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ろんどん塔 一の二

ろんどん塔(第2話)

萩原蔵王

東京巣鴨に一軒家を構える馨吾。大学卒業後も定職に就かず同居人の村上と自由な生活を送っていた。或日、彼の元に一通の手紙が届く。それは新聞記者として英国に渡った親友・火野からであった。困窮した生活を送っていることを知った馨吾は、親類知人から金を工面して英国へ渡る。そして集めた金で日本へ帰ることを火野に提案するが──。

小説

2,818文字

   一の二

 

村上はうに講義の方へ出掛けて了ったから、彼はおとなしく巣鴨すがも※の町を練り歩こうと思ったのだが、一通の郵便が届いたために終わった。届いた封書ふうしょを開けてみると、──倫敦ろんどんより通達。英国えいこくへ渡って二年。春と云えども此方こっちは雪がく降っているよ。今朝も随分と長い時間円匙えんし※で雪を掻いたよ。とか、今の君の容子はまったうかがえないが、どうせ独り身なんだろう。君も僕も、もう三十五だ。僕はちゃんとさいめとっているから問題はないが、しかし意識ぐらいはした方が好い。──とか書いてあった。しかし馨吾の眼に留まったのは、火野ひの杢三郎もくさぶろう大仰おおぎょう手蹟で書かれた差出人さしだしにんの名の下に記された、『生活極めて苦し。誠に申し訳ないが八十円借りたし』という追伸ついしんであった。

この火野というのは、馨吾の高校時代からの学友である。当時馨吾はこれといった娯楽というものを持ち合わせていなかった。ところに彼と出会った。その頃火野は、放課後中庭に出て切りに水彩画を描いている奇妙な男であった。

「そう何日も描いてて、まるできる容子もないな」

「これは娯楽だよ君。娯楽は厭きるものじゃないだろう」

うまいことを云う。たしかに厭きちゃ娯楽というものを創り出しても徒労とろうだね」

「存外君も、娯楽を持っていそうだがね」

「息苦しいな。悪癖はあるだがね、生憎娯楽というのを僕はあまり識らない」

馨吾は昔から、密かに自身の癖を悪癖と認めていたらしい。

「そいつはつまらん人生だな」

「やはり君もそう思うかね」

「僕の娯楽がそのために在るからね。君、娯楽の定義を識ってるか」

「さあ」

「人を仕事の意識から遠ざけるものだそうだ」

「して見るに僕らの仕事は学問かね。じゃあ君の水彩は学問から逃げるための策だという勘定かんじょうになる」

「僕にはその心算つもりはないがね。まあ続きがあるんだ」

拝聴はいちょうしよう」

なぐさめるとある」

「ははあ」

「あんまりかね」

「どうだかな。初めてだ。娯楽が僕らより上の存在だと識ったのは」

「上なものかね」

「慰めるとなれば少しでも上になるだろう」

「じゃあ娯楽は面倒か」

「上だからといって態度が変わる訣じゃないさ」

「じゃあ君は娯楽を嫌悪するか」

「人聞きがわるいな。これでも積極的だぜ」

「そうか。じゃあやってみると好い」

拝承はいしょうしたさ」

翌日、馨吾は火野と共に中庭に出て水彩を描くようになった。同級生は皆、「彼奴等は娯楽への抗議者だ」と吹聴ふいちょうしてまわった。その訣は、或る一人の生徒が「どうしたって、君は彼処に坐るようになったんだ」と馨吾に訊いたことによる。馨吾は「娯楽というのは損も得もないただの飾りさ。でも考えているが好い。その飾りを精一杯飾りと仕立したて挙げるのが人間であろうよ」と応えた。誰もがその了見に疑問を持った。二人の譬喩ひゆは級友の思う娯楽への印象と対になっていた。

高校を卒業してからは、火野はぴたりと水彩を已めて了った。所詮しょせん娯楽であったのと、彼のこの先の就職先が決まったからである。

火野の父は信太郎しんたろうと云って、今ではとある新聞社の古株である。その新聞社へ、大学を卒業してからの就職が早くも決まったようで、そのために勉学に励まなければならないと、水彩は其限それきりであった。馨吾は孤独にも一人で揮毫きごうした。二日に一ぺんくらいであった。一人でつつみや路傍で水彩を描いていることは、偶々たまたま通り掛かった兄しか識らなかった。親爺も母も、兄が云わなかったから何にも識らなかった。

火野には妻が在る。倭文子しずこという名である。社内恋愛だったらしい。おとなしい性質たちだから人の顔を窺って話す火野と見事合ったのだろう。その妻も一緒に渡英した。馨吾は妻の顔を一度だけ見たことがある。むろん彼の結婚式である。そこで祝辞しゅくじを読んだのが馨吾である。無理な冗談を云ってまあまあな恥をかいたことをハッキリ覚えている。しかし、なにぶん十数年前のことであるから今ではもう滅切めっきり忘れ去って了った。

「随分と経ったものだ」

馨吾は封書の上に村上への書留を残して、鳥打帽とりうちぼうかむって家を出た。そうして列車に乗った。

彼の実家は静岡に在る。そこに兄とあによめと親爺が居る。次いでに甥と姪も居る。家を出たのは馨吾のみである。うちの容子は、正月ともう一囘いっかいくらいの頻度で手紙が来るが、兄が決して写真を送ろうとしないから、甥と姪の成長は能く識らない。

兄はと云って今年で三十八になる。鼻の高い、真面目な尋常ふつうの成人である。しかし賢い性質である。帝国大学       ※の出であるから相当な暮らし振りだろうと馨吾は確信している。彼は兄に対して別段嫌悪感を示すことはないが、こうものらくらしているので向こうからは可成かなりの悪評である。嫂は智代子ちよこと云って、これは親爺の案でお見合いをしたらしい。向こうの家も大変有福だったから、実業を営む親爺にとっては万々歳だったのだろう。甥は春己はるきと云って姪はようと云う。春己の方は東京美術学校の三年生である。羊の方と芸術肌で、音楽学校でピアノをやっているらしい。馨吾も実は幼少からピアノと接していたものだから今でも充分弾くことが出来る。兄はさっぱりだから智代子の方が芸術に親しかったようである。

列車は朝っぱらから動いてた。停車場ていしゃばはさほど混んではいなかった。そういえば今日は土曜であった。次の駅に停まったとき、一人の老人が這入はいってきた。その老人はこんなことを云っていた。

「ああうるせえ。どうもけぶりが上がっちゃ不可いかんぞ。出すな出すな。ああ焼ける。時代が終わる、終わる」

老人は列車の中と停車場の両方にまたがって高価そうな杖をくうに突き付けていた。馨吾はおもしろくなって、左隣となりに坐っていた自分ととしが同じくらいの男に話しかけた。

「ああいうのがいっぱいじゃ、この国はよろしくないの見えるが」

「何、まだ耐えられるだろうな。賢人けんじんの方が多いと見える」

「ハハハ。賢人も狂人も紙一重よ」

老人は結局列車に乗らずに、幾人いくたりかの駅員と共にどこかへ行って了った。

「あの爺さん、帝国ていこく万歳ばんざいとでも云うかね」

馨吾はまた話し掛けた。男は乗り気味に応えた。

「云わないでろうな。ありゃきっと妻が死んだんだろう。この国の老人はそうでなけりゃつね敢然かんぜんとしているから」

「君は達者な壮佼わかものだ」

その男は次の駅で降りて行った。馨吾は随分と気を好くした。

朝から列車に乗っても、静岡に着くのは夕方だった。はなから馨吾は宅に泊まる予定だったから村上への書留には、好きに学友と呑むが好し。ただし後の面倒は識らんと記しておいた。宅は立派な広い庭付きの家である。馨吾がつじまわって視界に映ったとき、兄が玄関から出てきた。

「兄さん」

「何だめずらしい」

「いえちょっと、宅に用がありましてな」

「金か」

「察しが好いようで」

不相変あいかわらずだな。少しは申し訳なく思わんのか」

「この度は僕じゃないんですがね──いやどうだろう。一応僕なのかな」

「別に好いがおれはらんぞ」

「端から期待しちゃいません」

「そうだろうな。──じゃ、おれはもう行くよ」

為事しごとですか」

「ああそうだ。生憎あいにくお前みたいに閑人ひまじんじゃないんでな」

兄は背広せびろ※秩序ちつじょ正しく着こなしてはしっていった。

© 2026 萩原蔵王 ( 2026年1月18日公開

作品集『ろんどん塔』第2話 (全3話)

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