VIII
さまざまな創作における“少女”の多くはミドルティーンと考えていいだろう。
彼女たちは“思春期”の最中にいる。
今日のこの国の教育制度においては中等教育機関(中学校、高等学校)に所属する時期でもある。かつての女子教育の場であった女学校(高等女学校)なども中等教育機関であり、ほぼこの時期にあたる。少女小説の多くは“学校”が舞台となり“生徒”という立場での人間関係によって彩られている。近代において生まれた“少女”は、同じく近代的な教育制度とも切り離せない。
中等教育の時期に“少女”は生まれる。
そして、中等教育を終える時、少女たちはその姿を消してしまう。
初等教育から中等教育への変化は大きい。別の学校へ進み、最年長者が最年少者になる。学校内でのルールも変わる。新しい学校の制服に袖を通すことで一段階上のステージに移ったことを実感する。まだ子供だが、だんだん子供ではなくなってゆくことを予感する。誇らしさや期待と未知の不安が入り混じる。
また、中等教育の時期は、第二次性徴の渦中でもある。
女子の肉体的な変化は初等教育の終盤、概ね10歳前後と考えればいいだろうか。女子は男子よりも外見の変化が大きい。皮下脂肪が増し、乳房が膨らむ。女性らしい体つきになってゆく。さらに初潮を迎えることで、生殖の準備が整う。女性であることを意識せざるを得なくなる。これは同時に男性を異性として意識することにも繋がっている。
動物であれば生殖機能が備われば成体、大人だ。交尾して子を作り育てること……繁殖が生きる目的となる。だがヒトはいろいろ面倒くさい。子供を作ることができる身体になっても、まだ大人とは見做されない。これは社会という制度の視点である。第二次性徴が始まってから、法的に成人、大人と見做される年齢までは、大人でもなく、子供でもないという時期が何年も続くことになる。肉体的には女性、男性の分化が完了しても社会的には未成年という大きな枠でくくられる。
以上のような環境の変化や肉体の成長、社会の制度が少女誕生の背景だ。
ただし、こうした背景が“少女”を造形するわけではない。
少女同士の時に恋愛にも近い友愛を描く少女小説と同類の作品はこの国独自のもので欧米にはない。学校制度や社会制度に多少の違いがあっても、少女たちの背景は同じである。欧米の少女小説とは、『赤毛のアン』のような少女を主人公とした成長の物語である。一種の教養小説だ。様々な経験を通して大人になってゆくお話である。欧米の少女は、未成熟の女性以上の意味はない。それに対してこの国の少女小説は必ずしも大人への成長を慶びとはしていない。むしろ籠の中から出てしまわなければならない不安や悲しみが漂う。子供でもなく大人でもないモラトリアムの中でこそ“少女”を維持できる。“少女”は大人になるためのイニシエーションではない。
"少女は儚く消えてゆく"へのコメント 0件