XVII
彼は描く。
自分の意志ではなく、誰かの想像を実現するために描く。
僕はただのシステムだからね。資料や言葉をインプットされて、そこから誰かが求める絵をただ機械的に構築するのさ。人の想像力の範囲を超えなければどんな物でも描けるさ。もう僕みたいなスキルは不要になる。イメージの再構成なんてコンピュータでできてしまう時代だ。システムとしてはコンピュータの方がずっと優秀だ。絵だけじゃないね。音楽も文学も、想像力の限界を超えない限り、過去の膨大な創作物の再構成に過ぎない。人がわざわざ作るまでもなく、希望を正しく伝えさえすれば、イメージに適合した作品をいくつも提案してくれるだろう。僕らは、提案された中から適当なものを選べばいい。
技術の進化は著しい。
ただし、過去の創作物を超える物はできない。
目新しさの大半は組み合わせの妙でしかないから、それなりに新しい物は生み出せるけれど、それは既存のパラダイムにおいてのことで、再構成だけではパラダイムを転換することはできない。ポピュラリティの高い創作はできても、アバンギャルドな展開はたぶん不可能だ。
コンピュータにマルセル・デュシャンの“Fontaine”は生み出せない。
そこはやっぱり人の出番なんだけれど、どうなのかな。
パラダイムの転換を図るには、既存のパラダイムを知り尽くすことが必要だ。絵画なら描くことの基本を熟知することだと思う。
パブロ・ピカソが十代の時、すでに古典的には完成された絵画を描いていた。美術教師だった彼の父親は自分を遙かに超えた息子の作品を見て、筆を折ったと言われているね。デュシャンだって十代で、印象主義的な表現方法を自分のものにしている。彼らだけではない。歴史に残る多くの画家は後年どんなに破天荒な作品を作っていたとしてもしっかりとした基礎を習得している。だからこその前衛だ。
でも、自分で描く必要がなくなるのなら、人から絵を描く技術そのものがだんだん失われてゆくんじゃないかな。趣味で楽しむ程度の絵しか描けなくなりそうだ。絵が描けなくなれば、それを超える作品に至ることなどできないだろうね。守が満足に習得できなければ、破も離もない。
前衛にポピュラリティはない。既存の価値観では評価できないからこその前衛だ。
評価できないから別の価値が構築される。
それが進歩だ。
そして、文化から進歩が失われてゆく。
もう一度言っておくけど、技術の進化は、人の退化に等しいんだ。僕らは今、退化の渦中にある。なんとも愉快じゃないか。
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