淀みの泡沫で私は夢をみた。数年前のこと。目を覚まし、あらためて記憶を辿る。
住吉町のカラオケボックスに到着したとき、ちょうど酒屋の方面から兄弟が歩いてきた。――兄弟、私はあえて彼をそう呼ぶ。兄弟が首から下げたゴールドのネックレスは規則正しく左右に揺れ、白い日射しを反照し、煌めいた。
我々は無言でカラオケボックスに入った。目的の部屋はすぐに見つかった。私は部屋のドアを開いた。
部屋の中では少年と少女が一人ずつ、くすんだビニール製の椅子に座り、携帯電話を操作していた。突然の我々の出現に二人は顔を引き攣らせ、勢いよく立ち上がった。弾みでテーブルの上のアイスコーヒーが倒れ、私の革靴に飛び散った。私は思った。すぐに革靴を履き替えよう。
私は少年と肩を組んだ。少女も連れ、兄弟と一緒に事務所に移動した。ソファに座り、彼らと向き合った。私は少年を立ち上がらせ、顔面を殴打した。少年はローテーブルの角に頭を打ちつけて倒れた。割れた額から鮮血が流れ出し、溜まりが出来た。
少女は全身を硬く強張らせ、石像のように座っていた。ほくろが印象的だった。豊かな黒髪が小刻みに震えていた。
あれはなかなかの儲け物だったと私は思う。起き抜けの脳を覚醒させるために、冷たい水をコップで二杯飲んだ。喉元を清涼が駆け抜けた。私は思う。あの少女を思い返すことは、もうないだろう。
そのとき、ベッドサイドテーブルに置いた携帯電話が鳴った。親からの電話だった。――親、私はあえて彼をそう呼ぶ。親からの電話は、いつ何時たりとも出なければならない。親はいくつかの実際的な質問をした。私はそれに答えた。
最後に親は、一人の男を消すよう私に命じた。その手筈になっている旨を伝え、電話を切った。言われるまでもない。痴れ者に待つ定めは、死以外にあり得ないのだから。
革靴を履くとき、乾いた濃い泥が付着していることに気がついた。私はその靴を履くことを諦め、リモワのジュラルミン製スーツケースを広げ、別の靴を取り出した。私は思った。あの少女に係わり、革靴を履き替える羽目になるのは二回目だと。しかし全く構わない。あの少女のことを思い返すのは、今度こそ最後なのだから。
カフェのテラス席には日が射している。歓談に興じる者、読書をする者、ラップトップを操作する者、人々は思い思いに過ごしている。
私はホットコーヒーが入った紙コップを手に取り、席を立ち上がった。通りを歩き、コインパーキングに入った。料金精算機で支払いを済ませると、フラップ板が下がる機械音が鳴った。
ポケットからリモコンキーを取り出し、フォード・マスタングの鍵を開け、運転席に乗り込んだ。エンジンを始動させるとカーシートを介し、屈強な鼓動が私の身体に伝播した。
フォード・マスタングは暴力的なエネルギーを内包し、粘り強く道路を駆けた。鳴海インターチェンジから名二環に入り、北に走った。高針ジャンクションで東山線に入り、西に向かった。吹上西出口で高速道路を降り、一〇〇メートル道路を北に折れた。
私は錦のコインパーキングにフォード・マスタングを停めた。エンジンを停止しても尚、フォード・マスタングから空気中に熱が放出され続けている気配がした。
目的地であるカラオケボックスに私は向かった。カラオケボックスの入口に到着したとき、ちょうど兄弟がやって来た。歩いてくる兄弟を眺めた。兄弟が履いているバスケットシューズには、乾いた白い泥の跡が付着していた。
我々は目的の部屋のドアを開けた。中にはあの男――そう、彼がいた。そして見知らぬ少女が一人。美しい髪、白い肌、華奢な身体。覚えがある僥倖の予感を少女から感じた。
「違うんですよ……」
男は立ち上がり、髪を振り乱しながら言った。その勢いでテーブルに置かれたアイスカフェオレのグラスが揺れた。生え際が黒くなった茶髪が、冷やかな蛍光灯に照らされ銅線のように光った。
私は言った。「やれやれ、まったく」
我々は四人で白昼の通りを歩いた。路上は夜の喧騒を引きずっており、饐えた匂いがした。小鳥が三回囀り、さらに二回啼いた。それから飛び立つのを目の端で認めた。空は底抜けに青く、快晴が広がっている。陽光が心地よかった。
"マスタング"へのコメント 0件