XIII
腕をまっすぐ伸ばしてディスプレイに映る景色を見る。
世界が二重に重なったように感じる。
それが違和感の源なのかもしれない。
ほんの少し何かが違う世界が、スマホを翳し画面に取り込むことで発露する。
レンズの向こう側と同じようで何かが違う世界がディスプレイのフレームに続く外側にも広がっているようだ。そこでは、今わたしがしているのと同じように私そっくりの、だけど私とは違う誰かが同じように腕を伸ばしてディスプレイを覗いているに違いない。私と同じように二重になった世界を見ているに違いない。こちらを見ているのかもっと向こうを見ているのか、それはわからないけど。
そんな妄想を自ら鼻で笑う程度の良識は持っているつもりだけど、他の人に想像力豊かだよね、なんて言われると、少し抵抗したくなる。
これは空想とか想像とか、幻想とか虚構とか、そういうレヴェルのお話じゃなくて哲学なんです。私たちの存在に関する問題なんです。常識とか良識なんていう言葉を言い訳に私たちは思考停止に陥るのです。フィクションとかファンタジーと決めつけて、大切な問題を包み隠すのです。わかりやすさは偽りです。誰もが理解できる説明は、いつも肝心な何かを取りこぼすのです。私が何をどこまで理解しているかなど些細なことです。誰にも理解できないことが重要なのです。理解を超えることが本質に近づくためのたったひとつの方法なのです。どうですか? 向こう側の私を仮定することは、こちら側の私の存在をとらえ直す手がかりになるでしょう。私たちはお互い写像なんです。間違ってはいけません。複製されているわけではなく、映し出されている。何かが違っているのです。たぶんそれは空間的な、数学的な、座標の構造。スケールが違うのか、次元が違うのか、考えられ得る可能性はきっと多々あるでしょう。だから、どちらが、どれが本物というわけではありません。それぞれが本物で、それぞれが偽物で。
こんなつまらないことを考えてると、自分は偽物じゃないかと思えてくる。偽物だから何かが足りなくて、偽物だからピントが暈けてて、偽物だから思慮が浅い。私が偽物である限り、本物の私と出会うことはないのだと思う。私は写像で、幻影なんだ。もっとも本物の私、なんているのかな。私は全部偽物なんじゃないかな。どんな世界にいても、どんな次元に存在しても、偽物であることが私自身の本質なのかもしれにない。どこかに本物がいるのかも知れないけど、本物と偽物は、偽物と偽物よりのも決定的に違う。それは、きっと私じゃない。そんな本物には興味が持てない。
感じる私がここにいる。考える私がここにいる。
本当に、いる?
カメラアプリのシャッターボタンを押す。シャカッという電子的につくられた偽物の機械音と同時に景色が切り取られ、重なった世界が離れてしまう。
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