II
眼球とカメラの基本構造は全く同じ、といっていいだろう。
凸レンズがあって、レンズを通した倒立像が所定の場所に投影される。違っているのは投影された映像を処理するシステム。それから材質や細かい仕様といったところだ。
基本構造が同じだからといって、ヒトの目を模してカメラが作られたわけではない。大昔からカメラオブスキュラ……ピンホールカメラは知られていた。レンズも古くから知られており十世紀には拡大鏡として利用できることが知られていた。十六世紀にはカメラオブスキュラとレンズを組み合わせることで鮮明な写像が得られることがわかる。まさに今日のカメラの原型がここにできあがる。同じ頃、眼球の主要な部位、つまりものを見て感じる部位であると考えられていた水晶体がただのレンズに過ぎないことがわかり、眼球とカメラオブスキュラの類似性が指摘される。
カメラはカメラの歴史があり、眼球の構造の解明はそれとは別の歴史を持っている。それぞれの発展や研究の結果を照らし合わせたら、両者は同じ構造を持っていた。唯一違う点は光学レンズと水晶体の材質に起因するかな。水晶体は厚みを変えて屈折率を調整するが、ガラスは厚みを変えられない。だからレンズを前後に動かして屈折率を変えずに焦点距離を調節する。限られた材料で作ったのだからこれくらいは仕方あるまい。
とても面白いと思わないかい。
ヒトが作り出した機械で、これほどまでにヒトの器官の構造と類似したものはあまりないんじゃないかな。マイクやスピーカーも鼓膜や声帯を振るわせるのに似てはいるけれど、カメラと眼球ほどの類似性はないよ。
ある意味、カメラは非常に完成された機械だ。ごく一部とはいえ神の創造とほとんど同じ仕組みの機械をお手本なしで作り上げるに至ったんだからね。神業だ。見る、ということについて、ヒトは神と同じアイディアを実現したわけだ。
彼は古い機械式の一眼レフカメラをもてあそびながら僕に語った。
僕は相槌を打つこともなく、彼の声に耳を預ける。これまでにも同じような話は何度も聞いているから、彼にとっては挨拶代わりなんだろう。
でもね、肝心なのは仕組みじゃない。
彼は僕の顔じっと見る。これもいつものことだ。
そのまなざしには何もかもを見透かされているんじゃないかと思わせる威圧感がある。僅かに焦点のずれているように感じる視線の先で僕の子供じみた思惑がもてあそばれているような気がする。だが、時に、彼には何も見えていないのではないかと感じることもある。深い皺に包まれたその瞳は、とうに視力を失っていて、ただ、見るという行動だけを模倣している。
肝心なのは仕組みじゃない。それがもたらす結果だろ。
彼はそう繰り返した。
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