五 訪問者
白のカーテンがひかれて、光の筋がわたしの顔に差し込み、まぶしい。
「面会人ですよ」
白衣を着た女がわたしにそう告げた。わたしはゆっくりとした動作でベッドを降り、その女の後をついてホールへ出る。
そこにはみたことのある顔の男が立っていた。男はぎこちなく微笑み、わたしの名前を呼んだ。
「佐保、だいじょうぶ?」
わたしも薄く微笑みながら答える。
「元気」
それが男への答えなのか問いなのか、自分でもよくわからない。わかっていたのは、この男の名前が信一だということと、信一がわたしの恋人であるということだ。
G棟では、彼はわたしの婚約者ということになっていた。ここではわたしが会える外部の人間は家族のみに限られていたが、婚約者は将来的に家族を約束された人間ということで、出入りを許された。誰がそんな考えを思いついたのかは知らないが、とにかく信一は婚約者となってそこにいた。
ホールのテーブルについて、二人はお互いを向き合った。彼は、わたしが突然いなくなった夜のことを話した。わたしの部屋を訪ねると誰もおらず、携帯に連絡をしても、電源が切られており繋がらなかったことや、夜の街中をわたしの名前を呟きながら探して歩いたことなど。
「僕、さびしくてずっとサホー、サホー、って名前を呼び続けたんだよ」
信一は、やり切れないといったふうに、眉を寄せてハの字にした。
「そうだったんだ。突然、ほんとごめんね」
その後の彼は、ご飯はちゃんと食べられているか、とか僕の方は消防の仕事でトレーニングが大変だ、といったわかりやすい話を幾つかした。わたしも、それに対しつとめて笑顔で相槌をうった。そうするうちに40分ほどが経過して、時計に目をやった彼は、早いね、また来週来るから、と言って帰っていった。
男と入れ替わりに、リエちゃんがテーブルの席に座った。
「彼氏?わりかしかっこいいじゃん」と言う。
「そうかな」
ミンファもやって来て言った。
「ワタシの旦那サンにちょっと似てます」
一週間後、言葉通りに信一はG棟へやって来た。前回よりも慣れた様子の笑顔をしていた。
「今日は庭へ出てみない?家族の付き添いがあれば、1時間行けるらしいよ」
促されるままに、小さなノートに名前と日付、時刻を記入して出発する。
看護師の一人が、その重いガラス扉の錠をはずした。幾つかの扉を通過し、エレベーターを経由し、外へ出る。
外はうだる暑さの真夏だった。
庭は、影が見当たらない日なただった。わたし達は日光の下をとぼとぼ歩く。この暑さの中では呼吸する生き物は皆、喉を枯らして死んでしまうんじゃないかと思う。植物だけが青々として元気だ。
蝉の声だけはやかましく響いているが、人は一人もいない。蝉の声はまるでただの背景となり、そこは不思議に静かな庭だった。
「日影があるよ、座ろうか」
信一は背の高い垣根の根元を指差した。なるほど面積は少ないけれども、垣根に沿って濃い色の影が落ちている。わたし達はそこに腰かけた。しかし、日影だろうが暑いものは暑い。
「暑いね」
わたしがそう言うと彼は、うん、とだけ言ってこちらに顔を近づけ、素早くわたしの唇に自分の唇を押しあてた。顔を離し、もう一度唇を押しあてると次は舌を絡めてきた。彼はわたしの体をゆっくり草の上に倒して、そこに覆いかぶさった。
暑い、暑過ぎる。
そんなに時間は経たなかったんじゃないかと思う。わたし達は衣服を整えると、しばらくその場でぼんやりと座り込んでいた。わたしは目の前にやって来たアゲハ蝶が、水を求めて固い地面に吸い付こうとしているのを眺めていた。
「そろそろ戻る時間だね」
彼がそう言って立ち上がった。わたしものろのろと立ち上がる。
彼は何歩か先に歩いて振り返り、わたしに右手を差し出してこう言った。
「行こう」
逆光で、暗くなっていたのだろう。わたしに彼の顔はみえない。
「行こう」
男はもう一度そう言う。
「暑過ぎて」
わたしはぼんやりとしたまま答える。
「暑過ぎて、行けないよ」
夜の建物内は昼間の屋外とはうってかわって涼しい。同じなのは、静けさだけだった。
真っ暗闇の中に懐中電灯の光りがわたしの顔を照らし出す。
「何をしているのですか」
廊下の隅で座り込むわたしに向かって、光りの主は容赦なく命令する。
「ベッドに戻りなさい」
わたしは顔を上げずに言う。
「どこに戻ればいいかわかりません。でも、名前を呼ばれたくもありません」
「眠るといいですよ」
そう言って光りの主は、わたしの手のひらに何かの錠剤をのせた。手渡されたコップの水と一緒に飲み込む。わたしは自分のベッドに戻り、大人しくそこに横たわって目を閉じた。
眠らなくては、夜だもの。
昼間みたアゲハ蝶も今頃は眠っているのだろうか。
今頃は葉の上にでも羽根を休めて、眠っているのかもしれない。もしくは、やはり昼間と同様に、水を求めて今も枯れた地面をさまよっているのかもしれない。
わたし達がどうあっても、夏の夜は静かに、時間を刻んでいる。
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