III
たぶん僕はある女の子に恋をしている。
だから、男子が女子を好きになる理由を考えてみた。
可愛いから? 綺麗だから? 見た目は大切なのかもしれないけど、可愛い子はクラスにも何人かいるし、学校全体ならもっといる。だからといって、誰でもいいわけじゃないみたいだ。綺麗、しかり。もっとも綺麗、とか、美人、ということ自体が、今ひとつよくわからない。目鼻立ちが整っていることだろうか。なんとなくわからないでもない。だけど、やっぱりピンとこない。それにみんなに美人ともてはやされてる子を必ず好きになるわけでもない。
性格? 外見もひとつの理由かもしれないけど性格も大事だよね。優しさ、人当たりの良さ、ちょっと頼りない感じ。確かに厭な性格、というのはある。きつかったり、生意気だったり、刺々しかったり。でも、人はそう単純じゃない。元気に振る舞っていても実は気弱だったり、厳しいことを言うくせにけっこう優しかったり。しばらく見てれば、別の一面も見えたりする。でも、そうか……しばらく関心を持って見ていられるかが問題ではあるのかな。
外面と内面のバランスみたいなものかな、なんて考えてはみたけど、あまり納得がいかない。言うは易し、だ。そのバランスというのが曖昧だ。調和とか不調和ということなのだろうか。内面が外見通りの人も、両者にギャップがある場合もある。どっちがいいわけではないよね。比較して順位がつくようなものではないことはわかっているし、そもそも比較で答えが出るわけでもない。
好きになったら好きなんだからしょうが無い……そうなんだろう。それは純粋に好みの問題で、好きとか嫌いとかに理由なんて無い……きっと、そうなのかもしれない。でも、そんな結論に僕は意味を感じない。数学だって、最後の答えがあっていればそれでいいのかもしれないけれど、解答を導き出すまでのプロセスに、ロジックの積み重ねとそれの背景に見え隠れする意味が盛り込まれている。答えはただの結果でしかない。結果が出るまでの試行錯誤にこそ豊かさがある。と、僕は思っている。
もやもやしながら、小さな頃からこれまでに好きだった女の子を思い浮かべてみる。中学校、小学校、幼稚園……幼稚園の頃にはもう、男の子、女の子といういわゆる性差は意識していたようだ。性別の意味を正しく知るのはずっと後だが、人といえど動物だ。知識ではなく本能で性差を理解していたような気がする。だから、女の子への好きが、男同士での好きとは意味合いの違うことは幼い頃から感じていた。多分だけれど、心の奥底で理解していたのだと思う。僕らはきっと幼少の頃から恋愛感情を密やかに育んでいる。
やはり、僕らは動物なのだ。
そう考えると、異性に対する好きとか、恋とか、愛とか、甘い夢のような感情は、動物とヒトを区別するため、本能に施された糖衣のように感じてしまう。
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