一の三
馨吾の父は正義という。御年七十五の老人ではあるが、一切腰の曲がっていないのと、この時代に七十過ぎというのが希であるから酷く誇りに思っている。越智家は不動産であるから大層な財産の持ち主である。なんでも先代の越智が商社の経営に失敗って不動産に切り替えたらしくそれで見事成功して、その後別会社を立てて金融を始めたからこんな有福になったそうだ。お蔭で馨吾の暮らしは楽である。
親爺には徳治という兄がいる。若い頃に二人で渡米した経験があるらしく、英語が達者で今はイタリアで妻と暮らしている。英語と仏語が話せる有能な人で、伊語を学ぶ次いでに服飾の職に就いて自営業を可試ているらしい。馨吾は一度だけこの伯父の写真を見たことがある。存外親爺と違って細い体躯で、写真とて綺麗な肌だとわかる男であった。
馨吾は親爺が厭いである。第一思考が古風である。続いて自慢癖がどうにも気に喰わない。なにごとにも熱を持って遣るのが一番好いというのが口癖である。馨吾が厭いなのはこの熱という言葉である。
馨吾は金の工面の次いでに親爺と話をした。越智家の中で金を貸して呉れるのは嫂の智代子だけだから元より用はなかったのだが、その嫂の元へ向かおうとすると偶然親爺が出てきた。親爺曰く、やっぱり熱を持って何かしろと云うのである。──
「熱というのは、つまりは好奇心てすか」
と馨吾は親爺に訊ねた。親爺は否、と云った。
「そんな下らないものじゃない」
好奇心が下らんもんですかと、馨吾は反論の意思を得たがそれよりも先に親爺の意見が通って了った。
「熱というのは元来誰でも持っているものだ」
「だから好奇心と一緒でしょう。お父さんは好奇心というものを持ち合わせておらんのですか」
「まあ待て」
親爺は巻烟草を灰皿に押し付けた。
「第一人は好奇心だけで生活を営む訣ではあるまい。遣ろうと思うことが肝要だろう。それを熱というのだ」
「ではその熱は決意とも云えましょう」
「少し違うな」
その決意とは、先日村上に云った信念と似ている。しかし親爺の云う熱はそれとは異なるらしいからよく解らない。
「何が、どう違うんです」
「決意は自分で意識して行うものだろう」
「ははあ」
「微妙かな」
「いえどうぞ」
親爺は巻烟草を吸い出した。
「熱というのはだな。おれの見解だと無意識に発動するものだ。それが充分なら人は成功するというのが定石だ」
「絶対ですか」
「そうだ。余程馬鹿でない限りは」
「じゃ僕には備わっていないようですが」 「そんなことはない。幾らお前だって熱はある筈だ」
幾らお前だって、という親爺の咄嗟に出た言葉を聞いて、馨吾は更にこの老人に対して嫌悪感を示した。
「そう信じ込まれましても。変な宗教じゃあるまいし。じゃ一体その熱はどういうときに感ずることが出来るんです」
「こう何か、大きなことをするときだろう」
「だから僕はないのですな」
「そうだそれだ。お前が一向に職に就かないから」
「お父さんは職に就いたから熱のお蔭で成功したんですか」
「それは厭味だ」
「厭味でも実際そうでしょう」
「じゃあおれも訊くが」
親爺はまた巻烟草を灰皿に押し付けた。
「お前はどうしてそんな頑なに職に就こうとしないんだ。いつまでも遊び呆ける訣にも不可んだろうに」
「ええそうですか」
「仂く気が完くないのか」
「ええまあ。僕は社会っていう窮屈な檻に閉じ込められたくはないのでね」
親爺は、馨吾の意外な回答に驚いて、それでちょっと黙って、
「それじゃ親不孝だ」
「そんなもんですか」馨吾は旋毛を掻いた。
「親不孝以外に何か思い当たる節があるのか」
「こうっと、先ずないでしょう。立派な親不孝でしょうな」
「じゃあ大人しく職に就かないか。職に就けば仕送りだって殖やす。就かなくてもおれは肉親として金を遣らなくっちゃ不可ないから随分と癪なんだ。そうすれば両方得だろう。お前は職に就くことで仕合せだ。おれは息子が職に就くから死んでも心残りがない。婚約しろとは云わないさ。就いたってそれ以外はどうせ毎日寐るだけなのだろうから」
「俄然遣る気にもなれませんな。どの為事も僕には些っとも性に合わなくって」
「性に合うか、合わないかなんて、遣ってみなきゃ解らんもんだろう」
「そうでしょうか。僕はやろうと思っても──こう間違いなく合わないという、変な気が起こるんです」
「それは病気だ」
「病気でしょうね」
「病気じゃなけりゃただの口実だ」
「口実でしょうな。でも口実でも何だって遣りたくない職はお父さんだって厭でしょう。じき厭きます」
「じゃあ何か、こう発起して遣ることは一つもないのか」
「水彩ぐらいでしょうか」
親爺は巻烟草を吸おうと口元に運んでいったのだが、馨吾の応答を聞くと急に止まって了った。馨吾は親爺の大いに驚いた顔を初めて見た。
「じゃ水彩でもなんでも好い。金になることをしなさい」
「ははあ金になることですか」
「そうだ。金になることをすればお前にだって熱が生じるだろう」
それで話は終わった。馨吾はつい工面の話をしておくのを忘れた。親爺から借りなくもと、尠くとも宅に帰った理由だけは話しておきたかった。しかし過ぎて了っては仕方がない。親爺から喚ばれて室に這入るのは構わないが此方から入室を願い出ることだけば抵抗があった。
親爺との話が終わって、一階に降りると嫂が居た。
「春己たちは? 今日は土曜日でしょう」
「土曜日ならあの子たちは学校ですよ」
「そうだったかな」
「それで? 今日は一体どういう了見でいらしたの。貴男が自分から訪ねてくるなんて奇しいじゃありませんか」
「それがね。ちと金が必要なんです」
「あらどうして」
「姐さんは識らなくて好い」
「それは酷よ。親族の呼称を用いるんなら勿体振っちゃ不可ません。隠し事はどうか休して頂戴」
「なんだか厳しいですな」
「じゃ訊くことを変えます。為事の方はどうなんですの?」
「水彩の方がね、まあぼちぼち売れてきたさ──そうそう、以前商店街の方で僕の絵を立て掛けて売り出してたんだがね、一人の爺さんが倚ってきて、一目見て九十円で購うと云い出したんです」
「虚言仰い」
「どこか虚言だって云うんです」
「だって馨さん、九十円なんてそんな大金、売れる訣がないですわ」
「そっちだって酷な人だ」
「じゃあもう工面の話はどうでもよくって?」
「否ァ、実はそうともいかなくてね」
「一体何をしようって云うんですの」
「実は友人に会わなくっちゃ不可なくてね。英国に渡るんです」
「まあそれは、若干金かかるんですの」
「どうだろう。二百円は越えるみたいなんだ」
「それじゃあ足りませんわね」
当然、馨吾の云う爺さんの話も、渡英にかかる費用のことも、まっぴら虚言である。しかし値段が高けりゃ工面も難しいだろうから、一旦自分が九十円持っていると思わせて宅から百円ばかり都合して、また別の人に残りの額を借りようと画策したのである。遊民だけあって悪知恵だけは能く仂く。
「そのために僕は今日来たんだ。百円ほど都合して欲しくって」
「じゃ好いわ馨さん。私が都合してあげるから」
「本統ですか。小共たちの学費もあるでしょう」
「ええ好いわよ。すぐ行く訣じゃないでしょう。三日後着くように送るから」
「じゃその通りに。どうか兄さんには内密に頼みます」
翌日、馨吾は目的を果たした顔つきで静岡を去った。その日の朝は寒かった。
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