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少女の肖像 (3/3)

少女の肖像(第3話)

加藤那奈

旧友のメガネの奥の少し爬虫類にも似た眼がじとりと僕を睨んだ。
――だから俺はお前のことが大嫌いなんだよ。
・・
どうですか。そんな女の子があの絵の向こう側にいるような気がしませんか。どこかに居そうな女の子でしょ。
(2018年)

タグ: #ファンタジー #散文 #純文学

小説

17,088文字

09

 

少女はいつも取り残される。

やがて居場所を失い、迷子になる。

よく知っている街なのに迷子になる。

景色は変わらないのに、裏道も、抜け道も知っているはずなのに、上手に見つけ出せなくなる。いつも通りすがる道なのに、思っていたところに行き着けない。角を曲がるとずっと向こうの通りに出てしまう。この道がどこに繋がっているのかわからない。これまでに描いた地図が役に立たない。行きたいところに行けない。帰りたい家に帰れない。

迷路のようだ。

苛々する。

不安になる。

悲しくなる。

寂しくなる。

袋小路に突き当たる。

こんなとこに壁なんてなかったもん……。

引き返しても、角を曲がっても、目の前に壁がある。とうとう街のどこかの大きな辻に追い詰められてそこから出られなくなる。そして、いつもと同じ景色を残して少女の街は失われてゆく。

街と一緒に少女の持っていた何もかもがなくなってゆく。
――それは少女が破綻する間際のことだ。

だけど私は知っている。

知っていた。

前から。ずっとずっと前から知っていた。

私には不条理としか思えない突然の出来事を拒否したいけれど、結局は受け入れざるを得ないことを思い出す……そう、思い出しちゃうの。結局、全部が予定されていたの。それを思い出しちゃうの。どうして忘れていたのかな。いつの間にかすっかり記憶をなくしてしまう。そして、たぶん――確かめる術なんてなんにもないから、たぶん、だけど――同じことを何度も何度も繰り返している。最初は何にも知らない小っちゃな子供で、だんだん大きくなってゆく。お父さんがいて、お母さんがいて、友達がいて、男の子がいて、女の子がいて、近所のいつも小言ばかり言うおばさんがいて、笑ってばかりのおじさんがいて、散歩しているお爺さんがいて、日向ぼっこしているお婆さんがいて、先生がいて、花屋さんがいて、お肉屋さんと八百屋さんがいて、お巡りさんがいて、イヌが何匹もいて、ネコもいっぱいいて。私には小さな街も大きな世界で、未だその果てを知らないの。知らないことをたくさんたくさん教えられた。知っていることがたくさんたくさん増えた。きっとこうやって大人になってゆくんだって信じていた。信じていたんだよ。信じていたのに。

街の色がほんの少しずつ変化してゆく。

彼女だけを除け者にして、彼女以外の全てが変わってゆく。

彼女が自分自身で、ほんの少しだけ大人に近づいたかなと嬉しくなった分だけ世界は彼女に冷たくなっていた。彼女を取り巻く全てが僅かずつ離れてゆく。色彩がじわりじわりと色褪せてゆく。

あまりに僅かな変化だから、最初は彼女もそれに気がつかない。そして、いつの間にか思い出の方が現実よりも彩り豊かなことを不思議に思う。

でも、そういうものだと思ったの。
頭の中の思い出は、きっと塗り絵みたいなものなんだって。きっと自分で好き勝手に、色を塗っているんだなって。幸せが、できるだけ幸せに見えるように、ちょっと余計に明るく、ちょっと余計に鮮やかに、クレヨンとかクレパスみたいなぎらぎらした色で、自分勝手好き勝手に塗りたくってるんだって。それが本物とはちょっと違う偽物だとわかっているけれど、でも、私にとっては正真正銘本物で、思い出って、そういう本物っぽい偽物を大事にしまっておくことだなんて、大人ぶって達観したつもりになっていた。気がつかなければ、いつまでもいつまでも幸せが続くのにね。でもね、気がついちゃうんだ。そんなのやっぱり嘘だって、迷子になって気づくんだ。迷子になって、街に、世界に、私の手が届かなくなる。見えているのに、周りにあるのに届かないんだよ。

苛々する。

不安になる。

それはこれまでに何度も繰り返されていることだけれど、彼女自身に自覚がない。だから、不安になって、困り果てて、悲しくなって、戸惑う。

少女は辻を通りすがる人たちに一生懸命声を掛けてみる。けれど誰一人として振り向いてくれない。友達も、近所のおばさんもおじさんも、いつもと変わらずそこにいるのに彼女の言葉が通じない。向こうの方にはお父さんとお母さんがいて、手を振る少女に大きな声で応えてくれてはいるけれど、それは聞いたことのない外国語みたいで何を言っているのかわからない。
言葉さえもが彼女から逃げてしまう。

たぶんね、私の代わりがそこにいるんだ。私のいた場所に、別の誰かが割り込んだ。そんな感じなんだよ。もうずっと前からはじまっていたのかもしれないって気がつくの。そうすると、私が記憶の奥の奥のずっとずっと奥の奥に抱え込んでいた、いくつものいくつもの思い出が、バサバサ重なるの。重なって、ぎらぎらに彩られていた原色の思い出がぐちゃぐちゃ混ざり合って、鉛色の塊みたいになってゆく――わけわかんない。

わけわかんなくなって、わかるんだ。

一瞬だけど、全部わかるんだ。

彼女は自分が失われてゆくことを悟るのだ。

何もかもが失われて、何もかもを失って、全てを忘れるその瞬間に、同じことを幾度も経験していることだけを理解する。

そうだよ。

百とか千とか、万とか億とか、そんなもんじゃない。数えきれないくらい。でも、そんな数の多さなんてどうでもよくて、そういうものなんだって、これまでもこれからもそうだったじゃない、そうなんだよねって、ふうっと気持ちが楽になる。私が失われるのは、本当は私自身を保つため、なんでしょう。私、私、私、なんて自己主張する私じゃなくて、もっとざっくりとした大雑把な意味での「私」なんだよ、大事なのは。だからね、私を私から切り離す。私の世界を私から切り離す。私の記憶を私から切り離す。そして本当のただの私に還るんだよ。

あなたが見ている私はね、きっと誰かの残像なんだ。

気がつくと周りの街は消え失せて、少女はどこかの窓際に立っていた。

窓から中を(それとも外を?)覗いていた。

向こう側の景色を睨み付けていた。

微動だにせず、ただ、一点を見つめていた。見つめる先に、睨みつける先にうろうろとした影が映る。彼女の視線に戸惑うような、逃げ出したくとも逃げ出せなくて困惑しているような、あるいはその視線を跳ね返し、あるいはにらみ返し、少女に挑む獣のような影が映る。少女の視線が確かに何かを射貫いている。だが、それは同時に彼女をその場に留め、少女自身の動きを封じる。
どうだろう、射貫かれ抗っているのは私の方じゃないのかな。

私はさながらガラスケースの標本みたいなものね。

針で突き刺された昆虫標本。

しかもとっても地味な標本。さらさらできらきらの鱗粉が綺麗な模様を描くアゲハチョウではなく、光に艶めかしく彩られる硬く整った楕円形のタマムシでもなく、中身を掻き取られてその無様な形だけを残されたイモムシの標本。モンシロチョウでもなく、コガネムシでもテントウムシでもなく、将来何になるのか、何になれたのか誰も知らない、未来をなくしたただの幼虫の標本。時間を止められ、空っぽの身体で永遠に夢を見る。現実を失い、自分の本当の姿を知らず、いつまでも夢の中で私は私を誤解しながら、窓ガラスの向こうに溢れる光の中に視線を合わせる。

でも、幼虫の標本集めなんて、ちょっとマニアックすぎない?

つまりは、そういう類いのマニアなの?

少女は眼差しの先に問いを放つ。

そう言えばさあ、イモムシが蛹になって成虫になることを変態っていうのよね。異常性癖のヘンタイと同じ字を書くから、なんだか凄く恥ずかしいじゃない。チョウの変態、カブトムシの変態。なんだか意味が違って見ちゃうのは私が思春期まっただ中のせいかしら。トンボやバッタは不完全変態だったっけ。ヘンタイになりきれなかった?

イモムシは、その思い出を成虫になるまで持っているのかな。

チョウになったとき、ミカンの木だとかキャベツだとかの葉っぱの味を思い出すのかな。

ストローみたいな口をくるくる伸ばして花の蜜を吸いながら、なくなってしまった顎で葉脈に沿って咬み千切っていたその歯ごたえを懐かしく思うのかな。

それとも蛹の中でどろどろに溶けて、全てをなくしてしまうのかな。

少女はもはやどこでもない場所でどうしようもなくぐるぐる走る。

同じ場所を何回も何回もぐるぐるぐるぐる走り回る。

彼女の過ごした世界がもうすっかり遠離り、置いてきぼりにされてしまったことを、無条件で受け入れなければならないことを知りながら、それでも諦めきれずにぐるぐる走る。彼女の記憶の中でさえ、街は微かな余韻になり果てる。間もなく全てを失う彼女には、残された場所も時間も限られている。だから、まだ走ることが出来るうちに全力で走る。彼女の軌道がだんだん小さな円になり、ついには窓辺でくるくるくるくるスピンする。

だって、そうしていればきっと私の中身も溶けちゃうからね。

彼女の中身が遠心力に撹拌されて、身体の中からこぼれ落ちてゆく。

そして、彼女の残像が、かつての世界に螺旋を描く。

© 2025 加藤那奈 ( 2025年2月3日公開

作品集『少女の肖像』最終話 (全3話)

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