ヨンが物心ついた頃にはもう神は存在していた。
神は太った男の姿をしていた。国主と呼ばれるその男の名を軽々しく口にしてはならなかった。真実、慈愛、美、そして正義、力。それら全てを体現する存在。民衆をあまねく照らす希望の光。それが国主。学校ではそう教えられた。
全く違う考え方をする者たちもいて、その数は少なくはなかった。彼らは常に息を殺して生活していた。そして時折、陰で声を潜めて「下衆野郎」「クズ」「狂人」と国主のことを罵った。褒賞目当てにそういう声を拾って回る密告者もまた市井の至る所に潜み、耳を澄ませていた。人々は互いの沈黙さえも信用しなかった。
密告された者は、秘密警察によって連れて行かれた。その者の家の周囲はしんと静まり返った。戻ってくる者はまずいなかった。
子供が学校で習うのは国主の偉大な功績と、その口から出た言葉の数々。国主語録をいかに正確に早く暗記し、よどみなく暗唱できるか、また正しくその意味を理解しているか。それが評価の上で最も重視された。国語、スポーツなど他の教科は、あくまで国主語録に付随するものでしかなかった。
よい成績をとることは生きるために重要だった。優秀な子供たちは選抜され、将来を約束された。それはより近い立場から国主に奉仕できる特権を得るということである。つまり役人、秘密警察、警護隊というエリートの仕事に就けるということだ。
国主語録の成績は並だったが、スポーツの成績がずば抜けて良かったヨンは、警護隊への入隊を許可された。
エリートの仕事に就けないその他大勢は、肉体労働者となる。仕事は過酷で、危険を伴い、常に監視されていた。報酬はため息交じりの笑いが漏れるほどにも少なかった。懈怠行為には厳しいペナルティが課された。それには死の懲罰も含まれていた。
肉体労働者は、常に飢えと恐怖に苛まれていた。彼らは目の前の一日を無事に生き抜くためだけに力と知恵を絞った。
毎月、第2日曜日の午後、人々は街外れの空き地に集まる。そこで恒例行事である公開処刑が行われるからだ。見物は義務とされているが、厳密なチェックはないので、ヨンのようにあまり行かない者もいる。ヨンは処刑を見るのが嫌いだった。
死体は見慣れている。外を歩けば3日に1度は行き倒れ死体を目にする。死体はゴミだ。でも生きている人間はゴミではない。浪費や無駄をなくせ、と当局はいつも口うるさく言うではないか。処刑場で生きた人間を死体にして埋めるのは浪費、無駄ではないのか。だが嫌いだからといって、見物を毎回さぼっているとさすがに目をつけられてしまう。密告されないとも限らない。
その日、ヨンは3カ月ぶりに群衆の中にいた。前日、警護隊への正式な入隊辞令を受け取って気分が高揚していた。それで久々に義務を果たす気分になった。
午前中に自分たちが掘らされた1辺5メートル、深さ3メートルほどの正方形の深い穴に向かって、俯いて並ぶ人間たちの長い列。穴の縁に拳銃を持って立つ処刑人とその助手の二人は淡々と流れ作業をこなしている。列の先頭になった禿げ頭の老人が数メートルの距離を歩み出て穴の縁に立つ。助手がその両肩を押さえ、穴の縁に屈ませる。処刑人が老人の後頭部に拳銃を押し付ける。パンという銃声とともに老人は穴に落ちる。助手が「次」と短く低い声を発する。パーカーにジーンズ姿の若い男が穴の縁に立つ。震えている。助手に肩を押さえられる前に、自ら崩れるようにひざまずく。パン。落ちる。次は白い服を着た中年の女性。肩を押さえられてびくりと身じろぎする。パン。落ちる。
列に並んでいる人間は30人ほど。1人の処刑に要する時間は10秒そこそこだ。傍らで小銃を持って監視に立つ人間は4人しかいない。全員が一斉に四方へと駆けだせば、何人かは逃げられないこともないだろう。しかし逃げおおせたところで何処へも行く先はない。それに誰の感情も思考も麻痺しているのだった。彼らは俯いた顔を強張らせ、予防注射の列に並ぶ児童のように、のろのろと重い足取りで前に進み、パンという乾いた音と共に暗い穴の中に消えて行く。
警護隊に入隊して2年が経った16歳の誕生日、ヨンは特別休暇をもらったが何もすることがなかった。5人1部屋の、監獄のように狭い寮を出て、久しぶりに自宅に帰ってみた。誰も住んでいない家は荒れ果て、廃屋寸前の状態になっていた。警護隊の寮から食料を持ち出すことは禁じられていたが、干し芋を二切れ隠して持ってきた。ナナにそれを渡そうと隣家を訪ねてみたが、誰もいなかった。戸口の前に干し芋を置き、それを枯葉の下に隠した。
自宅に食べるものは無かった。朝から何も食べていなかったヨンは、近くの川のほとりで雑草を摘み、根を掘り出し、蛙を捕まえて家に持ち帰り、竈で煮て食べた。味はともかく、食べられなくはない。民衆への食料配給はもう1年以上も途絶え、再開する気配もない。草ばかり食べていた父は、半年前に家の前の路上で倒れて死んだ。知らせを受けて家に帰り、骨と皮だけになっていた父の遺体を家の裏庭に穴を掘って埋葬した。ナナが手伝ってくれた。
昼過ぎに家の外に出たとき、のろのろと空き地の方へ歩く人々の姿を見て、ヨンはその日が第2日曜日だったと気がついた。いつもならそのまま帰るが、その日は何となく人の流れに乗った。そのまま街外れの広場まで行く。
風は少し肌寒かったが良く晴れていた。うららかな日差しの下、パン、という音が間欠的に聞こえてくる。
一列に並ばされている人々が見えた。その列の真ん中あたりに見知った顔があったのでヨンは驚いた。ナナの父親だった。立ち尽くすヨンの前で人々の列はだんだん短くなり、やがてナナの父親が列の先頭になった。丁度そこで処刑人の拳銃の弾倉が空になった。うなだれていたナナの父親が顔を上げ、空を見上げた。ヨンもつられて見上げた。青空にぽかりと一つ丸い雲が浮かんでいた。弾倉の交換が終わり、助手が「次」と言うのが聞こえた。ヨンはそこで踵を返した。背後でパンという乾いた音がした。
ナナは同い年の幼馴染で親友だった。他にも遊び友達はいるにはいたが、心を許せる相手はナナ以外にはいなかった。大人たちがそうであるように、子供同士の間にも常に腹の探り合いや疑心暗鬼があった。密告は子供たちの間でも横行していた。当局は密告を奨励しており、故意の嘘でない限り、内容が結果的に間違っていたとしても報奨金が支払われないだけで、密告者は罰せられなかった。だから子供たちは喧嘩に敗けた腹いせ、つまらない嫉妬、やっかみ、単にいけ好かない、となどという些細な理由で、簡単にクラスメートや友人を密告した。密告の内容も、誰それが国主の悪口を言ったのを聞きました、という単純なものから、自分のお父さんが秘密の集会に出ていると、誰それから聞きました、などという、相手の家族全員を秘密警察に逮捕させるようなものまで様々だった。自分の密告で、相手の一家が全員処刑された、と自慢げに語っていた少女は、しばらくして自分が同じ憂き目を見ることになった。
そんな殺伐とした世界の中で、ナナの家はヨンにとっての格好の避難場所だった。無口な父といる自宅よりも居心地がよかった。ナナの父親は教師だったが、決して国主語録の話はしなかった。その代わり、穏やかな口調で自然科学の様々な法則について教えてくれた。それは万有引力の話だったり、ケプラーの法則、質量保存の法則、ビッグバンの話だったりした。そんな父親の影響か、ナナは博識で、ヨンの質問には何でも答えてくれたが、学校の成績はヨンよりずっと下だった。最重要科目、即ち国主語録がまるで駄目だったからだ。
ヨンもナナも幼い頃に母を病気で亡くし、父子家庭で育った。ナナとヨンは互いの家をよく行き来し、互いの父親もまた、それぞれの息子の親友を、我が子のように遇した。
ナナの父が処刑された日の夜、ヨンの家の扉がそっとノックされた。ノックのリズムでナナだと分かりすぐ開けた。麻袋を担いだナナがそこに立っていた。肉体労働者の彼は、ぼろぼろのつぎだらけの服を着ていた。ヨンは招き入れた。
「いつ帰ってきた?」ナナは言った。いつもの落ち着いた声だった。
「今朝だ。休暇をもらった。明日には寮に帰る。それよりもお前……」
「親父のことだろ」
「ああ」
「生徒の誰かに密告されたんだ。学校で、国主語録には誤りや矛盾がいくつもある、と密かに教えていたらしい」
「そうか……」
「だいぶ前からだったらしい。今まで捕まらなかったのが逆に不思議なくらいだよ。一人息子の俺も当然やばい。たぶん明日には秘密警察に連れて行かれる。殺されなければ御の字。よくて強制収容所送りだろう」
「今夜のうちに逃げられないのか」
「逃げるって、どこにだ?」
「……」
ヨンは言葉が見つからなかった。ナナは静かに続けた。
「うちにあるものはどうせ全部没収だ。だからお前にやるよ。いらないなら捨ててくれ」
そういってナナは麻袋をどさりと床に置いた。中には錆びた鍋がひとつ、穴の開いた麻の手袋が2組、薪が2束、干しイチジクが1個、ジャガイモが2個、ヨンがナナの家の戸口に置いた干し芋2切れ、それに本が3冊あった。
「これが俺の全財産だよ」
自嘲の笑みを浮かべ、ナナは言った。
「食い物は持って行けよ。飢え死にするぞ」
「俺はどうせ死ぬ。だからお前が食え」
ヨンは深い息を吐いて、ナナの目をじっと見つめた。ナナの目は澄んでいた。
「本は見つかるとやばいからどこかに隠しておけ。一つは天文学の本、あとは鉱物図鑑と聖書だ」
「やっぱり食い物は……」
「いらんと言っただろ。お前が食え。食って生き抜け。お前にはやるべきことがある」
翌日の朝、隣のナナの家の戸が激しく叩かれる音でヨンは目が覚めた。戸の隙間から覗き見ると、ナナが家の出口から出てくるところだった。秘密警察の制服を着た男が4名、そこに立っていた。一人が書類を示し読み上げた。国家反逆罪の共犯容疑で逮捕する、という声が聞こえた。ナナがこちらの戸口に背を向けたまま、気づかれないように手を左右に小さく振った。
時が過ぎた。ヨンは警護隊の技能大会で7回優勝して25歳で最年少の警護隊長になり、半年前にはクーデターを直前に未遂で防いだ。その功績で28歳にして初めて国主より表彰メダルの栄誉を授けられることになった。
市街地を見下ろす丘に聳え立つ宮殿の、大広間から続く大理石の廊下に敷かれた赤絨毯の上を歩く。向かうその先に国主の執務室がある。ヨンは自分の身体が小刻みに震えているのを感じた。息を吸い、呼吸を止める。それからゆっくりと時間をかけて息を吐いてゆく。震えがおさまった。
先を行く2人の将官の足が、突き当りの金色に輝くドアの前で止まった。将官の1人がドアを慎重にノックする。
「入れ」声が聞こえた。子供のような甲高い声だった。
将官はドアを開けた。ヨンの自宅の10倍はあろうかという広い部屋。何十人もの全裸の女が絡まり合うさまが描かれた天井の壁画と、そこから下がる絢爛豪華なシャンデリアがヨンの目に入った。部屋の中央には金色のテーブルがあり、それを2台の大きな黒い皮張りのソファーが挟んでいる。奥側のソファーに国主が両腕を肘掛けに乗せて座っていた。写真で見たことはあるが、本人を見るのは初めてだった。写真は修整されているのだと一目で分かった。目の前にいるのは極度に肥満した男だった。父親の前国主も太っていたが、それ以上の巨体だ。弛んだ頬、3重顎を右手で撫でながら細めた目でこちらを見ている。
国主が人前に姿を現わさないのは暗殺を恐れているからだと聞いている。確かにそれもあるだろう。だが本当の理由は、この醜い姿を人前に晒したくないからではないかと思った。
「国主様、ヨンでございます」
将官の一人が緊張した声で言う。
「座れ」
ヨンは一礼してソファーに座った。自分をここに連れてきた将官2人は立ったままだ。
「語録第3章、第2項冒頭を言ってみろ」
「朕は意志の力によって天に自らを押し上げた。見下ろすと歓喜する民衆が手を振っているのが見えた」
国主はヨンの顔をじっと見た。眉根に皺が寄った。
「天に自らを、ではない。自らを天に、だ」
「はい、申し訳ありません。閣下」
「ふん。まあいい。技能大会では何度か優勝しているようだな」
「はい、閣下」
「スポーツが得意か?」
「はい、得意であります。閣下」
「朕はスポーツ嫌いでな。スポーツは人間を愚かにする」
「はい、閣下」
「親はいるのか?」
「はい、おりません、閣下」
「結婚は?」
「はい、しておりません。閣下」
「お前が結婚して子供が生まれたとして、朕がその子を母親の目の前で殺せと言ったらどうする?」
「はい、仰せの通りにいたします。閣下」
「朕が、お前に今この場で死ねと言ったら?」
「はい、仰せの通りにいたします。閣下」
国主はじっとヨンの顔を見つめた。国主の瞳は黄味がかった薄茶色をしていた。蛇の目、とヨンは思った。
「顔が気に入らんな。嘘を吐いている顔だ」
「嘘は吐いておりません、閣下」
「朕の言葉を否定するのか?」
「いえ……」
ヨンは言葉に詰まった。予想していないやりとりだった。将官から聞かされていたのは、国主様と直接相対できる栄誉は一世一代のものであること。くれぐれも粗相のないように気をつけること。失敗は表彰の栄誉を帳消しにするだけでなく、即、破滅へとつながること。過去に、手が震えて、国主から授与された名誉のメダルを取り落し、その場で国主の手によって処刑された者がいたこと。
将官は付け加えた。
「国主様は気まぐれなお方だ。何をおっしゃるか全く予想ができない。とにかく何を言われても国主様のお言葉を心から肯定し『はい、閣下』と答えろ。余計なことは決して口にするな」と。
しまった、と思ったが遅かった。
「朕の言葉を間違え、否定する人間はいらん」
背後に立っていた将官が息を飲む気配がした。
国主は重い体をゆすってソファーから立ち上がり、執務机の引き出しを開け、緩慢な動作で拳銃を取り出した。再びソファーに座り、向かいに座っているヨンに銃口を向けた。
「祈りを唱えよ」
ヨンは突然悟った。お前にはやるべきことがある、とナナは言った。それをずっと考えていた。暗い空を覆った厚い雲が瞬時に消え、見渡す限りの晴天が現れた。そう、何年もの間、自分はこの瞬間のために生きてきた。
「はい、嘘をついておりました、閣下」
ヨンは言葉と同時に身を躍らせた。国主の太い手首を掴んで捻り、一瞬で拳銃を奪った。目を見開いた国主の口に銃口を突っ込み引き金に指をかける。叫び声を上げ両脇から飛びかかってくる2人の手が自分に触れる一瞬前にパン、という音を聞いた。
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