書店で働いている。
レジのレシートが切れるタイミングに、数日にいっぺんくらいは立ち会う。ピンクの帯がレシートの両脇に印刷されるようになったら、レシートの替え時だ。レジのパネルを下げて、レシートのロールを取り替える。そうすると、ピンクに染まった紙がちょこっとだけクルクルっと緩んで、ぽろっと芯が転がり出る。
三センチくらいの長さの、小さな茶色い芯だ。ラップやトイレットペーパーとは違い、かなり厚みがあってしっかりと頑丈である。ころころと転がる様がかわいらしい。
当店では、これを、ブックカバーを折る時に使う。折り目をしっかりつける時に、きゅっと滑らせる。だから、ある程度の数の芯が、カウンターの引き出しの中に常備されている。ある程度の数を越すと捨てられる。ありすぎても困るし、無いとカバーが折れなくて困る。
引き出しの中に、芯は見当たらなかった。うっかり誰かが持ち出してそのままらしい。
どうせバイトのたびにカバーを折るのだから、毎回芯を使う。だったらエプロンのポケットに入れっぱなしにすれば良い。わたしはそう考えた。
わたし専用の芯。まあ甘美な響きでは無い。たかだか芯だ。
芯はつるりと丸い。名前をかくには相当な器用さが要る。わたしは自分の名前を書くのは難しいと判断して、とりあえず、小口の部分を手元のマジックペンで黒く染めた。
その瞬間、後悔した。
後悔だけでは収まらない、罪悪感に駆られた。ひどく焦った。慚愧の念に堪え難く、心が折れそうになった。
黒く染めた芯は、もはや、ほかの芯とはっきり見分けがつくようになってしまった。
個性を、わたしは与えてしまったのだ。
個。この厄介なるもの。個を得た悲しさに、生まれた赤ん坊は泣くのだ。この芯も泣いていた。彼(無性なので便宜上こう呼ぶ)は、この世界で個を得たことに、孤を与えられたことに、嘆き悲しんでいた。
ああ、わたしはなんと罪深いことをしてしまったのだろうか。
いまさら彼をゴミに出すわけにはいかない。そんなのはなおさらにかわいそうだ。
「ごめんなさい、あなたを生んでしまって」
そんな言葉が出てきそうになった。だが、それは誰も幸福にならない言葉だ。
彼がさめざめと泣くのを、わたしは眺めていた。
「ハッピーバースデー」
とにかく、わたしはなにかを言おうと思って、そんなことを言った。彼は、泣きながらも、凛とした声で答えた。
「ハッピーバースデー、わたし」
彼は嘆いてはいたが、弱くはなかった。わたしはそれに勇気付けられながら、言葉を継いだ。
「あなたに名前をつけてあげなくてはいけないね。あなたは生まれてしまったし、ほかのトー(筒なのでトウだ)とは違うのだから」
名前は識別のためにつけられるべきだ。他のトーは大量生産品としてその生涯を終えるのだから、呼び分けられる必要も無い。けれど、彼は選ばれてしまった。わたしという神につまみ上げられてしまった以上、彼は他のトーと区別されなくてはならない。
「なんと名前をつけましょうか。哀れなあなたに、せめてもの救いになる名前を」
「そんな名前は要らないわ」
彼はしっかりと拒絶した。
「かわいそうと憐れむことは、あなたの自己満足でしかない。そんな名前なら結構よ。わたしを拾い上げたのだから、堂々と責任をとりなさい」
彼のいうことはもっともだった。わたしは深く反省した。わたしは彼の唯一神であるのだから、彼に対して正当であるべきだ。
「それならば、祝福をあげましょう。長くわたしとともにいられるように。わたしから、離れないように……」
それは、彼にとっては祝福だが、わたしからすると哀願だった。消耗品の彼が、ある日、他の店員に捨てられてしまうかもしれない。わたしが彼に責任を取るのだから、わたしと彼に深く深く、えにしをつないでおかなくてはならない。
しかしわたしには、絶望的に名付けのセンスがなかった。うんうん唸って、悩んだが、まったく思い浮かばない。
そばにいた寒川さんに、意見を聞いた。寒川さんはわたしと同い年くらいの、わたしより先輩のバイトだ。
「この子に名前をつけるんですけど、なにがいいと思いますか」
「ハルカとかいいんじゃないですか」
ハルカ。遥か。遥か遠くの未来までを約束する、いい名前だ。
「いいですね、それ」
すぐにそれを気に入ったわたしは、彼にそれを伝えた。
「ハルカでどう?」
ハルカは「まあまあなんじゃない」と言った。
そこでわたしは調子に乗って、「苗字もつけようか。何がいい? トーの一族からもらって、トー・ハルカ? ハルカ・トー? どちらもあまり語呂が良くないかな」と続けた。
すると、彼は怒ったようだった。
「ねえ、わたしはあなたに拾われたのよ」
「うん」
「わたしはあなたに拾われて、見分けがつくようにされて、個を与えられて。その瞬間に、わたしはトーの一族から離れたの。隔てられたの。ただの芯として一生を終えるはずだったのに、あなたのせいで。だから、わたしはもうトーじゃない」
彼は怒りながら泣いていた。生まれたばかりの彼は、まだ感情の揺れ動きがうまく制御しきれないようだった。
「わたしがあなたに捨てられるとき。その時、わたしはもうトーに戻ることすらできず、ハルカも剥奪されて、燃えるゴミになるの。あなたは、その全てに責任を持つのよ。だってあなたはわたしの唯一だから」
「……そうだね。ハルカの言う通りだ。じゃあ、トーの苗字は要らない?」
「何も要らない。苗字も、トーの名残も。わたしはあなたのハルカよ。ただのハルカ」
ハルカはきりりとした口調で言い切った。
わたしはもう何も言わずに、ハルカの両側の小口を黒く染めた。そうすれば、どちら向きに立てても、他のトーに紛れることはない。
さらに、胴のがわに、黒い線を二本引いた。それは、彼が生まれた時に流した涙の跡だ。
これで、ハルカは完全にハルカになった。ハルカは誇らしげに胸を張った。それは誰も知らない、わたしとハルカの間にしかない虚勢であった。本屋のカウンターの中で、小さな何かが生まれた。それは、わたしたちの小さな共依存。
今、わたしのエプロンのポケットには、ボールペンと鋏、伝票と紙くず、そしていくつかの芯とハルカが入っている。
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