夜、誰かが空を指し「あれはقمرだ」と言う。それはまたモンドであり、ルーンであり、ユエでもある。それはムーンでもあり、ツキでもある。人は定められた音の並びから、幾多の情報を瞬時に受け取っている。しかしその時、情報はすでに我々の内にあるのである。さもなくば、我々は初めて認識する言葉からでさえ、自由自在に情報を得られることになるのだから。言葉は我々の内なる情報を引き出すだけだ。言葉はキーなのである。あの天体について私が知っているあらゆる情報を、私は特定の記号に紐付けて記憶している。言葉それ自体は情報ではない。
では言葉に意味はないのか?もしそうだとすればなぜそれらは生まれたのか。それらは何に対して有効なのか?それはどのように?
本当に、言葉は情報を内包していないのか?情報は全て圧縮され、効率化され、平均化されている。しかしそれらを表すものが単なるキーであるのだとしたら。エネルギーは保存される。情報は保存される。それはどこに?我々の内に?それはどのように?
しかし、構造的な面から考えれば、言葉は確かに情報を内包している。「天体」は「太陽」「月」「木星」…を内に含んでいる。そして「太陽」もまたさまざまなイメージを内に含んでいる。少なくともそのように考えられる。しかしこれもまた錯覚なのか?この入れ子構造もまた、我々が世界に投機した幻想なのか?つまりヒュームの思想。
言語の意味は関係の内に決定される=言語ゲーム。しかし、ある言葉に意味があるのかどうか、はどこで決定されるのか。これまで一度も、振る舞いの中で使用されなかった言葉がある。この言葉は将来言語ゲームの中に持ち込まれるかもしれないが、現時点ではその事実はない。ならばこの言葉は意味を持たないのか?少なくとも今は、そうである。ではこんな言葉を我々は想像できるか?「意味のない言葉」。それを、並べられた記号、文字列、インクのシミ、二進数の集合、空気の振動、と分かつものは何か。それは、意味であると言わざるを得ない。我々はここでまた一つの構造的な限界にぶつかる。
ところで、文学、絵画、音楽、演劇…あらゆる芸術は過去の断片の寄せ集めである。一冊の本を書く人は、数十冊、数百冊の本に影響を受け、中には直接に引用し、それらの断片を組み合わせる。そうして出来上がり、結晶化された本は、再び他の書き手により、部分として利用される。あらゆる本が、あるいは他の芸術が、そうなのだ。もちろん彼らが利用したものもまた、そうなのである。あらゆる芸術は情報の集合体なのだ。
どんなに壮大な物語も、四行の詩で表すことができる。そして時としてそれは、千の言葉よりもよりも雄弁に、物語を語ることがある。
この無限の階層の土台には何があるのだろうか。集合的無意識?アカシック・コード?あるいはこれら一連の運動はAIと何が違うのか。 人間は巨大なAIのニューロンの一部に過ぎないのか?そしてそれこそが我々が進化の果てに望んでいる事なのか?人間の部分化。情報の統合化。全ての物の背後にはより大きな物が潜んでいるという強迫観念。
情報は伝達されなければならない。圧縮され保存され、書き換えられなければならない。情報はモナドとして存在し得ない。発見され、保存され、伝達されるプログラムの内でのみ、情報は存在する。
欲望は金額になる。信用は帳簿になる。人口は統計になる。色彩はカラーコードになる。情報は配列になる。宇宙は数字になる。 これはピタゴラスらが起こしたことではないか?つまり数秘的宇宙観。
数字は全てを表し、全ては数値になる。
神話は再演される。
全てが数字と=で結ばれる。情報は秘匿され隠蔽され、ほんの一握りの集団に掌握され、操作される。大衆は意図的に動かされる情報の波のうねりに常に飲み込まれる。あなたが買うもの、行く場所、欲しいもの、全てが既に決定される。預言は実行され、占いは実践される。
古代の宗教集団、ギルド、結社、錬金術師、徒党…情報と知識を囲い込む者たち。隠れながら秩序を作る者たち。無から有を作り出す、錬金術の夢。アルゴリズムへの夢。最も小さな操作で、最も大きな変化を起こすための、究極的な効率化への夢。世界全体の統一化の夢。WWW、ザナドゥ、メメックス、コンピュータ言語、そして世界言語。バベル前史への永遠の憧れ。記号一つで市場を揺るがす。一枚の文書で国家を揺るがす。
あなたが考えたこと、感じたこと、思ったこと、欲望、疑惑…全ては資本企業の巨大なデータベースで管理される。巨大な人工知能の断片の一部になる。人間が、未来に対する単なる情報保存容器になった時、一体何が起こるだろうか?そもそもそれは何のために?それはつまり、資本の増大のために。完璧に効率的で合理的なシステムのために。全知全能のデータベース、即ちAIの構築のために。しかしそれ自体は一体何のために?情報科学者はこの問いに答えられるのか?社会学者は?心理学者は?資本家は?一体誰に答える義務がある?
あるいはこういうことか?それは語りえぬものへの焦燥と欲望。全てを語り尽くすことによって、語り得ぬものを明らかにしようという衝動。
我々はここでレイ・フレッチャーが提示した最も根本的な問いの一つを思い出すことが出来る。
電子顕微鏡で分子や原子の構造(それが今まさに示している「かつての動き」)を覗き込むことは、コンピュータ=モデル化され瞬時に映し出される物質の力学統計処理を、ある仮定に基づいたアルゴリズムのアドレス空間から参照することと同義である。モニタに映し出されるナノ構造のこうしたコンピュータ=シミュレート化された古代のダイナミズムをつぶさに見てみよう。構造体は凍結されたようでいて、実際には時間的揺らぎを記述している。ここで、われわれは一体何を“見て”いるのだろうか?この可視化は、われわれの感性に向けてあらかじめ設計された「強迫的なスケール感」に支配されてはいないか?この顕微的な視線は、究極的には空間と時間の認識そのものを反転させる重力波レンズとなりうるのだろうか?
『情報と認識』(1982)
メタ(メタ(メタ(メタ)(メタ(メタ思考))))に対するメタ思考。あらゆるものは要因によって生み出されるという思想。「管理社会を管理するもの」を管理するもの。人間と神、AIと人間の位置関係。信仰と信仰されるもの、思考と思考されるものの位置関係。自らの断片と、それを眺める自分自身。断片化と結合の繰り返しによって成り立つ世界構造。
数のない世界を想像できるか?何故できないのか。別の世界線では「『…』のない世界を想像できるか?」と問われている。それが一体なんなのか、私にはわからない。
しかし数は発見されたのか?それとも発明されたのか?もしも後者なら、あのシュメール人たちがいなかったら、世界はどのようになっていたのだろうか。恐らく、この世界とは何もかも根本的に異なる世界に違いない。しかしその世界にも「情報」はある。(というのも、世界があることそのものが既に一つの情報なのだから)
ここにヒントがある。そもそも、情報でないものはあるのか?私に見えるもの、聴こえるもの、触れるもの、味わうもの、香るもの、全ては世界に関する情報である。ならば人間はセンサーなのか?あるいは遺伝子と呼ばれるコードはどうか。情報の器としての人間は、既に最もラディカルな事実ではないのか?自然的サイバネティクス、子宮から生まれるサイボーグ、妊娠するロボット…人間はなぜ産まれたか。「なぜここには何もないのではなく、何かがあるのか?」 この問いを、我々は忘れてはならない。
つまるところ結論はこうだ。即ち、人間一人一人が巨大な記憶装置、あるいは人工知能を構成するニューロンであるということ。人類全体は一つの集合的な知=思考体であるということ。統一化、効率化、合理化、情報圧縮、アルゴリズムへの固執。センサーあるいは知識の器としての人間存在、人工知能への飽くなき畏怖と探求、あるいは超記憶夢の存在。全てはこの結論によって証明される。
数、言語は明らかに世界の構造の側の要素である。明らかに、これらは人間によって創造されたのではない。発見されたのだ!
しかし人間が創造しなかったのならば、一体それらは誰が何のために創造したのか。宇宙が生まれ、地球が生まれ、人間が生まれた。これらが全て偶然の結果だとすれば、まさに超天文学的な確率である。しかし起こり得ないことではない。
一方で世界そのものがあるということ。この神秘は偶然的なことではあり得ない。というのも偶然が発生する時でさえ、何らかの要因が不可欠だから。(回すものがいなければ、ルーレットは回らない)
世界は明らかに構造的な性質を持っている。しかもその構造は、我々人類に奇妙なまでに適応しているのである。
宇宙を何故理解できるのか。世界はなぜ可読性を持っているのか。ひょっとすれば、この直感そのものが答えなのか?私たちが宇宙の構造が自分たちに適応されていると感じるのは、もしそうでなければ、私たち自身が存在し、宇宙を観測することができないからなのではないだろうか。つまり、私たちが存在しているという事実そのものが、宇宙がそのような構造を持っていることの必要条件なのである。
この事実はおおよそ次の三点を表している。第一に、あのSF作家が語ったように、宇宙=世界=自我とは情報である、ということ。第二にそれらの情報を統合し、管理する存在がいる、あるいは少なくともいた、ということ。第三にその管理者による世界構築の目的とは、思考する機器としての巨大な人工脳=知的集合体の育成であるということ、である。ここで、第三の仮説に対してその目的を問うのは適切ではない。なぜならそれは我々人間の人工知能に対する態度と全く同じものであるから。創造主=知性体を必要とするという人間的直感が、最終的には我々自身がその構造の中に位置づけられるというメタ的認識によって説明されるのである。
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