今から御噺いたします事はまだ、私が陽光を浴びることに、朝の目覚めと命を見出していた頃の出来事に、御座います。
ふと、私は目を覚ましたのです。何処か心が虚なのです。何かが欠落した様で、そう、臓器の一つが無くなったかの様な喪失感。それが内側ばかりか、外身にも襲いかかるのです。胸に手を当てるも心臓は脈打つばかり。掌に触れる寝間着が肌とは異なる現実感を感じ、確かにその身に服は纏っておりますというのに、何処か物足りない温もりがあったのです。
穴が、空いたようです。手を当てたとて、脈打つ温もりが嗤うだけで、丑三つ時の行灯一つと無い和室内に響くばかり。
蒲団から身を起こし、そっと手で辺りを探れば、居たはずの者がそこから温もりも一切なく消えているではありませんか。
夢か現か。
その輪郭は曖昧であって欲しいと心の中で願おうとも、指先から感じる蒲団の冷たさは、昨晩の出来事を嘲笑うかのようにその顔を主張してくるのです。
するとどうでしょう、数刻過ぎた後、其れはやってきたのです。
鼻腔をくすぐる妙な甘美たる残り香。
甘ったるいようで、香とはまた違った純粋でありながらその中に宿る不純な香り。
私は灯りも持たず、蟲のように惹かれるがまま蒲団から抜け出し、縁側から出たのです。足先をくすぐる大犬の陰嚢に煩わしさ、面倒臭さを抱えるも、湿った土に足裏を遠慮なく当てて往くのです。ちらりと見えた先には誇り咲く月下美人。しかし香りは其方とは異なる、西の方へ、ですから記憶に怪しい月の花から顔を背けるのです。
私はその甘い香りに従って、ひたすら歩みをそのまま進めました。
目を失ったかのようです。慣れること無くただ漆黒の中を。甘い匂いは煙となり、煙は柔らかでヴェールのような道になり、足先が沈むので如何せん不安定ではありましたが思わず膝が曲がってしまったり、落ちそうになり、手足を慎重に動かしながらも進めますと。
著しく腹が減ったのです。腹の中からぐううと音が鳴っては、腹の中を空洞の何かが蠢くように。凹んでは空気の泡が中からこぽぽと溢れ出てくるような気がして、口を開いては空虚な間抜け。
初めての事です、この感覚も。そして、視覚も。
目の前に手が差し出されていたのです。
花がこちらに手を差し伸べていたのです。
紛れもありません、その手は、人間の手に御座います。
少し骨ばった掌と、腱の浮いた甲、小枝の様な指先は、昨晩まで共にしていたその人のもの。ひらりと大きな花弁が一枚、落ちて私の足の甲の上へ、舞落ちたのです。指先が触れたのでしょう、溶け込むようにして温もりが身体を登っていく。陶酔する私を花は見つめては、手を絡めるようで、私の指が囚えるのです。
そうして、頭に口を寄せたのです。
それからというもの、私は陽光を顔に受けた途端、反射的に避けるようになりました。
なんとも言い難い現象に御座いますが、たった五分その日光が照らせば、咲き誇る満開の花のようにパカりと開いてしまう光景を頭の中に見出してしまうものですから。
そうして、私は居間に座っているのです。
月明かりが着物の袖を照らし、開け放しの障子の前で。
花瓶に生けられた花々を、今日も私は食むのです。
一枚、一枚と。
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