「嘘を見破るのが一番簡単で一番難しい人、か」
火曜日。暖房の効いたエレベーターは、淡々とした音声で帰宅した私を出迎えた。扉が閉じていく間、昨日の言葉を以前も聞いたことを思い出す。
中学時代、このエレベーター内での話だ。当時は今から思えば少々恥ずかしい、小難しいことを問い掛け合うのが二人の間の流行りだった。問題の答えは、はぐらかしたまま教えてくれなかった。
大丈夫私達の友情は、と自分を励ます言葉が途切れる。友情だなんて使い古された言葉の軽さ、安っぽさに、思わずその場に座り込んだ。
何かがのしかかってくる感覚が私を襲う。彼女のいない十五秒間は、こんなに長かっただろうか。今までも何度もあったというのに。
早くエレベーターから出たい。しかしこのまま中に居たい気もする。ここなら生温い空気も、優しいしょこらも、何故しょこらが急にあんなことを言い出したのかも、全て曖昧にして閉じ籠めておけるのだ。
八階です、と告げた無感情な女性の声に、私は思わず昨日の朝は押されていた「一」の丸いボタンを押した。
ドアが再び閉じていく。
手が氷に触れたかのように冷たい。昨日朝彼女は、これをどんな気分で押したのだろう。自然と触れた指を反対の手が包み込んだ。降下を始める小さな衝撃が私の身を震わせた。どこまでも落ちていくような感覚に陥る。
そう、このまま、このまま――。
冷たい、少し高めのラの電子音が、思考を遮った。
一階です。ドアが真ん中から開いていく。まるで私を早く追い出したいかのようだった。
何の変哲も無い、ただの電子音だというのに、それは私が信じていたかったものを否定するようにすら聞こえた。
外に出ると、昨日とは違う冷たい冬の風が心を突き刺す。私は暖かなエレベーターから、春の来ない二月の終わりの中へ放り出された。
自転車小屋の近くに設置された、まだ何も植えられていない花壇の淵に座り込む。鞄のストラップの金色は、光を反射しなかった。
……しょこらと私の間に隙間風が吹いていることは、分かりきったことだった。この町で最初にできた友達だとはいえ、週に二回、約十五秒間だけの交流では、当然、距離も離れる。そもそも私達の間にはお互い踏み込み過ぎない妙な距離感があった。
高校に入ってからも低空飛行で続いていた気まずい関係を、彼女は大切なストラップを取ることで、終わらそうとしただけだったのだろう。残り一年、この状態で朝を過ごすことが、嫌になったのだ。遠回りに拒絶する言葉や今までの態度は、しょこらなりの優しさだった。
『この世で一番嘘を見破るのが簡単な、でも本当に見破ろうとするのは難しい人が誰か、知ってる?』
頭の中でしょこらの声が響く。本当は答えが「自分」であることなど分かっていたはずだった。当然、自分の嘘は自分が一番よく知っている。ただ、それから目をそらさずに立ち向かうのは多大な勇気がいる。中学生らしい、安っぽい小説で出てきそうな解答だ。しかしいつからだろう、私は自分に嘘をついてきた。私達の間に壁なんてものは無い。違和を感じながら、ずっと誤魔化してきた。まだ素直だった中学生の私が問題と向き合えと言っても、決して振り向きはしなかった。
気がついてしまえば、もう自分への言い逃れなどできなかった。
マンション下特有の強風が、体の芯まで私を冷やしていく。二人の間を守ってくれていたエレベーターからは、既に出てしまった。
来年には進路も決まり、離れ離れになるに違いは無かった。私達の間にある溝はもう埋まらないのだ。いっそ私から彼女を拒絶していれば、とすら考える。足を前に投げ出し、細かい傷のついたストラップの金属部分をぼんやりと見つめる。そうだ、どちらにしろ、もう――。
その時、不意に夕日が雲の間から差し込んだ。
燃えるような、それでいてどこか寂しげな表情をしたオレンジ色の光が、私の手元の鞄を照らし出した。取り付けられたストラップの金属が、沈んでいく太陽の光の最後の一欠片を反射して金色に輝く。
中学時代の、痛々しい、しかしこの同じ空の下で確かに存在した会話が蘇る。しょこらが目を細めたときのまつげの長さや、謙虚でありながらいたずらっ子のように上げられる口端の淡い桜色を思い出す。
嘘つき、と言葉が自分の口から漏れる。嘘つき、嘘つき、嘘つきだ。
「また、自分に嘘をついてる」
私も、そしてしょこらも。頭の中で中学生の私が叫ぶ。本当に自分は諦めてもいいと思っているのか? もう、何も出来ないのか?
私の中で、何かが弾けた気がした。
立ちあがり、エントランスホールを駆け抜ける。降りてきたエレベーター内の鏡には、怒ったような、それでいて泣き出しそうな、変な顔をした私が立っていた。鏡の中の自分に向かって、問いかける。
……私は彼女のために、何ができる?
私は、何がしたい?
朝、私は昨日から一転して暖かな風が届くホールでエレベーターを待っていた。左腕の時計を確認すると、六時十二分。革靴のコンクリートを叩く音が徐々に近づく。念のため六時から待機していたものの、予想通りだ。
しょこらが宣言通り早めに家を出るとしたら時間はこの辺だろうと考えた。これくらい親友なのだから分かる。
「……何をしてるの」
冷たく、呆れたような声が響いた。朝の光が、しょこらを照らす。
「おはよう、しょこら」
私は十三階のエレベーターホールで、笑顔でそれに応えた。
下唇を噛み厳しさを増した表情で、しょこらが舞台を始めるかのように大きく息を吸う。そして、瞳をこちらへと向けた。
「分かった、はっきり言う。あたしは、もうこのぎくしゃくした関係を続けることに耐えられない。……そっちだって同じでしょう?」
言葉が私の心臓に突き刺さる心地がした。しょこらが目を閉じ、何かを思い出すように口を開く。声が、わずかに震えている。
「あのね、演劇も、一人称の『あたし』も、呼び名の『しょこら』も、少しでも他の人と仲良くなれるようにって思ったから始めたの。チョコレートは、根暗なあたしも柔らかく包んでくれるもの」
でも上手に「明るい自分」を演じるなんて無理だった。チョコレートはあたしには甘すぎた。コーヒーくらいが、丁度よかったんだ。あたし自身も、他人との距離も。そんな言葉に、私はスカートのポケットの中に入れたものをきつく握り締める。
「ある女の子に始めて会った時も、あたしは失敗してしまった。必死に持っていたチョコレートで誤魔化したけれど、もう駄目だと思った」
私達の話だ、と私は顔を上げた。一緒にエレベーターに乗って、学校に通って、仲良くなれた気がした。でもずっとぎこちなさを感じていた。そう語るしょこらに、私も、と震える声で同意する。
しょこらの肩から鞄がずり落ち、大きな音を立てた。感情が零れ落ちていくのを食い止めるかのように、しょこらは声を上げる。
「毎朝のエレベーターが怖かった。八階を通り過ぎてそのままどこまでも落ちてしまうんじゃないかと思った。チョコレートだって溶けてなくなってしまう。瞬間的な甘さなんて嘘でしかない。だから……」
自分でこの関係を終わらせたら、諦めもつくんじゃないかと思って。言い訳のように続けられていた台詞の中に一瞬紛れ込んだ言葉に、私は息を呑んだ。やはり同じだったのだ。
私もしょこらも、今の状況を変えたくて、でもうまくいかなくて、結局自分を押さえ込むしかなかった。しょこらは最後の一突きと言わんばかりに言葉を私に向ける。
「何でよ、せっかくあたしが終わらせたのにっ……」
私は封を切っておいた小さなチョコレートをポケットから出して、しょこらの口に押し込んだ。眼鏡の向こうの瞼が大きく見開かれる。私と目が合い、俯いた。チョコレートの香りがホールに漂い始める。
そう、これは私のわがままだ。悪役を買ってでてくれたしょこらを裏切る行為だ。それでも、と自分にも聞こえない程の小さな声で呟く。
私はただ、この町で一番の友人の傍にもう少し居たいだけなのだ。
また自分をごまかすことになるかもしれない、壁は無くならないかもしれない。人がそんなに簡単には変われないことも十分知っている。
でも、もう少しだけわがままになろう。十五秒間の中で喧嘩をし、十五秒間の中で距離を縮めよう。
そして、前に進むんだ。
私は大きく息を吸うと、しょこらには到底及ばないひび割れた声で、中学時代の恥ずかしくも愛おしい昔の私を少しだけ出した。
「チョコレート、味はどう?」
しょこらのうつむいていた頭が勢いよく上がった。二つにゆるく結ばれた髪の毛が乱れ、赤くなった頬と少し充血した瞳が私を見つめる。それはどこか睨みつけているようで、すねているような視線だった。演技をしている風にはとても見えなかった。鞄で光る金属のストラップを見つめながら、右手の人差し指を立て、呟くように言ってみる。
「『この世で一番嘘を見破るのが簡単な、でも本当にそうするのは難しい人が誰か、知ってる?』」
しょこらの顔がさらに赤くなる。作戦成功、と私は口元を上げた。
「甘いよ」
しょこらの本気で怒った、しかし泣きそうな声がホール内に響く。月曜の朝聞いた声とは違う、地の底を這うようなアルトだった。しょこらがはっとした表情でこちらを見る。しばらく口を尖らせていたが、やがてぎこちなく、でも確かに微笑んだ。二人を春の風が包み込む。
満足した私は制服のポケットからもう一つ、チョコレートを取り出し、自分の口に含んだ。
春の暖かさで少し溶けたチョコレートは少し苦くて、甘かった。
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