冷房の効いた部屋に、無機質なクリックの音だけが響く。
『私は、ずっとあなたの役に立ちたかったの。だって、あなたのことが、好き……だか……ら……』
悲劇的なシーンで、雨に打たれるヒロインが傷だらけで主人公に愛を告げて目を閉じる。ああ、ありきたりなシチュエーションに、ありきたりなセリフだ。有名どころの声優を使っていたとしても、シナリオが平々凡々なのでは結局は何の価値もないじゃないか。それはまるで、有名大学を卒業したのに、流されるままに平凡な中小企業に就職してしまった僕自身を映しているようで、やっぱりクソゲーだ、と心の中で呟いた。
午前中から、僕はずっとこんな調子で、パソコンと向かっててばかりいた。いつも身に着けている腕時計を確認してみると、ちょうど短針と長針が綺麗な直角を描いて、午後の三時を指し示しているところだった。
そろそろ休憩しよう。僕は眉間をほぐすように揉みながら、クイックセーブボタンを押して、つまらないゲームを中断した。しばらくすればまた再開するつもりだったから、画面はそのままにして、立ち上がる。
いくらパソコン作業に慣れているゲーマーの僕とはいえ、休日の半日以上をぶっ通しで机に向かって過ごしていると、さすがに疲れを感じてくるものだ。うーんと唸りながら、ずっと座りっぱなしだった身体を軽く伸ばしてやる。肩甲骨のあたりで、関節が鳴った。
机の上には、食べたままのカップ麺のごみや空のペットボトルが、自由を謳歌するかのように散乱している。そろそろ片付けないと、マウスを動かすのすら難しくなってきそうだなあ、と僕はぼんやりと考えた。今日が久しぶりの何の予定も無い休日であることも手伝ってか、なんだか夢見心地のようなふわふわとした感覚のままで、ごみを袋に集めていく。ごみの日はいつだっけ。まあいいか。今日は珍しく掃除をしたんだから、ごみ出しの日くらいは守らなくたって。
僕はパソコンをつけたまま、近所のごみ捨て場を目指して、玄関に脱ぎ散らかされていたサンダルを適当に引っかける。せいぜい徒歩数分なのだから、荷物はスマホぐらいで十分だろう。やっぱりなんだか現実離れしたようなふわふわとした足取りで、僕は家を出た。
家から右に直進してすぐの交差点の電信柱が、この地区のごみ捨て場の目印になっている。しかし僕がそこに辿り着くと、よりにもよってその交差点では、町内会を取り仕切る生真面目な佐竹さんという女性が、信号待ちをしているところだった。今ごみを捨てたら、またいつものように「ごみの日に捨ててくださいって言ってるじゃありませんか」とお小言を食らってしまう。佐竹さんは、健康的な肌色をしていて、髪にも手入れが行き届いていて、少なくとも不細工ではない顔立ちなんだから、黙っていれば可愛げもあるのに。確か、彼女も僕と同い年くらいなのに、独身だったな。口うるさいのが原因で結婚できないんじゃないのか。さっさとごみを出して家に帰りたい僕は、八つ当たりのような嫌味を考えながらも、近くの自動販売機の陰に隠れた。
いくらつまらないゲームでも、それよりもつまらないこんな現実よりかは、ずっといい。早く家に帰って、少しでもつまらなさがマシになるゲームがしたい。
そんなことを考えながら信号機を眺めていたら、ぱっと青色が点灯する。佐竹さんが、横断歩道に踏み出す。後は、僕がタイミングを見計らってごみを捨てに行けば……。
次の瞬間、視界にシルバーのライトバンが滑り込んでくる。急ブレーキの甲高い悲鳴と鈍い音と共に、佐竹さんの身体が宙を舞った。
交通事故を表す文章で「宙を舞う」とよく言うけれど本当に時が止まって見えるんだなあとか、急ブレーキの音って近くで聞いたら思いのほかうるさいんだなあとか、今って確かに青信号だったよなあとか。あまりにも現実味の無い目の前の出来事に、僕は足取りどころか心までもがふわふわと浮き足立つ。
佐竹さんのひしゃげた体が歩道の隅に飛ばされて転がって、アスファルトの上に広がっていく黒い染みを見て、急速に僕の頭は現実世界に引き戻された。そうだ、救急車を。止血が先なのか。人を呼ばなきゃ。とにかく百十九番に電話して、その間に怪我の状態を確認して、それから、それから。真っ白になった頭で、慌ててポケットの中のスマホを取り出そうとして、もたつく。その間にも、遠くで先程のライトバンの運転手らしき人の上ずった声かけが聞こえる。ようやくポケットから取り出せたスマホの通話画面を開くと、時刻は「15:00」と表示されていた。
そして、気づけば目の前にはパソコンのモニターがあって、画面の中ではクイックロードボタンがゆるやかに点滅していた。
『私は、ずっとあなたの役に立ちたかったの。だって、あなたのことが、好き……だか……ら……』
悲劇的なシーン。雨に打たれる傷だらけのヒロイン。主人公に愛を告げて目を閉じる陳腐な光景。いつか見たような光景。
何度瞬きしても、今いるのは僕の部屋で、目の前には事故現場ではなく僕のパソコンがあって、パソコンの中では何周目かのルート分岐地点でヒロインが死にかけていて。呆気にとられている僕の前で、パソコンのモニターはやっぱり、片付けたはずのごみに埋もれている。
まさか、時間が巻き戻るなんてことがあるはずがない。僕は気づかないうちにうたた寝をしてしまっていたんだ、きっとそうだ。スチルを回収するために、延々とこんなクソゲーの共通ストーリーを繰り返していたせいで、あまりにもつまらないからってあんな夢を見てしまったんだ。
僕は先程の光景を忘れてしまいたくて、カチ、カチ、と無心でマウスをクリックする。あえて間違った選択肢をクリックすると、ヒロインは主人公の腕の中で息絶えた。無事にバッドエンドのスチルを回収して、やはりありきたりでつまらないエンドロールが流れる。エンドロールが終わってタイトル画面に戻る直前に、オートセーブのアイコンがくるくると回っていた。
腕時計に目をやると、もう三時四十二分だ。今度こそ、ぼんやりしていないで、さっさとごみを捨てにいこう。せっかくの休日なのに、溜まったごみも捨てずに、居眠りなんかしてる場合じゃない。今までよりも少しだけ足が地についたような感覚で、僕はごみを袋の中にかき集めて、スマホをポケットにねじ込んで家を出た。
何となくあの交差点に近づくのが嫌だったから、僕は俯き加減で足早に歩道を歩いた。その視界の端から端を、日光を反射する銀色が一瞬で通り過ぎる。
甲高い音と鈍い音。あ、という声を上げる暇さえも無かった。顔を上げると、先程の夢でも見たシルバーのライトバンの運転手が、血溜まりの中で転がる佐竹さんに、駆け寄るところだった。横断歩道の青信号が点滅している。
僕は慌てて、スマホを取り出そうとした。僕のその行動は、今度は救急車を呼ぶためではない。スマホに表示される時間を見て、もう一度、このふざけた悪夢から覚めるためだ。やっとポケットから顔を出したスマホの画面を開くと、表示された時刻は「16:04」だった。運転手は、倒れた佐竹さんの側にうずくまって、震えた声で救急車の手配をしている。
ああそうか、バッドエンドの後に上書きセーブをしたんだっけな。じゃあもう、いくらロードしたって彼女は助からないや。
気づかないうちに、雨が降り出していた。僕は無意識のうちにスマホをポケットに入れ直すと、遠くで聞こえる救急車のサイレンに背を向けて、家路を辿る。
ヒロインの陳腐なセリフを真似るなら、僕だって、誰かの役に立ちたかった。昔はずっと、こんなつまらない人生なんかじゃなくて、自分にはもっと、泣きゲーのようなシナリオが待っていると思っていた。思っていたんだよ。「だけど人生はゲームみたいにはいかないんだ」って思い知った日のことは思い出せたとしても、きっと僕はもう、その時刻までは思い出せないだろう。
帰ったら、あのつまらないゲームは円盤ごと叩き割ってやろう。そして、その代わりに、レビューが高得点のゲームを通販し直そう。ありきたりなクソゲーなんて、人生だけでもう十分に飽き飽きしているから。
平々凡々とした僕の日常に現れた少しだけの奇跡は、当たり前のような顔をして消えた。
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