この峡谷世界にはドラゴンの肉体がひしめいている。それが〝峡谷〟と呼ばれるゆえんだ。一羽の鳥が、喉を鳴らしながら朝焼けの空を駆け巡る。鳥の眼下にはツノやキバを剥き出しにしたドラゴンの肉体が鎮座している。〝倒れている〟と言ったほうが適切だろうか。ドラゴンは翼をもがれ、地に伏さざるを得ない姿で、もう何千年とそこで生きている。さながら岩山のようだ。ドラゴンは不死身なのだ。肉体が固まろうとも、生命が尽きることはない。
世界本来の大陸や海はこうしてドラゴンの肉体に占拠されている。ドラゴンの肉体が密集しているため、人間は狭い〝谷〟の合間や〝山〟の上で生活を築かねばならなかった。そうして世界は、峡谷世界と語られるようになった。そこに不自然さはない。人間は違和感を持ってなどいない。なぜなら人類が誕生したのは、ドラゴンがそうなったあとのことだったからである。ドラゴンが肉体を谷とし山とし、植物や砂岩を有し、海を埋め立てずに居さえすれば、人間にとって不自由はないのである。
いまエルストが立っている大地もまた誰かドラゴンの肉体なのである。エルストは、人間がいくら焦ろうが、遅く生きたいと願おうが、相変わらず思うままにゆったりと昇りくる日の光を浴びながら、今日を静かに始めようとしていた。エルストの背後には見上げるほどの大岩がぽつんと建っている。熊の頭のような形の大岩だ。周囲は平らな草原である。ここはドラゴンの肉体の頂上であるらしい。ベルが言うには額の上とのことだ。
あの晩のあと、エルストはベルに連れられてここへとやって来た。聞けばベルの〝隠れ家〟ということだった。隠すにはあまりにも目立っているが、そう進言するのは自重した。エルストとベル以外、人気はなかったのである。
エルストは真上の空を見た。紫がかった空の奥は暗闇だ。星はもう見えない。夜が明ける前、ここは安全なのか、とエルストはベルに尋ねた。安全ですよ、とベルは答えた。結界魔法とやらを使っているらしい。ベルいわく、エルストとサムが住んでいた山にも結界が張ってあったそうだ。ベルは、サムがサード・エンダーズから身を隠すために結界魔法を使っていたのではないかと推測した。エルストは、ベルの推測が間違っていないことを感じていた。サムはエルストの知らないところで、知らないうちに、エルストを守り続けていたのである。
エルストは隠れ家に入った。簡素なキッチンとダイニングテーブル、そして部屋じゅうに散乱した本の数々と何かの模型がエルストの目に映る。丸く縁取られた窓から朝日の光が射し込んでいる。壁際には天井まで届く本棚が一面に広がっている。しかし本棚は空っぽである。そこに収められていたであろう本が、このように、テーブルの上や床の上にすべて散らばっているに違いない。床を踏む隙間もないとエルストは思った。昨夜来たときからこうなのである。模型もおそらく本棚に置いてあったのだろう。
部屋の奥には二階に繋がるはしごがある。ちなみにベルとアギはいま二階で就寝中だ。
エルストは足もとに落ちていた一冊の本を手にとった。進路を確保するためにそうしたのであったが、偶然、エルストはその本の表紙に関心を向けた。そのためエルストは歩くことを忘れ、その場に立ち尽くす。
「魔法と魔力と寿命の関係……」
エルストが呟いたのは本のタイトルである。
「我々人間やドラゴンが魔法を使うとき、魔力と呼ばれるエネルギーを消費する。この魔力というものは、長年の歴史における研究の末、寿命と比例していることがわかった。つまり魔法を使うとき、人間やドラゴンは、己の寿命を消費しているのである」
エルストはさらに読み進める。
「ただし、ここで人間とドラゴンには大きな違いがあることを忘れてはならない。人間の寿命は有限であるが、ドラゴンは不死身であるため、寿命は無限なのだ。魔法を使いすぎた人間は必然と死ぬが、ドラゴンはいくら魔法を使っても、死ぬことはないのだ」
それが魔力と寿命の概念である。エルストはさらにページをめくる。
「ところで世界には、ドラゴンを加工した――いや、加工されたドラゴンというものが存在している。それは、もはや自力では肉体を動かすことが不可能となったドラゴンの肉体を、ホウキや帽子、マントなど、あらゆる日用品に加工した品のことであり、これらをすべて〝加工済みドラゴン〟と呼んでいる。加工済みドラゴンは一般のドラゴンや人間と同様に意識や魔力、そして意志を持っている。しかし先ほども述べたが自力では動けないため、人間に使用されるしか、加工済みドラゴンに生きる道は無い。そう、人間は各加工済みドラゴンといちいち契約を交わすことで、その契約した加工済みドラゴンに宿った魔力を拝借することができるのだ。画期的なこの加工済みドラゴンは、大昔、アルムムの民が産み出したのを起源とする品である……」
「だあーッ! ぶつぶつブツブツやかましーっちゅーねん! 王子、朝っぱらからひとりごとかいな? こンの根暗王子めっ、まるで根暗やな! コッチまで丸聞こえやがな!」
二階からアギの声が聞こえた。エルストは我に返り、すぐさま本から顔を上げた。アギが〝加工済みドラゴン〟であることには、エルストも気づいている。
「んあーッ、もーアギ! うるさーい! 朝から耳もとで大声出さないでーっ!」
これはベルの声だ。ふたりとも目が覚めたらしい。エルストは本を閉じた。茶色く色褪せた本の裏表紙には、〝プロトポロ〟という名前が刻まれていた。
「やかましいのは王子やっちゅーねん! ハァせっかく夢心地やったのに……んで王子、先に起きとったんなら朝メシくらい作っとるんやろーな?」
アギを〝かぶった〟ベルが赤いマントを羽織った姿でのそのそとはしごを降りてきた。アギはベルの頭の上で吠えている。
「朝メシって……材料もないのに」
エルストはぼやいた。それよりも足の踏み場がない床をまずどうにかすべきである。
「材料ならありますよ。地下に保管庫があります」
ベルが言うので、エルストはえっと驚いた。
「その地下にはどうやって?」
二階へ繋がるはしご以外に階段は見当たらない。エルストは隠れ家の中を見渡す。
「へ? 床に扉、あるじゃないですか、エルスト様」
「床にって……床のどこにだよ?」
エルストは視線を床に移す。やはり本が床面積のほとんどを占領している。
「そこ!」
ベルはダイニングテーブルの隣に位置する床を指した。
「本が邪魔なんだよ」
エルストがついついこぼした。
「え、そうですか?」
「そうですかって、そうだよ、ベル。なんでそんなにケロッとしてるの。君、こんなところでずっと生活してるの?」
「そうですけど……ああ」
ベルは少し微笑み、はしごのそばに立ったまま手を叩いた。
「そっか。エルスト様、魔法が使えないんでしたね」
そのベルの言葉に、エルストはなんだか馬鹿にされた気がした。
「じゃあ、魔法が使えたらどうだっていうんだよ」
エルストはむきになる。
「こうするんですよ」
ベルが懐から杖を取り出す。
「ハッド!」
ベルが唱えた魔法の呪文が影響し、床に散乱していた本や模型のすべてが一斉に宙へと浮いた。エルストは思わず後ずさりした。その際、いくつかの本にぶつかった。
「ちなみにコレは束縛魔法のひとつやで」
なぜかアギが得意げだ。本は天井まで浮き上がり、エルストの足もとのみならず、床全面が石の姿を露わにした。これが本来の床の姿だろう。ベルの言うとおり、ダイニングテーブルのそばに板張りの扉が見つかる。そして天井に漂っていた本はベルの杖に従うまま、本棚に美しく整頓された。
「べ、便利なものだね」
エルストは、また本が床に散乱したら、自力で本棚に片付けてやろうと思った。
ベルが開けた扉の下は、保管庫というよりも一室の部屋に近い広さを誇っていた。一階の、キッチンやダイニングがある部屋よりも敷地が広いのである。食糧を取るためにエルストも地下に同行したのだが、ベルの杖が照らす空間は異様な雰囲気を充満させていた。湿気が多いかと思いきや、少し乾燥している。埃っぽく、はしごを降りる途中、エルストは何度か咳き込んだ。そして、保管されているのは食糧だけではなく、保管庫じゅうに連なる棚の中には、エルストには理解しがたい雑な字が走る紙の数々や、おそらく一階の本棚に収まりきらなかったのだろう本、それから――
「これ!」
エルストはつい大声を出した。エルストが鷲掴みにしているのは、アギとはまた違う、加工済みドラゴンの帽子である。アギのように喋り出す気配は、この加工済みドラゴンからは見受けられない。ただじっと目を閉じている。
「へへ」
ベルはなぜか笑いながらエルストの手中の加工済みドラゴンを取り上げ、古びた棚の奥に仕舞った。
「ベルが加工済みドラゴンを集めたの? こういう紙はさ、ベルが書いたの?」
エルストはいくつもベルに質問したかった。だがベルは保管庫の棚にぶら下がる肉や、瓶の中で液体に漬けられた野菜を慣れたしぐさで掻き集めている。エルストから投げられた問いに答えようとする様子はない。おしゃべりなアギでさえも、今は意味ありげに沈黙している。
「ねえ、ベル! 加工済みドラゴンってたしか……王城で保管されていたはずじゃ」
「はいコレ! エルスト様はお肉を持って上に戻ってくださいね」
「ベルったら。ねえ、聞いてる?」
肉塊を手渡されたエルストは、ベルに力強く背中を押され始めながらも、懸命に質問を続けようとする。
「レディには秘密があるんです!」
はしごを登り始めたエルストの背後でベルがようやく応じた。だがエルストは首をかしげる。
「僕が知ってるレディとは……君ちょっと違うと思うんだけど」
「あ、それは同感。初めて王子に共感してもーたわ」
エルストとベルが口を揃えると、ベルは押し黙り、頭上のアギをエルストにかぶせ、その後エルストが乗るはしごを思いきり蹴った。
「うわあっ! 危ないな、ベル!」
「キャーッ! アギさんがこーいう激震に弱いの知っとるクセに!」
エルストとアギは恐る恐るはしごを登っていった。
◇
エルストは不安げな面持ちでダイニングテーブルに着席している。使い古されているらしいチェアの板がささくれ、ズボンの縫い目からちくちくと肌を刺してきており、エルストは非常に不快な気持ちを抱きながらキッチンに立つベルとその頭上にいるアギの後ろ姿を見つめていた。ベルは魔法によって火を起こし、かまどの天板でスモークチキンを焼いている最中だ。油の弾ける音が部屋に響いている。かまどの上に開けられた窓から煙を逃しているため、煙たくはない。
エルストから向けられる視線になど感づいてはいないらしく、ベルとアギは鼻歌のハーモニーを奏でているが、エルストにとって煩わしいことこの上ない。エルストの片足は無意識のうちに揺れている。
「醤油と~、砂糖と~、お・酒~」
ベルが歌いながら何やら瓶入りの調味料をボウルに投入し、トングでかき混ぜ始めた。そして何度かトングとボウルのふちを打ち鳴らすと、アギが声をあげる。
「いっくぞー、ベル!」
「了解、アギ! 秘技!」
「〝鉄板にソース直かけ〟じゃあ〜ッ!」
アギが大きく叫ぶと、エルストはすぐさま片頬を痙攣させた。
「あのさあ……それ、ソース、部屋じゅうにすっごく飛び散ってるんだけど」
「あーッ、雰囲気ぶち壊しやな〜、王子。レディにモテへんで」
「ねえ、お皿はどこの棚? カトラリーは? この戸棚だね? 引き出しもあるね」
「無視すんのかーい! 王子っ! ワシ次のルクステラ見たら世界中のレディが王子の敵に回りますよーに願ったるわ。一緒にお願いしよな、ベル」
エルストはかまどのそばに立つ戸棚を無言で物色している。
「でもアギ、私はエルスト様の宮廷魔法使いだからそれは無理だな〜」
「心配には及ばへんで、ベル。ベルはレディちゃう……あ、すんません、願いませんから、床に投げつけようとせんでください」
「ルクステラって滅多に見れない、一斉に流れる幾つもの流れ星のことでしょ。ここからだと見えるの?」
エルストがアギの言葉の一部を拾った。ベルが答える。
「んー、たまーに、ですね。ほら、ここの山の周囲にもたくさんありますから、山。空が広〜く、ぜーんぶ見渡せるわけじゃないですし」
ベルの言う山とはドラゴンの活動が停止した肉体のことである。
「ルクステラにお願いごとすれば叶うの、なんでも?」
エルストはテーブルに食器を並べながら言った。
「あれ、聞いたことありません? ルクステラってじつはドラゴンの肉体のかけらで、ひとつひとつに魔力が込められてるって話」
ベルは口を動かしながらかまどの上でチキンを切り分けている。
「さあ」
エルストは首を横に振った。
「ま、迷信のひとつですね。そのルクステラの魔力でも、もらえればいいんですけどね」
ベルがそう言い終えたとき、チキンはすべて切り終えられた。四脚あるダイニングチェアの、エルストとベルは向かい合わせに置かれた二脚にそれぞれ座った。テーブルの上には湯気を立てるチキンステーキが美味しげに並べられている。いい匂いだ。野菜も焼いたらしい。つややかな色を見せている。
エルストは両手を合わせようとした。サムと山小屋に住んでいたときのように、合掌をしようとしたのだった。そのとき、ベルは何も言わず、フォークの先をチキンに突き刺した。エルストは呆気にとられた。ベルは合掌をしなかったのだ。エルストの脳裏には「クソくらえです」と言ったベルの声が響いた。
「食べないんですか?」
目の前でチキンをかじるベルに、エルストは我にかえる。チキンステーキとベルとを交互に見比べたエルストは、食べるよ、と小さく答えた。その後エルストは一度フォークを手に取ったが、やはり心残りがあるようで、フォークをすぐに手離した。乾いた音がテーブル上で鳴る。
「……神エオニオとドラゴンの恵み……命の恵みに感謝し。いただきます」
エルストは合掌した。
しばらく食器同士がぶつかる音ばかり不規則に続いた。食事をとっているのはエルストとベルだけである。アギはベルの頭の上で、うつらうつらと船を漕いでいる。エルストは、あらためて、ベルが宮廷魔法使いになったことや、サルバひいてはサード・エンダーズへの復讐の意志を固めたことを、チキンを切り裂きながら考えていた。
「アギは加工済みドラゴンなんだよね」
エルストが尋ねる。
「じゃあベルはアギと契約してるの?」
「そうですよ。加工済みドラゴンの魔力を使わせてもらうには、魔力を用いた契約が必要不可欠ですから」
ベルが答える。
「王立魔法学園に入学したときに、王様からもらいました。あ、預かったって言ったほうが正しいかな。王立魔法学園で加工済みドラゴンを与えられた魔法使いは、死んだら、与えられた加工済みドラゴンは回収されますから」
「父上は死んだよ。回収する人はいなくなったんじゃないの」
「ええまあ、そうなんですけど」
会話はそこでしばしのあいだ途切れた。
「王都はさ、今……」
エルストが煮え切らない口調で言い始める。ベルは食事をする手を休め、じっとエルストの顔を見た。
「王都って、今、どうなってる? 僕、サムから何も教えてもらってないんだ」
するとベルは、エルストからの問いかけに少し思案した。ベルは口の中で、奥歯に詰まったチキンの切れ端を舐め、どうにか取ろうと思ったが、ベルがエルストへの返答を決めるほうがいくらか先に決した。
「私とアギ、たまに食糧の買い出しで王都に行くことがあるんですけど……聞きたいです?」
返答というよりは、意志確認のようだった。エルストは頷いた。ベルは顔色を暗くさせ、こう続ける。
「王都は……っていうか、王国は今、もう国家としての体裁を保ってはいなくて……二年前からイスヒス帝国に支配されています」
聞いたことのない言葉に、エルストは目を細めた。
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