II
ここは制服について語るべきなのだろう。
個性が奪われる、と、制服を嫌う者がいる。
制服如きで個性が奪われることなど無いと思うのだが、衣服を自己表現の道具と考える者には表現の手段を封じられることになるのだろう。だが、衣服による差異は本当に個性の表現なのだろうか。
衣服で唯一無二の絶対的な自己を表現できる人はいないのではないかと思う。いるとすれば、それは相当の奇装になるのではないだろうか。それならそれでかまわないが、社会のルールや習慣からはきっと大きく外れたものになるだろう。群として社会を築く人の集団に馴染むことが出来ずに孤立してしまかもしれない。
衣服による個性、といっても、必ず何かしらのリテラシーを持っており、同じような感性を持つ集団へと回帰することでしかない。社会的な所属を表わす制服、つまり学校の制服や職業的な制服と比べれば、視覚的な個性の違いを表現できるかもしれないが、集団に回帰する以上、絶対的なオリジナリティはない。
制服が個性を奪うなどと考える人は、ただ、自分の所属する集団は自分で決めたい、そう言っているに過ぎないのではないか。だが、社会的な所属と、感覚的で趣味的な所属では、世界の区切り方が違う。これを並置して考えること自体、制服の本質や人の個性を理解していない証拠ではないかと思う。
確かに、社会的な制服は個々の違いを曖昧にする。
警官の制服を着ていれば警官だと思うし、看護師の制服であれば看護師であると思う。だが、そのひとりひとりの違いに意識が至るまでには、それなりの関係性と時間が必要だろう。毎日交番で見かけるだけの警官が、非番で私服を着た時、それがいつも見ている巡査だと気づく人がどれだけいるのか怪しい。個々の違い以前に制服の持つ意味やイメージがある。職業に対する価値付がある。それは、警官に似た制服を着用する警備員を考えると面白い。近くで見れば違いは歴然としているが、遠目に見たらどちらか判断できない。それは、毒をもつ種に擬態する昆虫や魚に似ている。
社会的な制服の中でも面白いのは学校、とりわけこの国の高等学校の制服だろう。もう少し踏み込むなら、女子学生の制服だ。彼女らの制服にこそ多くの意味が混在している。制服が見せつける学校のステイタスは、着る者の家庭環境や学力を暗示している。職業的な制服以上に、個々の類似性が象徴されているだろう。また、学校を選ぶ側の判断としては、学力レベルがさほど違わないのなら、制服の趣味の良さが選択材料のひとつになりうる。これはこの国の女学校に制服が生まれた時から同じらしい。また、女子学生という立場自体に価値がある。制服を真似た衣装で女子学生に擬態する少女も少なくない。
個々の違いは同じ景色を背負うことで発揮される。見せかけではない本当の個性が露わになる……つまり、制服は個性のディッシュとなる。
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