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彼は三年間の浪人を経て美術大学の油画科に入学する。
高校を卒業し大学に入学するまでの間、彼はただひたすら入学試験のための絵を描いていた。この国の美術大学はどこも実技試験に重きを置く。語学などの学力試験もあるが、高校で普通の成績をとれていればそれほど難しくはない。だが、実技においては優れた大学ほどレベルが高い。だから美術大学進学専門の予備校に通い毎日朝から夕方まで絵を描く。実技試験に見合った技術や表現力を身につける。
「今はどうだかよく知らないけれど、僕らの頃は三浪なんて特に珍しくもなかったよ。面白いのはね、絵が上手くっても落ちる奴はいるし、ちょっとばかり拙くっても合格する奴もいる。実技試験は試験会場に用意されたモチーフを、一日とか二日とかかけて油絵具で描くんだけど、本来長い時間をかけて絵具の乾き具合を確かめながら制作する油彩にはまるで一瞬みたいに短い時間で、いってみれば一発勝負、だ。出題されるモチーフの得手不得手も必ずあるし、けっこう緊張するんだよ。その時々のコンディションもあってさ、調子が良ければぐいぐい筆が進む。悪ければ画面がどんどん荒れてゆく。実力を発揮できないことも、実力以上の絵が出来てしまうこともある。結局僕は志望校に三回落ちて、三年間、受験のための絵ばかり描いていた。あの期間は一種の修行だったね。描写の基礎力を確実にするという意味では無駄じゃなかったと思ってるけど」
三年も浪人してるとね、絵が好きとか嫌いとか、描きたいとか描きたくないとか、もうそういう感覚ではなくなっちゃうんだ。鉛筆や木炭でデッサンしたり油絵具を弄ることが日常になっていった。良くも悪くも、ね……彼は、やや自嘲気味の笑みを浮かべる……とにかく大学、入りたかったし。でも、ちょっと窮屈だったかな。もっと自由に描きたいって心のどこかでずっと思ってた気がするよ。
彼が自分自身の表現手段として絵画を真正面から意識したのは大学に合格してすぐだった。浪人の三年間、ひたすら受験のために絵を描いてはいたが、その一方で頻繁に美術館やギャラリーに足を運んだ。その中で同時代の画家や現代的なさまざまな作品に触れる。伝統的な具象絵画、近代的に抽象化された具象絵画、抽象絵画、キャンバスを離れオブジェと化した絵画でも彫刻でもない美術作品、幻想的な作品、観念的な作品、無秩序で意味不明な作品……様々な形式に溢れていた。材料さえもう何でもありで、日用品として生産されたプラスティックの容器さえ美術作品の材料となっていた。伝統的な絵画や彫刻を源流とした多様な作品群から今日の混沌とした美術の世界が見えてくる。それらの全てに対して理解できるか、共感できるかはさておき、単に絵を描くというだけでは収まりきらない美術があることを知る。そして、彼は、大学入試を乗り越えたとき、その混沌が目前に立ちはだかることもわかっていた。だから、合格発表で自分の受験番号を見つけたその瞬間から、美術の世界に立ち向かう覚悟をもった。つまり、時代の中で自分自身の作品の意味や意義や価値を模索し、誰のものでもない彼自身の表現を獲得しなければならないと考えた。
普通の大学のことはよく知らないけれど、美術大学の、しかも油画とか彫刻なんていうファインアート系の学科はね、入学した途端、君たちはそこそこ絵を描く技量を持っているから、実はもう既に作家なんだけど、いきなりじゃあちょっと可哀想だから四年間の猶予をあげるよ。だからその間に技術を磨くなり、美術に対する考え方を自分なりに深めるなり、作品に対する考え方に筋道立てるなり、あるいは制作しながら生計を立てる手段を手に入れるなりして何とかしなさい、なんて放り出されたも同然なんだ。僕は三浪している間に、先に入学していた友達や現役の学部生や大学院生でもある予備校講師の話もいろいろ聞いていた。だから、突然放り出されて自分自身の作品を模索する苦悩はまあまあ想像できたけれど、受験に藻掻く身としては、とても贅沢な悩みに思えたんだ。僕は早く放り出されたかったんだね。どんなに苦しみあぐねて
いいから、自分の作品のことだけを考える時間が早く欲しかった。
だから、彼は合格発表の瞬間に作家になった。
彼は、自分の作品のことだけを考えた。
でもね、実際自分のこととなると本当に苦しかったよ。
いざ、自由に自分の絵が描けるぞ、と、喜び勇んだ途端、何をどう描けばいいのかわからないんだ。中学や高校の美術部で活動していたときの方が自分らしい絵を描いていた。別に個性的な、という意味ではなく、凡庸な絵であっても自分自身が素直に出せていた、という程度だよ。でも、それはあながち軽んじちゃいけないことで、幼少時の素直さにも似ていたんじゃないかと、今、あの頃を振り返るとそう感じるんだ。十四歳や十七歳の僕は何かを掴みかけていたんじゃないかな。いや、掴んでいたんだよ、きっと。無知と未熟なればこその境地、だったかも知れない。だけどね、無知と未熟故に自覚できなかったことでもあるんだよ。自覚する、知る、というのは本来言葉にも形にもできないことを、敢えて自分の言葉や目に見える色形に翻訳しながら想像力の内側に引きずり込むことだと思うんだ。でも、それは完全なトランスレーションじゃない。理解できた(!)なんて実感した途端、理解しきれない何かを取りこぼす……そんな仕組みなんじゃないかな。普通の生活をしてゆくだけなら、そんな些細な取りこぼしなんて無視してしまった方が単純で、全てわかった気分にもなれる。そのほうがきっと都合がいいんじゃないかな。でも、絵を描く、作品を制作するという行為は全くもって非日常なんだ。その辺に転がっている石ころがときに希少で高価な宝石にさえなる。だから僕らはね、自分の理解を疑わなければいけない。取りこぼしたものを這いつくばって探さなければいけない。そう思うんだ。自覚できないが故に掴んでいたものの手触りを忘れちゃいけない――物事の本質は、自分の理解を超えたところにあるんだよ。
だから彼は、自分の想像力を越えたところに着地点を求めなければならないと思った。
僕はね、僕自身が見たこともない、想像したこともない絵を描かなければいけなかったんだ――言うは易し、だね。
彼にはそれが不可避な矛盾を孕む試みであることなどわかっていた。だからといって、避けることの出来ない道であることも直感していた。辿り着くことの出来ない彼岸に向かって抜け出すあてのない迷宮に足を踏み入れる。だが、たとえ不完全な、出来損ないの結果ばかりを垂れ流すことになったとしても、他に選択肢はない。
他の道はないんだ。もっとも、進まず立ち止まるっていう手もあったし、それはそれで悪くないんだよ。つまり、自分の想像力の中だけに留まること。たいていの絵描きはそうしてるんじゃないかな。ある程度まで突き進んだら、結実するかどうかわからないような無駄な努力は止めて、自分の足場を固める。そして、そこで精一杯頑張る。もっとも、本人はそれでも前に進んでいると思っているかもしれないけどね。まあ、それも悪くはない。ただ、僕にはあんまり面白いことだとは思えなかったんだ。
作家を意識した彼は同時代の美術に対して、ただただ違和感を覚えていた。
新しい表現を追求する最先端の美術は、コンセプチュアル・アート、ミニマル・アートに至り、究極にまで到達する。美術は抽象絵画すら凌駕して「何もしない」ことまでを芸術表現として受け入れてしまう。その一方で過去の作家や作品への模倣に留まる作品群がイマジネーションの限界を超えることなく感傷的に制作される。彼は、どちらにも組みできなかった。誰も見たことのない想像力を越えた絵を描きたい。それは、ただ新しいということではないし、過去に参照できるものでもない。自分自身にしか決して描くことの出来ない絵を、ただ当たり前に描きたいと思っていただけなのだが、それがどんな絵だか思い浮かべることができなかったし、見つけ出す方策もわからない。
とりあえずね、好きなように好きなものを描いてみるんだ。風景、人物、静物。ああ、僕はあくまでも具象絵画に拘っていた。いや、抽象表現に限界を感じていたから具象であるべきと思っていたのかな。キャンバスに向かって筆を走らせる。いろんな画材や技法を試してみる。でも、ことごとく過去に登場した作品の模倣に見えてしまう。苛々したね。もやもやしたね。そんなとき、ちょうど欧米でも具象的な作品でありながら現代性を評価されるポスト・コンセプチュアル、ポスト・ミニマル的な作品群が登場しはじめた。アンゼルム・キーファー、フランチェスコ・クレメンテ、デヴィッド・サーレ、ジュリアン・シュナーベル、ジャン=ミシェル・バスキア……多くの作家がニューペインティングなんて呼ばれてたよね。僕にはちょっと救いだったけれど、でも、ダメなんだ。彼らの強さは彼らが引き受けている歴史の重さや、近現代の欧米的社会に対するアイロニカルな姿勢なんだ。抱えるバックボーンが決定的に違う。僕はそう思った。極東のこの地に生まれ、この国の経済成長と共に生温い平和と豊かさの中で育った僕には出来ないことだった。彼らを模倣する友達たちはいっぱいいたけど、それはとても白々しい。表面的な追従に意味は無い。僕には結局出来なかった。
彼はもやもやした気持ちを抱えたまま、それでもとにかく絵を描いた。大学を卒業し、大学院に進む。奨学金を獲得して留学をする。とにかく作品をつくる時間を捻出したかった。それは、まだ負けてはいないけれど、勝つための糸口が一向に見つからない延長戦をひたすら戦っている気分だった。
留学先にドイツを選んだのは、なんとなく肌に合いそうだったから、と彼は笑う。
だってフランスとかイタリアとか、なんか僕には似合わないでしょ。アメリカとかイギリスとかも同じ理由。そんなふうに消去法で考えたらドイツになっちゃった。まあ、デューラーやクラナッハは好きだったから、いいんじゃなかなってね。
貧乏留学生だったよ。奨学金といってもたいした額ではなかったからね。美術はお金がかかるんだ。絵具だって安くない。バイトしながら画材を買って絵を描く。その合間に、先生だとか仲間と美術について絵画についてディスカッションする。その繰り返し。時間があればあちこちのギャラリーや美術館を見に行ったりね。フランスやイタリアにも行った。電車で行けちゃうだから便利だよね。日帰りでアムステルダム、とかね。お金も時間もそんなに余裕があったわけじゃないのに、若さと体力のなせる業だね。よくやっていたと思うよ。
ある時ね、と、彼はニヤリ顔を歪める。
ルーブルに行ったんだ。パリのルーブル美術館。そこでとある作品を見た。きっと誰もが知っている世界一有名な絵だよ。何だと思う?
彼は、この時の話を誰かにするのがとても好きだった。
いつもいつも嬉しそうに語った。
モナ=リザ、だよ。レオナルド・ダ・ヴィンチのね。モナ=リザの微笑み。そんなに大きな作品じゃないことは知識として知ってはいたけど、美術館で見た本物は想像していたよりも小さな絵だった。だけどね、とっても存在感があった。凝縮された重さのようなものを感じたんだ。かけがえのない絵だと思った。ダ・ヴィンチがずっと自分の手元に置いていた理由がわかったような気がした。それでね、僕は気がついたんだ。僕はこんな絵が描きたいんだ、ってね。作風とか技術とか、そういうことではないよ。あの絵の横に飾られても、負けないくらいの絵が描きたい。恐れ多くて勝ちたいなんて思っちゃいないけど、あっさり負けない絵を描くべきだってね。画家としての目標が見えたんだ。それはとてつもなく遠い道程だということはわかっている。辿り着くまでの地図なんてないし、たぶん一生かかっても辿りつけないかもしれない。それに相変わらず、どんな絵を描けばいいのかはわからなかったけれど、とりあえず何だか霧が晴れたような、そんな気がした。
だからね、とっても安易なんだけど肖像を描こうと思ったんだ。モナ=リザに倣って女性の肖像をね。その考えには手応えがあったんだ。根拠を問われると困るんだけどね。あ、そうだ、これだ、間違いないって感じかな。
ただし、彼はただの肖像を描く気はなかった。
抽象的な肖像、と彼は言う。
誤解をしないでね。抽象的な表現方法で肖像を描く、という意味ではないよ。肖像という抽象的な概念を描くんだ。モナ=リザだって、肖像の抽象性を引き出していると思うんだ。だから、絵画としての存在感が半端ない。この絵のモデルはとある商人の奥さんだといわれてるけど、どうなんだろう。ダ・ヴィンチは誰かの似顔絵を描いたんじゃない。究極の肖像をジョコンド婦人を入口にして導き出した。そういうことだと思ってる。
彼は彼の絵のモデルとなるべき対象を模索する。具体的な個人ではなく、概念としての存在を模索する。そして、間もなく彼女たちに出会う。
うん。だって彼女たちは、僕にとって絶対的に未知の存在なんだ。対象は未知であり、未知で有り続けることが重要なんだ。
彼は何枚も何枚も、少女という概念を描くことになる。
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