僕はその場に立ち尽くし、去り行くヨシイさんをぼんやりと眺めた。ヨシイさんは鮮やかなネイビーのカーディガンを羽織り、タイトなブルーデニムを穿いていた。靴は目が覚めるような深紅のパンプスで、肩からさげた革製の小さなバッグが規則正しく揺れている。
振り子のように揺れるバッグを見ていると、不思議な気持ちがやってきた。なんの気なしにヨシイさんに声をかけたあの日が、ひどく懐かしく思えた。
ヨシイさんの後ろ姿は遠ざかり、濃紺の闇に溶けた。やがて目で捉えることが難しくなり、ヨシイさんは僕の眼前から跡形もなく消えた。
その日最後の仕事は十九時からで、殺された有馬さんと同い年の子――ヨシイさんや有馬さんからは、サキと呼ばれている子――との仕事だった。
「明日から別の人と働くことになるんですよね? あたしたち」彼女は日産・ウイングロードの後部座席から言った。
「そうなるね」
彼女は窓の外を見るともなく見ながら、無感情に「ふうん」とつぶやいた。
「君はこの仕事を続けるのかな?」
「続けますよ」素気ない声だった。「辞める理由もありませんし」
最後の仕事を終え、日産・ウイングロードを再び駐車場に入れた。時刻は二十時半を回ったところだった。僕はマンションの隣の炭火焼きダイニングに足を向けた。
店の引き戸を開けると、店の女の「いらっしゃいませ」という元気な声が響いた。右手側手前のいつもの席に案内してくれた。
店主も厨房から出てきて挨拶をしてくれた。店内には珍しく知った客がいなかった。
「ちょっといいですか?」僕は店主に声をかけた。
「なんでしょう」
「零時過ぎにほかのお客さんがいなくて、店を締めたときの話なんですけれど」
「はい」
「折り入って相談したいことがあるんです」僕は店主の目を見た。「よかったら話を聞いていただけませんか?」
店主は人懐っこいブルドックのように笑った。「もちろんいいですよ」
店の営業時間は午前零時までとなっていたが、客がいる限りは朝の七時くらいまで営業するのが常だった。僕を含めて怪しい個人事業主のような客がこの店には多く、平日でも遅くまで賑わっていることが多い。
店主は関東で半グレの使い走りのようなことをしていたが行き詰まり、逃げるようにして名古屋へやって来たと聞いた。知る限りではとても口が堅い男だ。僕はドレーとスヌープに一矢報いるために、彼らの情報を調べあげたかった。その道の専門家を必要としていた。
しばらくすると何人かの常連客が店にやって来た。彼らと一緒に七輪を囲み、肉を焼いて食べた。ハートランドを瓶のまま三本飲んだ。
「カワサキさんって、どんな仕事をしているんですか?」まだ大学生の常連客が言った。
「人材系だよ」
「そうなんですね」大学生の男は感心したように目を見開いた。「なんか世の中の中心って感じですね。リクルート的な」
苦笑するしかなかった。「君もそろそろ就活?」
「そうなんですよ。全然自信ないです」
「きっと大丈夫」僕はハートランドを一口飲んだ。「うまくいくことを祈っているよ」
蜘蛛の子を散らすように、常連客たちはめずらしく早めに引きあげていった。彼らはこれから女に会ったり、知り合いがいる別の店に飲みに行ったり、あるいは帰ってもう一仕事したりと、それぞれになにかしらの予定があるようだった。
二十三時半ごろ、店の客は僕だけになった。おおかた店が片付き、店の女が帰ってから、店主は僕が座るテーブル席の斜め向かいに腰をかけた。
「身の回りのことを調べてほしい人がいるのです」僕は単刀直入に言った。「仕事絡みなのですが」
「なるほど」店主は堅く頷いた。
「情報が不足している案件がありまして。そういったことに通じている、プロフェッショナルなお知り合いはいませんか?」
店主は左上を見上げ、眉間にしわを寄せて考え込んだ。大昔に観た冴えない映画の結末を、頭のキャビネットから引っ張り出そうとするように。
「心当たりはあります」店主は顎をさすった。「直接の知り合いではありませんが、関東にいたころの仲間にそういったことに詳しい人間がいます。修羅場をくぐっている人間です。訊いてみましょうか?」
そう言うと店主は歯を見せて笑った。
その翌日から、僕は新しいチームの立ち上げに動き出した。援助交際に関心がありそうな子をウェブで探してコンタクトをとることから始めた。
デスクの上を綺麗に掃除し、誰も訪れることがなくなったマンションで一人孤独に作業をした。できるだけ礼儀正しい姿勢で仕事に臨んだ。昼食をとるのも忘れて没頭したが、まったく手ごたえが感じられない一日だった。
夕方に炭火焼きダイニングの店主から電話が入った。頼れるプロフェッショナルが見つかったということだった。
僕は店主に礼を言い、紹介された男と直接面会の約束を取り付けた。面会の約束は、無理を言って深夜零時にしてもらった。男は快諾してくれた。
僕の日産・ウイングロードにGPSや盗聴器が仕掛けられている可能性を考慮して、レンタルした白いトヨタ・マークXで待ち合わせに指定された名古屋港の近くに向かった。海面は月明かりと街灯で鉛のように鈍く光り、たゆたっていた。
見通しの良い海岸に面した通りで駐車した。しばらく待つと、トヨタ・マークXに歩いて近づいてくる男がサイドミラーに映った。
男は黒っぽい長袖のシャツを着て、黒っぽいパンツを穿き、赤茶色っぽいローファーを履いていた。
男はトヨタ・マークXの助手席の窓から僕に会釈をした。静かにドアを開け、猫のように素早く助手席に潜り込んだ。
「遅い時間にもかかわらずありがとうございます」僕は頭をさげた。
「構いませんよ。慣れていますから」
男はつかみどころがない顔をしていた。一瞬目を離しただけで、次の瞬間にはどんな顔をしていたのか思い出せなくなった。年齢は二十代のように見えたが、三十代にも見え、あるいは四十代に見えないこともなかった。とっかかりがなく、飄々として印象に残らない風体だ。便宜上、男をローファーと呼ぶことにした。
「依頼は素行調査ですよね?」
「そうです。対象は二名です。ただし、名前がわかりません。顔写真もありません」
「なるほど」ローファーは能面のような表情で言った。「まあ安心してください。なんとかしますよ。もう少し情報をいただけますか?」
「彼らは栄駅と伏見駅の間にある、とあるマンションの五〇五号室をなにかしらの店舗か事務所として使用しています」
ローファーは顎に手をあてて何度か頷いた。「怪しい店や事務所がたくさん入っている、あのマンションですね?」
僕は頷いた。それからドレーとスヌープの外見的な特徴をローファーに伝えた。彼らの個人情報と組織概要、その営みについて調査してほしい旨を伝え、着手金が入った封筒を渡した。
ローファーは銀行員のように素早く札束をめくり、金額に誤りがないことを確認した。
「結構です。やってみましょう」ローファーは頷き、トヨタ・マークXの助手席を出て行こうとした。
僕は慌てて彼を呼び止めた。「もう一つお願いがあります」
時間が止まったようにローファーは動作を停止させ、こちらに向き直った。「なんでしょう?」
「この子が調査対象の二名に接触していないかも調べていただきたいのです」
ヨシイさんの写真をローファーに差し出した。ローファーは目を細めるように写真を見つめてから受け取った。
「いいでしょう。そのくらいでしたら追加料金は不要です」
そう言い終えるのとほとんど同時に、ローファーは来たときと同様に素早く助手席から出ていった。サイドミラーを覗くと、背を向けて遠ざかるローファーが見えた。ローファーの後ろ姿は青白く、すぐに闇夜に紛れた。
ローファーが去ったことを見届け、一息ついてから僕はトヨタ・マークXを発進させた。しばらく走ったとき、カーラジオからイエロー・マジック・オーケストラの『ハッピー・エンド』がかかった。くぐもったその音像を聴いていると、身が切られるような気分がやってきた。
僕はハッピー・エンドなど求めていなかった。まったく求めていない。求めているのはただ一つの納得。
手が届く範囲だけで、流れに身を任せ生きてきた。ヨシイさんたちと働いた日々も、なりゆきでしかなかった。それでも満ち足りた季節だった。満足のようなものを感じたのは、生まれて初めてのことだった。
そのささやかな充足を奪われ、取り上げられたのだ。納得がゆく決着をつけたい。一つくらい納得できることがあってもいいはずだ。それが僕のすべてだった。
ドレーとスヌープの調査期間はあっという間に過ぎた。その二週間の間、僕は新規事業の推進に精を出した。なにはともあれ取り組む必要があった。
援助交際を一緒にやってくれそうな子をウェブで探し続けたが、成果らしい成果はまったく得られなかった。思いがけず電車が運転を見合わせたように、時間だけが過ぎていった。
前回と同じく午前零時に、同じ場所でローファーと落ち合った。その日はレンタルした白いホンダ・ストリームで向かった。
「いといろとわかりましたよ」ローファーは助手席にするりと潜り込むなり言った。「わからないこともたくさんありますが」
ローファーは何枚かの写真とまとめられた資料を僕に手渡した。「結論から申しますと、彼らの個人情報はわかりませんでした。徹頭徹尾、彼らは個人情報が漏れないように注意をはらっているようです。彼らには個人情報なんて存在しないのではないか? と思えるほどです」
「よく出入りしている場所もわからなかったのですか? 家とか」僕は訝しんだ。
「わかりませんでした」ローファーは僕の目を覗きこむように言った。「彼らには決まった場所に帰るという習慣がありませんでした。連日、異なるホテルやウィークリーマンションに泊まっていました。そこには法則性はなく、また期間内に同じ場所を訪れることもありませんでした」
僕は渡された資料をめくった。たしかに彼らは、二人とも毎日違う宿泊場所を渡り歩いていた。少なくとも調査期間内においては。
「次に組織規模についてですが、全容は掴めませんでした。ただ、彼らのほかに九名の関係者は確認できました。推測ですが、彼らの配下のような存在だと思います」
「彼らは半グレということになるのでしょうか?」
「おそらくそうでしょう。断定はできませんが。彼らはヤクザとはあまりにも行動パターンが異なりますし、彼らの周りにヤクザの影はありませんでした」
「ということは、彼らにはヤクザの後ろ盾はない、ということですか?」
「なんとも言い難いですが、ヤクザの後ろ盾はあると考えておいた方がいいと思います。なんの後ろ盾もない半グレの場合、その動きは無軌道になる傾向にあります。衝動的であったり、快楽主義的であったり。彼らの行動原理はその真逆にあると思われます」
ローファーは前髪をかきあげてから肩を回した。
「彼らはきわめてストイックです。これ以上ないほど抑制されています。もちろん、そういった傾向がもともと彼らにあるだけ、という可能性もありますが、なにかしらの力が働いている結果だと考えたほうが自然でしょう。私の経験則ですが」
僕は頷いた。
「次に彼らの営みについてです。断片的ではありますが、ある程度はみえてきました。彼らは大きく三つのことを手がけているようです。まず第一に、あなたのような援デリ業者のケツ持ちをしているようです。確認できた範囲ですが、少なくとも十五から二十事業者くらいは抱えているようです」
ローファーは身振り手振りを交え、冷静なワイドショーのコメンテーターのように説明した。
「第二に、援デリ業者狩りをおこなっています。あなたが言うところのスヌープが業者をあぶり出して、ドレーと一緒に叩きに行くという流れでした」
「彼らはモグリの業者だけに狙いを絞っているのでしょうか? それとも、半グレやヤクザも含めて、無作為に業者狩りを行っているのでしょうか?」僕は訊いた。
「それはなんとも言えません。私も気になりましたが」ローファーは首を横に振った。「ただ結果として、彼らが叩きに行った業者はすべて後ろ盾がないモグリの業者でした。サンプル数は二件なので、単なる偶然かもしれませんが」
ローファーは二回まばたきをしてから口を開いた。
「そして第三に、彼らは直営で店舗型サービスの提供と、デリバリー型サービスの提供を行っています。確認できた範囲ですが二十五名から三十名くらいのキャストを抱えているようです」
ローファーは深く息を吸い、それから吐き出した。
「調査結果は以上です」ローファーは忙しそうに腕時計を見た。「伝え忘れていました。あなたから写真をあずかった子ですが、調査期間中に彼らと接触しているところは確認できませんでした」
「そうですか。わかりました」僕は言った。「最後に一点お訊きしてもいいですか?」
「どうぞ」ローファーは荷物をまとめながら言った。
「彼らは、いったいどういう存在だと思いますか?」
「なんとも言い難いですね。彼らは自分たちの利益のために手段を選ばない。これは間違いないでしょう」
僕は頷いた。「ありがとうございました」
素行調査の残金が入った封筒をローファーに渡すと、ローファーはキャッシュディスペンサーのように素早く札束を数え、餌を食べ終えた猫のように満足げに頷いた。黒いジャケットの胸ポケットに封筒をしまい、ホンダ・ストリームの助手席から素早く出ていった。
数日後、一人の男が自殺したことがニュースになった。テレビに映る自殺した男の顔には見覚えがあったが、思い出すまでに時間がかかった。
その男はローファーだった。
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