まっさらな青空に、一頭のドラゴンが翼を広げながら旋回していった。場所は王都上空である。
王都は王国一の規模を誇る大都市とはいえ、城下町の郊外ともなれば、そこに住む人々はつつましやかに暮らしているものだ。農地を覗けば、イモの収穫時期を迎えた農民がにこにこと畑の土を踏んでいた。麦わら帽子をかぶった年寄りが、ぽん、ぽん、ぽんと土からイモを飛び跳ねさせる。跳ね出したイモをそのまま宙に浮かせたまま、そこへ新たな種をまた、ぽん、ぽん、ぽんと土に飛び込ませる。からだの不自由な年寄りは、こうした、魔法による農作物の栽培をおこないながら生活している。種を含んだ土をたたく手は、光り輝く手袋であった。
王都マグナキャッスルにそびえたつ王城は一風変わっている。
ところどころにコーンのような塔が突き出ている石造りの王城を、ドラゴンの一種である巨大な岩トカゲが抱え込むようにしている。高いところでは四層ものフロアが重なった城を、ぎっしりと後ろから抱えるようにしている岩トカゲは、あまりにも大きい。そのてっぺんまで見上げるには快晴でなければ難題だ。岩トカゲの喉から胸にかけてが王族の居住区となっている。礼拝堂から医務室に至るまで、王族は衣食住のすべてをここでおこなう。
ちなみに岩トカゲというのは、このドラゴンのことを呼ぶ。全身がごつごつとした岩肌であるからだ。翼は持っていないので、どんな角度で見ても岩トカゲと呼ぶほうがしっくりくる。
「——こうしてエオニオ王は、敵を打ち倒し、そこで新たに、現代まで続く我らが王国を建てたのでした」
ちらちらときらめく埃が舞っている。うららかな午後の陽光がさしこむ王城のリビングでは、ふたりの王子が、王妃から国の歴史を教わっていた。金髪の王子はエルストといい、黒髪の王子はコネリーという。それぞれソファーに腰かける四歳違いの兄弟はどちらも丸い水色の瞳をしており、兄コネリーはいかにも素直そうな、はつらつとした表情であるが、弟エルストはこの場が不服そうに唇を歪めていた。息子のすねた様子を見た王妃は、自身の長い金髪を耳にかけながら微笑んだ。
「なにか言いたげね、エルスト」
「はい。母上、兄上、僕もう城での勉強には飽きました……僕も兄上みたいに、魔法学園で魔法のお勉強がしたい」
すると王妃とコネリーは気まずそうに顔を見合わせた。ふたりが言葉に詰まるのも無理はない。いくらエルストが駄々をこねようとも、彼にそのような魔法の勉強は不要なのである。理由は単純だ。このすねた金髪の王子は魔法が使えないのである。
「どうして僕には魔力がないのでしょう? 僕も、同い年の子みたいに、魔法学園でお勉強したり、ホウキにまたがって空を飛びたいのに」
エルストは分厚い本のふちにアゴを乗せた。
「エルストは魔法が使えなくて悲しい?」
王妃が尋ねた。エルストは頷いた。
「そりゃ、悲しいし、悔しいです。だって僕、誰かに頼まなきゃロウソクに火もつけられないんですよ。母上は魔法が使える〝ふつうの人間〟だから、僕の気持ちなんてわかりっこないんでしょう! ふつうの人間は、魔力があるし、魔法が使える……なのに、僕だけ……僕だけなにもできない」
「だけどエルスト、ロウソクに火をつけてくれる人、つまりおまえを助けてくれる人はちゃんといるんだろう? それじゃいけないのか?」
弟に言い聞かせるとき、コネリーはこのように至極おとなびた表情を浮かべるのがお決まりだ。
「そういう問題じゃないんですよ、兄上っ! 僕がどんなにみじめか、兄上にだってわからないんだ! 兄上は次の国王だし、将来のお嫁さんだってもう決まってる。空だって飛べる。対して僕はなんにも……」
「エルスト。そうやって卑下するのはだめですよ。それに明日はあなたの誕生日。お祝いのときに、そんな言葉を言うものではありません。あなたは、私の愛すべき息子なのですから」
エルストの頬に手を添え、王妃は母親らしい顔でそう言った。
「……はい、母上!」
母からの愛情を感じたとき、エルストは常時一切の不満を忘れ、屈託ない笑顔を浮かべるのであった。
◇
王都マグナキャッスルにて反王国組織が国王を襲撃したのは、その翌日のことであった。あらゆる大地を埋め尽くす数多あるドラゴンの肉体で構成され入り組んだこの世界を統治する王国にとって激震が走った一夜でもあった。エルストの十五歳の誕生日に、王都の街並みが炎に包まれて壊滅したのである。
「父上!」
闇夜に包まれる王城にてエルストが叫ぶ。
父と兄の胸にはそれぞれ床から這い出た土色の剣が容赦なしに突き刺さっている。それら剣はまるでいばらのようだ。内臓を突かれた父と兄は血を吐いている。
エルストはつい先ほどまで両親や兄と会食している最中だった。エルストの好物が振る舞われ、王子の誕生日を祝い終えるはずであった。しかし爆音とともに会場に強襲してきた黒衣の大男が魔法によって国王とエルストの兄を串刺しにした瞬間、祝いの席は立ち消えたのである。
「だ、誰か!」
青ざめた王妃が会場の外へ助けを求めていった。
「国王……いよいよ我慢ならん。もう全て〝終わり〟にしよう」
黒衣の大男が、床に倒れた国王の体に、さらに剣を突き刺す。黒衣の大男はどうやら魔法を使って床から剣を生み出しているらしいことがエルストにはわかった。剣が生まれるとき、必ず魔法陣がきらめいているのである。
「貴様は……サルバか!?」
「私が何者かなどもはやどうでもいいことだ。そんなことはもうどうでもいい……私が今夜おまえたちにすることは、おまえたちに利用された、人間と、ドラゴンの、長きにわたる無尽のうらみ!」
「うらみ……」
「ああそうだ。懲りずにいのちをもてあそんだ! おまえたちへのッ!」
黒衣の大男・サルバは次々と国王を刺していく。そして国王の全身を蹴たぐり、また束縛魔法を応用して国王を床と天井へ交互に強く打ちつけるのだった。国王は、とうに絶命している。周囲にはすっかり国王の血であふれかえっていた。
「父上、父上! しっかりしてください!」
父の血を浴びながらも、いまだ父が死んだと理解していないエルストは叫び続ける。
「このォ……誰なんだよ、おまえはッ!」
つい先ほどまで鶏肉を刻んでいたナイフをとり、エルストはサルバに掴みかかる。しかしサルバはエルストの攻撃をものともせず、しまいにはその胴体を蹴飛ばし、幼い王子に向かって魔法の呪文を唱えようとした。
「や、やめろ……」
次はエルストが殺される——そう思い、かろうじて生き長らえていたコネリーが、サルバへ向けて狙撃魔法を放った。黒衣が少しだけ焦げついた。このコネリーの行動により、サルバの関心がコネリーに移る。
「死に損ないは見苦しいぞ。死ねるのならぬかりなく死んでおけ……それが幸福だ」
サルバの魔法によってコネリーの全身が捻れる。コネリーは悲鳴すら上げる瞬間も与えられなかった。
「兄上!」
エルストがコネリーを見たとき、コネリーの体は本来ならばあってはならないほうへと関節が曲がっており、とくに顔は〝真後ろ〟を向いていた。口や傷口からは内臓を思わせる塊が突出している。エルストは気味が悪くなり、とっさに口を手で覆った。
コネリーに対してそうまでし終えると、サルバの、コネリーへの興味はいともたやすく途絶えたらしい。あっけないと言うよりほかにない。エルストは兄の無惨な姿に恐怖し、思わず涙をこぼした。
「よくも五百年も続いたものだ。なぜ父や母はこんな王国のために身を捧げたのか、はなはだ理解に苦しむよ。だがそんなことすらもはやなんの関係もない。この頑愚な王国の歴史は……我が手で、そう、我が手でこそきっちり終わらせる」
息絶えている父の首がサルバの剣によってすっぱりと刎ねられた。——その直後である。エルストのもとに父の腹心サムが駆けつけた。
「殿下! エルスト殿下、逃げますよ!」
「待って! まだ母上が!」
サムは母を求めるエルストの体を強引に掴み、王都の外へとワープ魔法を使おうとしたが、エルストはサムの腕の中から逃れようと必死にもがく。
「エレクトラ様は郎党に殺されました!」
サムがエルストに言い聞かせた。
「そんな……」
「あなただけは生きるのです!」
エルストを抱え、サムは今度こそワープした。サムのこの迅速な決断と行動によってエルストは生きのびることができたのである。
国王一族への襲撃事件と同時に起きた王都壊滅事件はサルバの仲間がただ一人遂行した犯人なのであるが、それはまだ、エルストが知るところではない。
◇
「オエッ! な、なんだこれ、すごく気持ち悪い……」
「ああ……失礼。ワープ魔法は、文字どおり場所と場所を瞬間移動するものですから、目まぐるしい景色の変化と速度に慣れない者は、その……よく嘔吐を」
エルストは、誰かにワープさせられたのはこれが初めてであった。よってワープ魔法が急激な環境の変化にともなう〝酔い〟を引き起こしやすいこともまた、このとき初めて知ったのである。
サムに連れられてエルストが逃げのびたのは、かつては巨体を誇っていたであろうドラゴンの目をくりぬいたところに建てられた簡素な山小屋のそばだった。唾液でぬれた土を踏みしめ、エルストはかろうじて立つ。ここからは王都が片手親指の爪ほどまでに小さく見える。王都は赤く燃えている。
「僕……僕だけが助かった? ……」
エルストは己の手のひらをじっと眺める。この「僕だけ」という自負が、心の奥底に、特別感によるほんの少しだけの快感と、しかしそれとは比べものにならないほどの〝死〟への巨大な恐怖が一斉に湧き出てきた。
冷たい夜風が全身にほとばしる熱をいっそう際立たせる。エルストはふたたび王都を見つめた。
「僕、これからどうしたらいいんだ……」
家族はたしかに死んだ。しかし、それはにわかには信じがたい光景であったし、それを認めた際、どうすべきかをエルストは知らない。
「サム、どうしてこんなことになったの?」
「それは……」
サムは言い淀んだ。エルストはさらに問い続ける。
「どうしてみんなは死んだの? どうして……ねえ、あれは〝殺された〟んだよね? 殺されたって……殺されたって、なに? 僕、わけがわからないや……あの男は誰? サルバって誰? 僕、あんなやつ知らない! そんなやつにどうして殺されなくっちゃいけないんだよ、僕の家族が!」
「エルスト殿下、落ち着いてください」
「落ち着けられるか! じゃあ、どうして君はそうやって落ち着けるんだ? 君がもっとはやく来て、父上たちを助けてやればよかったんだ……そうだ! 魔法が使えるんなら、助けられただろ! 君には魔法があるのに! 誰にだって魔法があるのに、なんで……」
半ば狂乱しているエルストの両肩を、サムは力強くつかんでこう述べる。
「私は〝あなた〟を助けました!」
するとエルストは、ハッとしたように目を見開き、しかしすぐに伏せがちにした。自分の、人間としての価値を思い出したのである。卑下せずにはいられない。サルバの前で、自分はあまりにも無力だったのだ。
「僕……魔法が使えない僕なんか助けたって……なんにも意味がないじゃんか……助けるなら兄上のような人を……」
「あります。あなたを助けた意味はある、価値はある! 強くなって、あの男……サルバを倒しましょう。あの男は王国にとっても悪……王国の膿なのです。陛下たちのかたきを討つためにも、奴は排除しなければならない」
「かたき? 排除? そんなの、できるわけない……僕、なんにもできない……」
「殿下は悔しくはないのですか? 悲しくはないのですか?」
サムに言われ、エルストは次のように答えるが、ここには昨日のように慰めてくれる母や兄はもういないということを、エルスト自身わかっている。
「悔しいよ。悲しいよ!」
エルストの叫びが夜空に響いた。サムはエルストの前にひざまずく。
「そう思うなら、いま涙を拭いてください」
エルストは唇をとがらせ、サムに言われたとおりに、手の甲でごしごしと両目を拭いた。
「そら、できたじゃないですか。涙を拭くこと。あなたにも、できることはあるんです。その感情を糧に、いまはただ生きるのです」
己が十五歳になったこの夜、エルストは、黒煙を発しながら赤く燃える夜空と王都の姿をその水色の瞳に焼き付けた。これら一夜の光景はエルストの脳と心に「王国は滅んだ」という事実に近い真実を植え付けるにはじゅうぶんすぎた。それでも、エルストが「もう一日生きてみよう」「もう一日生きてみよう」と今日から明日を繰り返し迎えようと思えたことの原動力になったのは、黒衣の大男サルバへの、子どもながらに明らかな復讐心そのものにほかならない。
◇
それから二年後、サムとともに山小屋で暮らすエルストは十七歳の誕生日を迎えていた。
太古に肉体活動をしていたドラゴンの片眼をくりぬいた中に建てられた山小屋には、かまど、ベッド、ダイニングセットのみ揃っている。じつに質素な木造の小屋である。
ちなみにここで言う山とはドラゴンの肉体で形成された塊を呼ぶ。半身が大地に埋もれてもなお山のような大きさを見せつけるドラゴンなのだから驚きだ。この〝峡谷世界〟にはこういった風景が多々あるが、太古に繁栄を極めていたドラゴンも、今や肉体活動が停止し、文字どおり生きる屍となっている。ドラゴンは肉体こそ腐敗しないが、不死なのは魂、意識、そして魔力だけなのだ。
エルストは山小屋にある唯一の窓を開け、朝の風を吹き入れた。そよ風が汗に濡れたエルストの金髪を撫でる。
窓から木の葉が一枚舞い込んできた。エルストが暮らすこのドラゴンの巨大な肉体は、途方もない年月を経ていつしか土砂を呼び込み、緑を形成し、動物を育生するようになっていた。
窓を開け放したエルストはかまどへと向かった。かまどは山小屋の外にある。ここで日ごろ山菜や動物の肉を焼いている。今日はエルストが食事当番なのだ。薪を投げ入れ、火打石を使って火を起こす。そして庭で飼育しているニワトリを一羽、羽交い絞めにして殺した。毛皮の剥ぎかた、肉の捌きかたは以前サムに教わった。サムは魔法騎士団の一員だったこともあり、武術や日常生活で必要な技術、知識は豊富に持ち合わせていた。
執事やメイドが浮遊魔法を使って衣服を替えさせてくれるわけでもなく、召し抱えのコックが自慢の火炎魔法で料理をこしらえてくれるわけでもなく、まして家族と朝の挨拶を交わせるわけでもない生活を、寂しいと言われればエルストはそれを否定できなかった。しかし、不便ではあるが、エルストはこの暮らしに不自由さを感じてはいない。魔法を使える人間がそばにいるからだ。もしも自分ひとりがこの山小屋に放り出されたとしたら、きっと生きてはいけなかっただろう。エルストは魔法が使えないのだ。一方で、他人に頼まなければまともに水も飲めない自分に対し、エルストは少々ひねくれた感情を持つようになっていたのは二年前となんら変わっていない。
現在サムは小屋の近くにある貯水槽のところへ、雨水を〝ろ過〟しに行っている。ここでは必要な水を確保するには雨を待ったうえで濾過魔法を使わなければならないのだ。
エルストが肉を焼き上げようとするころ、サムが小屋の裏から姿を現した。日焼けした巨体に、ウェーブがかった黒髪を後ろで一つにまとめている。いかにも屈強そうなこの中年男性が、エルストが二年間、ともに暮らしてきた恩人サムである。彼は長年務めてきた騎士職を捨て、この二年という月日をエルストの守護という重役に捧げてきた。
「神エオニオとドラゴンの恵み、命の恵みに感謝し」
「いただきます」
エルストとサムは合掌をしたのち食事を始めた。
食卓の脇には小さな彫像が掲げられている。いかめしそうな顔をした、髪の長い男性の彫像だ。胸もとに剣を携え、切っ先を天に向けている。この男性の名はエオニオという。エオニオとは国教の唯一神であり、五百年前、王国を建国した初代国王である。
人類みな魔力を持ち、魔法を使うこの峡谷世界において、エオニオが人々に説く教えはこうである。
「魔力は先祖からの徳である。魔法は隣人からの愛である。自己は秘め、愛を回すことこそが、人間の幸福を形成する……すなわち自己愛を捨てよ。隣人を愛せよ。隣人もまた、そうしている」
クソくらえだ、とエルストは合掌するたびにつねづねそう思っている。その理由としてはやはり二年前の誕生日に起きた事件が強大な要因だ。エルストは人を殺すという行為に愛徳は無いと考えている。そして隣人は隣人を愛してなどいない。愛していたなら殺人などは起きないはずだとエルストは確信しているからだ。
祈りを捧げるエルストのまぶたの裏には二年前の、刎ね飛ばされる父親の首の輪郭、床から生えたいばらの剣に刺されて反り返る父親と兄の胴体ふたつの輪郭が鮮明に縁取られている。あのように、自分がいつ隣人に刺されてもいいように、もしもそのとき反撃できるように、エルストは格闘術の鍛錬を毎日欠かさずおこなっている。いま全身に汗が滲んでいるのはそのためだ。
「今日でエルストも旅に出る年齢だな」
雨の降らない日は山小屋の庭にある丸太をテーブル替わりとするのがいつしか習慣になった。サムが鶏肉にかぶりつきながら言った。この二年間でエルストとサムには奇妙な信頼関係が構築されており、サムはエルストに対し、父、師、時には兄のように接している。
生存するニワトリが喉を鳴らしながら、目の前で食事をする人間たちをじっと見つめている。それを尻目に、エルストとサムは会話を続ける。
「王国は滅んだんでしょ」
王族の家系に生まれた子どもたちは十七歳になると旅に出ることが義務づけられている。ちょうど今日のエルストに相応しい義務であるのだが、エルストはつまり自分はもはや王族ではなくなっていると言いたいらしかった。これはエルストが二年間抱えてきた疑惑でもあった。二年前の誕生日から、王都マグナキャッスルが〝サード・エンダーズ〟という組織の手に落ちたということ以外、はたして王国の行く末がどのようだったのかはエルストには知らされていない。何度サムに尋ねてもはぐらかされるばかりで、エルストはそのたびに苛立ちと悔しさを噛み締めている。
「いいかエルスト」
サムはつばを飛ばしながらむきになる。
「おまえは生き残りなんだ。おまえは生きているんだ。おまえが生きているのだから王国は滅んだことになんかなっちゃいない」
サムはエルストの疑惑を察しており、まだまだ幼さの残る、悪く言えば幼稚であるこの少年の抱く不安につながりうる疑惑を、おとなごころに解消してやりたかった。
「うん」
サムが述べた否定の言葉に力強さを感じ、エルストは心なしか嬉しかった。
しばらくすると食卓に一匹のカマキリが迷い込んできた。
以前、サムから「カマキリのメスは子孫繁栄と栄養のために交尾をしたオスを食べる習性がある」と聞いたことがある。エルストはそのとき一匹のカマキリを捕まえて飼いたがっていたのだが、サムが「エルストとカマキリじゃ子孫繁栄は難しいな」とつけ加えると、エルストはおとなしくカマキリを逃がしたのだった。
エルストにとってカマキリをろくに世話ができず死なせてやるのと逃がしてやるのとは、後者のほうが、カマキリにいくらか幸せを与えられるように感じたからである。
この時エオニオの教えに則った行動を取っていたのだなどということは、エルストにとってはじつに無意識のうちだった。そして今日もまた、彼はカマキリの胴体をそっと掴み、草の生えた地面へと帰してやった。
食事が終わると、エルストは庭に置いた桶で皿を洗いながらサムに尋ねる。
「でも、旅なんてどこに行くのさ?」
「そりゃ決まってるだろう。アトウッドというドラゴンのところだ」
サムはエルストが洗った皿を拭き上げながら答えた。
「どこにいるのかな?」
「そりゃ峡谷だ」
「峡谷っていっても……この世界の八割は峡谷だよ。だから峡谷世界なんて呼ぶんでしょ」
エルストの顔はうんざりしている。
「だけどなエルスト」
サムは丸太のテーブルにて白湯を飲み始める。エルストにも勧めたがエルストは断った。エルストは味のない白湯はとても嫌いだ。
「おまえが旅をすることには強い意味があるんだ」
「その旅って王族は〝宮廷魔法使い〟をひとり任命しなきゃいけないんでしょ。僕にそんな人はいないね。王国は――王都はもう……ううん。そんなことよりも僕はサルバって男を殺してやりたいよ。父上と兄上にしたように、剣で串刺しにして!」
サムがエルストにサード・エンダーズの存在を伝えたのは一年前の今日だった。反王国組織であることや主犯格の男二人組のこと。しかし大した情報は掴めておらず、エルストに伝えることができたのはその程度だ。そしてサルバというのがサード・エンダーズの主犯格である男の一人である。あの日見た残虐な所業を、エルストは忘れたわけではない。
「まあ落ち着け。すぐかっかするのはおまえの悪い癖だぞ。そういうところは依然として子どもだな」
サムのこの言葉にエルストは腹が立ち、その晩、弓矢と剣を携えて山小屋を抜け出したのである。今のエルストは、誰よりも子どもであることはたしかだった。
◇
一筋、たいまつが木々のあいまを縫うように線を描きながら山を下りていく。エルストである。なんと野性的な姿だろうか。これがサムであれば、彼なら魔法の杖の先端を明るくさせ、たいまつの代わりにしたものであるが、エルストは、火打ち石で起こした火を木の棒に点けることしか手段を取れなかった。
山小屋のあるドラゴンの肉体は大きい。その肉体を下山しきるころには空にきっと朝日が昇っていることだろう。それでもエルストは構わなかった。何日かけてでも、二年前炎に焼かれた王都を目指す心持ちだった。はたから見ればなりふり構わないエルストの姿でも、エルスト本人は、サルバを殺せるという確信に近い妄信を抱いている。今こそ復讐をなすべきだ、と、そう考えているのである。
その足音が途絶えたのは中腹にまで下りてきたころだった。途中、エルストの付近でとつぜん爆音がしたのだ。
エルストはさっと青ざめる。エルストの下山に気づいたサムか、もしくは万が一にもサード・エンダーズか。後者ならば身の危険を感じてならない。このときエルストの、奮い立っていたはずの気持ちはあっという間に〝危険〟に怯える弱小なものへと堕落していった。
だがエルストは恐怖とほんの少し残った好奇心を頼りに、爆音がしたほうへ足を延ばし始める。無造作に、生えるがままに生えた木々の鋭い枝や草を掻き分けながら、音のしたほうへと歩いていく。なるべく足音を立てないようにエルストは気をつけていたがこの闇夜のことだからきっと響いてしまうだろう。暗闇は人間の聴覚を敏感にさせるほか恐怖心も悠々と煽ってくる。
それでもエルストの心では、一歩進むたびに、好奇心が恐怖を強打するように膨れ上がっていくのだった。エルストにも不思議だった。「殺してやる」そんな気持ちも徐々に芽を再生させていた。しかしその思惑は、意外な形で摘み取られてしまうのである。
「あちちちち……あっちー!」
エルストは額を強張らせた。エルストの勘と王都で過ごした記憶による性別を判別するための偏見が間違っていなければ今聞こえたのはおそらく少女の声である。
あたりを黒煙が占領している。たいまつはもはや頼りになどなっていない。なぜなら煙の濃さが強く、また周囲の地面や粗雑に荒れた木の枝ににちらちらと火が舞っているからである。まるで真っ暗な地面に火のついたロウソクが点在しているように見えた。しかし幻想的では全くなく、懐疑的な表情をしているエルストの輪郭がぼんやりと火の色に照らされている。
「参ったな〜……ただの結界魔法だったかな、これ。結界の破り損? ん~、ここじゃなかったのかな……ここだと思ったんだけどなあ、あの〝ありか〟……」
やはり少女の声だ。エルストが思うにあれは独り言である。
エルストの心の中ではいつしか、サード・エンダーズが爆音を起こした犯人であるという可能性は瞬く間に消え去っていた。
「誰?」
エルストはついに少女に尋ねた。
「えっ? 人?」
エルストは、地面に舞う火の上に立ち上がる、赤いマントを羽織った少女の姿を見た。
少女がエルストへと歩み寄っていく。ふたりの距離が近づくにつれ、エルストの目は、少女のあどけなさそうな顔立ちと丸い瞳を映すようになる。
「あ、こんばんは。あなたがこの山に結界魔法を張ってた人ですか?」
少女はエルストに向かってそんなことを言った。
「は? 結界魔法? 山に?」
エルストは訊き返す。途中、煙のせいでむせた。
「え、違うの? じゃあもしかして、あなたのほかにも誰か人間がいるんですか、こんな山に?」
少女はいかにも怪訝そうな表情をした。彼女のそのしぐさはたしかにエルストに見えていた。少女は丸い瞳を細めてエルストの持つたいまつとエルスト自身の顔を見比べている。
「なんのこと? 君はいったい誰なの? 君がさっきの大きな爆発音をさせたんじゃないの?」
押し問答のようだったがエルストには続けざるを得なかった。少女はしばらくのあいだ表情という表情を固まらせ、エルストを直視したまま何かを考えているようにしていた。やがて気を取り直したようにこう語り始める。
「私はベル」
そしてそう名乗るのだった。
「ベル・テン。ちょっと目的があって〝あるもの〟を探してます。それを探すためにここに来ました。お邪魔してまーす!」
「〝あるもの〟って?」
「えーっと、国教の神様エオニオ様が使えたっていう魔法、です。〝最強の魔法〟。誰が相手であっても絶対に……殺せる魔法」
ベルがそう言った直後、火の粉に燃やされた木の枝が音を立てて地に落ちた。
「誰が相手であっても絶対に殺せる魔法?」
エルストの耳には甘い魅力あふれる言葉のように聞こえていた。
「そんな魔法があるの?」
そして、エルストは間髪入れず質問を重ねた。
「あるはずなんです」
少し苛立っているのか、ベルは早口で言った。
「あなたはどうしてこんな山に? あなたこそ……どなたですか?」
ベルは訝しげな、エルストを怪しむような目をエルスト自身へと向ける。
そのときであった。
「コラ〜っ、ベルぅ!」
上空から素っ頓狂な声が聞こえてきたのである。エルストは驚き、二、三歩後退りした。その〝声の主〟は、なんとベルの頭にすっぽりと収まった。いや、ベルの頭が、声の主にすっぽりと収まった。
「ワシを空の上に置いてくなや! 結界の解除魔法は爆発してもーたし、その拍子にワシは遥か上空にスッ飛ばされたにもかかわらずおまえは下に落ちてくし! あ、あとホウキも置いてってんで」
「イタッ」
エルストには何が何だかわからなかった。ひとまず目の前の少女ベルの頭に〝赤いドラゴンの頭をした帽子〟がかぶさり、ついでにベルの右肩へと長いホウキが落ちてきたことだけが、エルストがどうにか理解できる光景であった。
エルストがたいまつを近づけ煙の中で見るかぎり、赤いドラゴンの頭をした帽子は、白い一本ツノがあり、白いキバも口の端からちらついている。ぎょろっとした大きな瞳が特徴なのであるが、その瞳はいたって憤慨しているようだ。
「な、なに〝それ〟」
エルストはたじろぐ。
「まさか……〝加工済みドラゴン〟?」
エルストはまばたきすることなく赤いドラゴンの頭をした帽子を凝視したままだ。
「ん? おいベル、誰かおるで!」
赤いドラゴンの頭をした帽子はエルストの姿を見つけ、そう叫んだ。
「いま私が話してたところなの! アギ、ちょっと黙ってて。爆発のせいで空に吹き飛ばされたアギとホウキを拾いに行かなかったことはあとでちゃんと謝るから」
ベルは片手にホウキを握った。
「おおッ、そーか。謝ってくれるんならエエで、ベル。どーぞどーぞ、あ続けて」
アギと呼ばれた赤いドラゴンの頭をした帽子はそれ以降おとなしくなった。
「その前に……大きな山火事になっちゃう。火を消さなきゃね」
ベルは懐からおもむろに細長い杖のようなものを取り出した。ベルの肘から手首ほどの長さの杖である。エルストは、杖を大きく振りかざすベルの姿をしっかりと目に焼き付ける。ベルの目的は山火事を起こすことではないらしい。
「ロヴェーショ!」
ベルが何やら呪文らしきものを唱えた。
するとベルの杖の先に魔法陣が大きく現れ、杖の前方から水しぶきを噴き出し始めた。水しぶきが地面や枝葉に舞う火を消していく。エルストは呆然と、杖の先に展開している魔法陣を見つめている。
言葉もなかった。サム以外に、久しぶりに見る〝魔法使い〟だ。神業でも目の当たりにしたかのように、エルストの胸の内にはベルに対する、具体的にはベルが握る杖の先に対する畏怖のような感情が湧いていた。エルストの握るたいまつの火も、ベルの魔法によって消されてしまったことになど、エルストは気づいていない。
「よし」
ベルはすべての火が鎮まったことを確認して頷いた。そして杖の先に展開していた魔法陣は消え、かわりに、杖の先端がランプのように光り始めた。エルストはいよいよ目が眩んだ。
「君、魔法が使えるんだね……」
エルストのこの発言には、ベルもまた懐疑的になり、こう言う。
「誰でも魔法は使えてあたりまえでしょ?」
この峡谷世界の人間はみな魔法が使える。ベルはそう言いたかった。
「僕は使えないんだよ」
エルストが語気を強めて言った。
「え?」
ベルは首をかしげた。アギも大げさにまばたきをしている。
「使えない。使えないんだ、魔法。生まれつき。僕はね」
ベルの杖がじっくりとエルストの全身を照らし出す。
「僕はエルスト・エレクトラ・エルオーベルングっていうんだ。ずっとここに住んでる」
エルストがとうとう名乗った。このベルには、名乗ってもよいような気が、エルストにはしていたからである。とはいえ名乗るのは数年ぶりであるため、エルストの心臓は高く鳴っている。手にも汗をかいている。緊張しているのだろう。
「ん〜……エルオーベルング? どこかで聞いた名前だなあ……」
エルストの緊張感など伝わっていないようで、ベルがのんきに悩み始めた。
「どアホっ!」
アギが指摘する。
「二年前、死んだ王家の名前やがな! エルストっちゅーたらたしか第二王子やで!」
「あ! そういえば……たしかに!」
ベルは何度も首を縦に振る。
「んもーっ、手のかかるコ! ホンッマにっ」
「えへへ、ごめんごめん、アギ。でも……王家の……王族がここに、ずっと? 住んでる?」
ベルの表情がだんだん硬くなっていく。
「王都を捨てて?」
あどけなかったベルの眼差しはエルストを責めるものへと変貌した。その瞳はまっすぐにエルストを見つめている。
「二年前の……そうだ、ちょうど今日ですよ。二年前の今日! エルスト様、あの夜王都がどうなったか知ってますか? たくさんの人が死んだってこと知ってます? ねえ。なのにこんなところで結界張ってぬけぬけと生活してるんですか? 王子様だからって? ……王族なら国民を守りなさいよ! いま王都がどうなってるか知ってるんですか!?」
「ちょ、ちょー待てやベルっ。こんなトコでコイツ責めても何にもならへんやろ!」
アギは己の真下にいるベルを諭す。
「だって!」
ベルが目くじらを立てたとき、山の上方から大きな――ちょうどエルストらが立っているところで起きた爆発音よりも、さらに大きな爆発音が響いてきた。
「ま、また」
エルストはうろたえる。山の上方――エルストが〝住んでいた〟付近は、エルストから見ても、やがて赤赤とした炎が立ちのぼっていくのがわかった。なぜ炎が上がっているのか、その理由は不明だが、あそこにはまだサムがいる。サムが危険に晒されていようことは明白だった。
「サム!」
「え? ちょっと……エルスト様! どこ行くんですか!」
枝葉を掻き分けて駆け出したエルストの背中へとベルが制止の声を浴びせた。しかしエルストは立ち止まることなく、まさに闇雲を突き進んでいく。ベルにたいまつの火を消されたことはこのときエルストにとって大いなる損失であった。いくつもの草木のトゲがエルストの体じゅうを引っ掻くのだ。だが上方の炎が唯一エルストの灯台であった。
「エルスト様、待って!」
なんとベルもエルストのあとを追っているらしい。
「もしかしたらサード・エンダーズかもしれない!」
エルストはようやく後ろへ振り向いた。
「君はサード・エンダーズを知ってるの?」
エルストの問いかけにはベルとアギは黙っている。だが、杖の光を宿したベルの眼差しが鋭利に見えたことから、きっとベルと自分の思惑は同じなのではないかとエルストは感じ始めていた。
◇
エルストがベルと出会ったころ、唯一の窓から炎の明かりが射し込む山小屋内にて、けたたましい音とともに壁に打ちつけられた巨体があった。巨体はサムであった。山小屋内は明暗がくっきりと線引きされている。
サムの眉間と鼻筋に黒い筋が走った。苦痛に表情を歪ませているのだ。床に崩れ落ちかけたサムはなんとか踏みとどまり、痰を吐き出しだから目の前の男を睨みつける。
サムを壁に投げつけたのはサムに負けず劣らず体格の大きな男だった。山小屋に突如として現れた侵入者だった。侵入者の、片側だけが夕焼けに照らされたような衣装のもう片側は黒黒たる闇となっている。その闇から這い出た黒影は傍の壁際へと伸びている。どうやら外の炎はそんなにも強烈らしい。
サムは目前の侵入者と野外の炎、両方に板挟みにされた。おまけに先ほどからエルストの姿が見当たらないのである。サムは頭痛をおぼえた。
「エルスト王子はどこだ?」
侵入者である黒衣の大男はサムに尋ねたのだった。
「ここにはいない」
サムの答えは間違ってはいなかった。エルストがここにいないことはかえってサムにとって好都合にも考えられる。
サムは黒衣の大男に殴りかかった。魔法によって黒衣の大男との距離を瞬時に詰め、不意を打ったつもりだった。しかしサムの拳は空振りに終わった。なぜならば、黒衣の大男もまた魔法によってサムのすぐ背後へと移動したからである。
「いないはずはないだろう」
黒衣の大男は述べる。
「あのように頑丈極まりない結界魔法を長年張っていたのは貴様だろう。そうまでして隠したかったものはきっと亡き王国のエルスト王子に違いない」
「ははは。亡き王国。長年、ね」
サムが言うころ、黒衣の大男の右腕から蛇が伸びてきた。その蛇は素早い動きでサムの喉元にまとわりつく。
「貴様が王都を襲撃し、国王陛下や王太子殿下を殺害した月日を忘れず把握していたことに俺はすこぶる感心したぞ、サルバ!」
そのときであった。
ベルの使った魔法によってサムのいる山小屋へとワープしてきたエルストが、ベルとアギを伴ってサムと黒衣の大男の前に現れ、二年ぶりにその名前を耳にしたのは。
エルストの目には、山の中腹における木々の風景ではなく、今は黒衣の大男の腕から伸び出た蛇に捕らわれたサムの姿が映っている。
すぐ近くで燃える野外から射し込む明るい光と、この黒衣の大男、そして襲撃を受けているのであろうサムのすべての光景を見るなり、エルストには、己がすべき行動が半ば確信に近い形で理解できていた。そして何よりエルストを能動的に走らせる決め手になったのが、「サルバ」という嫌な響きであった。エルストは携えていた剣を抜き取り、その切っ先を黒衣の大男サルバに突き刺すことだけを考えて走り出す。
「エルスト様、無理です!」
エルストの背後では、アギをかぶったベルが無謀なエルストに向けて制止の声を飛ばしているが、エルストは構わず、むしろ耳になど入っておらず、サルバを「殺す」ことだけがエルストの身体を支配している思考である。
「エルスト、来るなッ」
サムはかろうじて叫んだ。
「おまえか、エルストは! 王国の、ただひとりの生き残り!」
サルバはサムから蛇を離したかと思えば蛇を剣へと変貌させ、すぐさまエルストに応戦し始める。刺突しようと動くエルストの剣を、サルバは右手に握る剣を用い大きく振り払う。その衝撃でエルストの身体がバランスを崩した。左に足踏みするエルストに、サルバは躊躇せず斬りかかる。だが、エルストが体制の均衡を元どおりに奪い返すまでにそう時間はかからなかった。そしてエルストもまた、サルバの剣を斬り払ったのだった。
しばらくそうした斬り合いが続いた。平静を取り戻したサムがふたたびサルバに殴りかかる。魔法で作り出した鉄甲がサムの武器である。エルストに加勢するサムを見たサルバは突如エルストの背後に回った。サムの首を絞め上げたときと同じであった。だが今度は、サルバの手には剣がある。サムもまた、エルストの立つ場所へと、短い距離ではあるがワープした。
「ぐっ」
サルバの剣が突き刺したのはサムの巨体だった。
「サム!」
己の背後で何が起きたのかを知ったエルストは声を荒げた。胸にサルバの剣が突き刺さり、血を流すサムは、エルストをベルのもとへと投げ飛ばす。
「エルストを連れて逃げろ!」
サムはベルに叫ぶ。
「エルストが死んだら王国は終わる!」
「終わらせるのだ。確実に」
サルバがサムの胸から剣を抜き取る。その拍子にサムは床に倒れた。サルバが狙うのはあくまでエルストである。
山小屋の外で大きな爆発音がした。山小屋に炎が移ったらしく、壁や柱から燃え落ちていく。サルバがエルストを刺殺するべく、その眼前にワープしたのだが――「ムーブ」と唱えながらエルストを庇ったのは、またしてもサムだった。エルストは息を呑む。目の前に、サムの大きな背中が広がっている。その背中の、ちょうど右胸からはぬめりけのある血が噴き出している。
エルストの腕を誰かが掴んだ。ベルだった。ベルはサムの意を汲み取り、エルストをここまで運んできたときと同じように、しかし次はここから逃げるためのワープ魔法を短く唱える。
「いやだサム!」
エルストが渾身の力を込めてサムを呼んだ。サムからの返答はなかった。ベルの魔法によってワープする間際、エルストが見たのは――二年前この山で見た王都の燃える光景ではなく、それよりもさらに接近し、そして遠くなっていく炎であった。
ともに運ばれてきたのであろう小さな火の粉が、エルストの胸に当たった。
◇
ベルがワープ魔法を使い、エルストを連れてきたのは小高い丘の上にある穴ぐらだった。がさつく岩肌が冷たい。おまけに暗い。停滞した空気が乾燥している。エルストは歯を食いしばり、弓矢を携え剣を握ったまま、そう深くない穴ぐらから外へと這い出る。
夜風が涼しかった。思えば先ほどまでエルストをまとっていたのは炎のあたたかさである。今は星空がささやかに地上を照らしているだけだ。やはり、とても暗い。
ところがエルストの目にとあるおかしな光が映った。それはニワトリの目くらい小さな小さな光であった。地上にて不規則に点滅している。あれは火だ。
「サム! また僕だけ! どうして僕だけ逃げなくっちゃいけないんだよ!」
エルストは駆け出していた。あの火のほうにサムがいることを確信し、居ても立っても居られなくなった。
「あッ! ちょ、アイツまた死にに行きよるで!」
だがエルストはまたしてもアギに急かされたベルに引きとめられてしまった。ベルはエルストの左腕を掴んだまま頑なに動かない。
「離せよ!」
エルストがベルに向かって怒鳴った。その声は丘の中に反響した。
「あなた魔法が使えないんでしょ。そんなのでサルバを殺せるわけないじゃないですか! さっきだってあなたはサムって人に〝逃して〟もらったんです!」
ベルの眼差しは鋭いが、エルストの目には映っていない。
「言っておきますが無駄ですよ。なぜならサルバは〝殺せない〟!」
ベルがもういちど強く言った。その直後、エルストの腕が力なく垂れる。
「……殺せない?」
エルストが鼻息を荒くしながら訊き返した。
「サルバは……」
ベルが言葉を続けるなか、ようやくエルストがベルと向き合った。
「サルバは私、あなたみたいに、もう何度だって殺そうとしてきました。魔法を使って。だけどサルバは死なないんです。いくら殺したって、たとえばその弓矢でだって剣でだって殺せないんです。あいつはありえない! 人間が死なないって、私そんなの、認めたくない」
「君はいったい何者なんだ?」
エルストが尋ねた。するとベルは困惑した。名前ならば先ほど名乗ったはずであるとベルは考える。だがエルストは、そうではなく、ベルの持つ〝目的〟を尋ねているような気がベルにはしていた。アギは黙っている。
「魔法学園の生徒でした……二年前までは。だけど二年前の今日、両親がサード・エンダーズに殺されてからは……」
ベルはここで言い淀んだが、次に言った言葉は、やけに、はっきりとした口ぶりだった。
「私、サード・エンダーズのこと、絶対に許さない。両親の仇を討ってやりたい。ううん、討ってみせる。そのために国教の神様エオニオ様が使えたっていう、誰が相手でも絶対に殺せる〝最強の魔法〟を見つけて……私がサード・エンダーズを潰すんです。必ず」
ベルの手がエルストの腕から離れた。エルストはもう、あの小さな火へと駆け出そうとすることはなかった。遠くで虫が鳴いている。夜風に揺れる草木の音色も聞こえてきた。どうやらここは緑が豊かであるらしい。
「……〝魔力は先祖からの徳である。魔法は隣人からの愛である。自己は秘め、愛を回すことこそが、人間の幸福を形成する……すなわち自己愛を捨てよ。隣人を愛せよ。〟……そうじゃなかった?」
エルストが訊いた。これは〝最強の魔法〟を使ったというエオニオ自身の教えだ。するとベルは、髪を風にそよがせながら、
「クソくらえです、そんなの」
そう一蹴した。その言葉でエルストは肩の荷が下りた気がした。なぜかはわからないが、ベルのことは、信じられる思いであった。
エルストは改めて小さな火のほうを向く。火はだんだん範囲を広げている。あの様子では山一帯が焼失するだろう。サムもまた――助からないであろう。
エルストはこぶしを握る。血が滲むほどに下唇を強く噛み締めた。水色の瞳には火の明かりが灯っているが、その胸の内は、二年前の今日と同じである現状を、ベルとアギという存在が近くにいるというだけで払拭しようとする気持ちでいっぱいである。そのなかでたったひとつ同じなのは、サルバへの、尽きることのない復讐心である。
「ベル。君は魔法が使えるんだよね」
エルストが問う。
「これは頼みだ。ベル、僕の宮廷魔法使いになってくれないか?」
「宮廷……魔法使い?」
ベルが首をかしげた。
「宮廷勤めにはならないけどさ」
エルストが言う。
「僕のための魔法使いになってよ。僕と一緒に〝最強の魔法〟を探そう。そしてこの手で……僕にも、サード・エンダーズを潰させてくれ」
ベルは思いきり両眉を寄せた。返事をしようとはしない。そのかわり、頭上のアギが言う。
「お駄賃がっぽりもらえるんやろな? タダ働きは好かへんで」
「あげる。あげるよ。サード・エンダーズを潰したら、そのあとは僕、一生ベルの言うとおりに生きてあげる」
「ハァ? 魔法使えへん無謀王子の人生なんざ要るかいな!」
「僕は国王になる。国王の人生だと思えば高くつくだろ」
エルストは胸に手を当てた。
「どうせ両親も兄上もいないんだ……僕しかいない」
「王国は滅んだんでしょ?」
ベルが言った。
「まだ終わっちゃいない」
エルストは強く宣言する。
「終わらせるもんか。絶対に!」
「だけど……」
ベルは表情を曇らせた。
「でも、そういうことでしょ? 魔法使いだって……〝寿命〟を削りながら魔法を使ってるんだから。僕も君に何かを与えなくっちゃ公平なんかじゃない。僕が与えられるのは、自分の未来とか、そういった時間だけしかないんだ。僕は魔法を使えないから」
エルストがそう言うと、ベルはしばし押し黙ったのち、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。私、エルスト様の宮廷魔法使いになります。一緒に……一緒にサード・エンダーズを潰しましょう」
エルストとベルはどちらからともなくこぶしを突き合わせた。エルストはこの日、ベルとともに、両親と兄、それから――身を呈して自分を守ってくれたサムの仇を討つことを心に誓った。
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