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“少女”は女性だ。
そして、女性は男性と区別されるのだが、言葉において対等ではない。
英語のManはヒトそのものを指すのと同時に男性を指す言葉でもある。女性に対しWomanはあるが男性のみを示す言葉はない。日本語の少年と少女の関係も同じだ。少年という言葉は少女に対して男子を示すときに使われることが多い。だが日本語の「少年」の本来は少女に対する対義語ではない。性別にかかわらず年少者を指しており、少女は「少年」に含まれる。少女の対義語として男子のみを指す言葉はない。そして、少女という言葉は、日本の近代化、すなわち西欧化の中で生まれた。
この男女の概念的なアシンメトリは旧約聖書と関係するのだろうか。
旧約聖書において、イヴは神によってアダムの肋骨からつくられたことになっている。また、楽園追放の際、神はイブ(女性)がアダム(男性)に従属する存在であることも告げている。ひとつの解釈のようだが、神はアダムとともにリリスをその妻として作ったが、彼女がアダムとの対等な関係を求めたために諍いとなり、神は彼の後添えとしてその骨からイヴをつくったという話も聞く。彼の地の神は、男女が対等であることを望まなかったらしい。すなわち神は性差別をも創造した。これは笑い話なのか、笑えない話なのか。
性の区別においてその意図がどうあれ、軽率な態度が差別と認識されて社会的な問題を引き起こしかねない昨今、いささか慎重にならざるを得ないが、男女間の生物としての平均的な体躯の差や生殖における役割の違いは歴然としている。カラダの部位の形状や染色体にも差異がある。生物としての違いを強く感じていたのは男性・雄なのかもしれない。新しい生命を宿すことのできる女性・雌は、男性・雄にとって特別な存在なのだ。
少女は男性にとっての“特別な存在”の側に属している。
ただし、成長過程。あるいは、未成熟。
では、どこまでが成長過程で未成熟なのか。成長した女性、成熟した女性とそれ以前はどこで区別すべきなのか。また、「少女」と限定した場合にはその範囲はいかに。生まれてからどれくらいの成長を経て「少女」に至るのか。そして、未成熟であってもすでに男性にとって特別な存在となっているのか。
これらの疑問に仮説を立てながらその正体に迫ってゆくのは難しくない。
理詰めの推論は何かしらの輪郭を浮かび上がらせるだろう。
多分に主観が入り込む余地もある。細部の食い違いは人それぞれかも知れないが、精査し、許容の水準を炙り出してゆけば、生物的な観点を根拠とした誰もが共有できる少女像が浮かび上がる。ただし、そこにどれほどの中身があるのだろうか。客観性は必要だ。だが、誰もが共有できる、という点がいただけない。それは安易だ。男性と女性それぞれの少女像の違いを生物学的観点から提示したところで、ふたつのピンボケ画像が並ぶだけだ。
誰もが共有できない点に、物事の……“少女”の本質がある
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