回り道

ぼんねくら

小説

5,629文字

今はちょっとリードを書く力が湧きません。すみません。

 

たぶん象の表皮に似ているんだ。インドの黒ずんだやつでなくって、アフリカのサバンナらへんで砂にまぶれている、白めのやつさ。一見すると平らかだけど、よく見るとね、細かく皺が刻まれている。色だって単なる灰色じゃない。そりゃあ、よく晴れた日のお昼どきには一面が灰色さ。でも目を凝らせば、茶や緑、紫に黄、もちろん黒と白も入り混じり、なかなか賑やかなんだな。はじめは混じりけのない灰色だったのに、雨が降ったり日が照ったりして、所どころが変色したんだろうか。横たわった缶の口から漏れ出た炭酸がしみ込んだのかな。もともと色づいていた石が埋め込まれたのかもしれない。

茶は、年をとって染み固まったおじいさん。番台で夕刊に目を落としっぱなしのシュウジジイに似ている。修持寺温泉とは名ばかりのお風呂屋さんをきりもりしているのは、シュウジジイだ。辻本くんの祖父と聞くが、本名は知らない。なんでもしゅうまいを食べ過ぎて、日に日に肌色に影響した結果、あんな渋茶色の顔に変わり果てたそうだ。もともとはおれみたいに白かったんだぜい。秘密をささやいてくれた孫の辻本くんは、確かに一年生の頃から肌の白さが保たれている。けれど、これから年をとるにつれてどうなるかはわからない。すでにシュウジジイの影響を幼い頃から受けているようで、昨年の運動会だったか、お昼休みの教室で、両足を踏みならしながらお弁当のしゅうまいをほおばっていたっけ。シュウジジイがしゅうまいを味わう姿は見たことがないけれど、お客さんに応対する合間に、ひょいと口に投げ入れるのかもしれない。そうか。だから時々、ぽこっ、ぽこっと片頬がふくらんでいるのか。そうとわかれば、見てはいけない。新聞に目を凝らしつつ、所在なさげに頬一点を膨らませ、かつへこませる、あの繰り返し。今まではそうっと盗み見ていたが、人目はばかるしゅうまいの盗み食いと決まれば、なおさら、じいさんのぽこぽこを注目してはならない。緑のおにいさんは、日々に波風を立てぬよう、墓穴を掘らぬよう、細心の注意をもって慎ましやかに暮らしている。修持寺駅前の目ぬき通りに、瀬戸信用金庫って銀行があってね。母さんに手を引かれて商店街の坂道を登っていくと、坂上にたどり着く少し前に、薬屋さんとたこ焼き屋さんに挟まれながらも両脇のお店を押し分ける勢いで、セトシンが立ちはだかっている。群がった自転車の切れ目を抜ければ、ガラス戸がふてぶてしい音をたてて開く。受付の窓口に、ぎこちなく笑うおにいさんがいる。窓口からお客さんがひいて行ったあとも、よほど時間が空かない限りは微笑みを浮かべている。そのまま笑み絶やさずして、五十七番のお客様ァ、と晴れやかに呼びかけ、最前の笑みを次の応接に流用したりする。そのスタイルが、ほかの職員、とくにおねえさんがたの流暢さに比べると、ぎこちないんだなァ。あたう限りに洗練されてはいるけれど、「アンコンシアス・ヒポクリット」なる女性スタッフの微笑にはとても敵わない。かといって今さらむすっと無骨漢に戻るわけにもいかず、というより、いったん己を偽って笑い皺を刻んでしまえば、もう、すべらかな素顔には復せないから、野の者とも山の者とも知れぬ不敵な笑顔で、立ち往生するしかないんだろう。だけどね。だけど、仕事帰りの道すがら、見慣れた暖簾をくぐったあとは頬のこわばりがほぐれ、ひゅうっと鋭い溜息をつくんだろうな。皮靴をロッカーに叩き入れる仕草には、日中に見せる職場での女々しさはうかがわれない。迷わず「男」を選び、さらなる暖簾を肩で切る。あいさつなんかするでもない面合わせの妙はシュウジジイも心得ていてお愛想も口にせず、小銭を受け取ると読みかけの記事に目を転じ、無言のままおにいさんを送り出した。いつもの場所で潔く裸になったおにいさんは、山賊がおなごを引っさらうかのよう預け置きの洗面器を小脇に抱え、竹細工の床を踏みしめて行く。真っ黒なおちんちんを振るわせて、勇み肌を熱湯にさらしに行くんだ。かぽおん。

気が合う同士は頷きあい、気に染まない同士は背を向けあう、何かの拍子に気が変わると間柄も転じてしまい、すれ違うかと思いきや打ち解けもして、色々と目まぐるしい。なかにはちっとも顔色の晴れない人もいるよ。紫の宮園さんなんかそうだ。水谷の教会にね、モスリンか何かの洋服を身にまとい、麗々しく着飾って礼拝に来られる。熱心なことに、毎週、来られている。もっともぼくだって、父親に引き連れられて通っているんだがね。平日よりは遅めに起きて電車を乗り継ぎ、はるばる水谷駅までやって来るんだ。母さんの機嫌が悪くなるから本当は気が進まぬものの、三つ年上の中学生のぞみちゃんに会いたいから、後ろ髪をひかれる思いで日曜日には粛々と白い門に入る。

ただ、讃美歌を歌うのぞみちゃんの黄色い声が気がかりでねえ。子ども礼拝のときはいい。問題は、十時半からはじまる大人礼拝にも彼女が混じったときだ。たとえば六十六番「三一の神」は、

 

せいなる せいなる せいなるかな

みつにいまして ひとつなる

かみのみなをば あさまだき

おきいでてこそ ほめまつれ

 

なんだけど、のぞみちゃんが声を乗せれば、

 

んせっえっなーる せっえっなーる せっえっなーるかーあなぁ

みーいつにーいぃまーしーてんえっ

 

ここまででいいだろう。のぞみちゃんを笑いものにしようなんて気はさらさらないんだ。綺麗な歌声なんだよ。ただ、どうも流行りのシンガーというかスタイリッシュな歌い手みたく、子音の直後に母音の余韻を引き伸ばすから、軽々しっくな罪深い旋律に聴こえる。はらはらすることに、讃美歌本を持たない片手の平を、手持ち無沙汰に握りしめ、たんたかたんとももに打ち、のりのリズムをとってしまうから、周りの大人たちもつられて、不本意にも肩など揺らしてしまい、日曜日の朝の荘厳な雰囲気が、安息日のピュアーさが不純に俗了されちまう。ああ、ああ、と気が気でなくて、礼拝堂の後ろの母子室から、おそるおそる彼女をうかがうんだけど、長い髪にとざされた細面がどんな表情なのか見当もつかない。そんなとき、決まって不服の相を呈しているのが、宮園さんなんだ。讃美のさなかにも横目をのぞみちゃんに寄越しているし、歌が終わると、皆よりにわかに遅れて重々しく着席する。歌書から目を離し、仰向いたかと思うと溜息をつき、やおら深々と椅子に沈み込む。いや、顔は動かさないな。顔の向きは揺るがせず、目のみをぐるんと上に向け、一呼吸を置いて瞼を閉じるとともに、仕方がなく腰を下ろす。讃美歌の通例として、最後の歌詞の果てにはアーメンという締まり文句が来るんだ。アァメェンで、歌声もオルガンも絶頂に達して讃美はゆるやかに幕を閉じ、恍惚となって皆、おもむろに腰がくだけていく。宮田さんを除いて、だ。満ち足りてくずおれる衆人の中にあって独り、興ざめた面持ちを保ち、はっと天に白目を剥いて、遅ればせにお尻を落着させる。かような着席のタイミングに、きっと不満を主張しているに違いないんだ。

色の中では白と黒が多い。だから一面をざっと見渡すと灰色にまとまるんだろう。白と黒はいちおう白と黒の色なんだけど、ほかの色と同じような色とは思えないんだ。茶・緑・紫・黄・赤……に比べて、なんだか映えない。映えないわりに夥しい。それなら白黒が目立つかというと、そうはならない。白と黒は、色っ気がないんだ。白はこれから色づいてゆく。黒はかつて色づいていた。一番はじめが白。一番しまいが黒。こう考えると、ほかの色とは無縁なようでいて無縁でもないややこしさにも納得がいく。つまり白は赤ちゃん、黒は死んだ人ということだ。生まれた白はだんだんと色づいて、パッと色めきたったあと、だんだんとくすみはじめる。色褪せるとともに周りの色にも浸食されて、何色とも見分けにくい難色を示した末に、息絶えて黒くなっちゃった。いっぽう白は、死人の誕生に負けじとばかり、ぽかぽかと生まれてくる。死んだら生まれる、生まれたら死ぬ、死んだ生まれ死ぬ、生ま死んだら生まれ死る、この事実をスッと了解しにくいけれど、そのわかりにくさにかえってリアリティを感じなくもない。

二年生になった時、空っぽになった教室に新しい一年生が入ってきた。三年生に上がった時も新入生が学校に押しかけてきた。四年生になってもやっぱり相変わらず新参者が集まってきた。どこだか知らない至る所で、子どもが生まれ育っているらしい。去年の夏休み前のある朝、ぼくは、はやる気持ちで家を出た。集団登校に間に合わなかったんだ。一時間半ほど間に合わなかったので、間に合わないというより間の抜けた遅刻だね。学校では二時間目の授業がはじまっている時間だから、もう急いだってどうにもならないんだが、そこで居直ってしまえば遅刻に慣れてしまいそうで、恐い。もはや慣れはじめている自分に薄々と気付きながらも、エイヤッ、退廃の陰を置いてけぼりに、家の裏手の小公園まで一目散に駆けて行く。入口手前で、速度をゆるめる。「うんこうえん」との異名で呼ばれるとおり犬猫のうんこでいっぱいの公園だから、地雷を踏まぬために全速力というわけにはいかず、足もとに注意深く、可能な限りの早歩きで、鼻の呼吸をせぬようにも心がけ、小公園を通過した。すずらん荘とコンクリ塀の間の小道を助走のペースで抜け出ると、大通り。ほい、正門までの直線道路を一気にダッシュ……しようと構えたら、脇の路地からおさなごの集団がワァッと出現したんだな。年少さんだろうか、三頭身くらいの人たちがころころとぼくの前にのさばり出てくる。おおかた、両手振り子の歩みに習熟しないから、あんよが先立って、胴体が不自然に引っ張り出されてくる。その成り行きが愉快らしく、笑いが止まらない男児や、深々と悦にひたる女児のほか、保母さんを見上げて共感を得ようとする輩もいる。てんでばらばらに散り広がる彼彼女らを、保母さんらが腰をかがめつつ早急にまとめようと焦るさまは、大人が子どもを引率しているのか子どもが大人をリードしているのだか、わかりゃしない。それでも保母さんは苦しく宥めすかし、なかば脅しつけたりもして、もとの団塊に戻しかけた隙にアウトサイドにはみ出る問題児の腕を引っつかんで、インサイドに戻したり。

もっとも、うるさいくらい元気な子どもと違い、白の赤ちゃんは静かなんだ。元気でないこともないけれど、イタズラを企むでもなしに瞳をぱっちり開けて一心不乱に待っている。さあ、これから色づいていこう。染まっていこう。そう思って静かに待っている。黒も静かに佇んでいるよ。ただ、白に反してもう色のつきようがない。無色にもなれない。黒以外に変わりようがない。だったら死人がたまっていって、道路は黒ずむのだろうか。逆も考えられる。とめどもなく赤ちゃんが生まれて、道路は白けてしまわないのか。ところが、そんな考えはこっちの都合に沿った、実に身勝手な空想なんだな。両者がうまい按配に混じりあって、全体が灰色に調和されているらしい。ただ、ときには死人が幅を利かせ、あるいは赤ちゃんで埋め尽くされる。雨が降りつづけて道が黒くなるのは、死人で満ち満ちてしまったからで、満月の夜に道が白く光るのは、赤ちゃんがあふれかえっているからじゃないのかな。ただし、雨が止んで陽が差せば、月が退いて日が昇れば、もとの雑色が復活する。

ひと色ひと色を見分けていくと、自然と歩みも鈍くなり、いつの間にか立ち止まってしまった。立ち止まると先へ進めないから、顔を上げて足を前に出すけれど、再び歩みはじめても、ひと足が落ちるまでの間に、どれほどたくさんの色を軽々しく跨ぎ越したのか、と気になる。それでも、行く手の先にたどり着くには、足もとなんか気にしちゃいられないだろう。かかとから下ろし、もう片足のつま先で後ろを蹴り上げ、る間もなく前にかかとを下ろして歩を成せば、目的地に到着するに違いない。先ほど電車から降り、ホームの時計を見上げたら、まだ八時五十分だったんだ。切符をなくして改札口に立ちすくむ、時おりのヘマもやらなかった。駅前の喫茶店ルネのガラス箱のサンプルに見入る癖も封じ込めた。高速道路のガード下をくぐり抜け、本屋さんも素通りし、都合よく遮断機が下りてこなかった踏切も越して、まだ寝ぼけている宅地を練り歩き、近道も通って路地を略して来るまで、なにも考えずに早足を使ったんだ。その調子で、線路沿いの道を踏みしめて行けば、きっと、間に合うはずなんだ。九時二十分頃、無事に到着したぼくを、森下先生は笑顔で迎え入れてくれる。黒いローブを揺らめかせ、片方の手をぼくの背に、一方の手を空席に差し向けて、静かに案内してくれる。二つ年下のみつおくんや弟のあゆむくん、同い年のハル公たちとは目配せを交わし、おしゃべりはしない。ぼくの苦手な年上のはやとくんも、こちらをふと見返っただけで、つんと黙している。もしかすると今日は、いや今日から苛められないのではないかと期待しながら、前方で女友だちとひそひそ話をしているのぞみちゃんの声に聞き耳をたてているうち、オルガンの前奏が蕭条と鳴りはじめ……。

そんな成り行きを丁寧に思い描けば描くほど、立ち止まってしまいたい。かけがえのないひとときが待っているからこそ、前進すれば夢想が実現しうるからこそ、平穏なプランを台なしにしかねない足もとの無益な世界へ、立ち寄らざるを得ない。一週間のただなかのただ一日の聖なるいっときより、石が織り成す乱雑な色を優先すれば、自分はどうなってしまうのだろう。再び足取りが重くなり、胸が冷たくなってゆく。かすかに踏切の音が聴こえる。自分を追い越した怒涛は、赤い車体を煌めかせ、カーブにしたがって律儀にくねり、見えなくなってしまった。

2024年9月22日公開

© 2024 ぼんねくら

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