気がする。
「ご存知かもしれませんが、元々河村さんのような辛さを持たれる方や、自分が自分でない感じ、もしくは自分を外側から見ているような感覚のある方は、主に離人症性障害とされていたんですね。誰でも経験し得る感覚が、生活に支障が出るレベルまで発展するケースです。河村さんのお話を聞いていると、その症状にとても近いように感じられます。しかし最近増加している若者の離人感覚は、元来の離人症とは根本的に異なる点が専門家に指摘されていて、自分が根無し草のような状態であるということ自体に気付かない、気付けない、といった……」
「根無し?」
流暢に続いていた坂本の弁舌が止まり、その目がすっと俺を捉えた。
「根無し、何ですか?」
「根無し草、と言ったんです」
念を押すように、或いは駄目押しのように、坂本が言った。薄い唇が、確実にそれを発音していた。
根無し草。
坂本の口から発されたその言葉は何故か宙に浮いて俺を頭からすっぽり包み込み、根無し草、その響き・意味・それが孕む孤独感、そういったものに俺は完全に覆われてしまって、嗚呼、それか、と俺は脳みそだか心だかで深く深く納得したのだけれど、根無し草、俺はもう薄紫の壁の相談室には居ないのだった。
坂本は俺の足下に居て、もう表情すら読み取れなかった。俺は浮いているようだった。自分の身体がどうなってるのか、今の俺には分からなかった。俺は浮遊している。何も俺を縛らない。何にも縛られない。俺はどこにだって行ける。既に目なんか失っていたけど俺にはセンターを真上から見下ろすことが出来て、街道を猛スピードで行き交う車の群れすら可愛らしく思われて、気分が良くなった俺はそのままアパートの方へ飛ぶようにして向かった。寒さも暑さも感じなかった。俺は何というか、俺という肉体を捨て去ることに成功して、俺自身になったのだ。眠くもなかった。目抜き通りを上からずっと眺めていた。腹も減らなかった。
日が徐々に傾き、歩行者のラッシュがあり、そして街は夜を迎えた。
駅も火村書店もラーメン屋もアパートも喫茶店もスーパーもカレー屋もレンタル屋も他の店舗も住居も、徐々に黒く染まっていった。夜だ。俺は闇に包まれた商店街を視線で抱擁するかのように見詰め続けていた。飽きる気がしなかった。この街は生きている。生きている人間が住んでいる。どれだけの間そうしていたかは分からない。今の俺には、この街が、商店街が、目抜き通りが、そこに生きる人々が、ただただ愛おしくてたまらなかった。
根無し草。
坂本の言葉かはたまた単なる文字列としてかは分からないが、再びその言葉が俺の中に浮かんだ時、視界が一気に白くなった。おかしい、日の出にはまだ早いはずだ。
そして俺は気付く。雪が降っていたのだ。雪が街を白く染めているのだった。早朝、目抜き通りには誰も居なかった。妙だな、いつもはこの時間でも誰かしら歩いているのに、野良猫の姿すら見えなかった。俺は目抜き通りに降り立ち、そう、地面に足を付けたんだ。俺の足跡は雪の上に確実に残っていた。それは別段嬉しいことでも何でもなかった。
しかし誰も居ない。
開店準備をしている店舗もない。
俺は不安になる。俺の街が、俺の愛する街が、いつもはうざいくらい人間で溢れた通りが、今、完全に無人で、静まりかえっていて、人間の気配すら感じられない。
俺は歩き続けた。シャッターの下りた寿司屋の角を曲がり、少し歩いて小さな広場に出た。あの背の高い木が、俺を無言で迎えてくれた。
「なあ、なんで誰も居ないんだろう」
俺が幹の辺りに話しかけると、木は頭上から返事を寄越した。
「おまえさん、忘れてるのか。今日は元日だよ、どこの店も休みだ」
嗚呼なんだ、そういうことか。俺は自分を取り戻した代わりに時間の感覚を失ったらしい。
「なあ、アンタはどれくらいここに居るんだ?」
「わしは今寝起きでね」
そう言うと木は上の方の枝をぶるぶると震わせた。
「数字は分からんのだよ」
「なあ、俺は根無し草なんだ。根っこのあるアンタが羨ましいよ」
木は返事をしなかった。雪はしんしんと降り続けて、粉雪が冗談みたいなスピードで積もっていっていた。気付くと俺は膝まで雪に埋もれていた。気に入ってるジーンズなのに。
そこで俺は何かを感じた。
無言の木の下を這う根っこ、土の中を縦横無尽に駆け巡る根っこ。それだけじゃない。元旦、ほとんどの人間がゆっくりと過ごしている今、根無し草になって初めて、俺は彼らの根っこを感じることが出来た。眉の太いレジ打ち女子の。火村書店のおっさんの。宏一の。スーパーの実習生のおばさんの。喫茶店に居た外国人女性と二人のギャルの。カレー屋の店員達の。千鶴の。喫茶店の老夫婦の。ラーメン屋の女性店員の。顔を殴られたレンタル屋の男の。その他全ての、俺がこれまで目にしてきた人間の。
雪は降り続けていて、俺はもう腰まで埋まってしまった。その時決めた。俺は根っこになる。決めたら早かった。俺は身体の力を抜き、背の高い木の横に自分自身を横たえ、地中に入り込んだ。案の定、土の中はあの木の立派な根でいっぱいで、所々に雑草のちゃちな、糸みたいな白い根もあった。
俺は目を閉じて、いや、目なんてもうないんだっけ、とにかく視界をオフにして、自分が根っこになることを強く強くイメージした。大地からエネルギーを吸い上げて脱・根無し草、悪くない。土の中は心地よかった。誰も、少なくとも人間には見られないし、誰も邪魔しない。誰も俺のことを気にしないし、俺も誰のことも気にかけない。
また長い間、俺はそうしていたようだ。実感があった、俺は根になりつつある。力を感じた。多分、土とか大地からもらってる力だ。俺は嬉しかった。根無し草の俺が根っこになれるなんて、凄いことじゃないか。
「なあ、おまえさん」
地上の高い所から、今になってあの木の声が聞こえてきた。
「おまえさんは根無し草と言ったな。根っこになってどうする」
根っこ、根っこは確実なものなんだ。俺はここに根を張って、俺自身を確実なものに、確固たるものにして、根無しなんて誰にも言わせなくするんだ。
「そうは言ってもだな」
木が呆れたように言う。
「根っこだけじゃ何も咲かんよ。おまえさんは地上から逃げただけじゃないのか。根だけでなんてやってけんよ。おまえさんは、一体地上に何を残すんだ?」
俺は、俺は、俺は。
俺は根っこになってしまった。この木の言う通りじゃないか、俺自身が、俺本体が地上に居ないと根っこの意味なんて、存在意義なんて、ほとんどないじゃないか。ヤバい、戻らないと。
「残念だがもう遅いな」
木が言う。
「おまえさんは確かにもう根無し草じゃない。その代わり本来在るところに存在もしない。なに、運が良ければ花の一つでも咲くだろうよ」
違う、俺は根っこが欲しかっただけだ。
俺はただ、根っこが欲しかっただけなんだ。
【了】
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