一の二
村上は疾うに講義の方へ出掛けて了ったから、彼はおとなしく巣鴨の町を練り歩こうと思ったのだが、一通の郵便が届いたために終わった。届いた封書を開けてみると、──倫敦より通達。英国へ渡って二年。春と云えども此方は雪が能く降っているよ。今朝も随分と長い時間円匙で雪を掻いたよ。とか、今の君の容子は完く窺えないが、どうせ独り身なんだろう。君も僕も、もう三十五だ。僕はちゃんと妻を娶っているから問題はないが、しかし意識ぐらいはした方が好い。──とか書いてあった。しかし馨吾の眼に留まったのは、火野杢三郎と大仰な手蹟で書かれた差出人の名の下に記された、『生活極めて苦し。誠に申し訳ないが八十円借りたし』という追伸であった。
この火野というのは、馨吾の高校時代からの学友である。当時馨吾はこれといった娯楽というものを持ち合わせていなかった。ところに彼と出会った。その頃火野は、放課後中庭に出て切りに水彩画を描いている奇妙な男であった。
「そう何日も描いてて、まるで厭きる容子もないな」
「これは娯楽だよ君。娯楽は厭きるものじゃないだろう」
「巧いことを云う。慥かに厭きちゃ娯楽というものを創り出しても徒労だね」
「存外君も、娯楽を持っていそうだがね」
「息苦しいな。悪癖はあるだがね、生憎娯楽というのを僕はあまり識らない」
馨吾は昔から、密かに自身の癖を悪癖と認めていたらしい。
「そいつはつまらん人生だな」
「やはり君もそう思うかね」
「僕の娯楽がそのために在るからね。君、娯楽の定義を識ってるか」
「さあ」
「人を仕事の意識から遠ざけるものだそうだ」
「して見るに僕らの仕事は学問かね。じゃあ君の水彩は学問から逃げるための策だという勘定になる」
「僕にはその心算はないがね。まあ続きがあるんだ」
「拝聴しよう」
「慰めるとある」
「ははあ」
「あんまりかね」
「どうだかな。初めてだ。娯楽が僕らより上の存在だと識ったのは」
「上なものかね」
「慰めるとなれば少しでも上になるだろう」
「じゃあ娯楽は面倒か」
「上だからといって態度が変わる訣じゃないさ」
「じゃあ君は娯楽を嫌悪するか」
「人聞きが兇いな。これでも積極的だぜ」
「そうか。じゃあやってみると好い」
「拝承したさ」
翌日、馨吾は火野と共に中庭に出て水彩を描くようになった。同級生は皆、「彼奴等は娯楽への抗議者だ」と吹聴して囘った。その訣は、或る一人の生徒が「どうしたって、君は彼処に坐るようになったんだ」と馨吾に訊いたことによる。馨吾は「娯楽というのは損も得もないただの飾りさ。でも考えているが好い。その飾りを精一杯飾りと仕立挙げるのが人間であろうよ」と応えた。誰もがその了見に疑問を持った。二人の譬喩は級友の思う娯楽への印象と対になっていた。
高校を卒業してからは、火野はぴたりと水彩を已めて了った。所詮娯楽であったのと、彼のこの先の就職先が決まったからである。
火野の父は信太郎と云って、今ではとある新聞社の古株である。その新聞社へ、大学を卒業してからの就職が早くも決まったようで、そのために勉学に励まなければならないと、水彩は其限であった。馨吾は孤独にも一人で揮毫した。二日に一ぺんくらいであった。一人で堤や路傍で水彩を描いていることは、偶々通り掛かった兄しか識らなかった。親爺も母も、兄が云わなかったから何にも識らなかった。
火野には妻が在る。倭文子という名である。社内恋愛だったらしい。おとなしい性質だから人の顔を窺って話す火野と見事合ったのだろう。その妻も一緒に渡英した。馨吾は妻の顔を一度だけ見たことがある。むろん彼の結婚式である。そこで祝辞を読んだのが馨吾である。無理な冗談を云ってまあまあな恥をかいたことをハッキリ覚えている。しかし、なにぶん十数年前のことであるから今ではもう滅切忘れ去って了った。
「随分と経ったものだ」
馨吾は封書の上に村上への書留を残して、鳥打帽を冠って家を出た。そうして列車に乗った。
彼の実家は静岡に在る。そこに兄と嫂と親爺が居る。次いでに甥と姪も居る。家を出たのは馨吾のみである。宅の容子は、正月ともう一囘くらいの頻度で手紙が来るが、兄が決して写真を送ろうとしないから、甥と姪の成長は能く識らない。
兄はと云って今年で三十八になる。鼻の高い、真面目な尋常の成人である。しかし賢い性質である。帝国大学の出であるから相当な暮らし振りだろうと馨吾は確信している。彼は兄に対して別段嫌悪感を示すことはないが、こうものらくらしているので向こうからは可成の悪評である。嫂は智代子と云って、これは親爺の案でお見合いをしたらしい。向こうの家も大変有福だったから、実業を営む親爺にとっては万々歳だったのだろう。甥は春己と云って姪は羊と云う。春己の方は東京美術学校の三年生である。羊の方と芸術肌で、音楽学校でピアノをやっているらしい。馨吾も実は幼少からピアノと接していたものだから今でも充分弾くことが出来る。兄はさっぱりだから智代子の方が芸術に親しかったようである。
列車は朝っぱらから動いてた。停車場はさほど混んではいなかった。そういえば今日は土曜であった。次の駅に停まったとき、一人の老人が這入ってきた。その老人はこんなことを云っていた。
「ああうるせえ。どうも烟が上がっちゃ不可んぞ。出すな出すな。ああ焼ける。時代が終わる、終わる」
老人は列車の中と停車場の両方に股がって高価そうな杖を空に突き付けていた。馨吾はおもしろくなって、左隣に坐っていた自分と齢が同じくらいの男に話しかけた。
「ああいうのがいっぱいじゃ、この国はよろしくないの見えるが」
「何、まだ耐えられるだろうな。賢人の方が多いと見える」
「ハハハ。賢人も狂人も紙一重よ」
老人は結局列車に乗らずに、幾人かの駅員と共にどこかへ行って了った。
「あの爺さん、帝国万歳とでも云うかね」
馨吾はまた話し掛けた。男は乗り気味に応えた。
「云わないでろうな。ありゃきっと妻が死んだんだろう。この国の老人はそうでなけりゃ恒に敢然としているから」
「君は達者な壮佼だ」
その男は次の駅で降りて行った。馨吾は随分と気を好くした。
朝から列車に乗っても、静岡に着くのは夕方だった。端から馨吾は宅に泊まる予定だったから村上への書留には、好きに学友と呑むが好し。但し後の面倒は識らんと記しておいた。宅は立派な広い庭付きの家である。馨吾が辻を囘って視界に映ったとき、兄が玄関から出てきた。
「兄さん」
「何だ奇しい」
「いえちょっと、宅に用がありましてな」
「金か」
「察しが好いようで」
「不相変だな。少しは申し訳なく思わんのか」
「この度は僕じゃないんですがね──否どうだろう。一応僕なのかな」
「別に好いがおれは遣らんぞ」
「端から期待しちゃいません」
「そうだろうな。──じゃ、おれはもう行くよ」
「為事ですか」
「ああそうだ。生憎お前みたいに閑人じゃないんでな」
兄は背広を秩序正しく着こなして赱っていった。
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