羽を売る浮浪者のこと
真夜中の渋谷駅では、ワゴンを引いた浮浪者が天使の羽を売っている。仕方がないからひとつ買うと、「もひとつくらい買えばいいのに」と嫌味のような声が聞こえる。仕方がないからもひとつ買うと、羽を生やした浮浪者は、木星に向かって飛んでいく。カラン、と一つ音がして、ワゴンも羽も霧のように消えている。
逆向き男のこと
エスカレーターで逆向きに立つ男を見た。ボサボサの髪、汚い作業服を着た痩男。ただ黒目だけが異様に大きかった。眼球は私をじっと見つめて動かなかった。沈んでいくエスカレーターの中腹で、二人の人間が向かい合って立っていた。私はなんだかとても怖くなって、男の黒目から目線を逸らした。
「よし、よし、よし…」
男が不意にそう言った。それっきり、覚えていない。
気が付くと私は職場の前に立っていた。青白い汗をびっしょりかきながら。
電波を拾った夜のこと
眠むれなくて、窓の外を眺めていると、ベランダに銀色の星屑のようなものが落ちている。誰かが落っことした、3Gの電波である。私はアイスピックでこれを砕き、ウィスキーに混ぜて飲み干した。呼び鈴が鳴る。玄関を開けてみる。ベレー帽を被った小男が、「3G電波を見かけませんでしたか。確かこの辺りで落としたのですが…」と呟いている。私は男を追い返し、椅子に腰掛けて、ふと、エッシャーの絵画について考えてみる。
遊星を殺した話
三日月に腰掛けてアブサンを飲んでいたら
通りかかった遊星に
「北極星はどちらでしょうか」と尋ねられた。
「へえ、あちらですよ」ふざけて西の方を指差すと
遊星は太陽にぶつかって、粉々に散っていった。
ハハハハ!
それが面白くって、アブサンをもう一杯。今夜は楽しみがいっぱいだ!
ヒッチハイク
中野のガード下、3つ目の角の隅にいつも見えるシルエットは、Kさんのものである。中年。小太り。禿頭。人の良さそうな笑顔に、黄ばんだストライプのシャツ。首にぶら下がる「火星」と書かれた段ボール。
昨日、久しぶりに通ったら、Kさんはいなくなっていた。無事に辿り着けただろうか。
深夜出勤
夜中に散歩をしていると、四丁目ですれ違った水瓶座が「遅刻する!」と、セーターのすそをひるがえしながら、大急ぎで夜空に昇っていった。
悪夢
なにか黒く、禍々しいものが、家に侵入している。煙のように増殖して、私を探して彷徨っている。それはリビングを通り、風呂場の前を横切って、今や私の寝室の目の前にいる。そして、少し空いたドアの隙間からするりと入り込み、ベットの側へ寄ってくると、手にしたナイフで私の心臓を一突きに…!
ここで目覚めた私はムクリと起きた。汗だくのまま玄関へ行き、締め忘れていた鍵を閉めると、再び眠りについた。黒いものは、もういない。
Something lighter
「何も知らない!何も知らない!」
とアラン・チューリング氏が言った。
「いやしかし、あれはプラスチックの香りですよ」
とクルト・ゲーデル氏がそう返した。
遠くの電信の中から
「ふ、ふ、ふ」
と少女が笑う声がする。
名前のない本のこと
自宅の本棚に知らない本が置いてあった。気になって抜き出すと、表紙も中身もまっさらだった。つまらなくって投げ出すと、窓から覗いた満月が「それは俺のだ」と怒鳴りながら、月光を伸ばして攫っていった。
電信柱に登った少女のこと
小学生くらいの女の子が、電信柱に登っていた。手を伸ばして、インターネットに触れようとしていた。けれど、残念ながら届かなかった。
その日から世界中のモニターについた少女の指紋に、気がつく人は誰もいない。

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