XI
恋愛にも似た感情を同性に向けるのが“少女”の特徴なのかもしれない。
恋愛感情ではない。ごく近い、だ。擬似的な恋愛感情といってもいい。
「七年男女不同席」は儒教に由来する。本来は七歳にもなれば子供であっても男女の差が出てくるからそれぞれに見合った躾をしなさい、という教えらしい。この国の近代教育制度では、これを根拠に男女別々の教育が施されてゆく。だが、これを、七歳になったら男女の交際は制限すべき、と曲解し思春期の男女の接触を不道徳とする意識が生まれ、それが一般に広まったようだ。かくして思春期の女子は同性の中で過ごす時間が多くなり、また、同年代の男子と交流することを倫理に背く恥ずべき行いと感じるようになる。恋愛めいた感情が同性に向くのは自然なのかもしれない。そして、麗しい年長者への憧憬と本来は異性に向くはずの恋慕が混ざり合い、擬似的な恋愛が生じる。
初期の少女小説やその流れを汲むライトノベル、コミック、アニメーションなどには同年代の男性がほとんど登場しないものもある。中には一切の男性が登場せず、その存在すら臭わせない作品すらある。“少女”は女性だけの世界を構築することができるのだ。
これを男子に置き換えることはできるだろうか?
スポーツや非合法な世界で男だけの闘争、そこから生じる友情や仁義を描くことは珍しくない。だが、登場するのは男であって、少女に対する“少年”に限る必要はない。登場人物が“少年”ばかりであったとしても、それは舞台装置によって選ばれた若い男性である。そして、そこには相手に打ち勝つ、目標を乗り越える、戦うことによって獲得される新たな人間関係の構築などの成長がある。少年が子供っぽさ、青臭さを脱ぎ捨てて男性になってゆく姿が肯定的に描かれる。同性に対する恋愛めいた感情は生まれにくい。こうした男の世界からいささか強引に恋愛めいた感情を引き出せなくもないだろう。だが、それは擬似的な恋愛にとどまらなくなりそうだ。
対して“少女”たちの世界では、成長を否定しないまでも無条件に肯定的であるとは言いがたい。学校を卒業するお姉様を祝福する一方、身近な存在ではなくなる寂しさや悲しさを抱えて送り出す。会えなくなるわけじゃない、と、諭しても、学校とという籠を出てしまったら、もう憧れていた“少女”としてのお姉様ではない。どんなに親しい関係がその後続いたとしても、自分が学校にとどまる限りその距離は大きい。だから、制服を着たお姉様の幻だけを形見のように心に描く。女性だけの閉じた世界に生きる“少女”にとって、女性だけではない世界に出て行く彼女たちの成長はひとつの変質、蛹が蝶になってしまうような手の届かぬ変身であり、手放しで慶ぶことはできないのだ。そして、それはいつか“少女”ではなくなる自分の姿でもある。擬似的な恋愛は籠の中だけで成立する。
十代女子向けのライトノベルとして出版されたミッション系の女子校を舞台としたとある作品には、中年の男性読者がそれなりの数いるらしい。世知辛い競争社会の波に揉まれるオヤジたちに、“少女”の世界はひとつの心安らぐファンタジーだ。
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