XVII
少女を語るとき、どうしてもジェンダーの問題から離れられない。そして男性の視点で語るとそれがたとえプラトニックなものであれ性愛的な議論に向かってしまう。意図するしないはともかく、性に重きをおいてしまう。
自然なアプローチではあるが、その自然さが落とし穴になり、狭い穴の中から抜け出せなくなる。自然において“少女”という概念はない。子供でもない大人でもない、そんな中間的な存在は必要ない。“少女”という概念からは自然の摂理を取り除くべきだろう。その本質はジェンダーと無関係だ。
確かに少女は女性の成長過程における一時期を指す。少女は女性というジェンダーに対して与えられる属性だ。だが、少女を中心に翻すなら、女性というジェンダーこそが“少女”に付属するひとつの属性に過ぎない。
キャロル/ドジソンは神にも似た純粋無垢な姿を少女に見ていた。
ナボコフ/ハンバートは“妖精”にたとえる。
そして渋澤は標本になった蝶にたとえる。
興味深い点は、彼らが少女に人ならざる存在を投影していたことだ。男性と交接し子孫を産む女性はそこにいない。人ならざるものにエロティシズムを感じても、肉欲的なセックスの対象になるとは限らない。
少女小説の少女は、社会に巣立つ前の“少女”達に憧れ、慕い、恋しく思う。外界から閉ざされた籠の中の鳥であるからこそ尊く、美しく、また、可憐なのだ。籠にいる限り相対的な性別は存在しない。“少女”はあくまで“少女”でしかない。
それでも、“少女”は人であり、女性である。
だが、その存在はどこか現実感がない。現実から遠ざかり、虚実の狭間に揺れる姿こそ少女を“少女”たらしめているのではないだろうか。“少女”たちが抱える現実は、私達のこの現実と重なっていても独立した座標を抱えている。そして、そこに長くとどまることは難しい。こちらの現実に迫られてあちらの座標へ逃げてゆく。こちらの現実に迫られなければ入ってゆくことはできないだろう。虚ろであってもただの夢想ではない。
歳を重ね、籠から出なければならない時期が来る。その時少女はもう少女でいられなくなる。逃げていたあちらの座標が彼女を抱えきれなくなってしまう。少女は現実に放り出されて、その属性を失ってしまう。
“少女”は二次元と相性がいい。
それは、二次元そのものが堅牢な鳥籠だからかもしれない。平面の中で少女たちは少女だけの、少女だけが主役になれる世界をつくる。その世界は永遠に続く。これは、生身のアイドルがメディアの中でこそ成立するのと似ている。現実をそぎ取るメディアがあってこそ、キャラクターなり偶像なりが生気を帯びる。
直に触れようとすれば、その指先は虚ろに宙を舞い、その姿は儚く消えてゆく。
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