犬にはもちろん名前があった。私がつけたのだ。名前をひらめいたのは、六歳くらいの時で、まだ暗闇が怖かったので、照明の、カチカチ引っ張った三番目の、ぼんやり黄色い豆電球をつけたまま眠っているような時だった。実家の間取りは典型的な4LDKで、二階には両親の寝る大寝室と私たちの子供部屋がそれぞれ一部屋ずつあったのに、それでも家族四人揃って姉の方の子供部屋で眠っていたのは、やっぱり暗闇が怖かったからだ。怖い怖い、と言う当の我々は“そこに何が居て、何が怖いのか”を言い当てることは出来なかったが、かといって、怖くない怖くない、と言う大人は大人で(年に一度サンタクロースの仕掛けをしていたのもあって)“絶対に何も居ない”と言い切るにはロマンチストすぎたので、結局暗闇は得体の知れないものが潜むような余地を残していて、それでやっぱり怖かったので、豆電球をつけて四本の川の字に横たわっている時、いずれ目を閉じて、真っ暗になってしまうのに、ぼんやりと黄色い部屋で、私は犬に”レオン”と名付けることを提案した。かっこいいし、オス的で、銀色、あるいは金色の金城武似のファイナルファンタジーの主人公の名前で、他に無いくらいだったから、みんなで喜んだ。犬は構わず、暗闇でガサガサとやっていて、その点カブトムシと同じだった。それでもそのときに名指されて、犬は私たちの世界にやってきた。それからはこの“レオン”と言う発音が特別になって、いつでも言えた。家族はもちろん、おじいちゃんもおばあちゃんも堂々と発音したものだから、みんなの生活に独特な欧風の色気が出て、友達もやっぱりみんなそうだった。それで、みんなが得意になって呼ぶこの名前を考えたのだと思うと、私は私で自分が誇らしくて、よく呼んだ。暗闇が怖くなくなったのはそれとは何も関係のない、ずっと後のことで、怖くなくなった、というよりも興味がなくなっただけだったから、今でもたまに興味が湧けば、そのまま怖くなるけれど、犬も暗闇から這い出てやってきたうちの一つで、私は犬がすごく好きだったから、暗闇も悪くない、と思う。
同じ時期に、近所の家が立派な木工所を建てて、その機械が、なんでも普通の騒音よりは気になるぐらいにはうるさいそうで、ガーガーと摩擦の音をひり出すから、「迷惑をかけるかもしれない」とタオルを配る日があって、普段自分の出す生活音を“騒音”として気にしたようなことは無かったから、逆に騒音を意識してしまうような出来事で、それが当然、私の家にも来た。その時犬は、まだ子犬だから、と屋内段ボールで、雨風など知らん顔で、それから、その木工所で犬小屋が作られた。犬がどのくらい大きくなるのか、などということを群馬に住む素人の一家は知るすべも無く、さすがの木工所も犬には無知で、だいたい世間では“足の大きさ”で判断するから、“足の大きさ”が犬の大きさで、後ほどアメリカの映画で「男性のふくらはぎの太さで陰茎の大きさを判断する」という挿話を見たときに、私はこのことを思い出してしまって、腹を抱えて笑った。というのも、この犬小屋は、成犬した犬の体格にはぴったりだったのだが、掃除をしやすいように、と向かって右側の屋根が、“ヘーベルハウス”よろしく、パカ、と開く仕掛けになっていて、でも我が家の敷地内の犬小屋を置くべきようなどんな場所も、向かって右側には遮蔽物があるので、運命からしてこの小屋はパカと開かなかったからだ。屋根は黄色く、壁は白く塗った。犬はすぐに屋根の角を噛んでしまって、角がまあるく削れたが、元気そのもので、首の周りの毛がライオン、黄金色、やんちゃ、それでもうレオンという風にしか見えなくなった。
私たちが何をどう定義しようと、犬がそれを自分の名前だ、と感じるようになるには、最低でも”二回”その名前を呼ぶ必要があって、この二回というのが大切で、要するにノックも一回ではただの物音で二回目からノックになる、というようなことで、それは何かを名指すのに必要な手続きのようなものなのだ。二回と言うが、二回以上なら何回でも良く、そこに何らかのリズムが生まれて、それで犬がそれを感じることが出来さえすればいい。それで、みんなは散々、犬のことをレオン、レオン、と呼んだが、ある時はレモンとよんでも反応するから、案外怪しかった。確かめる方法があるにはあったが、それは”犬の気持ち”という名前のゼクシィで、答えの無い問いを蒸し返し続けるタイプの売り方が気に食わないので、表紙だけは、目で見て、知っていた。それで、いつも僕たちがレオン、レオン、と呼ぶからレオンはレオンで、違う名前で呼び続けたのならば、当然、違った風になるのだ、と結論するに至ったが、それでは、とあえて呼ぶような別の名前も無かったので、それから一年でレオンは完全にレオンになった。だから、児童虐待のニュースの、“怜音(れおん)ちゃん”という名前を見た時、実はちょっと頭に来ていた。酷い事件で、簡単に言えば、がんがんに熱した油で、小児の炒め物で、死んでしまった。犬もちょうどそれを見ていて、その時はなんとも言わなかったけれど、後で南西の方角にしっかりと吠えていた。
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