総てが夢の様だった。お寺の真暗な庫裏の前に立って、中の様子をうかがっている内に、段々興奮がさめて行った。真夜中の冷気が身にしみる様だった。遠くの街灯の逆光線を受けて、真黒く立並んでいる大小様々の石塔が、魔物の群衆かと見えた。別の怖さが彼を襲い始めた。
上に挙げたのは、江戸川乱歩『一寸法師』序盤の一節である。人間の生腕を抱え、静まり返った夜の東京を徘徊する奇妙な小男。尾行する冒険心溢れた主人公は、男の根城である寺の中を覗いている内に、得も言われぬ闇の恐怖に蝕まれていく。募る恐怖に冒険心はどこへやら、そそくさと逃げ出したのであった。
私が思うに、およそ夜ほど、古代から続く人間の底しれぬ空想力を受け止め続けたものはない。魔女たちが悪魔と淫靡な饗宴を繰り広げるのも、恐ろしい形相をした鬼たちが火を燃やしてぞろぞろと道を練り歩くのも、あるいはまた、スカルボが現れて、暖炉の中からじっとこちらを見つめるのも、決まってすべて夜であった。昔の人々は夜を恐れていたが、それと同じぐらい夜への敬意を持ち合わせていた。だから彼らは、未知なる恐れ、幻想、不安に出会うたび、それに空想力の翼をつけて、夜の闇に投げ入れた。夜はその並外れた懐の深さですべてを包み、彼らに安心と恐怖を同時に与えたのである。夜には、非現実的なものを現実にしてしまう魔力がある。 夜になれば、ヴィーナス像が動き出し、墓場の骸骨が踊り始め、悪しきもの、忌まわしきものが闇の国からやって来る。彼らは暗闇の住人であり、夜は彼らの世界である。だからそれをわきまえている限り、人々は安心して暮らすことができた。彼らは、昼の世界に入り切らず、かといって棄てきることもできない、妖しく幻想的で、魅力あふれるイメージの数々を、夜という玩具箱にめいっぱい詰め込んだのだ。夜は古くから、人々の想像力を掻き立て恐怖と好奇心を同時に与えてきた。
そういうわけだから、今を生きる私達は想像力豊かな古代の人々が残した、この危険なほどまでに魅惑的な玩具箱を自由に開けて、これに驚嘆したり、楽しんだりすることができる。
夜と密接に関わっているイメージとして私達が立ちどころに思い出すのは、やはり夢であろう。夢は奇蹟に満ちている―といえばボードレールの『パリの夢』だが、その通り、夢は我々に、目覚めている間は決して味わうことのできない奇蹟や恐怖、素敵な不条理を体験させてくれる。
『ギルガメッシュ叙事詩』の時代から、夢は実に多種多様なテーマで取り上げられてきた。ここでは、私が特に気に入っているものを紹介しよう。イギリスの詩人であり、文学者であり、『スペクテイター』の創設者としても名高いジョゼフ・アディソンの興味ぶかい考察である。
精神はそのやっかいでのろまな朋輩(肉体)と一緒になって行動している時、己の仕事を邪魔されかつ遅らされる。しかし、夢の間、精神がいかに活発かつ多弁に己を表明するかを見ると驚嘆してしまう
アディソンの言葉を信じるならば、夢とは死の刻を待たずして、精神が肉体という枷から開放される至福の時間である。夜の夢の間だけ、我々の魂は忌々しい肉体の檻をすり抜けて、本来の力を取り戻す。夢の時、魂は天上にある神々の絢爛な宮殿で、透き通る光の間を泳ぎ回り、亡くした美しい恋人に再び出会い、スキピオのように、己の未来を知るのである。しかし悲しいかな、この極上の体験は多くの場合、目が覚める頃にはすっかりと忘れられてしまう。蝶が見ることのできる鮮やかな色彩の世界を私達が楽しむことができないように、肉体は魂が経験した素晴らしい世界について、僅かにしか知ることができないのである。
しかし数多ある夢の中で、私達がはっきりと覚えることができる夢がある。悪夢だ。ラテン語でインクブス、ギリシア語でエフィアルティス、フランス語ならコシュマールと言う。どの言葉もみな「上に乗る」とか「圧迫する」という意味をもつ単語が使われている古代ヨーロッパの人々は悪夢が、悪霊や魔物が寝ている人の上に乗り、圧迫することで引き起こされるものだと信じていた。
悪夢は往々にして、昼の世界にも影響を及ぼす。悪夢の世界に現れる、私達の恐怖を琥珀のように凝固させた幻影は、白昼の光を浴びてもしぶとく残り、我々を襲い、心を掻き乱すのである。
ところで、夜寝ているときに人間の上にのる悪霊の話を考えると、私はどうしても幼い頃に母親から聞いたある怪談を思い出す。それは彼女の友人の身におきた実話であるらしい。夜、その友人が眠りについていると、突如として身体が締め付けられ、ピクリとも動かなくなった。金縛りである。辛うじて動いた瞼を恐る恐る開けてみると、仰向けになった自分の足の上に、見たことのない老婆が正是で座っていたという。友人は怖くなって、心得のあった御経を心のなかで一心不乱に唱えた。すると老婆が立ち上がり、部屋の隅に移動したかと思うとそのまますうっと消えてしまった。
小学生だった私はこの怪談を聞いて、自分もその老婆に会ってみたいと思った。全く子供の好奇心は恐ろしいものだ。単純な私は、金縛りにあえば同じような体験ができるのではないかと考えた。しかし、スマートフォンもパソコンも持たぬ小学生の私はその方法を簡単に調べることができない。図書館に通い、いくつも本を捲って、ようやく見つけたその方法をちょっと紹介してみよう。金縛りを起こすにはまず、普段とは全く違う時間に寝るのが良い。また格好も、普段寝るときに着ている寝間着姿ではなく、普段はそれを着て寝ないような服が好ましい。すなわち、身体に寝ている状態と起きている状態の区別を曖昧にさせるのである。私は風邪をひいたと嘘をついて学校を休み、一人ぼっちの家で嬉々としながら準備をした。部屋のカーテンを締め切り、まだ昼間だと言うのに、外出するような格好で布団に潜り込んだ。学校をズル休みしたときの、あの奇妙な高揚感と背徳感、これから本物の幽霊に会えるかもしれないという興奮とが合わさって、まるで自分が、なにかの挿絵で見たような、悪魔召喚の儀式にふける魔法博士になった気分だった。
さて結果はというと、儀式は失敗に終わった。いや、半分は成功したのだ。私は実際に金縛りにあうことができた。意識はあるのに身体が全く動かないというあの不思議な感覚を確かに味わうことができた。しかし本当の目的であった老婆のほうは、ついぞ私の前に姿を現してはくれなかった。
夜逍遥として夢の話を続けてきたが、読者の中には、夢など昼間でも見れるじゃないかと言いたい人もいるだろう。しかし、夜見る夢と、昼に見る夢は全く違うものであると私は思う。夜の夢には、夜が持つ神秘と静寂が幾層も織り込まれ、上質なシルクのように私達を優しく包み込む。夜の夢には、昼の夢が持つことのない不思議な力が秘められている夢は、夜のもつ魔力によって、完全なものへ仕立てられる。あの儀式で、老婆に会うことができなかったのは、それが夜に行われなかったからだと私は信じている。
あの老婆のように、夜に現れる恐ろしい幽霊もまた夜の世界を彩る宝石の一つである。
夜が夢の不思議を包み込むように幽霊の物語もまた、夜に現れることで一層魅力を増すのである。
ところで私は、この「幽霊」という言葉が好きなのだ。この言葉を例えば英語にすると「ゴースト」とか「スピリット」とかいう単語になるだろうが、私はこのような訳を見るたび勿体ないという気持ちになる。「幽霊」という言葉に込められた素晴らしい響きが掬い取られていないことに歯痒さを覚えてしまう。
「幽」という字には、時間や空間を超越した人が容易には知り得ない世界を示す意味がある。あの世や死者の国といったイメージである。それが私にとって一種のユートピア的なイメージと重なり、形而上的で夢想的な雰囲気を醸し出す。一方で、「霊」とは世に未練を残し、人間的な恨みを抱き続け、現世に縛られ続けている存在である。その姿はしばしば、誰かへの執着や心残りといった感情を象徴する。たとえば、愛する者を失った悲しみや、自らの死に対する無念が形を持つとき、それは「霊」として現れることがある。そして、その未練や恨みは、現世にいる私たちに暗い影を落とし、見えない鎖のように纏わりつく。
少し話題が逸れてしまったが、つまり「幽霊」という言葉は、超越的で無限的な意味を持つ言葉と、限定的で拘束的な意味を持つ言葉とで構成されている。この奇妙なアンバランスに私は大いに惹かれるのである。日本の古典的な幽霊話の魅力はこの言葉の魔力によって一段と輝きをましているのではないかと私は密かに考えている。
昼間、好奇心で読み進めた幽霊話や怪談が夜になると恐ろしいほどの現実味をもって襲ってくる。昼間なら非現実的だと一蹴してしまう悪魔や怪物が、夜になるとベットの下や箪笥の影から覗いているような気がする。あるいはまた、夜道を歩いていると、森が黒々としたおばけのように見えてきて、あの『一寸法師』の主人公のように家へ逃げ帰りたくなる―このような経験はないだろうか。私はこんな感覚に襲われるたび、嬉々とした気分になるのである。それは、文明社会にどっぷりと浸かりきった私もまだ、古代の人々が抱いていた、夜への畏怖と敬意の心をちゃんと失わずに持ち合わせているということの確かな証拠だからである。夜は、想像力の玩具箱として、人類が築いてきた最も豊かな世界である。夜への畏怖と敬意を忘れないことこそ私たちが現代においても、未知への想像力を絶やさず持ち続ける秘訣ではないだろうか。 人類はいつか、夜を恐怖する心を完全に忘れてしまう日が来るのかもしれない。私にはそれが何より恐ろしい。
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