コピーくじら増殖

TRiPRYO

小説

32,611文字

「あの人、どうして眼帯なんて着けていたのかしら?」
「眼帯? ああ、うん、どこかでぶつけたんじゃない? でも、眼帯なんて着けていたっけ?」
「……あなた、冗談でしょう? 本気でいってるの?」
「いや、なんていうか、そういわれてみれば、そうだったような気はするんだけど。はっきりとは覚えてない」
「よくそんな風で27年間も死なずに生きてこられたわね」
「違う、まだ26年だ」と男は訂正した。
「どうだっていいわよ、そんなこと」女は眉間に皺を寄せ、前髪を手櫛ですいた。
弁護士が眼帯を着けていたことの方がよっぽどどうだっていいことじゃないか、と男は思ったが、口には出さなかった。つまらない口論になることは目に見えていて、それに充てるほどの体力は残っていなかった。27年というのは男にとって重要な意味を持つ数字だったが、どれだけ説明したところでもはや女には伝わらないことがわかっていた。脳みそのかわりに毛羽立ったボロボロのタオルケットが頭のなかに詰まっているように男は感じた。男の精神は磨り減っていた。それが一時的なものなのか、慢性的なものなのか、男には判然としない。それにしても1分前まで目の前にいた人間が眼帯を着けていたかどうかがわからないなんて、たしかにおれはどこかおかしいのかもしれない、あるいは、いまはただ疲れているだけだろうか? と男は考える。
実際のところ、一過性などとはとんでもない、それはかぎりなく恒久的な状態だ。男の年来の愛すべきスタンダード・コンディションだといっていい。
「ぼくは、家に帰って、眠りたい」と男が言った。
「そう」と女が言った。とくに異論も意見も感想もないようだった。
「それじゃあ、また連絡するよ、きみのほうも、何か状況が変わったら教えてほしい」
「状況」とまるでそんな言葉ははじめて生まれてはじめて聞いたし言葉の意味がわからないというようにオウムがえしをしてから、「変わらないわよ、そんなもの」と女は言った。
実際その「状況」はほとんどすべて女の一存に依っていたので、その言葉が、男にとっては、自分に対する明確な拒絶の意志として聞こえ、胸が鈍く痛んだ。
女は三度呼吸を繰り返すあいだ、男の両目をじっと見つめた。そしていきなりきびすを返し、雑踏の一員に加わり、街のなかへと消えていった。ふたりのあいだで別れの言葉は交わされなかった。

地下鉄の緩慢な車両の揺れと、認識しきれない掠れた通奏低音、ときどき響く連結部の不吉な喘ぎ声。埃とカビ、汗と皮脂、食べ物と酒の臭いが、車内に充満している。
男は帰途、女と過ごした日々を思い返そうとしている。
しかし、どうだろう? この不条理にも存在する記憶の空白地帯の危うげな軽さは。
思い出そうと願えば願うほど、記憶の断片は、水のように掴めず、するりと逃げていく、貪欲な猛獣の開かれた口のような、虚無の暗黒の洞穴へと落下していく、重力によって――「糞甘ったれなんちゃってデカダンス」という天体の放つ磁場に拠る。
その闇のうすっぺらな濃密さ。

男には女と過ごした日々がうまく思い出せない。明確なイメージとして把握できない。
すべての観念的思考から独立した純粋な光景としての記憶、そういったものが現実に存在しうるのであれば、男が思い出そうとしているのはそれだった。しかし観念の侵食を受け付けない、純粋な記憶――それはある映画から部分的に切り取った、美しいワンシーンに似ている――は、ある種の没頭、陶酔なしには再現することができない。そこには、他の余分なうざったい観念、不必要な要素の徹底的排除、そして残った要素の詩的な美化、そういったシンプルな精神的操作が必要になる。それを意図せず無意識下に断固としておこなう強力な力、つまり恋の感覚、それが男には欠けていた。もちろんはじめは持っていたのだが、いつのまにか、失われてしまった。
いつのまにか! その部分についていま語られるべきことは何ひとつない。私があなたたちに見てもらいたいのは、ただいちまいの絵だけだ。失われた恋の感覚についてのむなしい絵画。
いま男の裡にあり、男が抱き締めているのは、恋の残像、無惨な幻影、または虚妄によるぱちものの再現。男はそのことに気がついていない。あるいは、永遠に気がつかないのかもしれない。失われたことにも、自分が抱き締めているものが、ただのがらくただということにも。そしてがらくたをいつまでも愛撫し、盲人になった結果として陥ることになる不毛な地獄にも。

男の胃は、内壁に炎症を起こし、すっかり荒れきっている。鋭い痛みをともなって。男は顔を歪め、俯き、苦しんでいる。男は、自分がひとりの大切な女を失いかけている――実際は、すでに完全に失われているのだが――という現実に対して、苦渋の表情で呻吟し、悩んでいる。すくなくとも、男はそう信じている。
男は、心が痛い、と思った。だが実際に痛んでいるのは、胃だった。
我々にはいま、いちまいの絵が見える。
しんきくさい週末の都営地下鉄の座席に深く腰を掛け、胃痛に苛まれて不健康そうな顔色の顔を不自然に歪めた男の絵。

女は街の中心部で雑踏から離れ、有名チェーンの大型ドラッグ・ストアに入った。いちど入店したあと、思い直し、入り口に並べられた安売りワゴンのひとつからチョコレート菓子をひとつ取って、ふたたび入店した。いままで食べたことのない製品だったので、おいしければいいけどな。と女は思った。女は医薬品の棚の前で1分ばかり立ち尽くし、視界に入った中年のごましお頭の男性店員に声を掛けた。
「何かお探しでしょうか?」歯を見せて笑う店員。すべてが過剰だったが、ギラギラと明るく煩雑な商品でごったがえし埋め尽くされている店内の光景を背景として、その不自然さはあくまで中和されていた。
「あの、おなかが痛いんです」
「おなかの、どのあたりでしょうか?」でかい前歯と同じくらいでかい声。
「あ、ええと……胃かな? 胃ですね。」とまさに胃のあたりの腹を右手でおさえて女は言った。
「胃の方が、痛いのですね」店員はまるでウェイターかマジシャンのように右手を広げてその場所を示した「胃薬はこちらになりますね」。
「あ。ありがとうございます」胃のほうっていったいどっちのほうなんだろう、と女は考えずにはいられなかったがやはり、胃のほうってどっちですか? などとは聞いたりはしなかった。けんかを吹っ掛けられたとか、こばかにされているとかよけいな誤解を与えて、おたがいに不愉快な気分になりたくなかったから。
「どのような感じで、痛みますか?」と店員が続けた。女は意外だった。よく見ると白衣を着ており、店員が薬剤師だということが知れた。
「うーんと、チクチクします。鈍いというよりは、鋭い感じかな」
「なるほど」といって目を丸くする店員「それではこちらの方などいかがでしょうか? こちらの方は、粘膜の炎症を和らげる成分に加え、胃酸の分泌を穏やかにする成分が含まれています。当社のオリジナル商品なのですが、まったく同じ成分が含まれている他社様の製品よりも、お値段の方がかなりリーズナブルになっております。しかし効き目の方はまったく同じといって差し支えありません。そのことにかんしては、わたしの方がたしかに保証します。わたしの方としては、是非、こちらの方をおすすめさせていただきたいのですが、いかがでしょうか?」。
「あ、なるほど」女は手渡された瓶の入った緑色の箱を裏返し、成分表を読んだ。オリジナル商品だけど他社の製品と成分が同じ? 女はすこし混乱しそうになったが、すぐにそんなことはどうでもいいという気分になった。世の中はほんとうに不思議なことばかりだ、と女は思った。それは女にとってけっして不愉快な事実ではなかった。そしてずらりと表記された長いカタカナのいくつもの化学成分とその容量をひとつひとつつまんで口に運ぶように読んでいった。とくに医薬成分に対してこれといってこだわりがあるというわけではなく、読んでみたところで女には何のことだかさっぱりだったが、間髪いれずに「これにします」と言うと、なんとなく会話の間が変になりそうだったので、一応読んでみたまでだった「これ、買います」。
店員の顔はすでに(背景から切り離して彼の顔だけを見れば)異常といえるほど引攣っていて、どう頑張ったってこれ以上はもう笑えないというようにみえたが、それでもさらにもう一段階笑顔を強調して、女に別れの挨拶をした「ありがとうございます。レジはあちらの方になっておりますので……」。
女は店員の示す方に視線を遣ったが、レジを見つけられなかった。しかしその点をのぞけば、店員は、完璧なプロッフェッショナル的薬局店員であるという印象を女に残した。そのあと店員は観光客風の団体に呼びつけられ、丁寧にひとりひとりが話す言葉に耳を傾けながら、流暢な中国語で見事としかいいようのない応対をしていた。その仮面のような笑顔の段階を熟達した特殊機械技師のように滑らかに巧妙に調節させながら。

女はレジを探しながら通りがかった冷蔵庫から薬を飲むためのミネラル・ウォーターを選び、ついでにノン・カフェインの栄養ドリンクを取って、レジに向かった。

店外に出ると、入る前より、街はずっと暗くなっていた。夜のとばりがいちまいまたいちまいとヴェールを重ねるように街の上に降りてきていた。女はビニール袋を持って、夜の街の入り口に立っている。
女は空を仰ぎ見た。
濃紺。闇の予感を孕んだ濃紺だ。じわじわと濃度を増していく色彩は、やがてある一点を越えるとそれ以上は変化を止めたようになる。完全な夜になる。しかし我々の認識の向こう側で夜は確実に醸成されつづけている。

女は夜の入り口から、その内部へと足を踏み入れた。女は夜の一部になり、夜の一部として歩く。夜は無感情にそれを受容する。女は夜の一部として呼吸する。夜の空気を吸い込み、夜の吐息を吐き出す。そうして冷たい夜の外気との摩擦係数をすこしでも減らそうとする。夜が女の身体に染み込み、馴染んでいき、女は夜の一部として思考する。
ひやりとしたナイフの切っ先を思わせる、危うげな細い月が、群衆のざわめきと、群棲する無数のビル群の静かな息遣いと、ビル群の外線によって切り取られたとげとげしい空の形と、騒擾する大気を、俯瞰している。その月光は、覚束なく、儚げだが、単純な明るさとは違った界層におけるたしかな力を、眼下の一望に注ぎ、照らされたすべてのものたちを、秘密裏に統率しているかのようにもみえる。
女はコンビニの前まで歩き、栄養ドリンクを飲み干してゴミ箱に捨て、煙草に火を点けた。女は吐き出した、煙と白い吐息の混じった気体が夜のなかに溶けていった。

「ごちゃごちゃと能書きを垂れるつもりはないが、率直にいって、これはきみの人生にとってひとつの節目になることだけはまちがいないよ。いまはわからくても、いずれ必ず思い知ることになる。その節目が、悪しきものなのか、善きものなのか、正しいものなのか、まちがったものなのか、それについてはいまのところぼくにはなんともいえない。なぜならそれはぼくにとっても未解決の問題だからだ。もしかして、それについて考えることじたいが不毛なことなのかもしれないが。すくなくともそういった問い掛けを自分にせざるをえないような状況がいつか絶対にやって来る。
それでもいいか?」
「ああ、かまわないよ」
「ぼくはあくまで止めるつもりはないし、絶対的に選択肢と決定権を握っているのはきみだ。だけどできればもうすこしだけ考えてみてほしい。いまのきみが置かれている状況と、それに対するきみの態度についてね。わけのわからないまま、重大な決断をくだすのは避けた方がいい。正直にいって、いまのきみはただ自分と自分の人生に対してやけくそになっているだけのように感じる」
「重大な決断だって? 馬鹿なことをいうなよ。おまえはいつもいっているじゃないか。こんなものは遊びだ、たいした意味はないって……。やけくそだとおまえがいうのなら、ああ、たしかにそうかもしれない。おれはやけくそなんだろうね。おれはずっとおまえがやけくそなんだと思っていたけど、なんてことはないね、実際のところ、ぜんいんがぜんいんやけくそなんだ、一生を通じてね」
「わかったよ、たしかにそのとおりだ。これはいたいところを突かれたな。もういうべきことは何もない。
だけどぼくがいまきみに話したことについてはいちおう覚えておいてほしいんだ。そしてある日ふっとそれを思い出したのなら、遊びはもうおしまいにすべき時期が来たということさ。そこで辞められるかどうかはきみしだいだが。
さて、ほら、これさ、とくべつ純度の高いものを選んで持ってきた。どうせなら、純粋なこいつの効果を知ってほしかったからね、混ぜ物入りのものしか知らないまま、まちがった知識でどうだこうだ言われると、ぼくはすごくイライラきちゃうんだ」
「ふうん、なんだか、かなりチープだね。思っていたより、すごくちいさい。ほんとうに効くの? これが」
「黙って、試してみな、ほらベロを出せよ」
男はおそるおそる舌を伸ばした、その上に小さな紙片、ペーパー・アシッドが載せられた。紙片には「ドラえもん」の顔が印刷されている。どれだけ好意的に眺めたとしても、およそ本物には似ても似つかない、宿命的なうさんくささが、その不思議なドラえもん的笑顔から怪しく滲み出ている。
「まだ飲み込むんじゃないぞ。しばらくベロの下にでも置いておくといい。1時間しないうちに効いてくるから」

室内はうす暗い。スティック状のチャンダン香がまとめて5本、ハイネケンの空き瓶に突き刺されて焚かれているが、もうもうとたちこめる巨大な煙のにおいを押し退けるようにして、隠しきれないえたいの知れない隠微なかおりが男の鼻腔を刺激する。欧米人の脇のにおいのような、強烈なチーズの芳香のような、牧草のような、特殊な香辛料のような、酸えたような、甘いような、発酵したような、変なにおい。それが厭なにおいなのか、良いにおいなのか、この部屋に来るたびに男には判断しかねた。いつものように雑多なものがガラス・テーブルの上に撒き散らしてある。ローリング・ペーパー、空のビニール・パッケージ、ピル・クラッシャー、クール、メヴィウス・オプション、缶ピース、大麻を吸うための水パイプ、いくつかの種類のトランキライザーと睡眠薬のシート、とどのピアス、バリ島風の意匠のおおきな鉛のネックレス、木製のブレスレット、読めない癖字で何かを書き付けたメモ帳、三色ボールペン、汚れたグラス、コカ・コーラの2リットル入ペットボトル、ドロドロに溶けた食べかけのハーゲンダッツストロベリー味、ガスライターが3つ(橙、黄緑、黒)、マック・ブック・エア、黄色のピック、飲みかけの缶ビール、不揃いの箸、ガネーシャ神の陶製の置物、衣服用消臭スプレー、ボックス・ティッシュ、未開封のポテト・チップスの袋、卓上ホウキ・チリトリ、数枚のレシート、髪の毛、水道料金の払込書、USBメモリ、白ラベルのCD、文庫本数札、先々月号の月間青年漫画雑誌、各種リモコン、絆創膏、箱入りの綿棒、缶コーヒー、イヤフォーン、胃薬の瓶、充電器、フィルムが切れ現像に出されるのを待っている「写ルンです」、赤い目薬、トーストのかすの載った皿、バター、バター・ナイフ、ハサミ、壊れたか電池切れのまま放置されたウォーター・プルーフの腕時計、幾ばくかの小銭と、識別不能な何かの残骸。
机の上の印象に反して、部屋のそれ以外の部分には殆んど物という物が見当たらない。向かい合ったふたり掛けのカウチ・ソファが2つ、がらがらの本棚、ベランダへと続く西向きの窓には遮光カーテンが下ろされ、それに面してステンレス製のシングルベッドが配置されている。真っ白いシーツとサボテン柄の羽毛毛布と無地のブラウンの掛け布団。とても清潔にベッド・メイクされている。フローリングの上にはちりひとつ見つけられない。暗くなっていて確認しづらいが、七畳ほどのワンルームから続く台所のシンクにはひとつの食器も溜められていないようだ。男の座っているカウチの正面に、ジミ・ヘンドリックスの極彩色の肖像のポスターが貼ってある。
本棚の上に置かれた、レコード・CD一体型のプレーヤーでは、レコードがかけられている。とても古いロックのレコードだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「ホワイト・ライ/ホワイト・ヒート」。
「ヴェルヴェッツは嫌いじゃないっけ?」
「ああ。むしろ好きだ、ジョン・ケイルがいなくなる前はね」と男がこたえた。
「3枚目も悪くない」
「たしかに悪くはないが良くもないね、そういうのはあきらかに悪いことよりもっと最低だと思わないか?」男はカウチの上で脚を伸ばし、腕をやわらかく組んでいる。なるべくリラックスしようとしているが、緊張は拭いきれない。肩の筋肉が石のように強張っている。男はドラッグを摂るのははじめてだったが、うまく効かなかったばあいに体験することになるという恐ろしい幻覚の話を何度か耳にいれたことがあった。そのときは笑い話として聞けたのだが、いまはそれが不吉な神話のように重く男の脳裡によぎって消えない。「もうすこしボリュームを上げてもいい?」
「どうぞ」
男はアーム・レストに手を掛け、腕の力で勢いを付けて立ち上がった。ぐらり、と視界が粘液のようになって揺れた。男は何もないところでつまずいて転びかけた。体勢を整えながら、視覚に意識を集中させると、視界は揺らいだ状態のまま、不思議な感覚は、その未知の違和感は、男の内部にしっかりと根を下ろしたようだ。部屋の空気が歪んで熱を持ちはじめたように感じられた。目に見えない物質が空間にイライラとわだかまっている。
「効いてきたかもしれない、何か変だ」
「何が?」
「世界か、おれの方か、そのどちらかが」
「あのねえ、世界はあくまで変わらない、変質するのはぼくたちの方さ」
「それが真理か?」
「何をいってんだよ。あんたもうラリってんのか? 真理だって? 真理なんて知ったことか! 真理なんて頼むからそんな言葉使うのだけはやめてくれないかなあ、胸がムカムカしてくる、これはただのひとつの見解さ」
「ささやかな個人的見解」
「そう。ねえ、いまからあんたはこの世界の、その有り様の、違った面をまざまざと見せつけられることになるよ。あんたがよく知っているのとは幾ぶん違った面をね。だけどそれは変わらずいつもそこにあるんだ。むかしからずっとあってこの先も存在し続ける。シラフじゃ気がつけないけどね、ぼくたちの認識の向こう側で、たしかにそれは存在している。常に。そしてぼくたちの一挙一投足をじっと見ている」
「なんだかそんな風に聞くと気味が悪いみたいだけど」
「そんなことないさ、それは、とても、刺激的な体験だよ。そのとくべつな領域をわずかでも垣間見ることができるというのは。ほんらいあるべきはずのありとあらゆる冗長で複雑怪奇でやっかいな過程をすっ飛ばしてそこまでいっきにとんでいくんだ。きみのいままで生きてきて経験したすべての興奮を3日3晩煮詰めてもこれには敵わないだろうね。これはべつに悪口じゃないから気を悪くするなよ、ルー・リードだってきみの大好きなジョン・ケイルだって、シラフでは辿り着けなかっただろうね、その領域には! 人類の99%以上がサイケデリア抜きには到達できない、どんな偉大な芸術家でもそれは例外じゃない、頭のネジの緩んだ宗教きちがいかほんものの分裂症者ををのぞけばね、まあきみにもいまにわかるさ……ただ彼らと目が合ったときに、けっして怯えたり否定したりしないことだ、そういったネガティヴな感覚は、空間に、ひいては宇宙に伝播するんだ、そうすることで、」
「目が合う?」男は友人の長口舌をさえぎってゾッとした顔をして言った。
「いや、それはあくまで比喩として受け取ってほしいな。まあ、実際に虎や悪魔や女か外国人か宇宙人なんかの化け物の顔が現れてきみのことを見つめるということだってじゅうぶんにありえるが。それはあくまでそういった形態を借りてぼくたちに示唆をしているに過ぎないのさ」
「示唆? いったい誰が何を?」
「それにかんしては自分でしっかりと感じて、よく考えるべきだろうね。というかべつに何も考えなくたっていいんだが、とくにきみみたいなタイプは考えない方がいいだろうな……」
「そうするよ」と男が鼻の頭の汗を掌で拭いながら言った。
「とにかく、何かしらの幻覚がきみの前に出現するとする、そのとき、きみが見ているものは、同時にこちらを見ているのさ。見て、そして何かを語りかける。それがなんであるにせよ、何かを語りかけている。わかるか? それに対して恐怖を覚えるべきじゃないということをぼくは話しているんだ。純粋に受け入れることができれば、1ミクロンたりとも害はない」
男は眩しいみたいに目を細めて正確に2回うなずいた。
「そうやって彼らがなんのためにこちらをうかがっているのかまでは、ぼくは知らないが。何を語り掛けているのかも、知らない。というか知りたくもないね、とにかくぼくにかんしちゃぜんぜん知らないということにしておいてる。結局のところ、それは我々の認識や理解が及ぶ領域ではないのさ。その深淵に足を踏み入れんとして永遠に帰ってこられなくなっちまった奴をぼくは何人も何人もうんざりするくらい見てきたからさ。実際、かなしいものだよ。あえて同情したりはしないけど、ああ、かわいそうなもんだよ、すくなくとも愉快な気持にはなれない。だから、ぼくは思うんだけど、重要なのはそれをありのままに受け入れることだ。不安になったって否定したって、それが存在することに変わりはないんだから。宇宙の流れはぼくたちの思慮やはたらきかけとは絶対的に無関係なんだ。無関係であるにもかかわらず、しっかりとぼくたちを含んで進行する。ぼくたちは流れに身を任せてただそれを受容することしかできない。
言っておくけど、その感覚はまだまだ序の口だよ。30分も経っていないじゃないか。あまり慌てるなよ、楽しもうよ」
男は掌を開いて、自分の10本の指を見つめた。何かを懇願するような表情で。口が薄く開いている。暗い海底の呪われた軟体生物のようにものを言わず、男の両手は、男から独立した別の思念体のように男の目に写った。男は、自分の両手がいまにも何かを語り始めるのをじっと息を呑んで待機している狂人のようにみえる。

知っているかぎりで、なるべく暗くて、なるべくBGMの音量がおおきい店を選び、女はそのバーに入った。湿った地下へと降りていく黒い階段を下り、簡素な木材のドアを引いた。ぎいと乾いた音がした。そのドアの先に、もう1枚のドアがある。重厚な金属製の古いドアだ。把手くらいの高さのところに申し訳なさ程度に白いペンキの手書きで店名が記されている。開閉の際に、そのドアはいっさい音を立てない。重たくどす黒い廃油のなかに沈みこんでいるかのようだ。その滑らかな感触によって、女はこれからいままでいた場所とは別の世界に足を踏み入れるのだという実感を抱く。すべてが吹きさらしの、寒く厳しい冬の都心の屋外から、密閉された生ぬるい空間のなかへ、親密でいて非親和性の薄闇のなかへと、プライヴェートなひとつの箱のなかへと。そこではおそらく誰もが女に対して無遠慮な視線を送ったり、ダラっとした興味を示したり、およそ女の個人性とよべるようないかなる領域にも了解なしに踏み入ろうとするような態度を取らないはずだ。だいいち、そこでは誰もが顔に暗く濃密な影を落とし、亡霊のように個人性を剥奪されて、どのような類型としてでもなく、どのような一派としてでもなく、純粋なひとりの人間として酒を飲む、そしてそれぞれおのおのの抱えた個人的な荷物を下ろし、その深淵へと埋没していく、そういった店だった。

女は二枚目のドアを背中でゆっくりと押した、すこしずつ開いていくその隙間から、夜よりもよりいっそう濃密な闇の気配とともに、けだるくのっそりとしたエレキ・ベースの音が溢れだし、女の腹に響く、胸へ、そして耳殻を震動させる。
女はカウンターの右端から2番目のスツールに腰を掛けた。闇のなかから2匹のウツボのような腕が伸びてきて、手際よく女の前にウェット・ティッシュと紙のコースターを配置した。
カウンターには他にもうひとり客がいる、女から見て左に3つ離れた席に座っている。性別も年齢も判然としない。それほど若くない男のようにもみえるし、年端のいかない背の高い少女のようにもみえる。肩まで髪を伸ばし、酷い猫背だ、分厚いハード・カバーの本をテーブルの上に開いて置き、手許にソフト・ボックスの煙草と、ウイスキーのロックを置いている。本は手慰めに開いているだけで、しっかりと読まれてはいないようだ。あるいは、彼/彼女にとって、真剣に読書に没頭するためには、店内の照明はあまりにも弱々しすぎたのかもしれない。それはまさに風前の灯火といってもよかった。7席のカウンターと、テーブル席が2つの店内に、豆電球が4つだけ、すべて暖色系だ、そのうち1つはフィラメントが断絶しかけて絶え間なく明滅している状態ときていた。その薄明の下で、客は、口を半開きにし、虚空を見据え、床から数センチ浮かび上がった右足の爪先とカウンターの上に添えられた右手の人差し指で、テーブルの表面とスツールの金具を打ち鳴らし、痙攣的なリズムを取っている。その打音は誰の耳にも、彼/彼女じしんの耳にも届かない。あまりにもBGMが馬鹿でかいために、グラスがかるく震動しているほどなのだから。
もしもある夜、電車の向かいの席にこのようなようすの人間が座っていたら、我々にはいささか異様にみえるはずだろう。しかしその店においては不思議と違和感なくその挙動が空間にフィットしていた。
女はキャメルのトレンチ・コートを脱がず、ハンド・バッグをカウンターの上に置き、
「カンパリをロックでください、ライムを絞って」と怒鳴った。ふつうの声ではとうてい注文が通らないからだ。
カウンターの内側で、手許で何か作業をおこなっていた店員は、首から上だけ女の方に向け、儀礼的に短くうなずいた。顎を2センチ引き、そして引いたのと同じスピードでもとの位置に戻した。そして背中を向けてボトルを取りにかかった。その表情は女にはまったく読み取れなかったが、口許だけで笑っていた。店内ではペイヴメントの「カット・ユアー・ヘッド」がちょうどはじまったところで、店員はその歌がとくべつに好きだった。

カウンターの上に設置された棚のなかの雑多なフライヤー。
ライブハウス、単館系シアター、小劇団、アトリエ、クラブの月間スケジュール、それらの場所で行われるイベントの告知、わけのわからない詩人の朗読会、テクノ/ハウス、レゲェ、ジャズ、アングラ・ロック、アンビエント・ミュージックなどの大御所による独演会などの告知、実験的演劇のチラシ、あまり有名でない美術大学の油彩科の合同展示会のお知らせ、反・原子力発電所兼、反・憲法改正デモへの参加の呼び掛け、ファースト・EP発売、「僕たちは何処へ向かっているのだろう」、「我々の偽物の太陽を射よ」、「立ち上がれ、不具者たちよ、唾棄された魂たちを手に」、「純粋全感覚の完全解放」、「きちがいはきちがいらしく」「すばらしき世界の忘れられたいきものたち」などなど、さまざまな煽り文句。はっきりいって女としてはどれひとつとして興味をそそられるものはなかったが、ドリンクを待つあいだの暇潰しとしてそれらフライヤーを何とはなしに眺めてみた。その中から1枚、女がしばしば訪れている小さなライブ・バーで行われるイベントのフライヤーのデザインが気に入ったので、それを手に取り、薄明に目を凝らしながら何とか出演者の項目を読んでいくと、女の夫である男の名前が目に入ってきて、女はいささか虚を突かれ、そしてそのあとで信じられないほどうんざりとした気持にさせられた。無意識に左の頬の筋肉が引攣って硬直した。すべてが片付いたら、どこか遠い街に引越すべきだろうか? あの男を力点として、わたしがこの住み慣れた街を離れることにさせられるとすれば、それはしゃくに触ることだが、それにしてもいたるところであの男のみみっちいしみったれた自意識とその痕跡を見せられることになるよりはずっとマシに思えた。つまらない意地を張るようで馬鹿馬鹿しくも思える。彼女の経験則上、こういうときは素直にはじめの直感的な感覚にしたがった方が良さそうだった。

フライヤーから目を離すと、すでにテーブルの上にはカンパリのグラスが置かれていた。女はそのフライヤーを引き裂いて床にばら撒いてやりたいというごくささやかな衝動を深く息を吐いて、なだめ、もとの場所に差しておいた。あるいはそれが男の独演会のフライヤーだったならば、そうしていたかもしれない、他の出演者たちに対して思うところは何もなかったので、やめておいたのだ。もっとも女の記憶のなかで、女の夫である男がはなばなしくソロ・ライブなんてものをを敢行したことはいちどたりともなかった。いちどやにどはあったような気もするけれど、すくなくともわたしは行っていない、と女は思った。女が男の仕事あるいは趣味・道楽に対して興味が維持できたのはせいぜい結婚してから1年くらいのあいだだけだった。
かなしむべきことには――男には自分の才能をうまく運用し生かす能力が致命的に欠如していた。
けっして音楽的な才能がないわけではないことを女は知っていた。まだ男に、自己表現がしたいという純粋な熱意があった頃、とうのむかしの話なので女はそんな時期があったことさえ忘れているが、女は、男の才能が広く世に認められる日が来ることを願っていたし、信じていた。
しかし男としてはその才能さえあればすべてがなるべくようになり、万事順調、半自動的にひとかどの人物に成れるのだ、と信じたかった。元来こつこつと努力することが嫌いだったから、自分のはじめからうまくできたことで、すなわち音楽による自己表現で生計を立てようともくろんだのだが、そのことと先天的な自意識過剰が悪い方向に影響し合ってしまい、努力することが何か深刻なまちがいのように感じたのだ。それは誰が見てもあきらかに非常におおきな落とし穴だったが、残念ながら男にとってはどうしてだかその薄闇が居心地よかった。才能があったにせよ正しく運用しなければ何も実を結ばない無意味なもの――どころか結果的に有害なものでさえあったのだが――であり、才能は先天的なものだが、それを生かすためには生得的な要素以外の部分で努力が必要なのだということが男にはどうしても理解できない。26年間、生きてなお。

じじつ、男の歌っている内容は十年前から全く変化がなかった。
やはり才能を伸び伸びと生かすことのできる環境、状況、精神状態、体力、そういったものをはぐくみ整えるためにある程度ひとなみの努力は必要なのかもしれない、とうすうす気がついてはいたのだが、もはや怠惰、無気力、才能の上に胡座をかく態度が身に染みついてしまい手遅れ、手遅れなのでいいかげん人生を見つめ直した方がいい段階なのだが、そうすれば多少なりとも方向修正のできる余地はあったかもしれないけれど、手遅れだと認めてしまうと精神崩壊しかねないために――なぜなら男は持ち前のナイーブさが自分の重大な美質だと信じてやまない――そうしてみてみぬふりをし続けてあの人は一生を終えることになるのだろう、女の出した結論はこのとおりだった。そこで女はさいごの一計を案じた。
離婚を持ち出せば、性根を入れ換えて一心不乱にいままで看過してきた、自分のうまくできないことに真剣にとりくんでくれるかもしれないと、あるいは、生活のための音楽を諦めて活動のスタンスを変えて、生活のための単純な労働に打ち込んでくれるかもしれないと希望を込めて、このまま何もあなたが変わろうとする意志をみせないならば、離婚しましょう、と女は男に伝えた。男は狼狽え、酒に狂い、おどおどし、怯え、泣きわめき、だんまりを決め込み、仕事を辞め、一過性の浮気を繰り返し、しまいには女に他の男ができたのだという妄想にとりつかれ、まいにち酷い暴言を吐くようになった。そこまできてようやく愛想はつかざるを得なかったというわけだ。

「ちょっと、ちょっとさ、ねえ、おれさ、おれ、ねえ、聞いてくんない? おれさあ、わかっちゃったかもしれない。もしかして。いや、まちがいないよ。おれわかってしまったんだけど、聞いてくれない?」と男が言った。
目が硝子玉のようにうろんに光り輝いて今にも砕け散りそうだ。その瞳は、発作のように視点を転々と変えてさまよい、ゆったりと無秩序に、無重力状態の球の永遠運動のようにうごめき続けている。定まらない視点に息を合わせるように、顔面の向きも落ち着きというものを少しも知らない。なんだか壊れて手の付けられない掃除機か扇風機のようだ。8の字に首を振ったりしながら部屋中をうろうろうろつき回る、手足を溺れて死にかけている人のようにひっきりなしにバタバタさせて。まるでとにかく目に写るすべてを見ておかなければ気が済まない巨大な赤ん坊のようだ。百億光年かなたのキラキラの超新星爆発だ。その姿態は百億光年先から届く光のように孤独ではるかに遠い。ときどき唇の端からよだれが溢れてきてそれを拭い去る大げさな動作でテーブルの上のコップやら何やらを激しく吹っ飛ばしたりしている。今にも地団駄を踏んで腹の底から奇声をあげんばかり。怒り狂うシヴァ神ともどこか似ている。まさしく無我夢中、自失の究極形態、全神経系の無条件解放、理性の完全降伏、剥き出しの赤茶けた粘膜質の人間存在、発狂寸前の知覚情報の氾濫による混乱と、徹底的に解体され真新しく再統合された認識世界による全的理解の幸福の絶頂が、男の存在の現在進行形のすさまじいスピードのなかで奇妙に同居している。
「頼むから勘弁してくれよ、静かにしてくれ、何度目だ? いったい何がわかってそれがどうしたっていうんだ、ぼくの知ったことか、それが? 紙とペンを貸してやるからそこにおとなしくそのわかっちゃったことを書いておけよ、おまえあんまり騒ぎすぎだぞ、はじめてにしてもこんな酷い奴見たのはじめてだな、え? いますぐここから叩き出されたくなければ黙ってくれよ」
そんな要請はまるで男の耳には届かない。台風に向かって「お願いだから静かにしてくれませんか?」と膝をついて乞うようなものだった。もはや脳の状態が正常な人間の手に負えるしろものではなかった。男はいっぴきの大興奮するやっかいな怪物と化していた。
「なあ、なあ! なあ! おーい、もしもーし、聞いてる? まあ、聞けよ、よおく、聞けよ、これは人類にとってすごく重大な発見なんだ、わかるか? このことにおれが気がついたことによって、いま人類の、いや、いや、いや、宇宙のすべての歴史が塗り替えられたんだ、おれの知っているかぎり、おれと同じことに気づいてる奴は他にいない。どの本にもこんなことは書いちゃいないし、どんな宗教もこのことを説いちゃいない。すべてはインチキだったと暴かれたわけだ。なあ、すごいと思わないか?」と男は持ち前の豊かな声量を存分に発揮してなおも呼びかけを続ける。
「ぜんぜん思わない。悪いんだけど、いまからマリファナ巻いて吸うから頼むからほんとうにそのあいだだけでいいからジタバタ騒ぐのやめにしてくれないか? そのあとゆっくりきかせてくれよ、その話は」
「ああ、うん、うん、悪いね、待つよ、待つよ、すこし待つ、早くしてね、待ってるから」そう言うと男は電源を封鎖されたみたいに置物のように静止してしんと静まり返り完全に死んだみたいになった。きゅうに部屋は耳が痛いほどの静寂で満たされた。換気扇が蝿の羽音のような乾いたうなりをあげている。しかし男の目を見れば心臓麻痺を起こしたわけではないことはわかる、のっそりと、無機物じみた2つの目が部屋じゅうを、視界の見渡せるかぎりを、ロリポップ・キャンディを舐め回すように眺めている。ときおり一点を殺したいみたいに凝視してみたり、反動を付けて一挙に左から右へ視点が移動したり。二対の瞳はひとつの意志を共有するふたつの生物みたいだった。鼻がひくひくと引攣ったりもしている。口は空洞のように開いたまま、よだれが粘液の泉みたいにとめどもなく流れ出す。

「なあもういいかな?」としばらくして男が聞いた。目には生気がいくらか戻ったようだ。
「ああ、いいよ、じつにいいよ……うん、いいよ、明け方の白い空に浮かぶ紙の月のように完璧だ…………。で、なんだったんだっけ……」
「いや、ごめん、おれ、すごく、なんていうか、パニクっちゃってたんだ。あまりにもなんていうか、さまざまなものごとが頭に流れ込んできたものだから。月からおれの脳天直下に注ぐ巨大な滝壺のなかにいるみたいでさ、破裂しそうだったんだ。なんだかいっぺん死んですべてをやり直しで生まれ直して、また死んで生まれて、というのを永久に繰り返しているように感じて、とにかく生きてるうちに話して伝えなきゃいけないとそればかり必死だったんだ、というかそれは、その感覚は、いまだに脈々と続いてるみたいなんだけどね、だけどさっき鯨がおれにいったんだ、『落ち着きな』って。だから落ち着かなきゃなって思ったんだ。悪かったね、でも悪気はなかったんだ」と男はカウチの上で胡座を組みながら言った。
「あは、あは、あは、鯨じゃないよ、鯨じゃなくて、ぼくだけどな、落ち着けといったのは、あは、あは、あは、あはは、まったく笑わせてくれるよ、鯨だって? ふうー、まったく」
「どうして笑うんだい? きみは笑ってるけど、きみだって、鯨の一部なんだぜ? 宇宙鯨の子宮のなかなんだ、この世界は……」
「宇宙鯨って何?」
「宇宙より巨大な鯨さ。その鯨の子宮のなかで、この宇宙は育てられているんだ……。
鯨は、ひとりぼっちで海を泳いでいる、完全にひとりぼっちで。
その海のある世界には陸もないし空もないのさ、神様もいないもんだから、何もつくられることがないんだ、じゃあ海が何でできているかといったら、それは鯨じしんの涙の海なんだ……。
鯨はさみしくて泣いているんじゃないよ、この宇宙はもうじき鯨によって産み出されることになる。
そのとき、おれたちはきっと鯨を殺し、陸地を造り、神々を解き放ち、すべての生き物や物質が、いま鯨の住んでいる世界を占領することになる。
それはけっして鯨が望んでいるかたちではないんだ。
宇宙鯨はこんなこんがらがってわけのわからない宇宙を産みたいと思ってない。だからかなしくて泣いているのさ、そして涙の海を泳ぐことになってしまった。
この世界を身ごもる前は、鯨は自由に何もない空間をどこまでも縦横無尽に飛び回ることができたのに。
鯨はこんな世界を身ごもることになってしまったことが、かなしくて、悔しくて、泣きつづけている、おれは鯨に何もしてあげることができない、鯨はおれの母さんなのに……」男には泣いている鯨の姿が見える、実際に。
それは部屋の壁紙の上で泳いでいる。その子宮のなかに宇宙があり、宇宙のなかに我々の銀河があり、我々の銀河のなかに、太陽系があり、太陽系のなかに、地球があり、地球のなかに日本列島があり、東京都があり、この部屋がマンションがあり、そして自分がいる。それが男には見える。男は泣いていた。
宇宙鯨のかなしみのために男もまた涙を流している。
「だったら、父親は誰なんだよ?」
「時間さ」
「時間?」
「外の世界には、鯨の孕みはぐくんでいるこの宇宙の外には、鯨と時間しかいなかった。だから必然的にそんなことになってしまったんだ」
「だけどそこには時計なんかないんだろう」
「とうぜんないよ」と男がこたえる。服の裾で涙を拭った。
「だとしたら、誰が時間を決めているんだよ? それは鯨の感じている時間感覚以外の何ものでもないじゃないか。だとしたら、時間というのもやはりまた鯨が産み出したものに他ならないね。鯨は自分の子と寝たってわけか? その近親相姦児がぼくたちか? 笑わせるね」
男は決然と立ち上がり、たけだけしく友人に抗議した「そんなことを言うのはやめろ! 時間を決めたのは鯨じゃない、時間は絶対的に存在しているんだ」。
「絶対的な時間ときた! へえ、いまきみはたしかにそういったね。それじゃあきみがLSDを摂ってからいったいどれくらいの時間が経過したと思う?」
「さあね、それがどうした。5、6時間くらい経ったんじゃないんか? だいたい……」
「時計を見てみろよ、まだ1時間半も経過していないんだぜ、実際には。
……なあ、時間なんてまったく当てにならないよ。この宇宙ではそれはいくらでもぐにゃぐにゃと伸び縮みするものなのさ。
絶対的な時間ってなんだ? たとえばいまぼくがこの場を離れて1時間後にきみに電話を掛けるとする。きみはそれに応答する。たしかに、このとき、きみの時計とぼくの時計は等しく同じ時を刻んでいる。だったとして、それがどうした?
わかるか? ぼくが言いたいのはね、結局、時計は時計的な時間の流れを時計同士のあいだで共有しているに過ぎないというわけさ。
その時計的1時間のあいだに、ぼくたちはそれぞれ質的にも量的にもまったく異なったふたつの1時間を過ごすことになるのさ。
時計的1時間を通して感じるふたつの時間感覚が、たった二者のあいだでさえぴったり完全に合致するということがありえることだと本気で思えるか?」
男は口を閉ざしたままだ。しかし身体は怒りとかなしみのために震えている。部屋のなかで響く友人の声が、幻視によって視覚情報として部屋のなかに溢れている。それは水紋の滑らかな波動のように男にみえる。きれいな藍碧色と、深い紫色と、赤銅色の幻覚が渦を巻いている。声が海の底のようなリバーブとエコーをともなって聞こえる。

「なあ、そう思えない以上は、絶対的な時間なんて存在するはずがないんだよ。わかるか?時間というのは多分に感覚的で相対的なものなんだ。それを何とか擦り合わせるために時計という物が生み出されたが、そうして計りとられた同じ1時間のなかで、我々の時間感覚はやはりそれぞれまったく違うんだ。時計というのは時間感覚のヴァリエーションのうちのひとつが固定化されて、便宜上、標準化された物でしかないしかないのさ。いちおうの基準として。そこには、そういう物がないと何かと不便だからというきわめて消極的な理由しかない。それは氷付けの模型でしかない。そんなものが絶対的だと言えるか?
とにかく光の速さを基準にすればその根拠が得られるのだと物理学者たちはのたまっているが、いつかその証明が付くはずだと。そんなことが感覚的に信じられるか? ぼくにはとうてい無理だな。彼らがどこまで自分たちの都合のいいように世界を説明できるものだと盲信し続けるのか、てんで見当も付かないほどだよ。絶対的だなんて! すこし感覚が冴えていればそんなものナンセンスだとそこらの幼稚園児でもわかるよ。言葉で説明はできなくともね。絶対的な基準なんてどこにもないんだよ。それは時間についても例外じゃないんだ。
なあ、つまり、鯨は想像妊娠なのさ。絶対的な時間という存在しない透明の架空の配偶者におかされたと信じているわけなんだから。あはは」

「だったらこの世界は鯨の想像妊娠で、すべては妄想で、おれたちは実際に存在していないってことになるじゃないか……」
「実際、そうなんだろうね、きみの世界においては? ぼくは鯨なんて知らないんで、ぼくの世界は現実であるけど……」

男は衝撃に震えおののいている。がくがくと膝と手を揺らしている。目前に稲妻が落下したかのように怯えている。
この世界がすべて空想上の産物だったなんて……なんて真理だ……なにもかもが幻想だったなんて……どうしたらいい? ……こんな真理なら……知りたくなかった……。
男はゆっくりとごみくずみたいに床に崩れ落ちた。

イミテーションのルビーを溶解させた液体にみえる、ハッタリじみた、ペテン的な不思議な赤色のカンパリが、薄い硝子のロック・グラスのなかで、やはり嘘のような光沢をみせてアンニュイな鈍光をたたえている、嘘っぽさの向こう側に隠しきれないうっとりする魔術的な趣きを滲ませて。女はグラスの縁に触れているか触れていないかわからないほどかすかかに唇を付け、かるく手首を捻る。口中に侵入しようとする液体の流れを舌で塞き止め、ほんのすこしだけ舐めた。滴ほどの量のカンパリが唾液に溶けて混ざり合い、アルコールのかおりが霧のように口中にたちこめ、すぐに女の鼻腔を満たした。誰にも気づかれないうちに、世界の設定値のメモリをすこしだけ上げたような気分になる。認知できないほどの水準で、視界の色味が変わり、音の響き方が変わったようだ。女の思考と行動の文脈が、一旦そこで分断された。ここからはまた別の時間が流れる。いままでとは質的にも量的にも異なった世界だ。そのことを知っているのは女だけだが、紛れもなくそれは変更されていた。女はそのあたらしい方向性を持つ時間の水流に、さりげなく、怖じ気づかず、当たり前のように皮膚感覚を馴染ませる。身を任せる。女にとって、その感覚について何も考える必要のあることはなかった。ただその素敵な感覚を受け入れるだけでよかった。ざらついて乾燥していた心の感触が滑らかになって、感情の絡まったもつれがほどけていく。
豆電球が、一定のゆったりした間隔で、女の顔に市松模様の薄い陰を与え、奪い、また与える。なんだか音楽に合わせて電飾が点滅するようでもあった、実際、豆電球はうまくリズムに乗っていたものだ。
いまは、カンパリの、何十種類ものハーブや果汁が複雑に混ざり合った思慮深げで異国的なかおりが、女を不思議なリラックスの気持の水平線へと誘っている。ひとくちの半分ほどの量のカンパリを、ごくりと、咽頭の裏側から、胸の裏側あたりまでにゆっくりと馴染ませながら、胃へくだした。胃のなかに、古いマッチで点けた、ほのかな優しい火がぽっと点ったように感じられる。その火は女さまざまなものを与えてくれるはずだろう。息苦しくけったいな場面の連続が大半の人生を生き抜いていくための生命力についてのさまざまなものを。たとえば、そのうんざりさせられるものごとの絶え間ない応酬の連続のなかに、たしかに何か素敵なものが見つけられるのだという約束のしるしが密やかに存在しているとしたら、それらを保管するために空けておいてある心のなかの不可侵の聖なるスペースをふたたび浮かび上がらせ、自分に対して思い出させるために役に立つものを与えてくれるかもしれない、その小さな火の明かりが。
そうして浮かび上がる保管されたしるしのかぎりない集積が、幸福の形を形づくっていくのだとしたらどれほど素敵で嬉しいことだろう? と女はしばしば考えた。そしてその仮説を何度かの機会において男に説明しようと試みてみたが、男はどうしても女のいっていることと、幸福という言葉が、何故符合するのかがわからなかった。

一方で失われていくものも確実に存在し、そのことは女もうすうす認識していた。女はアルコールのまどろみの汀に泳ぎ、喜びを感じながら、だけどたったいま、何かが決定的に失われてしまったような気がする、とても大切な何かが、と思っていた。しかしその何かが何なのかがどれだけ考えてもわかりそうな気配がなかったので、判断は宙に浮いたままで保留されていた。結局、見事に一点の曇りなく完全に失われたものについて、我々は何か思い出したり、ましてや、語ったりすることは二度とできないのかもしれない、ただただそれが失われているがゆえに。そこに残るのは虫の報せのようなざわめきだけだ、胸の裡で何かが圧倒的に、物質的に、抉り取られたような感触の余韻。そこからは痛みさえも巧妙に剥奪されているので、ただ茫漠とした不在感、永遠の不在者の不在感、不明な部位の疼き、空洞の瘤の異物感、そういったものしか女には感じられない。痛みにともなって想起されたはずの想念、酷いかなしみと陶然とした快楽の複合感情や、喪失を受け入れたいと願う気持、喪失感が自分じしんのなかで馴染み、肉体の一部になっていく感覚、それらも奪い去られている。女には大切なものが失われていくことの感覚や余韻を味わう機会が与えられなければ、何を失ったのかさえ知る機会もない。あまりにも鮮やかな喪失だったので、ほとんどそれはいっしゅんのうちに消滅したのだといっていいほどに。
この晩、このとき、女の男への想いは未来永劫に渡って断絶された。誰も知らないが、女自身でさえ。こんごふたりのあいだでどれだけの交流が行われるにせよ、ほんとうの精神的な交わりはいっさい交わされることはないだろう。

「ねえ、ライター貸してくれない?」と女から離れてカウンターに座っていた客が女の方を向いて怒鳴った。いささか低くこもりがちだが、その声音はたしかに女声だった。
「いいですよ」と女が怒鳴り返した。
そして緑色のビックをカウンターに置き、客の座っている方に勢いを付けて滑らせた。
ライターはちょうど客の手許で停止した。
「すごい、うまいね」と客。
怒鳴っているので怒っているみたいにも聞こえたが、勧興の感じが声色に滲んでいる。ライターを拾い上げ、咥えていたセブン・スターに火を点けた。
「こつがあるのよ」と女が怒鳴り返す。
それを聞いた客は眼鏡のつるをいじくりまわしながらしばらく女の座っている方の空間の女の頭の位置より高い虚空を見つめ「ねえ、そっち行ってもいい?」

女はすこし考えた。
もともとひとりになりたくてこのバーを選んだ。何かイライラとした感じがあって、それについて考えたかったので。しかしすでにその感覚は消えていた。30分ほどひとりで座っていたら、もともとの目的は達成されているようなものであった。相手の顔はよく見えないが、酷い猫背ではあるけど、こざっぱりした感じだった。すくなくとも、ナンパではないだろうし、何かの勧誘のようにも思えない、もしかりにそうだったばあいはとっとと切り上げて立ち去ればいい。それくらい造作もないし、受け入れた以上はそうなっても仕方ないと思えるだろう。他に店はいくらでもある。なんとなく、いまなら見知らぬ誰かと会話をするのも悪くはないかもしれないな、と思った、
「いいよ」と女は怒鳴って返事をした。

客は腰をずらして、スツールから数センチ浮いている両足を床に付け、細いパイプ状の手摺を握って立ち上がると、煙草と本とグラスを取り、間接をギシギシ鳴らすみたいにぎこちない歩き方で2メートルばかり歩き、女の右横のスツールに腰を落ち着かせた。座り心地を確かめるように深く座り、手摺を撫でてから恥ずかしいみたいに手を揉んだ。

「よかった、じつは入ってきたときから気になっていたんだ、きみのこと」
「どうして?」
「珍しいから、ひとりでこの店に来る女性」とライターを返しながら客が言う。
「あなただってそうじゃない」と受け取りながら女が言うと、客はあっけにとられたみたいな顔を作った、そのことは忘れていたとでも言わんばかり。そしてこくこくうなずきながら、
「まあ、そうだけどね、それとこれとは話が別なんだ」。

客は、猫背の女は、黒縁の太いフレームの眼鏡を掛けている。実際に度の入ったレンズが嵌め込まれている。肩までの黒いボブ・カット、前髪はかるい、眉毛のあたりでざっくりと切り揃えられている。眼鏡のなかのの両目はいささか白目勝ちで、どちらかといえば目尻は上がっている。アーモンド型、そしてとてもおおきな目だ。瞳がほんのすこし茶色みを帯びている。薄く長い眉毛は、両目の三センチほど上で緩やかなカーブを描いている。鼻筋の細い鼻の先端がつんと上を向いていて、それが毅然とした印象を与えるが、唇の薄い口は基本的に半開きであるようだ。それが鼻の印象を中和している。顎の筋肉が弱いのかもしれない。
かなり痩せた身体にグレーのジップアップ・パーカーを羽織り、なかに紺色地に白い線のネル・シャツを着て、一番上のボタンだけ開けている。黒いスキニーの右の膝が破けている。ダメージ加工による穴にはみえない、おそらくもともとはふつうのスキニーだったのだろうそれは、今ではよく洗い込まれ感じよく色褪せている。足許はロールアップされ、黒い靴下の太くて白い横縞が覗いている。ロー・カットの黒いコンバースはそろそろ買い換えるべき時期が来ているようだ。
「ねえ、こつってなんなの?」と客が聞いた。
「心のなかで、物に向かって念じるのよ。『あなたはいまからあの女の人の前まで見事に滑っていくのよ、そして目の前でピタッと止まるの、いい?』という風に。そしてなるべく優しく送り出す、するとたいていうまくいく。遠くからゴミ箱にゴミをほおるときとか、そういうときにも使えるの」
「それはすごいね。そんな話ははじめて聞いたよ。ね、あなたは物と心を通わせられるってこと?」
「そんなわけないじゃない」女は微笑んだ「これは一種の、なんて言うか、自己催眠みたいなものよ。物に語りかけるかたちをとって自分の心の深い部分にはたらきかけてるのよ」。
客は感心したみたいな、古代の珍妙な美術品を眺めるような顔で女の顔を眺めた「きみ、おもしろい人だねえ。どこで習ったの? そのおまじない」。
「おまじない? おまじないと思ったことはなかったけれど……そうね、たしかにおまじないなのかもしれない」女はこくこくとうなずく、自分自身に向かって納得しているようにみえる「これは、このおまじないはね、子供ころの頃に父が教えてくれたの。父も、お父さんに、つまりわたしの祖父に教わったといってた」。
「ふうん」客は腕組みしてなお女の顔を眺める「それはすごい」。
「あなた、なんの本を読んでたの?」と女が聞いた。
「ああこれ?」と言って客はカウンターの上の分厚い本に手を掛ける「たいした本じゃないよ。民俗学って知ってる? 『アイヌ民族』とか『民族衣装』とかの民族という漢字じゃなくて、タミに、『俗世間』とか『俗物』とかの俗の字を書いて、民俗学」。
「柳田國男とかの?」
「そう。この本は柳田先生が書いたものではないけどね。わたしそれ学校で専攻しているの。ほんとうは宗教の勉強がしたかったんだけれど、受かった学部のなかで一番近そうな専攻がそれだったの。妖怪とか、おどろおどろしい田舎の古い因習とか、げんなりするような話がガクジュツテキな観点からたくさんかいてあって、はっきり言ってわたしむかしから怖い話とか苦手でさ、ぜんぜんおもしろくないの、これが。信仰とか宗教と被った領域もたしかにあるにはあるんだけれどね、わたしが学びたかったものとは方向性がまったく違うの。高校生の頃のわたしが学びたかったのはカトリック・キリスト教世界史だったのに、どうして中世日本人の夜這い文化の分布と妖怪の伝承の分布の関連性について必死になって調べているんだろう? って、自己欺瞞でいっぱい」
「大学生なんだ?」と女が聞いた。
「うん。卒業論文の仕上げにあくせくしてる四年生。あなたは?」
「わたしは、ごくふつうの会社員。大学は四年前に卒業した」
「そうだったの? ごめんなさい、てっきりわたし……同い年くらいにみえたから、失礼な話しかたをしてしまって、ごめんなさい」と俯きがちになり苦い顔で客が言った。
「ううん、べつに気にならないよ」と女は率直に述べた。
「そう? なら、よかった」客はすっと顔を上げ、意外なほどの素直さでその言葉を受け入れた「よく来るの? この店」。
「ときどきね。いつも来るというのではないわね……なんていうか、すこし特殊な店だから」
「そうなの?」
「あなたはそう感じない? だって、飲食店にしては暗すぎるし、音楽もうるさすぎるじゃない」
「他のバーをよく知らないから、これがふつうだと思ってた」
女は、客の目を見て、なるほどというようにうなずいた。

「だったらどうしてこの店に来るの?」と客が聞いた。
「その特殊さが、あるばあいにおいては理想的だから」
「どんなばあい?」
「それは、ひとことで表すのは難しいけど……。
たとえば世界じゅうの人々がいっせいに口裏を合わせて、わたしが生きたいように生きるのを邪魔してるみたいに思えて、空までもが、わたしが酷い目に遭うのを見て、クスクス笑って楽しんでるみたいに思えるときよ」
「それは、酷い気分だろうね」と客は気まずそうな笑みをみせた「そういうことがときどきあるの?」。
「あるともいえるし、ないともいえる」女はカンパリを飲む。今までの飲み方とはうってかわった。グラスのなかの残りを、半分ほどひといきに煽った。そして続けた「そういう気持ってたしかに酷いけど、そう長くは続かないものなのよ、たいていおいしものを食べてお酒を飲んで友だちと話してぐっすり眠れば次の日には直ってるの。だからほんらいは問題にするほどのことじゃないの。そういう意味ではあってないようなものだともいえる。
けどね、ときどきばか話をして騒いだり、食べ物を好きなだけ食べたり、そしてそのあと家に帰って眠ったりとか、そういうことにさえうんざりしちゃうときがあるの。
そういうときにここに来て、ひとりでお酒飲んで、音楽を聴きながら、じっと座ってなるべく何も考えないようにする。つまりそういう時間の過ごし方に適しているわけ。この店は」
「なるほどね……だとしたら、もしかして、わたし迷惑じゃないかしら? 邪魔してない? きみのそういうとくべつな時間の過ごし方を」
「いいの。その時間はもうおわったのよ」
「よかった」女は柔和な笑みをこぼした「わたし、なんだかきみのこと好きだな」
「え?」女は当惑した「どうして?」。
「だって、知的だし品があってとてもきれいだもの」と客「あのね、いちおう、これはセクシャルな意味じゃないよ」。
「ありがとう、すごく嬉しい。でもね、いま、勘違いしそうになった。わたしがレズビアンだったら、その気になってしまうかもしれない」と笑いながら女が言った。
「違うのわかるよ、わたしだいたいわかるんだ、そういう人は、ひとめ見れば」
「どうやって見分けるわけ?」
「うーん……。それは、雰囲気としか言いようがないかな。まあ、しいて言うなら、肌かな」
「肌?」
「うん、もちろん服装やしゃべり方ですぐにそうとわかる人もいるけれどぜんいんがぜんいんそうわかりやすいというわけじゃない。なかにはふつうならいっけんしてはわからないという人もいる。だけど、よく観察しているうちに、そのタイプの人たちも見分けられるようになった。そのタイプの人たちの肌はわたしたちの肌とは、ちょっと違うの。なんだか特殊なつやがあって、透き通るようで、きれいなの。それはふつうのきれいさとはぜんぜん違うんだ。丁寧に手入れされているとか、肌質がきめこまかくてきれいとか、そういう話ではないの。
幻想的というか、なんというか。うまくは言えないけどとにかく何かが違うのよ。何か内側から滲み出てくるものなんだな、そのきれいさは」
「ふうん。詳しいのね」
「わたし、友だちの手伝いで、ときどきクラブでお酒作るんだけど。その店は新宿二丁目のちかくにあって、レズビアンの客たちがときどき来るの、いわゆるカミング・アウト済みの人たちが」
「そうなんだ?」
「もちろんひとくくりにして語るつもりはないけれど、基本的にはみんな感じのいい人たちなんだ、いつもとても清潔にしているし」
「異性愛者の女たちよりもということ?」
「まあ、おおかたの傾向としてはね」
女はそれについてすこしのあいだ思索を巡らした。
客は手許の煙草の箱を弄くりまわし、女の顔を見て、そこから共通点を見出だしたいみたいにふたつを見比べていた。

「でも、なんだか意外だな」
「何が?」
「きみってそんな風にひとりになりたいとか、深刻に悩んだりするようなタイプにはみえない、つまりなんというか、健康でハツラツとしてみえる」といった客の目の下にはうっすらくまが浮かび、顔色もすこし悪い、たしかに、あきらかに彼女じしんは不健康そうだ、と女は思った。
「ぱっと見の雰囲気では、ということだけど」
「いつもそういう風にみえるように気をつけているからよ」
「どうして?」
「いまにわかるわよ」と女が言った。
「どういう意味?」
「ねえ、あなた失礼なことを聞くけれど、就職は決まってる?」
質問で返されていささか面食らいながら客はこたえた「うん。いちおう。おおきな会社ではないけど、電子黒板を造ってる会社なの。表面がタッチパネルになっていて、専用のペンで線の色や太さを変えて板書できるの。必要に応じて資料の画像を表示させることもできるし、これがなかなか便利なのよ。それを塾や私立の学校に売りつける仕事」。
「そう。それはおめでとう。一杯奢らせて頂戴」
「わあ、じゃあ遠慮なく」
「同じのでいい?」
「いや、ビールがいいな、バドワイザー。ほんとうはあまり好きじゃないんだ、ウイスキーって。においがどうも、ね。だけど、嫌いなぶんゆっくり飲むことになるでしょ? だからひとりのときはよく頼むの」
「そういうのって健康的な考え方じゃないみたいね」
「まあね」と客はちょっとばつの悪そうな顔をして、あたらしい煙草に火を点けた。自分のライターならほんとうは持っていた。真鍮のジッポ・ライターの表面に「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットが印刷されている。女はそのライターを見てとても感じがいいと思った。
「すみません」と女がカウンターの向こうに怒鳴り、店員が二人の方を向いた「バドワイザーふたつ」。

「ねえその薬ってなんなの?」
「胃薬」
「ビールで胃薬を飲もうというわけ?」と笑いながら客は言った「そっちこそ」。
「何も飲まないよりはましでしょう」と女がこたえる「ねえ、わたし、こんど離婚するの」。

男はもういっときたりともここにはいられないというようすできゅうに立ち上がり、ううう、と喉で低くうなったかと思うと、脱兎のごとく、男にLSDを用意した友人の家を飛び出した。上着や他のすべての持ち物を置き去りにし、靴さえ履かずにドア・チェーンを半ば無理矢理はずし、鍵をはずして引きちぎれんばかりの勢いでドアを開け放ち、11月の真夜中の戸外の闇のなかへと消えていった。あまりのすばやさに、友人としてはあっけにとられて声を掛ける暇も与えられなかった。状況を理解するのに何秒か掛かり、そして男の出ていったドアを眺めながら、
「しまったな」と呟いた。かなり剣呑な情況だった。からかいすぎたかもしれない。こういうばあい、つまりバッド・トリップしているとき、他のどのドラッグの影響下にあるばあいよりも、LSDがキマッている状態の人間がもっとも何をしでかすかわからず危険であることを、男の友人は経験上よく理解していた。わけのわからない妄想や幻覚を現実であると本気で信じ込んでしまうからだ。
たとえば覚醒剤にしろ、何年にも渡って習慣的に繰り返して使っていればそういう状態に陥ることになるが、LSDのばあいは、たった一発で頭がイッてしまう。しかも身体に蟲がわくとか、誰かに盗聴されているとか、そんなちゃちな幻覚とはわけが違う。条件さえ完璧であれば、視界のなかで正常に見えるものはひとつもなくなるし、正常な現実認識能力を完全に失い、目に映るすべてのものが生命性を持った有機物のように変容して話しかけてくることになる。そんな状態で初心者が外をうろつけばすぐに通報されて豚箱にぶちこまれるのは火を見るよりあきらかだった。もしもゲロされたら、自分までまきこまれて、一貫のおわりだ。そうでなかったとしても、さいあく、男は死ぬかもしれない。車に轢かれ、あるいは転んで頭を打って、それともみずから高所から飛び降りて。

男は闇夜のなかを疾走していた。さいわい友人の家は住宅街にあったので、いまのところ男の狂った姿態を目撃した者は多くはいない。小石を踏みつけ、足の裏から血が流れている。しかし男は止まらない。そもそも怪我をしたことに気づいていない。犬のように息を切らしている。リミッターがはずれたように全身の肉体は疲れというものを知らず躍動している。筋肉は最高級のオイルを流し込んだように素晴らしく滑らかに収縮と弛緩を繰り返している。男が走っているのは車道のどまんなかだ。ときどき対向車が現れるが、男はかろやかにステップを刻み、それをかわして駆けていく。まったく問題にはならない。

いったい男はどこへ向かっているのだろう?
それとも幻覚と狂気にとり憑かれてあてどもなく走っているだけなのだろうか?

いや違う。そのどちらでもない。男は追い掛けていたのだ、宇宙鯨を。
窮屈な部屋の壁のなかでで泣いていた宇宙鯨が、とつぜん壁から飛び出し、ドアをすり抜け、想いを決めたように屋外の闇のなかへと出ていったのを目撃したのだ。
男はいま宇宙鯨の、玉虫色に輝く、鳳凰のような飾り毛を持った、とても長い尾を視界に収めている。その尾の輝きのために、無数の光の粒子が不思議なフラクタル模様の形態をつくりあげ、四方八方で舞い踊り、周囲は昼間のように明るく見える。

宇宙鯨の身体は壁のなかにいたときより、何十倍にも膨れ上がりおおきくなっている。その膨張にともなう痛みのために苦しみ、身悶えしながら、一心不乱にどこかへ向けて泳いでいく。
巨大な柱のような尾を振るたびに、豪奢な極彩色の飾り毛が揺れ、先端から目映い黄金色の光がほとばしる。それを男が追い掛けている。
男はすさまじい速さで追走しているが、それでもかろうじて引き離されずに追いていくのでやっとだ。男の駆けていく向こう側の視界のなかは、宇宙鯨の尾と背中とそれらが放つ爆発的な光の粒子でいっぱいだ。

男と宇宙鯨のあいだにはどれくらいの距離があるのだろう?
手を伸ばせば届く目前のようにもみえるし、はるかかなたの蜃気楼のようにもみえる。
ときどき通り越す電信柱や路上駐車の車が、質量を失ったようにぐにゃぐにゃと歪んで男の視界の端で崩壊していく。そして男に声を掛ける「こんばんは! こんばんは! お兄さん、どこへ行くの? 光のなかへ? 気をつけて、闇に足を掬われないように!」その呼び掛けは男の耳殻にこべりついてリフレインする「気をつけて、気をつけて、闇に足を掬われないように!」。

男にはもうほとんど何も見えなくなってきている。太陽を直視しているような光の粒子の爆発と矢のような光線が、男をすっぽりと包んでいる。網膜が焼き付いてしまいそうだ。もう何キロ走ったのだろう? 5キロメートル、10キロメートル、それともその倍以上。
走りながら男のなかで時間感覚は溶解しやがて霧散した。

男は無時間性の、匿名性の空間のなかを疾走している。そこはどこでもない場所の、どこにもつながっていない道だ。
男は自分が生まれたときからこうして宇宙鯨を追い掛けて走っているかのような錯覚に襲われた。
いっさいの精神的な疲労を感じないが、肉体は悲鳴をあげている。肺に破れそうな痛みを感じる。喉がぜいぜいと不吉な音を鳴らしている。脚の感覚がなく、棒切れがかろうじてくっついているような感覚だ。背骨がギシギシと軋み、壊れかけたがらくたのようだ。
それでも男は宇宙鯨を追い掛けて、あらゆる色彩の氾濫のような光のなかへと駆けていく。ときどき、虚空に手を伸ばし、何かを掴もうとする恰好で。
宇宙鯨の背中の線が、天の宮殿の永久に続く廻廊のように滑らかだ。その線からはかぎりないかなしみと絶望をバネにした信じられない生命力が滲み出ているのを男は感じる。

宇宙鯨は、死のうとしているのだ、と男は思った。死に場所に向かって残ったかぎりのすべての力を振り絞って泳いでいるんだ、いま、と。

いっさいの前触れなく、男の眼前で稲妻のような閃光が炸裂した。閃光は地面にぶつかり、はぜ、大地を揺るがさんばかりの衝撃がビリビリと空気を震わせた。世界じゅうのすべての光を凝縮してできたビー玉が弾けたかのようだった。地球一周分の光が男の前でいっせいに迸った。大気中で飽和状態の光の粒子はバラバラに弾け飛び、たがいに衝突して、さらに細かく砕ける。そしてぼろぼろと落下した、跳ね回る、もっとちいさく砕け散りながら。砕けるたびに、光線の奔流がすべてを薙ぎ倒す勢いで360度、隙間なく流れる。無数の球形の光の噴水のようだ。
空気は押し出され、あたりにはもう光しかない。純粋な光のなかで男はうずくまる。目を開けていられない。それでも光の粒子は男の毛穴や耳の穴や全細胞の隙間から男の身体に侵入した。男は耐えられないような熱を感じた。光が男の肉体を内側から、外側から、焼いている。このままおれは死ぬんだな、と男は思った、すると光は急激に男に対する興味を失ったように天高く昇っていき、雲のなかへと消えた。その光の上昇する激流は渦を巻き、太陽よりも明るく輝く龍にみえた。

男は明るさが退いていくのを認識し、かぶりをあげた。
宇宙鯨は、いまや背中ではなく、その顔を男の方に向けている。宇宙鯨の一対の優しいまなざしが、年老いた象のようなまなざしが、男の苦痛に歪んだみにくい顔に注がれている。宇宙鯨の顔には無数の皺が刻まれていた。とても深く、思慮深げな皺だ。ほとんど観念的な。いたるところに苔が生えている。皮膚は荒野のように乾ききり、かたそうで、無機物のようだ。ハンマーでかるく打てば、音もなく崩れ去りそうだ。しかしその小さな潤んだ目のまなざしは、決然とし、つよく、深い叡智を湛えている。男は立ち上がり、無言で、畏怖の念にがくがく震え、しかし確信的な足取りで、宇宙鯨に歩み寄る。宇宙鯨のとてもかたく太いたくさんのヒゲが、男の頬に触れた。不思議とそれは痛く感じられない。男はむしろ気持がよかった。
そして男は静かに涙を流す。ようやく、こうして宇宙鯨とふたりで向かい合うことができたことに、最高潮の心が震えている。これほど心が動いたのは、男のもう記憶にないずっとむかしのこと以来だ。いや、どこまでさかのぼっても、これほどの感覚の解放、無条件のうちひしがれる喜び、絶対的な幸福の瞬間、こんなものはなかったのかもしれない。いつか、あったかもしれない、それは、子供の頃、もっと前、誕生の瞬間に味わった感覚に似ていた。男は生まれたときのことを思い出していた。かすかに震える手が、宇宙鯨の顔の上に置かれた。やんわりと、だけど力づよく。
宇宙鯨は男に語った。
「きみがぼくを見つけ出したはじめの人だ。そしてそれは同時におわりでもある」
「そんなことを言わないでくれよ。ねえ……きみは……死ぬつもりなんだろう?」
宇宙鯨の沈黙。
「ぼくはそれを止めたくて走ってきたんだ」
ふたたび宇宙鯨の沈黙。
「きみがいなくなってしまったら、ぼくは寂しい」
「すべての感情は一時的だよ」
「たしかにそうかもしれない。認めるよ。ぼくは実際にそういう状況の真っただなかにいる。ときとして人の気持はいともたやすく変わってしまう。
だけど、いまは、たしかに、そう思うんだ」
「それだよ!」宇宙鯨は洞窟のような口を開けて叫んだ。
空間にひびが入ったかのようなビリビリとした空気の振動音があった。男はもうすこしで鼓膜が破れるかと思った。
「そう……それでいいんだよ。
きみはずっと過去や失われたものに固執し続けた。現在の現実のものにも、すべて過去や失われたものの面影を被せて、何も見えなくなっていた。やがてきみは目を閉ざし、そして誰の言葉もきみの耳には届かなくなってしまった……。
きみはそのまま一生を終えてもおかしくなかったんだぜ。それで、ぼくが来たんだ。来たんだ、というより、この形は、きみが生み出したものなんだけれどね。ずっときみのなかにあって、迫害され、抑圧されていたものが生み出したひとつの形なんだ。ぼくはどこにでもいるし、見ようとしなければどこにもいない。ぼくは適当な形をとってきみに伝えに来たんだ。
そしてきみはもうそれを受け取ったようだね。いいかい? きみはいまこういったね。
『ぼくはいまたしかにこう思う』と。
うん、うん、うん、実にそれでいいんだ。きみに必要なものは、その言葉のなかにすべて詰まっているよ、わかった?」
男は狼狽えた「いや、わかったというか、きみはそもそもぼくが生み出したものだって? そんなはずはないんだけど」。
「やれやれ」と鯨はかぶりを振った「いいかげんに目を覚ますんだ、きみにはぜんぶわかってるはずだろ」。
男はそれにはこたえずただ懇願するような目で宇宙鯨を見つめている。
「オーケー、もうこれ以上言うことはない。ぼくは、帰るよ」
「どこへ?」
「きみのなかさ」
それだけ言うと宇宙鯨は膨張しはじめた。男の身体を含んで。世界の端まで拡がっていくようだった。そしてある一点まで膨張するといっしゅんで消滅した。男の視界に残ったのは、ただの住宅街の真夜中の一角、自分の両方の掌。
足の裏に鋭い痛みが走った。男の足許に、闇によって赤みを失った、水っぽい血液が滲んでいた。男の両目からはふたたび涙が出てきた。足の裏の痛みのせいか、宇宙鯨がいなくなったことによるのか、それとも別の何かのせいか、またはそれらすべてか、男にはよく判らなかった。ただ、心底純粋にかなしかった。男の顔色にずっと失われていた赤みがふたたび差していた。


「けさはずいぶん顔色がいいみたいだけれど」と女が言った。
「ああそうかもしれないね」と男がこたえる。
「いちおう紹介するけれど、あたらしい恋人なの。エリというの。知っている? 彼女ほんとうはエリというの、あなたに名乗っていたのは本名じゃないんだって。どうしてもついていきたいというから、つれてきたけれど、べつに問題ないでしょう?」女は書類に不備がないか手際よく確認してから、かんたんに署名をし、鞄から印鑑ケースを取り出してあっけなく捺印してすぐに印鑑ケースを鞄に仕舞いなおした。
「冗談だろ、よしてくれよ」男は頭を抱えてテーブルから顔を上げようとしない。
エリが口を開く、かすかに震えた声音で、
「わたし、まさか彼女があなたの奥さんだとは夢にも思わなかったよ。はじめて知ったときは、息の根が止まるかと思った。こっちのセリフだよ、冗談でしょうって、どうしてこんなに素敵な奥さんがいるのにわたしと寝たりしたの? 信じられない、なんだかがっかりしてしまった、彼女の方がずっと素敵、あなたのしゃべることってほとんどぜんぶ彼女の受け売りみたいなことばっかりだったんだってわかってしまったんだもの、わたし情けなくって泣いてしまった、わたしも情けないし、あなたもほんとうにあわれな人だなって、わたしと同じくらい情けない人だなって思ったらかなしくてたまらなかった。でもあなたとわたしは違うよ、わたしは彼女のことを知らなかった、あなたは彼女のことを知っていた。わたし彼女のことを知っていたらあなたのことなんて目にもくれなかったよ、絶対に。だってあなたの魅力はすべて彼女のおこぼれに過ぎないんだもの」。
「いいすぎよ」と女が完成した書類をもういちど点検してから顔を上げて言った「彼は彼なりに頑張ろうとしようとしていた。でもそれを妨げていたのはたぶんわたしの方だったんだと思うの、わたしははっきりいって、ねえいまのあなたに対して何も感じられないの。それはエリと出会ったことと関係なく、うん、それとは違う意味で、いまのあなたに対してもこういう結果になってしまったことに対しても、何も感じられないの。そのぶんきっとあなたが肩代わりして苦しみをこうむっていたのかもしれない、長いあいだずっと。あなたのあなたなりに頑張るということにはいつも必ずわたしの存在が含まれていたんだわ、わかるでしょう? ほんらいは分かち合わなきゃいけない部分が、わたしたち、どこからか狂ってしまっていた。あなたがやるべき部分までわたしがやってしまって、あなたはどうすればいいかわからくなって、わたしと分かち合うべき部分のすべての苦しみを引き受けるというかたちでしか、わたしたちの関係のためにできることが見つからなかった。そうでしょう?」
沈黙。
「これからは、もうわたしは、いなくなる。いやがおうでも、ほんとうの意味であなたはあなたなりにやっていかなければいけないの。ねえあなたはもともとはそうしてやってきたんじゃない。とても長い時間が掛かるかもしれない。でも絶対にあなたには自分自身を取り戻すべきなの。たとえその結果どれほど変わり果てた姿になろうともね。きっとそこからしか何もはじまらないのよ。あなたにはそれがわかっているはずよ。あなたはそれができるとわたしは信じているわ。そしてそれ以外にあなたがあなたなりにやっていく方法はないのだから。しゃんとして」
この女が、鯨なのだろうか? と男は俯きながら、両目をじっとつむって、脚を組み、身をかたく縮め、沈思黙考している。
鯨はおれのなかへ帰るといっていたけれどほんとうはこの女が鯨だったんじゃないのか? どうしてみんな同じようなことばかり言うんだ? 何故おれに向かって同じことばかり話すんだ? これではまるで鯨がぜんいんの口を借りておれに語り掛けているみたいじゃないか?
「きみたちも鯨なんだろう?」と口許までのぼってきた言葉を男はどうにか呑み込んでやり過ごした。怪訝な顔をされるのはわかっている。彼女たちは、自分たちが鯨であることに気がついていないのだ。たぶん死ぬまで気がつかないのだろう。

「ぼくにはね、わかってたんだ。ずっときみたちの言うようなことはわかってはいたんだ。ほんとうだよ。だけどそれはもうぼくには手の負えないことだったんだ、気づいたときにはもう手遅れだったんだよ。でもいまはたしかにこう思うよ、ぼくはとてもかなしい、思い出したんだ、かなしいということを」
「それでいいのよ、もう何も言わないで頂戴。これはわたしが責任を持って提出してくるから。エリ、ちゃんと横で見ていてね?
それじゃあ……。あのね、わたし、愉しかったわ。愉しかったときのことは思い出せるの。ねえ、いつかのあなたはほんとうに素敵だったわ。いつか、ずっとむかし。ほんとうに……まるで夢のようだった。むかしのことだけど、いまでは鮮明に思い出せる。あなたは信じないかもしれないけれど、わたし、いまではあなたのことをちっとも恨んでなんかないの。
ねえ、もしどこかでわたしを見かけても……」
「大丈夫、話し掛けないよ」
男はさいごまで顔を上げることができなかった。

男は追いかけるように喫茶店を出――勘定は女によって済まされていた――ふたりの女の背中が遠ざかっていくのを見送った。そのふたつのちいさな背中の内側に、男はたしかに鯨の息遣いを感じた。ああ、彼女たちはすでに鯨を孕んでしまった。と男は思った。鯨が2匹になってしまった。宇宙がふたつに増えてしまった。
そして、これでもう何もかもが手遅れだ、と男は誰にともなく呟いた。これからおれが死ぬまで鯨たちは増殖を続けるんだろう。おれは逃げきれるだろうか? 無理に決まっている。おれはすでに含まれてしまっている。複製された宇宙は複製された段階からどれだけ近似しているにせよそこから分岐してそれぞれ異なった宇宙として育まれていくのだ。コピーくじらの胎内で。おのおのの母体に固有の栄養によって。さてあしたの朝、目覚めとき、いったいおれはどちらの宇宙にいることになるのだろう? おれはいまどちらの宇宙にいる? そもそも、ほんとうにはじめから奴が1匹きりだったといえるのだろうか? 確かめるすべはない。でも問題はない。おれは分裂してしまったわけじゃない。おれはおれとして絶対的にひとりのおれとして存在している。今までもこれからも死ぬまでずっと。まばたきをするたびに別の宇宙にとんでいくのだろう。かまうものか。分裂しているのはおれじゃなくて宇宙の方なのだから、おれにはもはやまったく何も恐れる必要がない。勝手にしてくれ。おれはどこか遠くに行かなくてはいけないだろう。なるべく遠くへ。そのためにはなるべく遠くであたらしい鯨を探さなくてはいけない。ああ、ようやく愉しくなってきたじゃないか?

男はきびすを返し横断歩道を渡った。女たちに背中を向けて。貯金をすべて引き下ろすために銀行へと向かう。

2018年5月27日公開

© 2018 TRiPRYO

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