初日
イヴ・クライン〔伊夫・克萊因〕
昭和三十一年。パリ。
当時留学生だったブッダ青年は父親の資金援助で小さな代理店を立ち上げている。画家イヴ・クラインとの契約に成功、積年の夢を一つ実現させていく。
新しい青の輝き。
「イヴと私が共同プロデュースした最初の企画でした」
クライン・ブルーと名付けられた彼岸の色は美術芸術界を大きく揺るがし、半世紀を越えた現在でも人々を魅了し続けている。
二日目
ジョン・コルトレーン〔約翰・柯川〕
ブッダは翌三十二年に渡米、『ブルー・トレイン』製作に参加。
スタジオ中央で鼻歌が響いている。
木箱に腰かけ、マウスピースを調節中のコルトレーン。背後でトランペッターのリー・モーガンが煙草の火先を見つめている。
3、2、1、0。
「モメンツ・ノーティス」の旋律が高らかに響き渡る。ジャズ、ハードバップとも違う。日々の労働歌が天の賜物で磨き上げられた新しいブルースの誕生だった。
数ヵ月後、「ブッダ失踪」の報が日刊紙一面を賑わせた。超越瞑想法に専心。悟りの開闢まで二十年を超える沈黙が続く。
三日目
ニール・ヤング〔尼爾・楊〕
交差点で少女が飛び出してきた。おっと。慌ててブレーキを踏みつける。少女は中指を立て、呪詛の言葉を吐き散らしながら地下通路に駆け下りていった。
安堵の溜息が一つ。
車をスタート。皺の寄った目元をサングラスが隠している。
昭和五十二年。時代はパンクと呼ばれる音楽を生み出していた。ロンドンとNYから波及していった狂熱の音楽。
「汝、青より出でて黒に入る」
ニール・ヤングによる「ヘイヘイ・マイマイ」発表が昭和五十四年。歌詞の内には黒ずんでいく世相が預言として織りこまれていた。
四日目
ジョン・ベルーシ〔約翰・貝魯西〕
昭和五十七年。三月の晴れた朝。ニューヨークからの電話で叩き起こされた。
「…ジョン・ベルーシが死んだ?」
驚きに見開かれた両目。夢ではないかと思った。半月前、ブルース・ブラザーズとの共演契約を結んだばかり。脚本を読んだワーナーは数百万ドルの出資を快諾していた。
「コカインと睡眠薬の併用で心臓麻痺」
あいつ。薬は止めたと言ったのに。
五日目
マルティン・ハイデガー〔馬丁・海德格〕
映像の詩学四編。
『ブルー・ベルベット』(デヴィッド・リンチ監督。昭和六十一年)。
『グラン・ブルー』(リュック・ベッソン監督。昭和六十三年)。
『ブルー』(デレク・ジャーマン監督。平成五年)。
『トリコロール/青の愛』(クシシュトフ・キエシロフスキー監督。平成五年)
「お気に入りはどれですか」
英BBCのインタビュー特番、釈迦は質問には答えず本棚からハイデガーの一冊を引き抜いてくる。
「深さの凝集として青はそれ自体聖なのであり、己を覆うほどに輝きはいや増すのです」
六日目
ジネディーヌ・ジダン〔施丹〕
平成十年七月。パリ。
FIFAワールドカップ決勝戦の当日。
鎧戸で旗が揺れている。通りという通りは魔法にかけられていた。三色旗、トリコロールの青は「自由」を意味していた。
四十年振りのパリ再訪。
仏陀とその一団(ウイグル族とミャオ族系密入国者)は一見さんお断りの建物地下に足を踏み入れる。専属DJが自国優勝を賑やかな音楽で祝っていた。
「北海道から来ました」の二人組と知り合いに。サッカーの起源はインドだって知ってた? 馬鹿話で盛り上げる。
数杯目からの記憶が曖昧に……
最終日
魚喃キリコ〔魚喃桐子〕
平成十六年。
魚喃キリコ著『ブルー』のフランス語訳が公刊される。現地の批評家受けはまずまずだった。かつての同僚、東京在住の女性編集者と話していてそんな話題になった。
「この前サイン貰っちゃった」
おめでとう。でも同名漫画なら山本直樹が遥かに凄くないだろうか。
もしもし。何この長い沈黙。
「……うあ、あの女」
携帯を地面に叩きつけた。
「しょうがないさ」と釈迦が背中をポンポンと叩いてきた。
仕事の邪魔してごめんなさい。
涙を拭いてトラックに戻っていく。
午前三時。大麻の搬送が完了。パキスタン国境まで十数キロ、ブッダを自宅まで送り届けていく。
「おやすみ」
男は片手を上げて森に踏みこんでいく。
あっと言う暇もなかった。
月光を浴びた後ろ姿が揺らめき、パキンと砕け散る。何千何万の青い蝶が渦となって消え去っていった。
"〔ブッダ秘蔵版〕- 青い熔変の七将"へのコメント 0件