VIII
彼はもともと絵描きなのだ。
彼は写真のような絵を描いていた。
写真のように描くのは難しいことじゃない、と、彼は言う。少しばかりの根気と仕事の丁寧さが必要だとは思うけど、それは練習すればなんとかなる程度の技術だよ。昔は写真のように描くことには前衛的な意味があったんだ。わざわざ写真のように描くんだ。カメラで撮影すればいいのにあえて写真を模すんだよ。おかしいだろ。だけどね、絵画だとか美術だとか多くの人が楽しむようになって、改めて写真のような絵画が評価されたんだ。すごい技術だ、ってね。写真みたい、というのは上手とか下手よりもわかりやすい。技術の高さは芸術的な価値の高さとは無関係だ。だから、写真みたいな絵そのものに芸術的価値は全くない。その気になれば誰でも描ける。伝統工芸の技術よりはるかに簡単だ。僕は、そんな絵しか描けなかったんだよ。
彼は自虐的に微笑みながら語る。
そんな絵、描きたい奴が描けばいい。
古今東西、いろいろな絵を真似てみた。具象も抽象も試したし、絵の具や画材もいろんなものを使ってみた。だけどね、よくわからないんだよ。自分がどんな絵を描きたいのか。自由に描けばいいと言われて、自由に描いたつもりでもどこかで見たような絵になってしまう。誰かの模倣をしているつもりはないけど、気づかないうちに模倣している。そんな感じだ。これはきっと僕ばかりじゃない。同じようなところに陥っている絵描きは多いけど、不思議と彼らはそれでいいと思っているんだ。誰かみたいな絵を描いてどんな価値があるのかな。僕には全くわからない。最終的に行き着いたのが写真のような絵だった。描いているという実感が持てた。でも、まるで面白くない。絵を描くことそのものは嫌いじゃないのだけど、その結果、つまらない絵ばかりできあがる。がっかりだよ。つまりは芸術的なセンスが乏しかったんだ。才能以前にセンスがなかった。
結局たどり着いた結論は、描いた結果としての作品など僕にとってはどうでもよく、描くことそのものに浸っていたかったんだってね。
肝心なのは仕組みじゃなくて結果だ、なんて言っておきながら、僕には結果を見つけられない。だからこそ、その重要さを知っている。ということにしておいてくれ。本当は何にもわかっちゃいないんだけどね。
彼は自分に描けない絵が描きたかったんだという。
矛盾に満ちている。どんなに見たことのない絵を描けたとしても、描けてしまったら描けない絵ではなくなる。だが、その矛盾がエネルギーの源になるのではないかな……あきらめたように語る彼ではあるけれど、その言葉に耳を傾けるのは心地いい。彼はあきらめることを後ろ向きだと思っていない。できないことはできないのだから、できることをすればいい。もしも矛盾を力にできるのなら、是非そうするべきだ、と。
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