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片羽を落とす (3/6)

片羽を落とす(第3話)

加藤那奈

なんだか楽しかった。
すごく、でもなく、とても、でもなく、ちょっとというわけでもなく、普通に、ノーマルに、純粋にただ楽しかった。
こんな気分は久しぶりだと思った。

タグ: #ファンタジー #散文 #純文学

小説

16,375文字

06 大きな温室があった

 

年が明け、お正月、二十歳のお祝いとつつがなくイベントを迎え本番で誂えてもらった振り袖を着たのは私だったけど、晴れ着姿の記念写真をスタジオで撮ってもらおうということになり、その日取りはなんだかんだ理由をつけてもう一方の私の時にした。トーセーはクリスマスもそれぞれに考えてくれたわけだし、イブ当日はあっちに任せちゃったけど、思ってていたより楽しかったし、嬉しかった。だから、写真撮影のためではあるけれど、やっぱり私には晴れ着に袖を通した思い出を共有して欲しかった。

交換しているメモには「ありがとう」の一言があった。自分からお礼を言われるなんておかしな気分だ。できあがった写真を見たとき複雑な気持ちになったのも事実だ。そこに映っているのは誰が見ても私だけれど、私じゃないんだ。

そして二月といえば、バレンタイン。

一年前は恋人同士になって初めてのバレンタインだったから、なにげに力の入った手作りチョコをトーセーに贈った。今年はどうしよう……お互いのメモでも自然とそういう話題が出る。当日渡すのは私の番だ。

これは儀式みたいなものだから二度しなくていいという共通認識は早い内に確認された。
――じゃあ、前の週に私が材料用意しておくからつくるのと贈るのは任せた。
――了解。

これはこれで不思議な共同作業(?)だった。

クリスマスからバレンタインにかけての行事の中で、私と私の関係は、少しだけ変化したような気がした。

だからかもしれない。十二月に思いついた私に対する秘密をつくる、というアイディアをあらためて考えるようになった。

そして、私は私だけの日記を書くことにした。

掌に載るほどの小さなノートを買って、その日に思ったことや、来週の私に伝えるまでもないどうでもいいことを書き連ねる。落書き帳みたいなものだ。ただし、もう一方の私には見せない。読ませない。

結局、こんな秘密しか思いつかなかった。

ノートを開く。

いざ白いページを目の前にすると何を書けばいいのか困ってしまう。

『2月26日』

私はとりあえず最初のページに日付を書いた。

日記、だからね。

まずは、宣言、かな。

『私は、私だけの日記をしたためることにした。

これは、今、この手で綴っている私だけの日記だ。

半分の記憶しか持たない、この私だけの日記だ。

半分の記憶を分かつ、もう一方の私に対する秘密日記だ。

私が私に秘密を持つためのささやかな企てなのだ。

きっとつまらないことしか書けないだろう。

忘れてもいいような些細な出来事ばかりしか残せない。

でも、くだらない小さな思い出の集積が、半分の記憶しか持たない私のアイデンティティの基調となるのだ。

私にも、もちろん他の誰にも見せないことを心に決めて、一筆一筆言葉を連ね、白いページをだんだ埋めてゆく。これが私の痕跡だ。自分自身がいまここにいることを実感する。誰にも読まれることのない、この一文字一文字が私の存在証明だ。

願わくば、これが私の片割れであるもう半分の私に見つからないことを』

書いて恥ずかしくなる。私、何格好つけてるんだろう。

だから、もう一言。

『……なんてね』

これは照れ隠し。

書くには書いたけれど、それをどこに隠すかが難問だった。

自分自身の生活圏にしか隠し場所の選択肢がない。

引き出しの奥、カーペットの下、衣裳ケースの裏側、押し入れの隙間、シンクの裏、エアコンの室外機の下……思いつく限りの場所をあげてはみたものの、結局それは思いつく限りでしかなく、同じ脳細胞を働かせる私の頭なら、いずれ辿り着いてしまう場所でしかない。学校に隠す、トーセーの部屋に隠す、実家の私の部屋。挙げ句は一週間後の私に再び送られてくるよう、郵便とか宅配とかで手配できないだろうか、なんてことも考えたけれど、そこまで手の込んだことをするのもバカらしい。それに、どんなに工夫を凝らしたところで思考パターンが全く同じなら、いずれバレてしまうのは必然だ。もちろん、私が秘密の日記を書き始めたなんて教えはしないけど、そんな発想だって似たり寄ったりなのだ。ちょっとしたタイムラグがあったとしても、同じことを考える可能性はじゅうぶんにある。むしろ、部屋のどこかに私の知らない秘密日記が既に隠されていてもおかしくない。考えた末、やっと選んだ隠し場所に先客がいたとしても驚くほどのことではない。

『2月27日

この日記をつけることは、やっぱり自己満足なのだ。

半分の私だって、独立したひとつの私であることを確認するための自己満足。

もう一方の私から、独立した私。

こんな状態になって、もう半年以上過ぎてしまったけど、私の実感はその半分だ。いつの間にか夏が過ぎてしまった。学祭、ハロウィン、クリスマス、お正月。秋から冬はイベントが続くから、普通にしてても慌ただしいのに、時間をスキップしてる私には、あれよあれよという間だった。

学祭は土日に跨がっていたから、私も、もう片方の私もそれなりに楽しめて良かったけど、すぐにクリスマスで、私は本当のクリスマスを堪能できなかった。でも、あっちの私は暮れの慌ただしい中で眠ったら、もうお正月が過ぎてたんだよね。これから夏にかけてはどうなるのかな。次の誕生日も、このままなのかな』

『それがどんなに小さな出来事であっても、私は自分だけが体験したことについては優越感を感じていた。同じようにあっちの私だけが経験したことに、美味しいところを盗られたような気がして羨ましく、妬ましく思ったりしている。なんとなくわかっていたけど、あまり認めたくなかったし、気にしないようにしていた。だけど、こんなふうに書き記してみると、それがはっきりしてくる。はっきりしてしまう、なのかな。ちょっと怖い。自分に嫉妬する自分なんてやっぱりおかしい。でも、そんな感情の揺れ動きが、半分でしかない私を仮想的なひとつの私にしているのだとも思う』

『2月28日

二月最後の日。

明日は土曜日だから、私は明日眠ったら目覚めるのはその一週間先の日曜日だ。来週の私が徹夜だとか二度寝だとかした挙げ句に調整を失敗、なんてことがない限り、その予定。

大学の授業も試験も終わって一段落だ。春休み中にまとまったバイトでもすればいいのかもしれない。でも週をまたぐバイトはやっぱり躊躇ってしまう。女の子の友達たちと旅行のはなしも持ち上がっていた。せいぜい一、二泊だから日程さえ気をつければ全く問題ないけど、やっぱりどこかで気持ちが重くなる。遠慮しちゃうんだよね、来週の私に。だから、誘われそうな雰囲気になるとはぐらかしてた。幸い? 私が彼氏持ちだってみんな知ってるから、そうだよね~やっぱ彼氏優先だもんねぇ~、って、私の付き合いの悪さについてみんな勝手に納得してた。私、何にも言ってないのに……。もう一方の私と話し合っているわけじゃないけど、あっちの私もまとまったバイトや旅行を入れないのは、きっと私と同じ考えなんだと思う。

気にしなくていいんだけど、なんて。

でも、あっちも同じこと言ってるよね。気にしなくていいのにって。

その代わりに図書館でいろいろ本を借りてきた。春からはは三年生でゼミも始まり、講義内容も専門性が高くなる。予習、みたいなものかな。決して読書が好きなわけではないけれど、今できること、すべきことって考えると他に思いつかない。

もしも、私の記憶がこんなになっていなかったら、今頃どうしてただろう。この春休みをどう過ごしただろう。

さて、このノートの隠し場所、早く決めなきゃ。

でもね。

「願わくば、これが私の片割れであるもう半分の私に見つからないことを」なんて書いておきながら、本当は見つけて欲しいのかもしれないな、なんてちょっと思う。だからといって、すぐにバレちゃうようなところには隠さないけどね』

三日間、日記らしきものを書き終え読み返してみると、自分の複雑な気持ちがよくわかる。もう一方の私が、やっぱり私であることを感じて安心し、記憶がなくても私自身の判断や行動を信用している。できることなら何もかも共有したいと考える。でも、やっぱり私は落ち着かない。もう一方の私に対してほんの僅かだけど他人のように感じてしまう。気遣い、嫉み、優越感を感じている。その挙げ句、こんなふうに私は私に対する秘密、半分の私だけが知っている秘密を持ちたい、なんて考えてしまう。私はひとつになりたいのかな、それとも別々になりたいのかな……もちろん、もとに戻るのが一番いい。いい筈だ。でも、それってどんな感じなんだろう。この私に欠けていた記憶が戻って、もう一方の私にも記憶が戻る……ふたりの人間がひとりになってしまうみたいだ……もともと私は私ひとりでしかないのにね。

いろいろ思案した結果、お仕入れの奥にしまい込んである衣裳ケースに、ハンカチで包んで隠すことにした。今は着ていないけど捨てるのは忍びないので、とりあえず保管してある洋服の下の方に挿し込んだ。ここなら偶然見つかることなんて、まずない。

私の半分は、これを読んだらどう思うのかな。

私自身に照らし合わせて考えるなら、やっぱりねって思うと思う。

それに、あっちだって同じことをしているかもしれない。だからといって、私はそれを見つけ出そうとは思わないけど、もしも見つけちゃったら……きっと読んじゃう、けど。

ね、そうでしょ。

うん、そうだよ。きっと。

あ、これは私の脳内会議。

 

「それで、最近はどうなの?」

トーセーが電話の向こうで曖昧に質問する。

どうなのって、何が?

うん、いろいろ調子はどうなのかなって、その……記憶のこととか。

相変わらず、かな。

ねえ、リョーシー。

何?

「たまには、虫でも見に行こうよ」

三月の半ば、トーセーが私を誘った――バレンタインのお返しも兼ねて、さ。

ホワイトデーのプレゼントが虫観察、って……どうなの?

僕らしいでしょ。

うん、まあ、そうだね……。

学部を無事卒業し、春から大学院に進むトーセーは、虫と戯れる時間が確実に二年は延びてうきうきしていた。

「たまには、って、つきあいはじめてから虫なんて見に行ったことないよね」

「でもつきあいはじめる前かな。無理矢理押しつけられた一番最初のデートで虫を見たの覚えてないかな。標本だったけど」

うん。忘れようがない。

今度は生きてる虫を見に行こう。

私が虫嫌いじゃなくて良かったね。

虫嫌いだったら、博物館の標本を眺めながら延々語る僕に呆れて、さっさといなくなってたでしょ。

そうかもね。

実家のある街は、いかにも地方都市で、街の中心にある駅前はそれなりに開けてはいるけど、ひとつ隣の駅にある私の家の近くには野原のような空き地もあったし、子供の足でも十分歩けば田圃や畑や林があった。男の子はもちろん小さな頃は女の子だって蝶々やセミやバッタを追いかけていた。だから、積極的に好きというわけではないけど、毛嫌いするほどのものでもない。ただし、足のいっぱいあるのはダメかな。芋虫毛虫もぞっとしない。あと、あの忌まわしきG。

以前尋ねたことがある。

トーセーは虫好きだけど、Gは?

「ああ、あいつらね。うん、昆虫だよね、あいつらも。考えようによっては魅力的なところもあるんだよ、ご先祖さまは恐竜の頃よりも遥かに昔からいたわけだしね。もともとは森でこそこそ暮らすシャイな奴だったんだ。今でも森で暮らすネイティブなGも世界中にはたくさんいるよ。一見同じような姿形だけど種類もいろいろいる……僕もね、随分前だけど努力はしたんだよ。だけど仲良くなれなかったな……だってすぐ逃げちゃうんだもん。虫とだってね、コミュニケーションが大切なんだ。それを端から拒否されちゃうとね、どうしたって仲良くなれない」

仲良くなろうとはしたんだ。

した。

翌日、私のアパートの最寄り駅で待ち合わせた。

電車を乗り継ぎ、モノレールに乗った。トーセーが連れて行ってくれたのは郊外の丘陵地にある大きな動物園だった。

動物園なんて子供の頃以来だ。

小学校の頃、あるいはもっと小さいときだったかも知れない。両親が何度か都心の動物園に連れて行ってくれた……私が思い出すのは、ゾウとかゴリラとかキリンとかいろんなサルとかライオンとかそんなありふれた動物ばかりだ。あ、パンダも見たっけ……あと、独特の獣の匂い。汗と排泄物が混ざり合ったような匂い。日常生活の中でならほんの少し漂うだけでもものすごく臭いんだけど、動物園だと気にもしない。

ここに虫がいるの?……確かに虫だって動物には違いないけど……。

昆虫を集めて飼育している施設があるんだよ。ここの昆虫館はけっこう有名だよ、とトーセーは当たり前のことのように私の顔をちょっと馬鹿にした目で見たけれど、それはどの辺りで有名なのかな?

丘を登ったところに大きな温室があった。植物園みたいだ。

「たとえ虫嫌いの女の子でも、ここならぎりぎり許してくれるんじゃないかな」

トーセーに促されて温室に入ると、数えきれないほどのチョウが舞っていた。

「一応、人気のデートスポットだしね」

ここには、常時約千羽の蝶が飼育されているんだ。あ、ちなみに蝶の正式な数え方は一頭二頭、ね。でも、なんだか可愛らしくないから、公式な場面じゃなければ僕は一羽二羽って数えることにしてる。頭じゃなくて羽で数えたいよね……えっと、カラスアゲハ、オオゴマダラ、スジクロカバマダラ、ツバベニチョウ、タテハモドキ、ムラサキマダラ、かな……。

トーセーがちょっとした蘊蓄を交えながら色とりどりのチョウを指差しその名を呟く。

「さすがムシオタク」

「蝶の名前なんて間違ってても、リョーシーにはわからないでしょ」

うん……でも、蝶々の名前をそんなに知っているだけで感心する。

「ところで問題。昆虫の脚は何本?」

六本。それくらいは知ってる。

それじゃあ。

「昆虫の体は大きく三つの部分に分けられるんだけど、知ってる?」

頭と胸と腹、だっけ。小学校の時に習った。

「オーケー。でも、忘れちゃってる人、多いよ。じゃあ、中学校レベル。昆虫は大きくふたつの仲間に分けられるんだけど、どんなのとどんなの?」

ふたつ?

うん。

えっと……飛ぶのと飛ばないの?

トーセーの目が笑った。

じゃあ、水の中にいるのと陸にいるの……違う?……硬いのと、軟らかいの……?

まあ、微笑ましい答えで悪くないけどね。生態とか姿形じゃなくて、成長過程の違いで分かれる。まず卵から生まれて幼虫になるよね。それから?

ああ、そうか。知ってる。思い出した。蛹だ。蛹になるやつと、蛹にならないやつだ。

そう、その通り。

「生まれた時は芋虫で、蛹になって姿を大きく変えちゃうのが完全変態。チョウがそうだね。カブトムシみたいな甲虫類、ハエとかハチとかも同じ仲間だ。卵から出てくる幼虫も成虫とよく似た形をしていていて、蛹にはならず脱皮しながらだんだん大人の体に成長してゆくのが不完全変態。バッタが代表的かな。他にはけっこう姿は変わるけど、セミとかトンボ。そうそう、Gもこっちだね。他に種類としてはごくごく僅かだけど、幼虫と成虫の違いは大きさだけでカラダの構造が全く変わらない無変態っていうのもいる。進化の歴史の中では、蛹になる昆虫の方が新しいタイプなんだよ。蛹の時期を挟んで芋虫とは全く別の体をもった成虫になる。蛹の中は体がどろどろに溶けてるんだよ。一度自分の体を全部分解して、もう一回新しくつくってるんだ。蛹の中で何が起こっているのかはまだ謎が多い」

彼の説明を聞きながら、あらためて、虫がトーセーの専門分野なんだと思った。一年余りの付き合いだけど、生きているチョウをふたりで眺め、初めてそれを実感した。普段はほとんど虫のことなんて進んでは話題にしない。会話の合間にちょっとだけ出てくることはあるけれど、私が飽きない程度で終わりにしてる。彼なりに意識しているみたいだ。これまでの彼の経験で(?)女の子に虫の話題はNGなんて思ってるみたいだし。

「もしかして、蛹がトーセーの研究テーマなの?」

いや、そういう難しいのは誰かに任せる。僕は虫を見ているのが好きなだけなんだ。こんなふうに飛んでる蝶々なんて一日中見ていても飽きない。昔は昆虫採集をして、標本なんかも作ってたけど。部屋に飾ってあるやつね。でも、やっぱり動いていないと面白くない。こんな小っちゃい奴らでも、人からどんなに嫌われている奴らでも、生きてるのさ。何考えてるんだろうね、こいつら。

トーセーが差し出した掌にオレンジ色のチョウが留まった。

「これから僕がしようとしているのは、アリの観察、かな。小学生の夏休みの自由研究みたいで可愛らしいだろ。アリも完全変態だ。完全変態の昆虫ってね、たいてい幼虫と蛹の時期の方が成虫になってからよりも長いんだ。成虫が卵を産む。卵が孵って幼虫が生まれる。幼虫が成長に必要な栄養をたっぷり蓄える。じゅうぶん準備できたら蛹になって、体を改造する。そして成虫。成虫に残されたもっとも重要な仕事は雌が雄と交尾して受精した卵を生むこと。もっとも蟻とか蜂は女王だけが産卵して、他の多くは卵を産まない代わりに巣を守り、食料を調達して幼虫を育てる。繁殖が組織化されてて面白いんだけどそれは例外ね。結局、変態の結果形作られた成虫の体は繁殖用にリメイクされた特別な体なんだよね。すごく巧妙に進化した結果なんだけど、その目的は、ただ世代を継続させることだけなんだ。こいつらを見てるとね、いろんなことを考えてしまう自分が馬鹿らしくなってくる。人だから、人間だからって、みんな何かと人間を特別扱いするけど、個体の数から言えば、虫たちの方が圧倒的に多いんだよ。虫だけじゃない。地球上のあらゆる命を足し合わせたら、人間の数なんて比べものにならないくらい微々たるものだ。人と虫けらの命を一緒にするなって言われそうだけど、それはどうしてかな。人の方が知性があるから優れてるのかな。言葉を交わして感情をぶつけ合うから尊いとでもいうのかな。たぶん、それは僕たちヒトの思い込みなんだよ。あるいは身勝手で自己中心的な思想、かな。だったら、お前、虫に生まれ変わってもいいのかって聞かれたことがあるんだけど、僕はいいよ。虫だろうとバクテリアだろうとかまわない。もっとも虫に生まれたら、それを良かったとか不遇だとか考える頭もない。そんな空威張りみたいな知性を持って優越感や劣等感に浸りながら生きる方が絶対いいなんて僕は思わない……あ、つい語ってしまった。別にこんな話をリョーシーに聞かせたかったわけじゃないよ。ただ、ここの蝶たちきれいでしょって見せたかっただけ。最近、浮かない顔をしてることが多かったからね」

え、そう?

うん。

えっと、もう一方の私も?

そうだね……今年に入ってから、そんな顔を見かけることが多くなった。だから、今日はちょっとした気晴らしだよ。こんなところしか思いつかない僕もどうかとは思うけど、ほら、カップル、いっぱいいるだろ。そういう場所になっちゃってるしね。虫最優先の僕としては、こんな素敵な場所でいちゃいちゃデートだなんていかがなものかと思わないでもないけどね。もっとも、今の僕らもそのうちの一組だけど。

トーセーの目はひらひらと宙に羽を翻す小さな命を追っていた。

私が浮かない顔をしていた理由はなんだろう。もちろんスキップしている記憶が最大の原因だとは思う。それは間違いない。半年以上たって半分ずつの記憶とその対処にも慣れてはきた。でも、いつまで続くのか……いつか終わりが来るのか、それとも一生このままなのかはわからない。あまり考えないようにはしていたけれど、それでもぼんやりとした不安として抱えているのはわかっていた。違う。不安をはっきり感じていたけど、一生懸命意識の外へ追い出そうとしていた、のほうが近いかな。最近の私と私の関係を思い浮かべながらそう思った。大学三年になり、四年になり、卒業して就職する……そんな当たり前の生活に半分ずつの私は、私と私は、上手に対応していけるのだろうか。

私の肩に黄色いチョウが留まった。羽を閉じて一休みしているようだ。

空威張りの知性が空回りしている。

それが今の私なんじゃないかな。

「トーセー、お願いがあるの」

うん、虫に危害を加えないことなら、なんでも。

来週の私もここに連れてきてよ。

うん、もちろんそのつもり、だよ。バレンタインのお返しだからね。倍返ししなきゃ。

なんか計算がおかしい気もするけど……。

私は彼にもこんなに気を遣わせている。

ありがと。

「トーセーと出かけたことは伝えるけど、どこでなにをしたかは内緒にしておくね。その方が、あの子も楽しみじゃないかな」

「了解」

その日は閉園時間まで動物園で過ごした。

なんだか楽しかった。

すごく、でもなく、とても、でもなく、ちょっとというわけでもなく、普通に、ノーマルに、純粋にただ楽しかった。こんな気分は久しぶりだと思った。

トーセーのことも私はまだまだよく知らないことがわかった。ただのムシオタクではなく、子供の頃になりたかった虫博士を目指す矜持の高いムシオタクだったし、生物つながりだからと、普通の動物についても詳しくて、それぞれの動物の柵の前で、ただ可愛いねとか、大きいねとか、他のカップルみたいなたわいのないやりとりではなく、生態だとか体の構造だとか、専門じゃないから薄っぺらな知識だけどねと断りつつ、嬉しそうに解説してくれた。

あ、そうだ。あと、とっても広い柵の中でキリンが走ってた。走っているキリン、初めて見た。

また、彼と動物園に来たいと思った。秘密の日記には、今日のことしっかり書いておこうと思った。トーセーには負担をかけてしまうけど、来週のあの子も、きっと私と同じように楽しく思うに違いない。それもなんだか嬉しかった。

そして、後から気がついたのだけれど、私はもう一方の私を「あの子」と呼んでいた。自然に、あの子、と呼んでいた。

© 2025 加藤那奈 ( 2025年4月13日公開

作品集『片羽を落とす』第3話 (全6話)

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