10
あなたは鉛筆を握りしめたままじっとしている。
あなたと主は、画廊の中央に、背中合わせで座っている。六人の少女に囲まれて、彼女たちの視線が集まるまさにその場所でスケッチブックを広げている。
あなたの背後からは鉛筆がさらさらと紙を擦る音がする。だけど、あなたの指先はまるで動かない。絵なんてどう描き出したらいいのかわからないことも理由のひとつではあるけれど、それ以上に身体が何かに押さえつけられているようで動けない。ここへ来て、脚を竦ませていたときと似ている。あなたの周りだけ時間が停滞しているのではないか、そんなふうにも感じた。
「彼女たちの中からひとり選んで描いてみて下さい」
「この絵の中の子、ですか」
「そうですね」
「模写、ですか」
「そうですね。そう考えてもらってもかまいません」
主は少し考えてから、小さく頸を傾げた。
「模写、というのは絵をそのままに写すことですけど、絵を写す、というよりも彼女たちのうち、ひとりの肖像を描くような気持ちかな。そっくりに写そうとか、上手に描こうではなくて、あそこに目つきの悪い女の子がいるな、こんな感じの顔かなって、ね」
でも、それは結局あの絵を写すことになるんじゃないかとあなたは思う。彼の言わんとしていることは、気持ちの持ちようでしかない、と、あなたは勝手に解釈する。
気持ちの問題が大事なんですけどね。
「まあ、なんでもいいですよ」
主は説明が面倒にでもなったのか、あなたにそのニュアンスを伝えることができないと思ったのか、投げ遣りに笑った――好きに描いて下さい。
自分は絵心なんて持ち合わせていないとあなたは思っているでしょう。
その通り。あなたは頷く。
でもね、絵心のない人なんていないと思うんですよ。だって、小っちゃな子供の時は誰だって楽しそうにお絵描きしてるじゃないですか。クレヨンやクレパスでグニャグニャの線を描き殴りながら、無邪気にこれはお父さん、こっちはお母さん、これはイヌで、あっちはネコ……なんてね。子供の頃には無茶苦茶に重なった色や形にもちゃんと現実に応じた意味があったんですよ。そこには確かに絵心なるものがあったのです。私たちは歳をとって忘れてしまうのだけど、失ってしまったわけではない。いろんなことを知りすぎて、人の目が気になって、上手だとか下手だとか、意味があるだとかないだとか、理論的だとか感情的だとか、合理的だとか、そうじゃないとか、損得だとか、大人の眼差しを根拠にした二元論的な価値にまみれて、物心つく前には無邪気に発露していた感性が心の奥底に封じられているだけだと思うんですよ。それを再び引っ張り出すのはたやすくない。それこそ、いろんな絵描きたちが試しています。子供たちの絵に近づこうと、かつて持っていたはずの表現の神髄を取り戻そうと必死に模索する画家も少なくありません。この少女を描いた画家にもそんなところ、ちょっとだけあるんじゃないでしょうかね。
だからね、適当に描けばいいですよ。
適当、ですか……。
適当でいいですけど、誠意をもって、かな。
主はちょっと真面目な顔をして、難解なことを言う。
あなたは自分のすべきことが今ひとつ理解できないまま、螺旋階段の左側に掛かっている絵の少女を選んだ。おかっぱ頭で金色の目をしていた。
ネコみたいな子だ。
その時、彼女の目がぎらりとした。
気のせいだ。でも、あなたにはその目がじっとあなたの顔を見据えていると感じた。その印象にあなたは捕らわれてしまう。
冷たくも温かくもない、感情の押し殺された眼差しは鋼のように重くて硬い。
空気が止まる。時間が凍える。あなたは身動きできなくなる。
ここに来たときと同じようにあなたの時間だけが滞り、世界の時間が勝手に進む。
「蛇に睨まれた蛙みたいな気分、ですか」
背中から声がした。
わかり、ますか?
「あなたの緊張感がひたひた伝わってきますよ……私も、そうですから」
凄く睨んでますよね、みんな。疑っているような、軽蔑しているような、抗っているような。別にこっちが悪いことをしているわけではないのに思わず弁解したくなるような目付きですよね――全く筆が、というか鉛筆ですけど、進みませんか?
はい。
まあ、そうなるんでしょうね。少し予想はしていましたけど。この画廊に来た途端捕らわれていましたからね、あなたは。だからこそ、もしかしたらとは思ってもいたんですけど。彼女たちにとても気に入られたようなのでね。まだまだあなたが生真面目な大人のままだからその子も警戒してるんですよ。上手に描こうとか、私に笑われたくないな、なんて思ってるでしょ、やっぱり。
主はぼそぼそと話しながらさらさらと鉛筆の音をたてる。
ああ、私ですか。私も大人ですよ、生真面目かどうかは別として。だから、彼女たちの視線痛いほど感じます。でも、そこは強行突破です。伊達に美術を勉強していたわけではありません。技術と経験ですよ。まあ、気楽に、気楽に。白い紙を汚すくらいの気持ちでどうぞ。もっとも、私はあなたの描いた絵を見て笑うかも知れませんが、そんなこと気にしているから彼女たちが許してくれないくんですよ。
さっき、笑わないって言いませんでしたか?
ああ、言いましたっけ……じゃあ、笑いません。頑張りますよ。
なんだか笑われるの前提ですか?
そんなことありません。
彼の言うことはどこか禅問答めいていて、あなたはやっぱりよくわからない。
彼があなたに何をさせたいのか、自分が今何をしようとしているのか。どうしてこうなったのか。だが、彼との会話でいくらか開き直ることができた。
ふっと力が抜けて身体が動く。
とりあえず、白い紙の端に今日の日付を書いてみる。
あなたがあのギャラリーを後にして、ビルの外に出てみると街はもう暗くなっていた。一時間、せいぜい二時間くらいのつもりが四、五時間経過したことになる。やっぱり時間の流れが狂っていたに違いないとあなたは思う。
主に暇を告げて螺旋階段を上り、地下一階の寂しげな廊下に出ると空気が身体に馴染む。宇宙から大気圏に突入したらきっとこんな気分に違いない。階段を上り、外に出ると湿った暑さが身体に纏わり付く。うんざりするような不快感にあなたはあなた自身の現実を取り戻す。
無事、帰還。
街を歩くうち、あの白い空間は本当に存在したのだろうかと、後にしてまだ十分と経たないうちに疑わしくなる。都会のビルの地下に突如として現れた蜃気楼だったのではないか――そんな愚にもつかない空想を許してしまいたくなる。
あなたはあの画廊でようようのこと一枚の絵を描いた。
目の前の絵に描かれた少女に似せて描いてみた。画廊の主はあなたのために硬さの違う五本の鉛筆を用意してくれたけれど、結局あなたが使ったのは硬くもなく軟らかくもない、最初に手にしたHB一本だけだった。
白い画面の上の方に今日の日付を書くことで、あなたは少し気持ちが楽になった。好きなように描けばいいという、画廊の主の言葉にしたがって、まず睨み付ける目を描いてみることにした。なんとなく描きやすそうだと思ったのだ。向かって右側の目、レモンのような形の中に丸い虹彩。輪郭をとってみたけれど上手くない。漫画のように単純化された少女の絵だから、もう少し上手に写せると思っていたけれど思い通りにはなかなかいかない。あなたは小学校だか中学校の写生大会を思い出した。教師が見たままを素直に描けとかなんとか言っていたけれど、それが一番難しいんじゃないかと心の中でふてくされたことを思い出した。
あの、消しゴムありますか。
消しゴムね。使わない方がいいかな。その代わり……と、グニャグニャした白い練り消しゴムを渡された。いつどこで覚えたのか忘れてしまったが、あなたは練り消しゴムのことは知っていた。子供の頃に指先でくちゅくちゅ揉んで軟らかくし、引っ張ったり伸ばしたりして遊んだ記憶がある。だが、消し具としてどう使うのかはよくわかっていない。
擦るんじゃなくてね、上から抑えて鉛筆を薄くするんですよ。黒鉛の粒をくっつける感じですね。完全には消さない方がいい。うっすら残して、違うなと感じるところを修正するつもりで描き直すんです。
画廊の主の言葉に従い、何度か描き直すと、なんとなくそれらしくなってきた。
次に向かって左側の目。
顔の輪郭。
頭髪、鼻の穴、真一文字に結ばれた口。
できあがってみれば、絵の中の少女に似てなくもない。
下手くそな絵には違いないが、大人になってから絵など一度も描いたことがないあなたにしては上出来だろう。
あなたはひどく疲れた。
いつの間にか主が傍らに立ち、あなたのスケッチブックを覗き込んでいる。
いいんじゃないですか。悪くない。残念だけど、これじゃあ笑うわけにいきませんよ。それじゃあ、約束通り、私の絵と交換しましょう。
彼は、自分のスケッチブックから破り取り、あなたに差し出した。
そこには、目つきが悪く表情の硬い少女の肖像が一瞬写真と見紛うほど写実的に描かれていた。確かに彼が選んだ絵の中の少女に似ていた。
――お上手ですね……。
あなたは他にどう言えばいいのかわからない。
――お上手にしか描けないんですよ、私は。だから絵描きとしては無能なのです。
あなたは、彼の描いた絵と彼が選んだ少女とを何度も見比べた。
どうですか。そんな女の子があの絵の向こう側にいるような気がしませんか。どこかに居そうな女の子でしょ。
あなたは蒸し暑い夜の街を歩きながら、画廊での出来事を思い出す。主の描いた少女の肖像はあなたの薄っぺらなショルダーバッグに入っている。
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