XVI
水色のワンピースを着た。
私は私を鏡に映す。背中を向けて体を捩ると、鏡の私とこちらの私がくるんと入れ替わる。私の半分は鏡の中に閉じ込められる。
水色の後ろ姿を見送って、私はふうっと気が抜ける。体が緩んで形を失っていくみたいだ。ぼやける意識に、それでも私は私を感じている。だからこそ、私を感じる?
鏡の中にも世界がある。でも、それは割合適当で、少しばかりやる気の無い空気に満たされている。外の世界を映してはいるものの、限りなく表層的で、しかたがないから形らしきは保っていても、どうしても散乱し失われる光の分だけ劣化していて、もしも直接触ろうものなら、たちまち分子レベルで崩壊しそうなほど脆弱なのだ。だから、ただ、そこにあるだけの風景を醸し出している。そして、それは私自身も例外ではない。ただ、ここにいるだけの私、なのだ。
だから、今の私はただの虚像だ。
女の子でもなく、たぶん人ですらない。ガラスと光の狭間に生じた現象で、網膜に余韻を映す残像だ。にもかかわらず……いや、だからこそ、なのかな……私、という一人称が頭の中で渦を巻く。私は私は私は私。繰り返すほどに言葉の意味は脆くなって、音だけがばらばらに舞う。わ、た、し、は、わ、た、し、は。
私は私の一部分を鏡の中に置いてけぼりにすることで、今日一日を保ててるって思うんだ。形もなく、声もなく、ただ、わ・た・しという音だけで、それでも失われることのない私の一部が、ガラス一枚の隙間に閉じ込められていることで、どこか安心してこの部屋を出て行く。それはあっちの私にとって、ほとんど妄想のようなもので、本当に、姿を放棄した私はこっちの方なんだ、なんて知ってるかな。わかってるかな。でも、そうでも思っていないと、私は外で自分自身を見失ってしまうんだ。人の顔色をうかがっているわけじゃない。みんなに合わせて心の伴わない笑顔を作っているわけじゃない。私はいつでもどこでもけっこう勝手にやっている。友達なんて少なくてもいい。自分のことだけを考えていればいい。そうしてきたし、そうしているし。変わった子なら変わった子の居場所があるものなんだって、ずっと小さい時に気が付いていた。でも、それですら危ういんだ。
我が道をゆく、とはいってもそれは本当に我が道なのかな。誰かとの比較でしか居場所がわからない。それは、予め割り振られていたただの役でしかないようで、自分で選んだ気はしない。そのお芝居に乗っかることは吝かじゃないけれど、いつも乗り切れていない。みんなの中で自分自身を承認できない。他人からの承認なんて煩わしい。褒められれば嬉しいけれど、虚しいんだ。そんな簡単に私を認めないでよ、と、ありきたりな言葉で褒めないでよと。だって私はまるで満足出来ないんだから。
だから、私は鏡に映った面倒な私を、ふいっと閉じ込めて部屋を出て行く。でもね、それはとっても不安なことでもあるんだよ、この私にも、あの私にも。
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