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少女の肖像 (1/3)

少女の肖像(第1話)

加藤那奈

ギャラリーは白い。
壁も床も天井も白く、白々しい光に溢れている。
・・
壁には巨大な少女の肖像が六点、展示されていた。
あなたは、何かに促されるように部屋の中央に立ち、彼女たちを見渡した。
そして、拘束された。
(2018年)

タグ: #ファンタジー #散文 #純文学

小説

16,026文字

02

 

彼は子供の頃から絵を描くことが好きだった。

物心ついた頃からクレヨンやクレパスを握っていた。

そうだね……きっと僕は言葉を喋る前から絵を描いていた。誰だってきっとそうじゃないかな。イヌという言葉を知る前からイヌを描いていたし、ネコという名前を覚える前から、いろんな色や模様のネコを描き分けていた。

描き分けていた、なんて表現は誤解を招きそうだね。

なんだか天才みたいだ。

でもそうじゃないよ。イヌを描いていた、ネコを描いていた、なんていっても所詮子供の落書きだよ。画用紙にぐるぐる渦巻きを描き殴っただけのポメラニアンやジグザクをいくつも重ねた三毛猫だ。他の子供たちと一緒だよ。だいたいみんなそんなもんでしょ。ただ、僕の場合は描き始めると時間を忘れて没頭していたらしい。放っておくといつまでもクレヨンを握っていたらしい。だから、手のかからない子だったと母は笑って話していたよ。スケッチブックとクレヨンやクレパスを置いておけば、勝手にお絵描きを初めて、いつまでたっても止めようとしない。心配になるほどだったってね。こんな話をすると、それこそが僕の画業の原点なのかって勘違いする人が多いんだけど、それはない。物心つく前に夢中で描いていた絵が今の僕の作品に繋がっているなんて思わない。繋がってないよ。だって、子供の僕と今ここにいる僕は別人なんだ。大人になってしまった僕にはね、子供の頃、何を感じてクレパスで殴り描きすることに夢中になっていたかなんてまるで見当もつかないんだ。きっと小さな僕は何かを感じて、何かを描こうとしていたんだよ。きっとね、幼いなりの目的や意志があったんだ。すっかり忘れてしまったし、たとえ覚えていてももはや理解できないんじゃないかと思う。だから、今の僕には子供のように描くことなんて出来ない。子供のような絵を描くことはできても、子供のように描くことは不可能だ。

子供の絵って、とても魅力的なんだよ。どんな子供の絵でもね。全ての子供は芸術家だ、なんて言う人もいる。確かに無垢な感性で描かれた作品に芸術の可能性を見出していた近代の画家たちも少なくない。でもね、僕は思うんだ。子供の無垢な感性で描かれた絵は、決して芸術たりえない。大人が子供の中に芸術を見出すことは出来ても、子供は芸術家の自覚を持てない。僕はね、思うんだよ。画家だとか、芸術家だとかは他人から与えられる称号ではない。自らの内側に発掘してゆく属性なんだ。

化石みたいにね。

ならば子供はジュラ紀の恐竜みたいなものなのかな。

地層深くに眠る化石はね、発掘されて初めて価値を持つ。発見されなければ存在すら認識されない。だから、僕らは自分の内側を掘り起こして探すんだ。必ずしも埋まっているとは限らない希少な化石が見つからないかって探すんだよ。希少な化石の発見は、そのまま芸術家としての価値になる。珍しいものを見つけたいならそれに見合った努力が必要だ。でも、努力したって見つかるとは限らない。

子供がジュラ紀のなんとかサウルスなら、子供が化石になることはあっても化石掘りはできないんだよ。他人が「お前はなんとかサウルスだから、すごいんだ」って言ってもね、本人にはなんのことやら、だよね。だからね、子供に芸術の意味はわからない。

化石を見つけて自ら芸術家を名告る人の多くは、ありふれたフズリナやウミユリの欠片で満足している。それでも、どんなに凡庸だったとしても化石は化石、芸術家は芸術家、だからね。案外そんな人達の方が幸せかもしれない。だって、その方がまあまあ売れたりするからさ。三葉虫とかアンモナイトなんて見つけた日にはきっと有頂天だね。そこそこ高値をつけられるし。でも、三葉虫程度じゃ歴史には残らない。
僕は自分で言うのもなんだけど、なんとかサウルスの指の骨くらいは見つけたかなと思ってる。でも、どうなのかな……時間が経って、誰かが鑑定したらプラスティックのフェイクだったなんてことになったりしてね。

絵を描くことが僕に取って「好き」なことだと意識したのはたぶん小学校に入る前後じゃないかな。何で好きなのかはよくわからない。好きなんだから好き。でも、きっと物心つく前の描くことへの執着がいろんなことを覚える代わりに薄らいで、ただ「好き」という感情だけが上澄みのように残ったんじゃないのかな。その上澄みだけで、じゅうぶんに絵を描く動機になるんだしね。そうしてもっと時間が経って、気がついた時には子供の魂なんかとっくに干上がって、そんなものがあったことさえ忘れてしまう、なんてことになるんだよ。
でも、彼は、だから、彼は、「好き」を燃料にして暇さえあれば絵を描いていた。

彼の描く絵の中には人がいた。動物がいた。家や街があった。野原や川や山や海があった。自動車が走り、飛行機が飛び、ロケットが火炎をたなびかせる。暴れる怪獣をヒーローがやっつける。実際に見たことのあるもの、テレビや本で知ったもの、それまでに目にしてきたものを記憶から引き出し、吐き出すように画用紙を埋めてゆく。埋めてゆくうちに物語が出来上がってゆく。

そうなんだ。あの頃はね、絵を描きながら物語をつくっていたんだよ。物語を作るために絵を描いていた、のかな。それも、とりわけ陳腐な物語だ。プロローグもエピローグもない切り取られたストーリーのそのまた瞬間を描いていた。結局、それは言葉の代わりだったんだ。支離滅裂なまとまりのない物語も、一枚の絵にしてしまえばなんとなく完結する。ステロタイプなお話しも、自分なりに描くことでオリジナリティを帯びるんだ。

好きなように描いていた。

好きなように描くのが好きだった。

でもね、振り返って思うんだ。

僕は本当に絵を描きたいと思っていたのか……ってね。

描きたいと思うから好きだったのか、好きだったから描いていたのか。

同じことのように聞こえるかもしれないけど、これは全く違う。

大人たちは、小学生だった彼の絵を見てたいてい褒める。伸び伸びしている、生き生きしている、子供らしい感性に溢れている……そんな言葉で評価をされた。褒められて悪い気はしなかったけれど、さほど嬉しくもなかった。大人たちの評価が、自分自身の思い入れとは違っていたのだ。伸び伸び描いているつもりもなかったし、子供らしい感性なんて、かえってバカにされているような気さえした。彼の絵は彼自身のもので、それを誰かに見て欲しいなどと思ってもいなかった。独り言のようにクレパスを画用紙に叩きつけていた。絵具を塗りたくっていた。だから、他人の描く絵に興味はなかった。だから、上手だとか下手だとかにも興味がなかった。

小学三年か四年か、それくらいだったと彼は曖昧に記憶している。

理科の授業で、植物の観察日記をつけることになった。

確か、ヘチマだったような気がするんだが……朝顔かな……。

発芽からの成長過程を連日鉛筆でスケッチするんだ。

まあまあよく描けていた思うけどね――先生に褒められた記憶があるし。たぶん、実家の倉庫にしまってあると思うから、機会があったら見つけておこうか。でもね、その時の感覚をよく覚えているんだ。つまりね、僕は絵を描いている気がしなかった。とっても苦労した。初めてね、上手に描こうと思ったんだよ。初めて、同級生たちがどんなふうに描いているのか気になったんだよ。

彼にとって、目の前にあるものを克明に描写することが初めてだった。これまでは、自分の記憶の中から掘り出していたイメージを、直感的に紙の上に映し出していた。その昔、お父さんの顔もお母さんの顔も、旅行先の風景も描いていたけれど、実際に見ながら描いたわけではない。頭の中で記憶を再生し、自分なりのアレンジをしていた。学校の写生大会だって大差ない。一見目の前の景色を写しているようで、実は一旦記憶したものを描いていた。

これは僕が好きな絵ではない――彼は自分が描いた葉っぱの絵を見て苛立った。

彼の目に同級生の描くヘチマの葉っぱは、とてもわかりやすかった。上手な子もいたけれど、たいていみんな下手くそで、どこがヘンなのか、何が足りないのかがよくわかった。それを通じて自分自身のスケッチも客観的に評価することができた。違和感のある箇所は実物をよく観察し、見比べ、時間をかけて丁寧に描き直した。その結果、自分自身でもよくできたと思ったし、教師からも評価された。だが、全く楽しくはなかった。

彼は戸惑った。

楽しくはなかったけれど、厭ではなかった。

たぶんね、僕は絵を描くことの本当の意味に触れたような気がするんだ。本当の意味、なんて表現が当たっているかどうかはわからないけれど、それまでただ描き殴っていた絵が、大人が評価するように良くも悪くも子供っぽくて、稚拙な悪戯のようにさえ感じた。だからといって理科の観察スケッチのほうが大人っぽくて高尚だとも思わなかったけれど、そこに未知の何かが潜んでいるような気がしたんだ。まあ、子供だから、ただもやもやとしていただけだけどね。だから、絵を描くことがね、単純に楽しくなくなった。嫌いになったわけではないけど、無邪気に好きって言えなくなっちゃったんだ。だから、小学校高学年の間はあまり絵を描かなくなった。描いても家でこっそり気休め程度に、ね。それよりサッカーとか、野球とか、いかにも男の子らしい遊びに夢中になっていた。

彼が絵を意識して描き始めたのは中学生になってからだ。

生徒全員が何かしらのクラブ活動に加入しなければならない、という学校の決まりがあった。だから彼はサッカー部に入るつもりだった。そんなとき、授業で使った美術室の匂いが気にかかった。

先生、この匂い、なんですか?

ああ、油絵具の匂いだよ。

油絵具?

ほら、美術部の連中がいつも描いてるからね。

彼は教室の隅に立てかけてあったキャンバスをちらりと覗き見た。

下手くそだと思った。油絵具は使ったことがないけれど、自分はもっと上手く描けると思った。

油絵って難しいんですか?

そうだね、すぐに乾かないから慣れるまでは難しく感じるかな。お前、興味あるの?

結局僕はね、美術部に入ったんだ。それが僕の美術元年。そう思っている。あのとき美術室で嗅いだテレピンの匂いが僕にとってのスタートラインだ。やっぱり絵を描くことが好きだったんだね。でも、子供の頃とはちょっと違っていた。ただ、描きたいものを描きなぐるようなことはしなかった。そうだね……まず、油絵具というのが、想像していた以上に不自由だったしね。

彼は油彩にのめり込んでゆく。

絵画における技術というものを理解する。構図の取り方、デッサンや油彩の技術、画材の取り扱いなどなど。初心者向けの技法書に目を通し、だんだんと専門的な知識を得ていった。思い通りに絵を描くことは難しい。描けば描くほど不満足感ばかりが募ってゆく。上手くできたとひとつ思う度、自分の理想がさらに遠離ってゆく。苛々とする。キャンバスを眺めながら、彼は自分の未熟さばかりを見つけ出していた。しかし、どうしてだか止めてしまおうなどとは考えもしなかった。

その時の僕、中学や高校の美術部で油絵に取りくんでいた僕は、きっと物心つく前に持っていた絵を描くことの意味に触れたんじゃないかと思うんだ。その正体は未だに説明できないけれど、僕が決して絵を止めなかったことがその証拠だと思う。そして、それは今も続いているんだよ。

彼が画家という存在を意識したのもその頃だった。

図書館に行き、古今東西さまざまな画家たちの画集を眺めた。食い入るように何度も何度も見た画集もあれば、一瞥しただけで二度と開かなかったものもある。美術館にもしばしば足を運んだ。休日には隣県の美術館にひとりで出かけたこともあった。他人の描いた絵に関心を抱くのも、小学生の頃の彼には、ヘチマの葉っぱを例外として、全くなかったことだった。歴史の中で数々の画家たちが名作を生み出してきた一方で、陳腐な作品を作り続ける自称画家たちが掃いて捨てるほどいることも知る。

ダ・ヴィンチ、レンブラント、フェルメール、それから、アングルかな、最初に興味を持った画家たちは。いわゆる古典的な名画だね。あんな絵、どうしたら描けるのか理解できなかった。同じような油絵具を使ってるはずなのにね。最初は技術的な問題だと思った。だから高校生のころには古典技法の技術書まで手に入れてたよ。何年かして結局は技法の問題ばかりではないって気がつくことになるけどね。だから、ルノワールとか、モネとか、ゴッホとか、普通の人でも知ってる人気の画家にはあんまり関心なかったかな。印象主義以降の近代絵画に興味をもったのは、美大受験のために浪人している頃だよ。同時代の美術、現代美術を認知できたのはさらに大学に入ってからだ。どう、真面目だろう。歴史をちゃんと順番に追っていたんだよ、僕は。

彼は、自分が画家になることを疑っていなかった。他の道を想像することはなかった。一生絵を描き続けてしまうのだろう、と、半ば自嘲気味に信じていた。

たぶんね、思うんだ――中学の時、もしサッカー部に入っていたら、僕はきっとプロのサッカー選手になっていた。間違いなくね。

© 2025 加藤那奈 ( 2025年2月3日公開

作品集『少女の肖像』第1話 (全3話)

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