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夜に融ける(後編その4・完結編)

浅谷童夏

書くことに憑りつかれた者たちの群像劇。完結編。

タグ: #純文学

小説

13,270文字

 それは駅から続く商店街の通りの端の方にある、昭和の佇まいの古本屋だった。山翠堂書店という看板が出ている。

橘有里は自動ドアではない引き戸に手をかけた。少しふらつく。昼からビールを飲んでいた。立川が地元のなつみから誘われて、立川オクトーバーフェストに二人で足を運んだのだった。なつみと別れての帰り、中央特快との待ち合わせで三鷹で降りたついでに、何となくそのまま改札を出てぶらぶらしてみた。酔いが回ったふわつく足取りで、夕暮れ時の駅前通りを歩いていて、その古書店が目にとまった。

ヴィクトル・ペレ―ヴィンの「チャパーエフと空虚」を書架から取り出して立ち読みしていると。軽く肩を叩かれた。

「久しぶり」と言いながら目を細めて笑っている男は、書店員らしいポケット付きのエプロンを付けていた。

「びっくりした。南雲」

「紀伊国屋で会って以来だね。懐かしい。東京も狭いな」

「ここで働いてんの?」

「うん。三年前からね」

「田辺さんとこの仕事は辞めたの?」

「どうも向いてなかったみたいで、ちょっと病んじゃってさ」

「あらあ」

「その本、面白いよ。お薦めだよ」

有里は手にしていたその「チャパーエフと空虚」を買って書店を出て、隣にある、これまた昭和の佇まいを残した喫茶店に入った。BGMにベートーヴェンの田園交響曲が静かに流れていた。買った本を読みながら、コーヒーをお代わりして二時間待った。やがて、ドアベルが鳴るガチャガチャという音とともに森南雲が入ってきた。

田辺義之の会社を辞めて、同人誌荒野の主催者、阿部の紹介で、隣の本屋に就職したいきさつを南雲は教えてくれた。仕事のストレスと、阿曽浩作品の読書体験、二つが自分の中できつい反応を起こした。それで一時期精神のバランスを崩してしまい、田辺の会社を辞めることにしたのだという、どこか芝居めいた彼の話は面白かった。その話題が一段落してから、有里は南雲に訊いた。

「彼女はいないの?」

「いないよ」

「つくればいいのに」

「できないよ。あまりに強烈な人と付き合ったせいで、以来まともに恋愛できなくて」

南雲は有里を見て笑った。

沸き上がってきた不思議な感情に、有里は身体が熱くなるのを感じた。もう酔いはだいぶさめているはずなのに。ひょっとしたら自分はこの男に会いたくてたまらなかったのではないだろうか。実際に行動を起こすことなんてしなかったが、心の中でずっと探していた気がする。そして実際、二度もばったり本屋で出会うというのは、これはもう偶然ではないのかもしれない。そういえば以前、目の前で彼は国士無双の天和を上がったっけ。絶対に上がれないとんでもない役。彼はきっと持ってる。私を変える何かを。

「南雲、あの時、まあよく踏みとどまったよね」

自分は何を言っているのだろう、と有里は思った。

「まあ、確かにあの時は」そこで言葉を切った南雲は黙って俯いた。

「私ね、自分の出版社を立ち上げることにしたんだ。初めに、阿曽浩の本を出す」

森が顔を上げた。目が見開かれている。

「それマジ? 素晴らしい。素晴らしすぎる」

「今準備中。スタートは一年後だけどね。南雲、良ければ一緒にやらない?」

「え、いいの? 俺なんかで」

有里は頷いた。

「ぜひお願い。本が売れなきゃ給料出せないんだけど」

森はしばらく黙ってから「わかった」と言った。

「ここを辞めるとなると色々やるべきことがあるな。信頼できる後任を探して、引き継ぎをするために少し時間がほしい」

「もちろん。それと、あともう一つ」

「ん、何?」

「……私ともう一回付き合って」

「え……」

「お願い」

 たった今自分の口から出てきた言葉に、有里自身が耳を疑い、呆れていた。

森南雲は瞬きをした。

「どうして、俺なの?」

「好きだから」

「……」

「あんたは誘惑に負けないし」

「意味わからない。俺、誘惑には全然弱いよ。前に君に誘われたときだっていちころの瞬殺だったじゃん。ちょろいって思っただろ?」

「私からのは別。その誘惑には負けていい」

「な……」

「じゃなくて、あんたはあの時、阿曽浩の作品を自分のものにするって思ってたんだ。でもそうしなかったし」

「それは。それとこれとは」

「いいや。きっとあんたは浮気もしない」

「創作と恋愛は全然違うでしょ」

「同じよ。どっちも業なのよ。愛と死と文学とはね、表裏一体の業。それを乗り越える人ってまあ、いないよ」

「訳わからない」

「まあ、いいじゃん。私はあんたを必要としてるの」

「俺はともかく、君はきっと浮気をするしさ。俺は浮気されるのは嫌だし」

「分かった。やらない。絶対。誓う」

「本当に? ちょっと信じられない。悪いけど君に振り回されるのはもう嫌だ」

「浮気はもう絶対にしない。その代わり、私、また小説書く。前の小説は十三で書いたでしょ。そして来年三十になる。何だかキリもいいしね。だから新たに書き始める。区切りになるものを書くわ」

驚く森に向かって、有里は宣言した。

「私はただあんたを愛する。あんたはそれに応えてくれる人間だから、絶対ちゃんと愛するから。本能とか箍とか関係ない。そんなの最初からいらない。あんた以外の相手との恋愛は、小説の中でやるよ。そこでは私、自由に恋愛する。恋愛の業は、創作の業に全部昇華させるから」

 

夜の森書房という、設立されたばかりの小さな出版社から発売された一連の作品は、最初はほとんど売れなかったが、有名書評ブログである鷹の本屋で取り上げられたことがきっかけとなり、売り上げが徐々に伸び始めた。阿曽浩という名前が文芸関係者の間で囁かれるようになり、やがて高橋源一郎のラジオ番組〈飛ぶ教室〉で阿曽の書いた唯一の長編《夜に融ける》が取り上げられたことで人気に火が付いた。阿曽浩という謎の物故作家についての記事が朝日新聞の文化面に載り、その記事に感銘を受けたヒップホップアーティストのエイジ・Bによる日本語ラップ楽曲《夜に融けろ》はクールコアな名曲として巷で評判となり、NHK・FMのミュージック・ラインで紹介された。

阿曽の本は増刷を重ね、死後八年目のベストセラー作家として青土社の文芸雑誌「ユリイカ」で阿曽浩の特集記事が組まれた。ウィキペディアにもその名が掲載された。夜の森書房を設立した風間瑠璃へのインタビューは、阿曽浩を文化面で取り上げた朝日新聞の週末別冊版〈Be〉に取り上げられた。

 

ビルの外壁から業者がてきぱきと看板を取り外すのを、男はぼんやり見ていた。降ろされていく看板には白地に青でクボ・デンタルオフィスと書いてある。かつて院長を務めていた自分の城があっけなく消えていくのを確認してから、久保智司は踵を返した。パーカーのカンガルーポケットに手を突っ込んで、背を丸めて歩いた。まさか三浦真由がカルテやレセプト、領収書をコピーして、支払基金と警察にたれこんでいたとは思いもしなかった。不正請求で逮捕され、ローカルニュースに名前が出てしまった。保釈はされたが、激怒した父親からは、今後は何をやるにしてもびた一文出さないと言われた。売り言葉に買い言葉で言い返したら、親子の縁を切ると言われてしまった。居抜きでもいいから新しい物件を契約して、さっさと看板変えて開業しようという目論見が崩れた。水増しだけではなく架空請求もしていたから、弁護士からは、起訴されて詐欺罪で有罪になるのは避けられないだろうし、医道審議会にもかけられるとも言われた。医業停止はどのくらいの期間食らうのだろうか。どうせ保険医停止にもなる。三浦真由に仕返しをしてやろうと思ったが、気力が萎えていいアイデアが何一つ浮かばなかった。それどころか昨日は週刊誌の記者が取材に来たのに、まともな応答が全然できなかった。パワハラセクハラの後は不正請求ということですけど、この件について、正直、どう考えておられますか、だと? そんな馬鹿げた質問に答えられるわけがないだろう。知るか。勝手に書きやがれ。どうせ連中は俺が新しい診療所を開いたら嬉々として嫌がらせをしにやってくるに違いない。もう歯医者なんて神経をつかうばかりの面倒くさい仕事はやめて、いっそホストでも目指すか。

コンビニに入って週刊誌を手に取った。ページをめくると若い女のグラビア写真があった。小田綾香に似ていて腹立たしい。舌打ちしてから目次を見る。自分の名前がそこに出ていないだろうかと思わず探してしまう。大丈夫。どうせそんなチンケなネタが記事になることなどないだろう。

え?

阿曽浩?

何故その名前が週刊誌の目次にある?

久保はその記事のタイトルをもう一度確認した。

〈埋もれていた孤高の天才作家、阿曽浩に一躍脚光〉というタイトルだった。記事の横に一冊の本の写真があった。確かに表紙には阿曽浩という名前が書かれている。ぼろぼろの口をした生保のあいつが? 自称作家ではなく天才作家だと? 何かの冗談か、これは。

記事まで読む気にはなれなかった。久保の食いしばった歯の間から声にならない微かな呻きが漏れた。

 

現場仕事が早く終わったその日の帰宅途中、田辺義之の足は自宅近くの本屋に向いた。阿曽浩の本が巷の話題になっていることは新聞を読んで知っていた。森と一緒に仕事をした、あのハピネスさくらの無残な部屋の光景が、未だに記憶に鮮明に焼き付いている。確か何年も前に文学界の新人賞をとった人物だったが、何故今頃になって彼の本が脚光を浴びているのか。

本屋に立ち寄るのなんてもう何年振りだろう。

もう本は読まない。そう心に決めていた。しかし阿曽浩の本だけは読まなくてはならない。あの現場で彼の原稿を発見したのは自分だったのだから。それはあの場で処分するつもりだった。しかしそれを森南雲が持って帰った。その後、森にあの原稿はどうしたかなどと尋ねたことは一度もないから、どうなったかは知らない。先輩も読んでみますかと森から尋ねられたけれども、読むつもりはなかったから断った。こんなにも突然に、阿曽浩のことが話題になるとは思わなかった。森があの原稿を出版社に売ったのだろうか。そういうことをするくらいなら森はあの原稿を元に、自分で何かを書くだろう。あいつは書くことに憑りつかれていたのだから。

新刊本コーナーを見てまわったが、目当ての阿曽浩の本は、残念ながら見つけられなかった。さほど大きな本屋ではないし、ここには置いていないのか、それとも売り切れたのか。まあ、別の本屋にはあるだろう。

何となく文芸書コーナーに足を運んだ。どうせ読むことなどないのだが。平積みされた文芸雑誌の表紙の、群像新人賞受賞作発表という文字に目がとまった。かつて自分も何度か応募したことを思い出し、心のどこかが微かに疼いた。

群像新人賞、風間瑠璃《端紅蝶の軌跡》

田辺は群像を手に取り、ぱらぱらとページを捲った。風間瑠璃という名前は最近どこかで目にした記憶があるが思い出せない。群像新人賞受賞者インタビューという記事に、受賞作者の写真が載っていた。

一目見て唖然とした。

帰宅して夢中で読んだ。狂おしく鮮烈な愛の物語だった。これは橘有里と自分との恋愛から着想を得て書かれた作品だとすぐに分かった。橘有里に連絡をしてみようと思ったが、彼女と別れたその日に、LINEのアカウントもスマホのメールアドレスも電話番号も全て消去したことを思い出した。

翌朝、職場から森南雲のLINEに連絡をしてみた。彼が会社を辞めてからも時々LINEで連絡は取っていたが、それもだんだん途絶えがちになり、この一年は全く連絡を取っていなかった。ご無沙汰、いきなりだけど風間瑠璃って知ってる? と送ってみたが、既読がつかないので、直接電話をかけてみた。

すぐに相手は出た。

「おう、南雲か?」

「先輩ですか、お久しぶりです」

「ずいぶんご無沙汰してたな。今も古本屋で働いてんのか。ええと三鷹の、何だっけ、そうだ山翠堂書店」

「ああ、いえ。昨年辞めまして、今は夜の森書房っていう出版社で働いてます」

「どこかで聞いた出版社だな。編集やってんの?」

「はい。一応編集長ってことになってます」

「編集長か。すげえじゃん」

「まあ、社員数たった四人ですけどね」

「なんだ。そんならうちと変わんねえな。まあでも立派なもんだ。ところでさ、さっきLINEもしたんだけど、お前、風間瑠璃って知ってるか?」

「知ってますよ。群像新人賞でしょ」

「そうだけど。風間瑠璃って誰だか知ってる?」

「ええ。有里ですよ。橘有里」

「何だよ、知ってたのか」

「ええ。今、彼女の会社で働いてるんですよ。俺」

田辺はのけぞりそうになった。

「え、一体なんだそれ。どういうこと?」

思わず大声が出た。向かいのデスクの中村さんがちらりと田辺の方を見た。

 

新宿百人町の居酒屋のカウンターに肘をついて、空になった目の前のグラスをぼんやり眺めていた田辺義之は、やがて自分でビールを注いだ。

「あ、すみません」横に並んでいた森南雲が言った。

「いいんだよ。ビールは基本的に手酌が好きだから」

そうは言ったものの、田辺は、実際は注いでもらう方が好きだった。

「それにしてもなあ。びっくりさせるんじゃねえよ」

「すみません」

「いつから有里んところで働いてるんだ?」

「去年、会社が設立された時からですよ。彼女が社長兼営業で、俺が編集長。あと、神沢なつみちゃんがデザインとかレイアウトとかの担当。一応三人で共同経営ってことになってます。出資金はほとんど全部有里が出してますけどね。あと一人、今年営業の人が入りました」

「おいおい、マジかよ。なつみも一緒かよ」

田辺は絶句した。

「何で今まで黙ってたんだよ」

「いや、何か、先輩のところを辞めてからだいぶご無沙汰して不義理してしまってたというのもあるし、それに、なつみちゃんも一緒に働いてるしで、何となく言いにくくて」

「まあいいや。でも小説書いてたんだな。彼女」

「そうですね」

「もう書くのはやめたって、あんなに言ってたのに」

「阿曽浩に触発されたって言ってました。あと浮気防止のために」

「浮気防止? 何だそりゃ」

「まあまあ、それは聞き流してください」

「小説書かないでいると、浮気してしまうってか」

「そういう感じです」

「アホくさ。ところであれ、やっと思い出した。夜の森書房って、確か、阿曽浩の本出して話題になったところか。俺まだ一冊も読んでねえけど。お前たちがそうだったんだな」

「ええ、うちで出したんですよ。先輩、本当に一冊も読んでないんですか?」

「まあな。俺は相変わらずユーチューブと漫画だけだ」

「情けないなあ。BSSの頃の先輩は格好良かった」

森がため息を吐くと、田辺はふんと鼻を鳴らした。

「あの頃は能天気だったよ。何も考えてなかった」

「砂漠、いや墓場に人を置き去りにしておいて、自分だけ娑婆に復帰して。先輩はよくもまあ」苦笑しながら森が言う。

「それはまあ、悪かった。でも夢を追いたい奴は、後先考えないでどこまでも追えばいい。俺には向いてなかった。それだけだ。そして橘有里は立派に夢を叶えた。しかも俺たちはネタを提供したんだからな。彼女の役に立ったと胸を張れるさ」

「ええ。有里もきっと感謝してますよ」

「スーパーの試食の小皿にしては存外の名誉だよ」

「そうですね」

田辺と森は、互いに空になったグラスに新しく注文したビールを注ぎ合って乾杯した。

「ひょっとして、有里とまた付き合ってる?」

南雲はしばらく黙ってから、ええ、と答え、それから言った。

「今年入籍しました。結婚式はまだだけど」

「おいおいおい。何だよそれ、何で今頃言う」と田辺。

「いや、何となく怒られそうな気がして」

「怒るかいボケ、ちょっとスマホ出してみろ」田辺はそう言い、森にポケットからスマホを出させた。

「有里にかけろ。おめでとうぐらい言わせろ」

「はいはい」と森がスマホを操作し、有里と二言三言言葉を交わしてから田辺に渡した。

田辺は懐かしい声を聞いた。

「先輩、御無沙汰してます」

「お前なあ」田辺は不覚にも涙ぐんだ。今、自分の中で激しく渦巻いているのがどういう感情なのか、自分でもよく分からなかった。

 

渋谷のフレンチバルを貸し切って行われた、夜の森書房社長にして作家の風間瑠璃と、同社編集長森南雲との結婚式は、新婦の芥川賞受賞記念パーティを兼ねるという前代未聞のものだった。居並ぶ関係者はそう多くはなかったが、新婦と新郎を前に、三人の友人代表が行ったスピーチはそれぞれが非常にユニークなものだった。参加者の多くが出版、マスコミ関係者だったこともあり、当然そのスピーチは色んなかたちで世間に伝えられて大きな話題を呼んだ。

一人目、新郎新婦の友人代表で新郎の元上司、特殊清掃会社グリーンサービス社長、田辺義之のスピーチはこうだった。彼は原稿を用意せず、即興でスピーチをした。

「結婚おめでとう。芥川賞受賞もおめでとう。俺は、新郎新婦とは大学からの友人であり、家族みたいな……ことに新郎とはかつて仕事上のバディでもあり、ほとんどまあ兄弟みたいなもんです」

ここで聴衆のごく一部にクスクス笑いが起こったが、さらに田辺の次の一言は会場の爆笑を誘った。

「新婦に言いたい。愛しい俺の南雲を返してくれ」

田辺は大袈裟に泣き顔を作っている。先輩はやっぱりなかなかの役者だな、と森は笑いながらも感心した。

「とまあ、これは冗談です。俺は南雲なんかいりません。可愛がってやってください。で、新郎に言っときたい。風間瑠璃はとんでもない天才だ。お前はこれから彼女の夫として編集者として、彼女を支えるという重大な責任を負うことになる。これマジな。覚悟してやっていけよ。お前たちはただの夫婦じゃねえから、末永くお幸せに、なんて陳腐な祝辞はあまり言いたくない。でも一応言っとく。末永くお幸せに。俺はハラハラしながら見守らせてもらいます。以上です」

田辺が盛大な拍手を浴びながらスピーチを終えると、次に新婦の友人代であり同僚の、神沢なつみがマイクを握った。彼女は原稿を準備していた。

「南雲さん、有里、いや瑠璃と呼ぶべきなのでしょう。瑠璃、結婚おめでとうございます。それと芥川賞受賞、おめでとうございます。瑠璃とは高校時代からの、ずいぶん長い付き合いです。瑠璃は何から何まで規格外の人で、私にとって彼女と過ごしてきた、そして今も過ごしているこの毎日は、もう新鮮な驚きの連続なんです。中学校時代に作家デビューをして、学校では毎日寝てるのに勉強も運動も成績トップという、漫画みたいな存在を地で行く人でした。私は毎日寝てるところだけは彼女と同じでしたけど、成績は見事にびりで、そんな瑠璃と私が、いつも学校では一緒にいるので、周りにはほとんど奇異の目で見られていたと思います。瑠璃とはよく一緒に新宿や渋谷に行って遊んで、一緒に補導されたりしたのも、今となっては楽しい思い出です。もう有名人だし、これからは悪いこともできないでしょうけど、結婚してからも時々は羽目を外して私と遊びに付き合ってください。南雲さん、規格外の瑠璃をしっかり支えてあげてくださいね。すごく大変だとは思いますけど。瑠璃、南雲さんを手玉にとったり、おもちゃにしたりしないで大切にしてね。でも懐の広い南雲さんなら瑠璃のパートナーとして、そして仕事上のバディとしても十分やっていける、大丈夫。そう信じています。お二人とも末永くお幸せに」

そして三番目にスピーチした新郎新婦の友人というのが、参列者の度肝を抜いた。彼にマイクは必要なかった。新郎新婦の雛壇の上にスクリーンが降りてきて、そこにタキシード姿の男が投影された。その顔は影になっている。彼は参列者に向かって一礼し、口を開いた。

「南雲君、瑠璃さん。結婚おめでとうございます。瑠璃さん、芥川賞受賞おめでとうございます。阿曽浩と申します。私は南雲君によって黄泉の国から引っ張りだされて、そして瑠璃さんの手助けも受けて、作家としてこの世に蘇りました。ずいぶんイケメンに生まれ変わらせてくれてありがとう。お二人には感謝しています。そして、お二人を結び付けたきっかけを作った者として、私もお二人から感謝されていいかもしれませんね。今日はお二人の結婚式ですが、ちょっとだけ自分語りをさせてください」

そこで映像の中の男はちょっと咳払いをした。AIは芸が細かい。

「私は生前はあまりぱっとしませんでした。文学賞を受賞したその一瞬だけ、光が当たりましたが、その後は闇の中に沈んだような人生で、最後は生活保護を受けていました。今、横の雛段に座っている森南雲君と、さっきスピーチをした田辺君に出会ったのは、私がこの世に別れを告げた後でした」

そう言って、阿曽浩のAIアバターは両手を広げ、おどけたように肩をすくめた。会場に呻き声と笑い声の混ざった、不思議などよめきが起こった。

「その時、私の遺した原稿が部屋にありました。お二人はそれを一度はゴミと区別せずに捨てようとしました。全く酷い話です」

阿曽浩が大袈裟な抑揚をつけて言ったので、聴衆がどっと笑った。

「でもまあ、それがお二人の仕事ですからね、仕方ないです。でも二人はそうしなかった。そして私の原稿を蘇らせた。そのおかげで、こうして私は皆さんの前で今こうして話しています。一人一人の命は儚いものですけど、人類が存在している限り、芸術、創作には死はありません。私がいたことを思い出してくれてありがとう。今度はあなたたちが引き継ぐ番です。私は心から、今、私の横にいるお二人の、そして会場におられる皆さんのこれからの人生を祝福し応援します。これからが面白いんですよ。次に何が起こるかなんて死ぬまで本当にわかりません。死んでる私が言ってるんだから間違いありません。私なんか、死んでから、こんなスピーチしてるんですから。皆さんだって明日死んじゃってこっちに来るかもしれません。でもそうなったら、まだまだ早いから帰れって、私が両手を広げて通せんぼをしますよ。追い返して差し上げます」

会場に溢れた笑いが余韻に変わるのを少し待ってから、阿曽浩は微笑み、幾分落ち着いた調子に戻して言った。

「不器用な人生を自分なりに力を尽くして全うした人間として、皆さんにエールを送らせてもらいます。楽しみながら、そして時には苦しみながら、とにかく生きていってください。いつかは皆さんも死にます。でも、死ぬまでは生きるんです。それではまたいつか。そして最後にまた改めて、南雲君、瑠璃さん、ありがとう。末永くお幸せに」

 

「今日は何だか晴れやかな顔されてますね」

田辺に向かって青澤が微笑む。

「《夜に融ける》のあとがきと解説に私の名前が載ったんです」

「ほう。凄い」

「それ、両方を風間瑠璃が書いてるんですけど、その本の原稿を発見して世に送り出した功労者として、私ともう一人の仲間の名前が挙げられていました」

青澤は黒い髭を撫でながら頷き、微笑んだ。

「良かったですね」

「おかげで、自分のことを私は今までで一番肯定的に評価できたかもしれません。とにかく歴史に残る凄い本に自分が関われたことが嬉しいんです。私は全く単純ですね」

「本は形になって残りますしね。ご自分の成し遂げたことの大きな価値を、ご自分できちんと評価できた。素晴らしいことです」

「それに、その本を読んだことで、評価に拘らず、とにかくやっぱり何か書かないと、という気持ちが強くなりました。あんなすごい本が埋もれてたというのに、私が書いたものが日の目を見ずに埋もれたって、そんなの別にどうでもいいかと」

「ああ、いいですねえ」

そこでカウンセリング終了のアラームが鳴った。

青澤は微笑んで言った。

「次回のカウンセリングはどうしますか?」

「はい、今回でちょっと一区切りにしていただいていいですか?必要なときはまた連絡させていただけたら」

「ええ、もちろんですよ」

田辺は一礼して、青澤のマンションを後にした。もうしばらくはここに足を運ばなくても大丈夫だろうと思えた。

 

「よくここに来るの?」

新宿百人町の居酒屋のカウンターに肘をついた神沢なつみが言った。坊主頭に鉢巻を巻いた大将の背後の掛け時計は、深夜の一時を指していた。もう終電は無い。田辺は横で彼女と同じ姿勢をしながら、今夜はどこかサウナにでも泊まるか、それともなつみがOKしたら久しぶりにホテルに行くか、でもそれはないだろうなと思った。それにこんなに酔っていては、どうせ俺のあれは使い物にならないだろうし。

「まあ、時々な」

「結婚はしてないの?」

「そんな面倒くさいことはしないよ。一人が気楽でいいし。そっちはどうなの?」

「してない。まだ独身だよ」

「あのホストみたいなちゃらい医者は?」

「ああ、あれは二か月で別れちゃった」

「そうなると思った。俺みたいないい男がいたのに、もったいないことしたな」

「何よそれ。あんただって自分から有里を振ったんでしょう。あんな天才をちょっとの浮気くらいで。どっちがもったいないのよ」

なつみは田辺を睨んでから、大将に、もう一杯おかわり、と声をかけてハイボールのジョッキを掲げてみせた。あいよっ、と威勢の良い声が返ってくる。俺も、と田辺もそれに続いた。結婚式と二次会、そして二人きりでの三次会と、もうどれくらい飲んでいるだろう。今夜は完全にリミッターが壊れている。

「ところで私たちの後の、あのAIアバターのスピーチ原稿、誰が書いたの?」

「原案は一応俺だよ」

「やっぱり。まあでも割と良く出来てた」

「そうか。A I阿曽浩はすらすら読んでたけど、内心たぶん怒ってるぜ」

「え、そうかなあ」

「よくも俺を勝手にエンターテナーみたいにしやがって、って。化けて出てきそうだ」

「そんなことないよ。面白がってたんじゃないの」

「だといいけどな」

「あんた、やっぱり書く人間だから、どこかで人を楽しませたいんじゃない」

なつみがそう言うと、田辺は頷いた。

「とはいっても、ほとんどはA I阿曽自身の即興スピーチだ」

「マジ? 」

「ああ。リハーサルの時とは全然違うスピーチしやがった。俺もビビった」

あのスピーチは、阿曽自身だったらどう話すかを考えながら原案を書いたうえで、それをベースに即興で阿曽らしいスピーチしてほしい、とA Iに指示していたものだ。ちょっとした賭けではあったが、結果的にはまあまあの出来だったかな、と思った。

見えない煙草の煙を吐き出すように、ふーっと息を吐いて言った。

「とは言っても、あのスピーチ原案書くために、お前の会社から出てる阿曽の本、全部読んだんだぜ」

「どうだった?」

「あの《夜に融ける》は奇跡だ。あれを読まないで死ぬことになっていたら、と思ったらぞっとしたよ」

「そうよ。全く」

「阿曽って人はとにかく凄いな。本当に底知れないよ。あんな本書いた人が、あんな団地に住んでいて生活保護で暮らしていたなんて、到底信じられない」

「本当だよね」

「お前の会社も、よくあれを本にしてくれたよ」

「てか、そもそも阿曽浩の本を出すためだったんだよ。有里が会社を作ったのは。私も、まあ自分の会社が出してる本じゃなければたぶん一生読まなかったと思う」

「そうだったんだ。なるほど」田辺は手をぱちんと叩いた。

「南雲は阿曽の原稿を有里に渡したんだな」

「そういうこと。原稿が臭くて大変だったみたい。有里、その原稿を脱臭剤をたくさん入れたクーラーボックスに入れてたんだって」

「すげえな。有里も。あの臭いは普通の人には耐えられないんだけどな」

「執念だよね」

「つうか、仕事絡みとはいえ、なつみもよく読んだな。何だか信じられない」

「それ、どういう意味よ」

「いや、素直に褒めてるんだよ」

「こう見えても中学校まではたくさん本読んでる優等生だったんだから。高校も有里と同じ名門だったんだからね。馬鹿にしないでよ」

「すまん。でもお前、昔、アーネスト・ヘミングウェイって何のブランド、って俺に訊いただろ」

「ああ、それはまあ、忘れて。でも今はめちゃくちゃ本、読むよ。新聞の書評欄に載ってるやつは、斜め読みではあるけど、大概読むもん」

「まあ、俺も大学出てから全く本読まなくなったからな。なつみに偉そうなことは言えないけどさ」

「でも、やっぱり《夜に融ける》は凄かったわ。人生変わった、っていうと大げさかもしれないけど、でもあれで私、生まれ変わったかも」

「俺もだ」

人生を変えられたなどとは軽々しく言いたくないが、確かに、阿曽浩の小説と出会ったことは自分の人生の分岐点になる、と田辺は思った。《夜に融ける》のような小説は読んだことがなかった。どん底の境遇にいながらあれを書けた人がいたのだ。阿曽浩の迷宮は死の影に彩られながら、しかし人を死ではなく生に向かわせる。

もうそろそろこのくらいにしとかないと明日がやばいな、と思いながらも、田辺は惰性でハイボールのグラスを傾けた。

「それにしても有里も、突然雲の上に昇っちゃったな。群像新人賞ってぶったまげてたら、いきなり今度は芥川賞だもんな」

「まあ、あれは天賦の才能よ。持ってる人はやっぱり持ってんのよ」

「持ってる、か」

「この世で担うべき人間に、才能もタイミングもちゃんと与えられるってこと」

「なるほど」

「そして与えられる人は、それを生かして世界を切り拓く力もちゃんと備えてる。それが、持ってるっていうこと」

「持ってたんだよな。阿曽も」

「うん、持ってた」

「ただ、それが報われなかった」

「報われるか報われないかはまた別の話よ。とにかく持ってる人間は、無人の荒野を切り拓いていくしかないの。報われずに死んでも、そりゃ仕方ないんだよ。業なんだから」

「野垂れ死に上等ってか」

「そうそう。阿曽さんみたいな人はまだ大勢いるんだよ。みんな埋もれたままで消えて、忘れられていってるのよ。阿曽さんはまだいい方なのかもよ。死後に、とはいえ、有里ちゃんたちのおかげで陽の当たるところに出してもらえてちゃんと報われたんだから」

「俺はもうちょっとで阿曽浩を埋もれさせるところだった」

「あんたの一世一代の直感がきっと、そこで働いたんだよ」

なつみにそう言われて、田辺は思い出した。あの時ハピネスさくらで、黒いカバンの中に入った原稿用紙を見つけた時、俺は消毒液をそれに噴霧せずにそのままファスナーを閉めた。あれは自分でも理解できない全く不合理な、そしてこれまでの人生で最大の結果をもたらした行動だった。

でもなあ、と酩酊の靄がかかった頭で田辺は考えた。報われるとは結局何なんだろう。賞を貰って褒められて、名前が人に知られて、収入も増えてちやほやされて、ということか? そりゃ気分はいいだろう。承認欲求も満たされる。仕事の依頼も来るようになる。作家と書いた名刺を配った飲み屋のお姉さんからキラキラした目を向けてもらえる。だがせいぜいそんな程度ではないか。生きているうちに報われるのも死んでから報われるのも、そう大した違いはない。まあ報われたとして、その報われた人間の小説が十年、五十年たっても存在しているだろうか。百年たったらよほどの国民的大作家でないかぎり消えているだろう。千年たったら……人類は、作家とか小説という概念など忘れているかもしれない。いやそれ以前に、地球上に人類の姿は無いかもしれない。

とにかく書きたい奴は書く。後先考えずに書く。十三歳の橘有里がそうしたように。独りぼっちの無収入の阿曽浩二がそうしたように。そんな奴らの中から、箍の外れたさらに一握りの人間が、作家の業を背負い込んで、倒れるまで書き続ける。

「書くぞ。俺も」

神沢なつみは田辺を見た。それから言った。

「書きなよ」

「俺が書かないで、誰が書くかって」

「いいねこの酔っ払い。そういえば昔も、何かそんなこと言ってたよね」

「ああ。進歩してねえんだよ俺は」

「うん、みっともないけど、少しだけかっこいいよ。少しだけね」

「南雲にも似たようなこと言われたな」

「何か書けたらさ、私たちのところに持ってきてよ。編集会議にかけて売れそうだったら出してあげられるかも。でも甘い期待はしないでね。有里はものすごくシビアだし。もちろん私もそうだからね。南雲はまあ、ちょろいかもだけど」

「怖っ。俺は有里と違って、全然持ってなさそうだけどさ。書けるかな?」

「持ってない人間なりに書けるものもあるよ。自費出版で出すなら自腹で金さえ出してくれればいいよ。売れなくてもこっちは儲かるし」

「……いや、撤回。俺はきっと持ってる。だからお前らが売りたくなる作品を書く。期待しといてくれ」

「そんなふうに堂々と言える馬鹿なら、持ってるよ。そういうことにしとこう」

カウンターの向こうで大将が黙ってにやにやしている。酔いに任せて何だか威勢のいいことを言っている自覚はあった。睡魔が忍び寄ってきている。もうそろそろギブアップだな、と思いながら、田辺はハイボールの最後の一口を飲み干した。

 

 

 

 

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年1月4日公開

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"夜に融ける(後編その4・完結編)"へのコメント 5

  • 投稿者 | 2026-01-04 07:19

    もう一度最初から通して読ませていただきました。非常に読み応えある作品でとても面白く読みました。
    単純に自分の好みで言いますと歯科医のくだり(前編その2)はカットしていいように思いましたし、完結編もちょっと駆け足すぎるハッピーエンドのように思いましたが、最後の結婚式で死者がAIで甦ってスピーチするのがとても良い終わり方に思え、ここはもっと良くできたのではと欲を言いたくなりました。ただそれは自分の好みの問題なので他の方々の意見も聴いてみたいところです。
    私も自分の『夜に融ける』をがんばって書こうと思います。

    • 投稿者 | 2026-01-04 16:59

      やはり、破滅した歯医者のシーンを入れないと前編その2がぽっかり浮いてしまう感じが強くなるので、削ったシーン(歯医者の久保が破滅するくだり)を半分くらいの長さに縮めて、完結編に戻してみました。
      この歯医者視点のくだり、確かに微妙ですね。創作とは対極にある、欲望と消費だけの象徴として、阿曽と久保を対比させようと思ったのですが、なかなか難しかったです。

      著者
  • 投稿者 | 2026-01-04 15:18

    ありがとうございます。ちょっと後半駆け足になったのは確かにそうですね。色々と用事がたてこんでいる合間にスマホで書いたので(完結編の大部分は車の中で書きました。浮かんだことをさっとその場で書いていかないと、私はたちまち忘れてしまうので)、少し展開が速すぎたかもしれません。三人称で視点を変えながら書くのも混乱してきて苦労しました。歯科医のくだりは実はもう少しあって、色々あって破滅した歯科医師が最後にふらふらと入った本屋で阿曽浩の本を手に取って驚愕する、というシーンがあったのですが(阿曽浩が死の床で、自分の本をあの医者が見たらどんな顔をするだろう、と夢想したシーンの伏線回収です)、長くなりすぎたのでカットしました。でももっと短くできればそこも復活させるかもしれません。感想をいただけて励みになります。ありがとうございます。ヨゴロウザさんの作品も楽しみにしていますよ。

    著者
    • 投稿者 | 2026-01-04 23:32

      自分の感想に過ぎませんし、対比するという浅谷さんご自身の意図もあった訳ですので、もし改稿するとしても早まらずもっと他の方々の感想を聞いてからでもよかったかと思います。視点人物が次々と変わるのはうまくいっていたし作品の語り口としてよく合っていたかと。全体としてはとても面白かったです。

      • 投稿者 | 2026-01-05 00:11

        長い作品を読んでいただけただけでも嬉しいです。歯科医師のシーン②はやはり復活させて入れておいた方が良かったかな、と自分では思いました。的確なアドバイスありがとうございます。ヨゴロウザさんの新作も楽しみにしています。

        著者
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