VIII
制服は、ナイーブな心とカラダの外骨格だ。
そして、それを着た者の行動や思想を制限する。
その制限を破るのは自由だ。所詮、誰かが任意にこしらえた規範でしかない。それを表現する明確な言葉があるわけではない。意識しなければそれば漠としたものだ。だが、誰かが特定の制服を着ることは、何かしらの模範が形作られることでもある。そして、その行動が模範に添うているか、どの程度逸脱しているかが直感的に判断される過程で、制服の備える思想や行動が照らし出される。どんなに規範や模範に逆らったとしても、逆らうという姿勢そのものが規範、模範の下にある。制服を着ている間は、その呪縛から解き放たれることはない。
しかも、だ。
制服を“着る”とは、ただ実際に着ている時間だけを指しているだけではない。それは、ひとりの人物における“属性”なのだ。つまりは、制服を着るべき立場にある人、という意味であって、たとえ私服を着ている間でも、その属性までをも脱ぐことは出来ない。そして、制服を着る立場にあることが、行動や思想に影響を与える、ということだ。
もちろん、私服の姿しか見かけなければ、その人物が制服を着用すべき立場かどうかはわからない。だが、ひとたびその立場が知られれば、時間をやすやすと遡り、過去の行動までもが制服の基準で計り直されてしまう。
ただし、制服が持つ思想や行動の制限は、制服そのものに予め備えられているわけではない。制服はただの物だ。特定の誰かが性格付を無理矢理したところで定着しない。制服は、レンズとか鏡に似ている。光を集めるように他者の眼差しを集める。虚像のような瞳をいくつもいくつも映し込む。そして、それがただの布きれの集まりを観念的な有機物に改変する。
それが自身のアイデンティティの障害となると考える者もいるだろう。だが本当に自己に対する妨げとなっているのだろうか。自己を確立できないことへの言い訳としていないだろうか。単に好みの問題を、存在の問題へと過剰に飾り立てているに過ぎないのではないだろうか。自己の問題の責任を社会に転嫁しているのではないのだろうか。私達にとって責任は常に他者にある。責任の所在を他者に見出そうとする。自己責任、などという突き放した考え方は群をつくるヒトらしくない。
逆に、制服を着用することによって、アイデンティティを強化する者がいる。制服が外骨格なら中身がどんなに脆くてもいい。鎧を纏うことで強くなるならそれもありだ。本質的には弱いままでも、自分自身を確立したと錯覚する。これは決して蔑まされることではない。むしろ、とてもヒトらしい自然な姿ではないだろうか。中身など、どうでもいいのだ。他者との関係を形作るための姿が作られるのであればそれでじゅうぶんではないか。
社会とは、たぶんそういうものなのだ。
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