一の一
凍てつく冬も過ぎ去った。
馨吾は寝起に東日の新聞を眺めていた。彼は右掌を畳の上に、体重を掛けて擱いていた。その掌は、まるで極めて小さな針に刺されているかのようだった。そうして意識もせずに耳朶を触り始めた。元来この男は、引切なりに耳朶を触るという性質である。こうなると紙面を見ているようで何物も見ていない彼だけの空間が生まれて了うから、仮に彼の習慣を一枚の紙に整えたとすると、通算して数十分ほどはこのような時間が在る。耳朶を折り畳んで人差指の関節から爪にかけてを緩っくりと沿って流していく快感を、彼は云十年と続けている。人間の健全たる人生を送るのに大した影響もないのだし、何しろ己は遊民であるから、人の悪態に逐一癇癪を起こしていてはそれこそ健全ではないだろうと──彼は近頃、この癖について批判する架空の人々を想像しては脳内で反駁するようになった。そんな下らないことを想像して爽然するのだから、馨吾は自己をますます完璧な遊民であると自覚するようになった。遊民は縛られてはならない。遊民の健全たる人生とは人の、譬え親類と云えども辯駁してはならないというのが彼の思想であった。諸君ら、たかが一介の男の癖について言及するでない、一旦眼を囘りに向けてご覧よ、めまぐるしい帝国主義の集りに貴男方は満足ですかいと云うのが結局は一番効くから、馨吾は今もなお平然と耳朶を触って自分の遊民としての立場を遂行するのであった。
彼の朝は長い。大抵は寐る前に枕元に擱いた新聞を読んでから起きる決心がつくから、朝っぱら鳥が煩いのがいつしか子等の咾に代わる頃ようやく室を出るのである。それについて口を出されたって、己は遊民だから別段早起きを心掛ける理由もないし、畢竟耳朶を触ってさえ了えば、体躯を布団から起こすのは難儀なのである。
庭は逾よ春めいてきた。甘橙がもう実る時期になった。この果実は先年和歌山に住む旧友から送られてきたものである。自宅で栽培していたのだが、生憎ちょっと多く育てて了ったものだから是非とも引き取って欲しいと、大きな桧の木箱の中から実を取り出し終わると底に書留があった。馨吾はその年紀の端書に、書生と二人で幾日か経て戴いた。大変甘かったがちと多すぎたから次は僕の実家にでも分けて送って呉れ給えと書いた。その木箱の底に、書留と一緒にあった甘橙の種子を植え付けたのがそれである。当年まで抽斗に仕舞ったまま放ったらかしにしていたのを書生の村上が見つけて、実るかどうか解りませんが取り敢えず植えてみましょうと迫られたのである。今では馨吾の掌ほどまでに熟した。
馨吾はとうとう起き上がって室を出た。平屋のような一階に小さな二階をくっつけた一軒家である。懐かしい春の煖まった空気が台所に充満していた。彼の馘元の動脈はそれに憘んでいるようで急に震動を始めた。その震動は中々已まなかった。彼は紅茶を淹れた。彼が紅茶を好む理由として、一つには厭いな親爺の好きな飲料が焙茶であるのに対抗しているのと、もう一つには彼に宿る起床後の茫乎癖を醒ますのに最適だからである。後から考えてみれば、遊民という雅さを引き出すためには紅茶が丁度好いというのにも気付いた。しかし彼は、紅茶を注ぐ闃寂とした容子を、耳朶を触ってもいないのに又もや何物も見なくなって了った。尠くとも一部の人間には液体の滴る容子を茫乎と見て了うという欠点があると馨吾は思うことさえあった。
「おや越さん」と云って、二階から降りてきた書生が、甘橙を植えるよう催促した村上である。
この書生は、馨吾の親爺が業々雇ったらしい。大学を卒業して、一戸を構えるに当たった翌日、慇懃に学帽と詰襟とをしゃんと着込んだ好青年を静岡江尻の宅から送り付けてきた。馨吾からすれば好い迷惑である。しかし至誠と気概とを大いに尊ぶ親爺のことであるから、大方馨吾が無精な日常を営むことを抑えさせるためだろうと、彼は仕方なしに受け容れたのである。
「変な事件があったそうで。越さん識ってますか」村上はどっかりと腰を下ろした。
「僕は別になんでもかんでも変な騒動を識っている訣じゃありません」
そう云いながらも馨吾は新聞の冒頭に戻って細目から探し始めた。
「千里眼事件と云うそうですがね。なんでも訊く側としちゃ滑稽なもんですよ」
「識ってますよ。──毎日のように新聞に載ってたもんですから」
彼は後半の言葉を、その事件の記事を見つけてから放った。
「にしても人間らしい騒動でしたな」
「というと?」
「こうっと、騙し合いでしょうな。酷く俗臭がするんです」
「騙し合いですか。君はどっちが善か、悪か、解るんですか」
「そんなのわかりゃしません。俗臭に善悪とへったくれもないでしょう」
馨吾は悔しくも口を噤んだ。
「しかしね君。案外人の世は権謀術数ですよ」
「さいですか。考えてみりゃその通りですな。現に越さんだって、今に職に就くぞ就くぞと云っておきながら、ついぞ職に就くどころか探そうともしないじゃありませんか」
馨吾は少しムッとした。一介の学生に好い大人がからかわれては堪らない。慥かに馨吾には怠惰者という自覚はあるのだが、かといって就きたい職も就けるような職も生憎持っていないから、こうして毎日のらくらと生きているのである。
馨吾が書生を雇ってから識ったことと云えば、書生というのは実に大層主人を主人と思わないということである。一概に云っては良好な同種に失礼なのだが、充分な大学に通えている村上があのような態度なら、一概に云っても差し支えないだろうと思っている。その根拠として、彼が書生として親爺から送られてきたとき、いくつか根拠となる会話があったからである。
「お父さんから何か云われましたか」
「彼奴は放っとけば大変なことになるから、毎日一緒に食を摂って、時折世間話でもして遣って呉れ給え、そうすれば何とか愚人に至らない程度の均衡は保てるだろうから──みたいなことを云ってましたな」
随分と記憶しているものだ。──彼の長期記憶は大学の頃から承知している。きっと利己的で悠長な自由主義なのだろうというのが、馨吾が昔出会ったときの彼への第一印象である。
「君とは、慥かに大学で親しかったが、まさか書生になるとは予想もつかなかったな。──それで断わるようなら何だって云ってましたか」
「そのまま居坐って何日か経てばどうにかなると」
馨吾は長考した。思っていたよりも親爺が優秀であったのに彼は驚いた。もちろん血の継がった肉親であるから、息子の思考と了見ぐらい心得ているだろうと、だから先ず無理だと悟った。
「よろしい。なにぶん孤独は辛いものでね」
「それじゃ兎と同一です」
村上は揶揄した。不思議と馨吾はそれを、どうも悪いと思うことが出来なかった。
村上が寄宿してから数日も経てば、
「その癖は平生からですかな」とにやにやした調子で彼の癖をからかうようになった。
「ええそうです」
彼はこの時、このからかいは長く続くなと予想した。
「それで、色々捗るんですか」
「どうかな。五分五分ともいかないかな」
「それじゃ悪癖です」
「已めろと云ってもね、云十年とやってるもんだから」
「だから悪癖なんでしょう」
「しかしね君。僕は今まで、これといった失敗はないのだよ」
「でも今まででしょう」
そこまで云うなら、と馨吾は自棄になって訊いた。
「じゃあ君は、これといった悪癖がないと見える」
「どうでしょう。僕自身そんな了見はないのですが」
「その高慢さじゃないか」
「そうなると越さんがだいぶ偉くなっちまいますな」
「君からすれば偉いだろう」
「社会的にはどうです。同等でしょう」
「君、同級生に厭われているんじゃあるまいね」
「まさか。案外僕みたいな人間は結構居るんですぜ」
「僕の頃は些っとも」
「時代でしょう。越さんはきっと境目だったんですよ」
「そうなんでも時代で区切っちゃ拙かろう」
「拙かろうと云われましても」
「稚児っこしくはありませんか」
「人に因りますな」
「何の話だったか。やっぱり書生は皆生意気なもんだ」
「主人が主人でしょうに」
「慥かに僕は好くないだろうね。こう、帝国国民として見てみるに」
「僕だって出来るんなら毎日のらくらと暮らしてみたいものです」
「そう大人を見縊っちゃ不可ない」
「見縊っちゃいません。社会が軽く思えるのは学生の特権ですから」
「そうやって後悔するのも大人の特権だよ。一部だがね」
「越さんは悔やまなかったんですか」
「僕はね」
「驚いた。それなら僕も敗けちゃいられない」
「そうだ。そうやって信念があれば好い。その信念を持って大いにやって呉れ給え」
「まるで信念のない大人に云われましてもなあ」
「代わりに僕は丈夫な大人だ」
「さいですか。好い人生ですな」
村上が彼との会話を何気に楽しんでいるようだったから、馨吾は叱責したり憎悪を抱いたりもしなかった。
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