08
ある日、僕は手紙をもらった。
封筒の裏側には、知らない男と画廊の名前が書かれていた。
全て手書きだった。
とてもきれいな文字だと思った
今は特定のギャラリーやエージェントと契約していない。だから何かあれば僕に直接連絡がある。画廊からのコンタクトはたいてい作品についての問い合わせや展覧会のオファーで、読んでみれば案の定、展覧会を開いて欲しい旨が綴られていたのだけれど、この手の依頼はたいていビジネスライクにタイプされている。手描きの手紙はきわめて珍しい。そもそも最近は郵便をあまり使わない。主に電話かもしくは電子メールで、依頼の詳細や企画書も添付ファイルで送られてくる。白い封筒、白い便箋にインディゴのインクでしたためられた手紙をもらったことなど私信ですら記憶の彼方だ。
だから、少しばかり印象には残っていた。
それから、こんなことも書いてあった。
――ちょうど三十年前、私が二十五歳の時にドイツであなたとお会いしています。私はデュッセルドルフに友人を訪ねました。その時、友人にあなたを紹介されました。そして滞在中、友人と三人で街を散策したり、一緒に食事をつくったりしました。帰国する前日、お世話になったお礼としてあなた方にお寿司をご馳走させていただきました。なんだか恩着せがましい言い方ですね。ごめんなさい。でも、私が「食べたいものは?」と尋ねたとき、あなた方が打ち合わせでもしていたかのように声を揃えて「寿司!」と言ったんですよ。それがとても可笑しかった。
僕が留学している頃のエピソードだ。
確かに僕がアルバイトをしていた寿司屋があって、その店で何度か誰かに奢ってもらった記憶はあったけれど、誰に、どんな理由でご馳走してもらったのかは忘れてしまった。
――もし、そんな出来事を覚えていたら、あるいは思い出すことがあったなら、展覧会の依頼はさておきご連絡していただければ嬉しく思います。
三十年も前のささやかな出来事だ。全く思い出せなかった。
少し世間に名前が知られるようになると、たいした付き合いもなかったのに旧交を温めようと連絡をしてくる者たちがたくさんいた。中には久しぶりに会話が出来て嬉しく思った相手もいたけれど、それは数えるほどで、大半は学生時代に挨拶する程度の付き合いしかなかった連中で、名前も顔も思い出せない奴さえいた。その馴れ馴れしい対応を僕はただただ不愉快に思うだけだった。
きっとそういう輩のひとりだろう。
そう思った。
だから、返信はしなかった。そして、慌ただしい日常の中でその手紙のことも思い出さなくなった。
それから一年くらいした頃だろうか。
美術雑誌の記事でこれから始まる展覧会のスケジュールを眺めていたら、たまたま懐かしい名前を見つけた。僕と同じ時期、同じアカデミーに留学していた旧友だ。わりと珍しい名字だから、同姓同名の誰かではないだろう。近々個展が開かれるらしい。お互いの環境が変わって疎遠になって今では全くの音信不通なのだが、懐かしさもあいまって、どんな作品を制作しているのか見てみようと思った。
会期の半ば、僕は多くの画廊が点在する街に足を運んだ。若い頃はこの街で仲間たちがしばしば展覧会を開いていたからよく通ったものだけれど、最近はとんとご無沙汰だった。僕自身の活動拠点がこの街のギャラリーではないこともひとつの理由だけれど、それ以上に訪れる理由がなくなってしまったのだ。仲間達の一握りはある程度の評価を得て、それに伴い発表活動のステージも変わった。僕もそのひとりに数えていいだろう。そして、多くは一線をリタイアした。いや、フェイドアウトかな。作品制作そのものを止めてしまった者もいるだろう。生活を別の仕事で支えながら作品制作は続けている者もいる。だが、そういった連中も身の丈を見限ってしまったのか、中央のギャラリーで個展を開くことなんて考えてもいないようだ。
だから、雑誌で旧友の名を見たときは、ちょっと嬉しくもあった。
会場になっているギャラリーは古いビルの地下にあった。
gallery M ――
名前はなんとなく聞き覚えがあったけれど、たぶん最近新しくできたのだろう、初めて訪れるギャラリーだった。
地下一階の廊下の突き当たりにあるガラス張りの入口は、古びたビルに不釣り合いなほどモダンで、入るとすぐに螺旋階段がありそこから地下二階のギャラリーへと降りる。白い空間が足下に広がっている。不思議な浮遊感に襲われながらフロアにたどり着くと天井の高い四方の壁に格子模様のような抽象絵画が十点展示されていた。
平日午後の中途半端な時間帯だったせいか、展覧会を見に来ている人は誰もいない。
僕はひとつひとつをじっくり眺める。
油彩だった。キャンバスはスクウェア、つまり正方形で。全て同じ大きさだ。チタニウムホワイトの強い白、べったりとした赤はカドミウムレッドだろう。アンバー、シェンナ系の幾種類かの茶に、くすんだ緑はテルヴェルトかな……生々しい絵具遣いでハードエッジに描かれたチェックの下に塗り残しのような絵具が滲んでいる。目の細かい麻のキャンバスは下塗りされてきれいに目地をつぶしている。
生真面目な作品だと思った。
難解ではないけれど、観念的に見えてしまう作品だと思った。
良くも悪くも評価のしにくい作品だ。
新しくもないが、古臭くもない。作者がどれだけ意図しているのかはわからないが、ありそうでなさそうな、なさそうでありそうな、どこか既視感を誘う画面だ。評論家やキュレーターが熱心に取り上げれば、パブリックコレクションとして美術館が所蔵する程度の評価は得られそうな作品だと思った。もっとも、その程度の作品を制作する作家はいくらでもいる。
画面に顔を近づけて、半光沢の画面をじっくり見ていると奥から誰かが出てきた。
眼鏡をかけた小柄な人物だった。
展示された作品の作者だった。
「やあ」
「よお」
向こうも僕がすぐにわかったようだ。
「久しぶりだね」
「うん、二十五、六年経つんじゃないか」
「どうしてる?」
「まあ、なんとかやってる。それよりお前の方は凄いじゃないか。今や巨匠だろ」
ちょっと揶揄した口調で、巨匠、という。
「やめくれ。僕はただ好きなように描いてるだけだ。運がよかった」
「運も、よかった、だな。俺はお前の絵、全く好きじゃないけど悪くないと思ってる」
「そう。一応、ありがとう、かな」
「別に好意で言ってるわけじゃないからお礼なんて筋違いだよ。それよりなあ……今日はどうした。近くに用事でもあったのか?」
「いや、この展覧会を見に来た」
わざわざ?
わざわざ。
「それは悪かったな、こんなところまで足を運んでもらって……でも、どうしてこの展覧会、知ったんだよ。画廊からもDM送ってないはずだけど」
ああ、うん、たまたまね。
「まあ、秘密にしているわけじゃないから、どこからか情報は入るか……だけどな……」
奴が困ったような顔をする。
「お前には見て欲しくなかったな……」
どうして?
「こんな有名人がひょっこり見に来るなんて思ってなかったもんな……俺さぁ、昔お前に言われたこと、未だに気にしてるんだよ」
「僕が何か言った?」
「うん。俺の絵を見てさ、『頭で描いてちゃダメなんだよ』ってな」
ああ。
まさに、僕が言いそうなことだった。
現代美術は理論武装が必要だ、なんて言われていた。美術の歴史の先端に立ち、全てを引き受けた上での現代だ。作品の歴史的な意味を意識するべき、そして作品のコンセプトは明確であるべき――そんな雰囲気が漂っていた。だが僕はそんなことに意味があるとは思えなかった。作品は頭の中でつくるものじゃない。作品をロジックで塗り固めるのは少なくとも作家の仕事じゃない。理屈を前提に描くなんて言語道断。
「でもな、やっばり頭で描いちゃうんだよ。だから絵面は変わっても、本質的に昔と何も変わっちゃいない。情けないし、恥ずかしい」
「変わっちゃいないのは僕も同じだ」
「だからさあ、俺はお前の絵、嫌いなんだって」
僕は彼との会話にほっとしていた。二人とも見るからに歳を取ってはいたけれど二十数年の隔たりを全く感じなかった。それは、現在の境遇がどんなに違おうと、互いの作品に相変わらず批判的であろうと、それぞれの作品制作に於いて誠実な証拠だと思った。僕らの美術に対する姿勢は失われてはいない。だから、僕の作品を彼が嫌っていてもかまわない。むしろ、そんなことを本人の前で堂々と言い放つ関係が未だ保たれていたことに嬉しささえ感じた。
僕らの声を聞きつけて、奥からもうひとり白髪混じりの男が、手に缶ビールを三本抱えて出てきた。
こんにちは。よかったら、いかがですか、と、僕にビールを差し出した。
頂きます。
「ああ、紹介するよ。このギャラリーのオーナー」
僕らは互いに自己紹介した。彼は僕のことを知っていた。
「そりゃ、現代美術に関わっていれば、お前の顔くらい知ってて当然だよ……ていうか、お前たち、昔一度会ってるんだけどね……三十年くらい前」
どこで?
デュッセルドルフで。夏休みに俺を訪ねて遊びに来てたんだ。一週間くらいだったと思うけど。
あ、ああ……。
俄にあの白い便せんの青い文字が脳裏に映った。
彼があの手紙の主だった。
面白いもので、三人で話していると少しだけ記憶が蘇った。
奴のアパートで、毎日いろんな種類のパンを買ってきては食べていた男がいた。
いろんなビールを買ってきて飲んでいる男がいた。
その男に寿司を奢ってもらったような気がした。
そこは都会の地下二階に穿たれた、世界と隔絶されたシェルターのような、あるいは偶然ぽっかり空いてしまった、どこにも属さない余白のような空間だった。十年、二十年といった時間の感覚さえ無効にするような浮き世離れした場だと思った。螺旋階段が突き通された丸い孔は、ワームホールのように時空をすり抜ける。
次元の裂け目。
特異空間。
――その時、僕は思いついたんだ。
彼女たちをここに連れて来るのはどうだろう。
僕は描き上げる度、絵の中の少女の声に耳を傾ける。だが、彼女たちの言葉は僕に届かない。でも、現実から乖離しているかのような空白の場所ならば彼女たちの声がもう少し響くかも知れない。
「去年もらった手紙の依頼、まだ、有効ですか?」
もちろんです。
白髪混じりのオーナーが僕をじっと見た。
「ここに僕の作品を飾ることが出来ればと思います。別に三十年前の旧交を思い出したことが理由ではありません。それが全くないわけではありませんけれど、それ以上に、このギャラリーに……いや、この地下二階の空間に興味をそそられました。ただし、確約はできません。いろんなしがらみがあるのでね。実現できたとしても、二年、あるいは三年先になりそうです。その代わり全て未発表の新作にしますよ。この空間のための作品をつくります」
それはなんとも魅力的な提案です。
オーナーが嬉しそうな顔をしつつも、ちょっと困ったように首を傾げる。
でも、二年、三年先ですか。
何か問題、ありますか?
そうですね、問題と言えば問題かな……その時まで私は頑張って、このギャラリーを失わないように維持しないといけませんね。
うん、頑張って維持してください。絶対に失わないように。それから……。
それから?
予め断っておきます。おそらくギャラリーの利益にはあまりならないと思います。作品の売買はせず、きわめて個人的な展覧会をしてみたい。その代わりフィーもいらない。
きわめて個人的な?――たとえばどんなことでしょう?
そうですね……秘密の展覧会、かな。告知しない、宣伝しない、開いていることを誰にも教えない、とか。
僕の言葉を聞いた二人がポカンとした。
何言ってんの、お前……旧友が眼鏡の奥で呆れていた。
彼らの反応は正しい。宣伝しない展覧会など開いたことにはならない。僕らの間に行き場のない空気が淀んだ。だが、二呼吸ほどおいた後、それを弾き飛ばすようにオーナーが笑いをかみ殺しながら、何度も頷いた。
いいですよ、かまいません。最高の提案だ。是非ともお願いします。
彼は僕に握手を求める。
私はね、一年前、このギャラリーを開くときなぜだがあなたの絵をこの空間に並べてみたいと思ったんですよ。私があなたへの依頼を思いついたのはただそれだけの理由なんです。なぜそう思ったのか自分でもよくわかりません。直感です。インスピレーションです。だから、もともとあなたの作品で商売しようなんて思ってません。ですから、私にとっても個人的な展覧会ということになりますね。この際だから、正直に打ち明けます。私もあなたの絵が好きだというわけではない。彼とそこは意見が一致してます。好きか嫌いかなら、むしろ嫌いな方だ。でもね、いい絵だとは思っています。なんだか私、高飛車な物言いですね、あなたほどのアーティストに、身の程もわきまえず。でもね、だからこそ、ここに並べてみたいと思ったんですよ。失礼なのは自分でわかっています。でも、ここは正直にいきたい。もし気を悪くされたなら、ご破算でかまいません。
本当に失礼だ。
僕はなんだか楽しくなっていた。
この際だから僕も言っておきます……実は僕も自分の作品、あんまり好きじゃないんですよ。むしろ、今ここに展示してあるこいつの絵の方が僕はずっと好きです。ただし、いい絵かどうかとなると別だけど。
旧友のメガネの奥の少し爬虫類にも似た眼がじとりと僕を睨んだ。
――だから俺はお前のことが大嫌いなんだよ。
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