良く晴れた冬晴れの日だった。
その日の現場は文京区根津の寺だった。寺の仕事を休んでちょっと留守にするから、しばらく来ないでくれ、と住職は周囲の人間に言っていた。そのことが彼の死の発見を遅らせることになった。
三週間連絡が取れないことで心配になった檀家の一人が寺に行き、離れの母屋から異臭がすることに気が付いて警察を呼んだ。警察が駆けつけてみると、住職は普段着のゴルフウェア姿で、トイレのドアノブに紐を掛けて首を吊っていた。腐敗のせいで胴から首が離れかけていた。チノパンのポケットから遺書が見つかった。
いつもの宇宙服を着て、田辺と森は午前中に母屋の対象部屋の消毒作業をした。滞りなく仕事は進んだ。休憩時間になり、庭に出てペットボトルのお茶を飲みながら、森は田辺に訊いた。
「お坊さんが自殺なんて、世も末って感じですね」
「全くだよ。仏に仕えて、人々を悩みから救うべき立場なのにな」
「なんで自殺しちゃったんですか」
「弟さんから口止めされてるから外の人に言うなよ。悪い筋から脅されてたらしい」
「脅されてた? 住職がですか?」
「檀家の奥さんと不倫していたらしい。で、その女性の身内っていう、良からぬ筋の奴から、その件をネタに金を脅し取られていたんだと。自慢の外車を取り上げられ、寺を抵当に借金までさせられていたらしい。で、鬱病になって、とうとう首くくったんだと」
「ヤクザに骨までしゃぶられた、ってことですか」
「そういうこと。恐喝で警察もあれこれ調べてるんだと」
「なるほど。俗っぽい坊さんですね」
「職業なんて関係ねえよ。どういう世界にもこういう人はいる」
「でも少し気の毒というか、悲惨というか」
「まあ、自分で蒔いた種だけどな。弟さん、お兄さんに対して相当憤慨してたよ。あのクソ坊主とか言ってたし」
「外にばれたら週刊誌とかの格好のネタにされそうですね」
「なるだろうな、そりゃ」
森はふう、と息を吐いてペットボトルのお茶を飲み干した。
「さて、じゃそろそろゴミ処分始めるか」
「すみません、その前に、ちょっとトイレお借りしてきます」
「わかった。じゃあ、こっちは始めとくわ」
「了解です」
田辺と森は庭から再び室内に入った。田辺はゴミ袋を持ってゴミの分別収集に取り掛かり、森はそのまま廊下を進んだ。突き当りにトイレがあると思っていたが、そこは薄暗い物置部屋だった。廊下を逆戻りし、田辺が作業している部屋を通り過ぎて反対側の突き当りまで廊下を進んだ。そこにもトイレは無かった。そのまま廊下を直角に折れる。廊下の両側に襖があった。母屋の住人は死んだ住職だけで、今はこの建物の中に田辺と森以外の人間はいない。森は手前の襖を開けた。そこは四畳半の京間の和室で、その部屋を通過して反対側の襖を開けると、また同じ間取りの和室があった。京間二つを横切ってまた廊下に出た。右側は襖が並び、左側は薄暗い中庭に面している。廊下を真っすぐ行くと、右の一番奥は襖ではなく引き戸になっていた。開けると、期待通り、狭い通路の両脇に朝顔型の小便器が八つ並んでいた。トイレというよりは厠と表現するべきだろう。古い病院に置いてあるようなこげ茶色のスリッパがあったが、清潔には思えず、履き替えないまま小便器の一つで用を足した。今にもはち切れそうになっていた膀胱が緩んで下半身の力が抜けるような心地がした。そこではたと気がついた。田辺が待ちくたびれているだろう。トイレを探すのに五分くらい手間取った気がした。真っすぐに来た道を戻ればいいのだろうが、どう行けばいいか分からない。開けた襖をそのままにせず閉めてしまったことを後悔した。
厠を出ると、廊下の雰囲気が先程と少し異なる気がする。入るときと出るときの向きが違うだけで風景とはこうも違ってみえるものか。右に行くのか左に行くのか分からなくなった。森は田辺への言い訳を考えた。遅くなってすみません、急な腹痛で、トイレの中で動けなくなってしまって、とでも言えばよいだろう。いや、そう言うしかないだろう。
左手の襖を開けた。四畳半の京間があると思ったが埃まみれの物置部屋だった。ばさりと音がしたので反射的に見ると、灰色の大きなアシダカグモが壁を走って天井の隅にとまった。しばらく立ちすくんだ後、気を取り直し反対側の襖を開けた。京間があり、その先は廊下だった。北側らしく薄暗い。建物の構造がまるで分らない。この平屋の日本家屋の中は、外から見るよりもはるかに広いようだ。宇宙服姿でこんなところをうろうろしている自分が滑稽でやるせない。
ポケットの中でスマホが震えている。取り出すと田辺からだった。
「すみません、トイレでひどい腹痛になってしまって、今ちょっと動けなくて」
「お前、大丈夫か。倒れてるんじゃないだろうな。どこのトイレだ」田辺の声には幾分かの苛立ちが感じられる。
「いや、大丈夫です。もう少ししたら出てそちらに向かいます」
通話を切って、森は廊下をとりあえず右に曲がった。全く暑くも無いのに首筋に汗が一筋流れた。廊下は続いている。左手に中庭が見える。先程見た中庭と雰囲気が違う。
現在の場所が分からないので、とりあえず玄関を探すことにした。どこかの廊下が必ず玄関に通じているのだろうから、すぐに見つかるに違いない。だが予想に反して廊下が続く。おそらく狭い範囲で方向感覚を失ってぐるぐる回っているだけなのだろう。ああ、今日は仕事にならない、と思った。
スマホがまた鳴った。
「お前、何処にいるんだ」
田辺の声がずいぶんと遠くから聞こえてきているような気がした。
「すみません。迷いました」
力なくそう返事をして、通話を切った。目の前の襖を開けると京間の真ん中に、旅館の来客用のような座布団が一枚あった。
不意に疲れがどっと押し寄せてくるのを感じた。思わず座布団の上に胡坐をかいて座った。部屋の隅に小さな床の間がある。後ろの壁には表装された立派な掛け軸が下がっている。四つの漢字が掠れ具合も見事な筆で墨書してある。意味も読みもわからない。
ぼんやり考えているうちに、森は、自分がかつてこの家に住んでいて、この掛け軸を目にするたびに何と読むのだろうという疑問を抱き続けていたような気がした。
不意に阿曽浩の小説の一場面を思い出した。何という作品だったか。
主人公の男が、ちょっとした義理から、疎遠にしていた親類の通夜に出かける。彼は、喪主の弟だと名乗る男から、屋敷で酒を振舞われる。集っている人々を見渡してみると、ごく朧に憶えている顔もちらほらあるが名前は出てこない。ほとんど見知らぬ人たちばかりの中にいて、故人の思い出話にも加わることができず、身の置きどころのなさに、トイレに行くふりをして彼は席を立つ。一人手酌で飲んでいた酒がすっかり回っていて、彼はおぼつかない足取りで廊下を歩き、誰もいない部屋に入る。真っ暗なその部屋の中央に横たわると、音もなく部屋の天井が低くなり四方から壁が少しづつ近づいてくる。男は目を閉じる。部屋はいつしか棺桶に変わる。ああ、なんだそういうことか。死んだのは自分だったか。今夜その通夜に、皆が集まっているのだ。
同じだ。今まで見てきた白昼夢は暗示だったわけだ。自分はとっくに死んでいるのだ。それがいよいよ現実になって、田辺が今、自分の後始末をしているのだ。
目を閉じた。スマホが振動しているのに気がついたが、手が動かなかった。
誰もいない部屋の中でうずくまっているところを田辺に発見され、寺から救急車で病院に連れていかれた森南雲は、当初、統合失調症を疑われた。しかし血液検査やMRIを含む様々な検査を受け、それは否定された。結局付けられた病名は、急性一過性精神病性障害、というものだった。医師によると、症状は統合失調症に似ている。発症の引き金は強度の精神的ストレスとされているが、原因が特定されない場合もある。一過性で、ほとんどの場合すぐに治癒するとの説明だった。
医師の言葉通り、二週間で元に戻った。しかし特殊清掃グリーンサービスの職場にはもう足が向かなかった。森南雲は辞表を出した。
「いいだろう。しばらく休め。そして回復したら次のところでまた面白い体験をしろ。そして書け。書けなかったら野垂れ死にしろ。骨は拾ってやるから。まあせいぜい面白いのを読ませてくれ。期待してるから」
辞表を受け取った田辺から、そう言われた。
あっという間に昼夜逆転の生活になった。そして気がつくと桜の花の季節になっていた。
その日の朝も、いつも通りの乾いた電子音のチャイム。惰性でのスヌーズ二回。空虚な目覚めだった。ベッドから身を起こした森南雲は、充電コードに繋いだままのノートパソコンを腹の上に載せ、電源ボタンを押した。
パスワードを入力し、二週間ぶりに荒野のサイトを開く。仕事を辞めてから、もう半年間、投稿していなかった。
新着情報の赤いマークをクリックした。
新規投稿は主催の阿部雄之助のものだった。タイトルに「追悼・長田麻子」とあった。偲ぶ会を開催するので、参加希望者はメッセージを、とあった。
長田麻子の名前には見覚えがあった。彼女は阿部雄之助とともに荒野を創設し、運営してきた最古参メンバーで、作品選考会及び、荒野賞コンペの審査員でもあった。
作品選考会はサイトへの全投稿作品が対象だが、荒野賞コンペは有資格者の投稿作品のみを評価対象としている。即ち、荒野賞に応募するためには、荒野への投稿数十作品以上、かつ投稿作品の累計獲得評点が三十点を越えていないとならない。作品を投稿して得られるポイントは参加賞が一点、四人いる審査員の合算評点が平均で数点。得点がたった一点、つまり審査員の合評での得点がゼロということも珍しくない。だから三十点を貯めるというハードルは決して低くはない。しかも荒野賞は本気で一流文芸誌での受賞を目指す書き手のためのものであり、審査員たちの評価は一切の手加減なしで容赦がない。荒野賞の採点は四人の審査員の◎〇△×の評価で行われる。
投稿資格を得て、初投稿した南雲の作品への評価も予想通り散々だった。×が三つ、〇が一つ。特に阿部雄之助の評価は「薄味で物足りない」という、身も蓋もない辛辣なものだった。
その時、ただ一人〇をつけてくれたのが長田麻子だった。描写に無駄がなく、言葉の選び方が繊細であると評してくれたのだ。阿部の評価とは正反対だった。それまで一度も貰ったことのない誉め言葉だった。
阿部がサイトに書いた追悼文を読む。
〈あなたと初めて出会ったのは天文館の飲み屋でした。僕とあなたは隣り合わせたテーブルで、それぞれ泥酔してました。あなたは立ち上がってトイレに行こうとして転び、僕はあなたを助け起こそうとしてまた一緒に転びました。そんな出会いそのままに、もつれ合いながら、僕たちはやってきました〉
〈長田麻子。宮崎県都城市出身。四十四歳独身。プログラマー。好きな作家は内田百閒、奥泉光、アン・ビーティ。群像新人賞最終候補一回。半年前に乳癌で余命告知を受けて、それからもペースを崩さず荒野に新作の短編小説や詩、それに短歌を投稿。最後に作った詩は、息を引き取る三週間前〉
南雲は彼女の遺作の詩をまだ読んでいなかった。長田麻子の作品ページに移動する。
〈書く〉という題の、その詩がアップされていた。
書く
近く死ぬけど
それまでは
見えるものを全て見て
聞こえる音を全て聞いて
見えなきゃ目を閉じ
聞こえなきゃほっといて
逃げられないし
逃げないし
書けるなら
書けるうちに
今度は、自分の作品画面を表示する。長田麻子のレビューがつけられている。何度も読んだその文章をまた読み直す。
「南雲さんの作品から私が一貫して感じるのは愚直な本物の情熱です。なにはともあれ最後はそれで勝負です。お互いに頑張りましょう」
励ましに満ちたこのレビューを彼女が書いてくれたのは、余命半年の告知を受けた二ヶ月後だったということになる。知らなかった。そしてその四か月後に、彼女はきっちり告知通りに死んだ。
袖で涙を拭って鼻をかみ、コーヒーを飲んだ。それから偲ぶ会への参加希望メッセージを阿部雄之助に送った。
追悼の飲み会に指定された場所は阿佐ヶ谷の居酒屋だった。午後七時の五分前、南雲が指定の居酒屋の暖簾をくぐると、まるでこちらの顔を知っているかのように、奥の四人掛けのテーブル席から南雲に向かって片手を挙げている男がいた。テーブルにいるのは彼だけだった。南雲はその男に頭を下げた。阿部雄之助という名前から勝手に抱いていたイメージは、瘦身で眼光の鋭い精悍な中年男というものだったが、目の前にいる男は色白で小太り。目が細い。髪は少し薄くなっているが、年齢よりもかなり若く見えた。人懐こそうな笑顔に、ゆるキャラという言葉が浮かぶ。
「どうも、阿部です」
「はじめまして。森南雲です。よろしくお願いします」
「すぐ分かりましたよ」
「え、そうですか。でもどうして?」
「いや、南雲くん、文章から想像するイメージとぴったりだから」
「はあ。阿部さん、俺の予想と全然違いました」
「そうなの?」
「ハードボイルドそうなイメージ、勝手に抱いてました」
南雲の言葉に、阿部は子供のような笑顔を見せ、自分から自己紹介した。
長野出身、四十八歳。九州の国立K大学の農学部を出て、バイオ関係企業のサラリーマン、イベント会社経営、古本屋店員など、色々な職を経験。現在は無職だが家賃収入で生活。長田麻子と長く同棲し、十年前からは二人で荒野を立ち上げて共同で運営していた。
「追悼文、読ませていただきました」
南雲がそう言うと、ありがとう、と阿部は言った。
十分後、二人のメンバーが遅れてやってきた。土屋肇と春田千絵。二人は阿部とは旧知の中のようだった。土屋は三十二歳で高校の英語教師、春田は三十八歳の主婦だと南雲に向かって自己紹介した。南雲も同じように年齢と職業を言った。南雲の経歴に他のメンバーは興味を抱いたようだったが、質問責めにされるようなことはとくに無く、南雲も簡単な説明にとどめた。追悼の集まりの席で、特殊清掃という仕事の話題はなるべく出したくなかった。
「長田さんと、この店で去年、飲んだんです」
春田千絵が低い声で言った。
「彼女、告知を受けた直後だったんですけど、癌になっちゃった、って言って笑ってました」
阿部が小さく頷いた。
「死ぬからよろしくねって」
「そんな言われても困るよな」と阿部。
「そうですよ。こっちは何と言っていいか分からなくて。黙ってました」
「そしたら?」
「気にしないでねって」
「そんな。無理だろ」
「私は死ぬし、あなたは生きてく。それだけのこと、って」
「ますます困るよな」と土屋が苦笑した。
結局、追悼飲み会のメンバーは、お開きになるまで、たった四人のままだった。二時間後、終電が近い土屋、春田の二人は何度も手を振りながら一緒に帰った。自宅が高円寺の阿部と、鷺宮の森南雲は、それぞれ歩いて帰ることができる。それで三軒目、四軒目と二人で飲み歩いた。
「森くん、新しい仕事はまだ決まってないの?」
阿部雄之助からそう訊かれ、森南雲は一瞬返答に窮した。
「あ、いや、答えたくなかったら、別に無理しないでいいよ」
「いや、大丈夫です」
森南雲は阿部雄之助の目を見た。柔和な目をしていた。
「この冬からずっと働いてないです」
「そうか」
阿部由之助は微笑み、ちょっと間を置いてから言った。
「僕も働いてない」
「文章を書いて本を出版しているし、立派に働いてるじゃないですか」
「いや、それで食ってるわけじゃない。趣味だよ。収益は上がってない。というか、はっきり言えば赤字。今の僕は親の遺産で食ってる。親がマンションを残してくれたからね。管理は不動産会社に任せている。だから僕は働いてない」
「羨ましいです」
「差し当たって生活に不安がないというのは恵まれてる。でも結婚して家族を養えるほどの収入でもない。僕一人が何とか食っていけるくらいだよ。麻子さんの治療費でだいぶ貯金も食いつぶしたし」
「そうですか」
「君の方はどう? 生活に不安は?」
「はい。まあ、あります。追い詰められてます」
「追い詰められる経験って、必ず武器になるから。焦燥感、虚無感、孤独感、怒り。そこから開き直る。そして書く」
「ネガティブオンリーですね。そううまく行くでしょうか」
「ネガティブな経験ってガソリンだよ。ネガティブであればあるほどエネルギーに満ちてるんだ。それを燃料にして書けばいいんだよ。特に、研ぎ澄まされた孤独感は燃料の純度を高める。書く時と死ぬときは、誰もが独りだし」
「なるほど。まあ、どうせ今の俺に出来ることって、結局、書くことしかないですし」
「僕もそう。麻子さんもそうだった」
「そう……」
「麻子さんは病気のせいで、プログラマーの仕事ができなくなって、在宅でフリーライターの仕事を細々とやってた」
「辛かったでしょうね」
「そりゃしんどかったと思うよ。癌が胸の皮膚を突き破って外に出ていたし、右の脇の下からお腹にかけて皮膚の下に癌が拡がって甲羅みたいにかちかちになってた。神経がやられて右手が使えなくなって、寝返りも打てなかった。最後の方は左手で文章打ってた」
「……」
「辛かったと思う。僕も辛かった。最後の方になると部屋には腐ったような臭いが満ちていたし、そんな中で彼女は横になって寝るのも無理になってた。それでもそう簡単には死ねない。お迎えが来るまでは書くって言って。それで彼女、短歌や短い詩を書いてた」
「そうだったんですね」
「最期は僕が看取ってあげるつもりだったんだけど。でも死に目には会えなかった。僕が買い物に行ってる間に彼女は死んだ。目を開けたまま死んでた」
「……」
さよならさよ
ならさよな
らさよな
らさよ
なら
さ
よな
らさよ
ならさよ
ならさよな
らさよならさ
「それ、何ですか?」
「荒野に載せてない、彼女の本当の遺作。死ぬ二日前に麻子さんが書いた最後の詩だよ。意識も朦朧としている状態で書いた執念の言葉遊び」
それからしばらくの間、二人とも黙って杯を傾けた。やがてぽつりと阿部が言った。
「仕事、一つ君に紹介できるよ。僕が前やってた仕事。物書きを目指してるなら、どうせなら本と関わる仕事がいいだろ。リハビリにもなる。大した収入にはならないかもだけどやってみる?」
"夜に融ける(後編その3)"へのコメント 0件